第五十話 「白紙の評価」
評価簿は昼に掲示された。
回廊の北側、文書課の隣の壁に、演習の中間評価が貼り出される。壁には掲示のための板が嵌めてあり、板の角に鋲の穴が無数に開いている。穴の数だけ、紙が貼られ、剥がされた。剥がされた紙がどこへ行くのかは、貼った人しか知らない。
学校の掲示板と同じで、違うのは穴の数だけだった。一班の欄には、稽古場の教官の評点と、監察官の判と、備考が並んでいた。三班の欄は白かった。評点も、判も、無い。備考の欄にだけ、一行あった。
《記録に値せず》
一行。文書課の三行より短かった。短いものほど、書いた人の顔が見える。
一班の生徒が、掲示の前で、こちらを見ていた。列の端にいる生徒だ。彼は何も言わなかった。言わないで、少しだけ、頭を下げた。下げる理由は無い。無いのに下げる人は、下げる理由を自分で持っている。
ノエルは、掲示を見て、それきり見なかった。見ない代わりに、稽古場へ行った。行って、型を打った。打つ音が回廊まで聞こえた。
打つ音は一定だった。速くもならず、遅くもならず、同じ間隔で板を叩く。剣術試合の前夜に、彼が寮の裏で素振りをしていた音と、同じ間隔だった。この人は、抱えるものが増えると、音が一定になる。一定にすることで、抱える。わたくしはそれを半年で覚えた。
わたくしは主計課へ行った。
「演習の評価に、規程はございますか」
「あります。演習要領の末尾に」
ヴェラは棚から薄い冊子を出した。塔の帳面の一枚目に印刷されていた、あの要領だ。末尾の頁を開く。評価の付け方。細かい字で、十行。
《評価には、その根拠を書面で付す。根拠の無い評価は、無効とする》
根拠を、書面で。
わたくしは、その一行を、二度読んだ。二度読んでも、同じだった。
「記録に値せず、は、根拠でしょうか」
「規程の読み方は、主計課の仕事ではありません」
彼女はそう言った。言ってから、付け足した。
「ただ、根拠として書面が付されているかどうかは、掲示を見れば分かります。付されていなければ、付されていません」
付されていない。三班の欄にはその一行しか無い。
監察官室へ行った。
西の回廊は午後になると日が入る。入った日が扉の木目を赤く見せた。赤い扉を叩くのは、四度目だった。一度目は照会を届けに、二度目は閲覧を願いに、三度目は願いを抽斗に入れられに。四度目の今日は、根拠を求めに。回数を数えて、帳面に書いた。書いてから、叩いた。
ブラントはいた。机の向こうで、何も書いていなかった。書記が、隣の机で、何かを写していた。わたくしが入ると、書記の手が止まった。ブラントの手は、最初から止まっていた。
「評価の件で」
「掲示のとおりです」
「根拠の書面を、いただけますか。演習要領の末尾に、根拠を書面で付す、と」
彼はわたくしを見た。窪んだ目が今日は動かなかった。動かないことを、選んでいた。
「記録に値せず。それが根拠です」
「それは、評価です。根拠ではないと思います」
「私が判断する」
監察官室の裁量。規程にはそう書いてあります。彼が使う規程だ。
「監察官様。一つ、確かめさせてください。三班が記録に値しない理由は、二十三箱の件でしょうか」
「私は、そうは言っていない」
「では、何を」
「私は、何も言っていない。記録に値せず、と書いた。書いたことがすべてだ」
書いたことがすべて。
書かない人が、初めて、書いたことを盾にした。その一行を。
わたくしは帳面を開いた。開いて、書いた。日付。監察官室。根拠の書面を求める。監察官、記録に値せずが根拠と述べる。理由を問う。何も言っていない、と述べる。
「お好きに」
彼は言った。今日は負けた人の言葉ではなかった。何も言わない人の言葉だった。何も言わなければ、言っていないことになる。その一行だけが、残る。
塔に戻ると、双子が待っていた。
双子は、掲示の前で、一班の生徒と話してきたのだという。一班の評価は、稽古場の教官が書き、監察官が判を押し、評価簿に写された。三班の分も稽古場の教官は書いている。書いたものが監察官室で止まっている。
「教官の分は、根拠になるわよ。書面だもの」
「監察官室で止まってたら、付いてないのと同じ」
「止まってることを、誰かが書けばいいのよ。姉が言ったんじゃなくて、私」
「妹が先に言いました」
止まっていることを、誰かが書く。
双子はそれを自分たちが言ったと思っていない。言った。
「クラリス様、ジョゼット様」
「何」
「お二人は、監察官が二十三箱を焼却炉へと言ったとき、塔にいらっしゃいましたね」
「いたわ」
「いた」
「それを、書いていただけますか。お二人の字で。日付と、聞いたことを」
双子は顔を見合わせた。見合わせて、同時に頷いた。同時に頷かれると、なぜか信じたくなる。秋と同じだった。
夜、宿舎の机に、ミレイユが向かっていた。
机は一つしか無い。四人で使う机を、彼女は夕食の後からずっと占めていた。双子は寝台の上で、王都の叔母への手紙を書いていた。手紙は膝の上で書ける。証言は机が要る。誰もそう言わなかったが、誰も机を求めなかった。
紙が一枚。ペンが一本。彼女は字を書いていた。ゆっくりで、四角くて、線がところどころ震えていた。震えていても、名前ではなかった。文だった。
「何を書いているのですか」
「わたしが、見たこと」
彼女は顔を上げなかった。
「監察官が、二十三箱を焼けって言ったこと。上に行くなって言ったこと。四十番の棚が東に運ばれたこと。二階の扉が、夜だけ開いてたこと。全部、わたしが見ました」
「……書けますか」
「時間が、かかります」
彼女は、一字書いて、手を止めて、次の一字を書いた。手を止めるのは、字を思い出しているからだ。思い出せない字は、飛ばした。飛ばした場所に、小さな丸を書いた。あとで、訊くつもりだろう。
「レティシア様の帳面には、レティシア様が書いたことしか、ありません」
「はい」
「わたしが書いたら、わたしが見たことが、あることになります」
彼女はまた一字書いた。
「写しじゃないので」
わたくしは、それ以上、何も言わなかった。言えば、大きくなりすぎる。代わりに、灯りを彼女のほうへ寄せた。
寝台に戻る前に、帳面に今日の分を書いた。
記録に値せず。根拠、無し。教官の評価、監察官室で停止。双子、証言を書く。ミレイユ、証言を書く。
書き終えて、一つ、思い出した。夕方、主計課を出るとき、ヴェラが言ったことだ。二十三箱の目録を読み終えたあとで、彼女は、棚を見ずに言った。
増員の根拠書類は、起案者保管です。学務監室。十年前の分も、七年前の分も、四年前の分も、全部。
全部、東の一番奥。四十番の棚と、一緒に。
ミレイユのペンの音が、まだ続いていた。一字、止まり、一字。止まるたびに、あることが一つ増えていく。
「記録に値せず」の一行は、この作品でいちばん短い記録です。短いものほど、書いた人の顔が見えます。
ミレイユが、文を書き始めました。名前ではなく、文を。思い出せない字のところには、小さな丸を置いてあります。
その紙が誰の前に出るかは、まだ決まっていません。一字ずつ増えていく音が好きな方は、ブックマークをしておいてください。




