第四十九話 「記憶の外」
夜明けの一刻前に、塔の扉を開けた。
鍵はわたくしが持っている。受領書無しで渡された鍵だ。渡した人が覚えていろと言った鍵で、渡された人が扉を開ける。開けた記録はわたくしの帳面にある。
中は暗かった。ノエルが灯りを持ち、ミレイユが階段の下の箱を数えた。二十三。数え終えてから、彼女はもう一度数えた。二十三。二度数えると、数になる。
クラリスとジョゼットが、宿舎から来た。ヨナスが厨房の荷車を引いて来た。荷車は麺麭を運ぶためのもので、箱を六つ載せると、車輪が鳴った。
「厨房の人に、借りたって言ってあります。返す時刻も」
「書いて」
「書きました。厨房の帳面に」
ヨナスは少し得意そうだった。書くことを覚えた人は、書いたことを言いたがる。それでいい。
一度目のわたくしは、この場所にいない。
箱を荷車に載せながら、それを思った。一度目、年末のわたくしは、演習から外されていた。外されて、何も知らないまま、寮の部屋にいた。だから、今、何が起きるかを、わたくしは知らない。ブラントが夜明けに来るかどうかも、来て何を言うかも。
記憶が無い。
記憶の代わりに、手順がある。ヴェラが規程を言い、わたくしが帳面に書き、ノエルとミレイユが立会の名を書いた。手順は記憶より軽い。軽くて、外れない。記憶は井戸や落馬のようにずれる。手順は書いたとおりに動く。動かなければ、動かなかったことが記録になる。
「レティシア」
ノエルが荷車の縁を叩いた。
「六つ、載った。四往復だ」
「四往復」
「夜明けまでに、間に合うか」
「間に合わせます」
主計課は宿舎の隣だ。塔からは回廊を半周する。半周を四往復。荷車の車輪が鳴るたびに、物見の兵が屋根の上から見下ろした。見下ろしただけで、何も言わなかった。演習生が夜明け前に荷車を引く規程は無い。禁じる規程も無い。
主計課の扉は開いていた。
中に灯りがあった。ヴェラが机にいた。硯に墨を磨っていた。夜明けの一刻前に。
「執務の時間は、始まりの時刻が書いてありませんので」
彼女はそう言った。それだけ言って、受領の帳面を開いた。
箱を、一つずつ運び込んだ。ヴェラが箱の数を数え、わたくしが書き出した目録を添え、彼女がそれを読んだ。全部読んだ。読んで、受領の帳面に書いた。二十三箱。演習記録、十年ぶん。俸給の根拠を含む。目録添付。受領、主計課。日付。時刻。
時刻を、彼女は行頭と行末に、二度書いた。
わたくしは、それを見て、息を止めた。
「ヴェラ様。時刻を」
「二度書きます。一箇所だけ書き直しても、前後と噛み合わないように」
記録係と、同じ癖だった。四十年前から学校の回廊にいる人と、五年前から王都の主計課にいる人が、同じ癖を持っている。教わったのか、自分で辿り着いたのかは、訊かなかった。どちらでも、同じことだった。書くだけの人は、書き方まで似る。
受領書を、彼女は二枚書いた。一枚は主計課の控え、一枚はわたくしに。渡された一枚には、主計課の印。二十三箱。
「これで、主計課の保管です」
「はい」
「他の課は、廃棄できません。規程には、そう書いてあります」
最後の箱を運び込んだとき、窓の外が、白くなり始めていた。
塔に戻った。
階段の下は空だった。二十三の箱があった場所に、埃の薄い四角が二十三、並んでいる。動かされたものは、跡を残す。四十番の棚と、同じだった。
ノエルが空になった場所に立った。ミレイユが七段目の板を確かめた。双子が埃を払う真似をした。払うものがもう無かった。ヨナスは荷車を返しに行った。返す時刻は書いてある。
夜明けに、ブラントが来た。
扉の音はしなかった。彼は扉の内側で足を止め、階段の下を見た。長い外套は今日も風を受けていなかった。
「箱は」
わたくしは帳面を開いた。
「主計課に、受領していただきました。夜明けの一刻前に。受領書は、こちらに」
受領書を、見せた。二十三箱。主計課の印。時刻が二度。
ブラントはそれを見た。長く見た。今までで一番長く。
「私は、焼却炉へ運べと言った」
「はい。書いてございます。昨日の夕方、立会二名」
帳面の頁を、彼に向けた。彼はそれを見なかった。
「監察官室の裁量で廃棄する書類を、主計課に」
「主計課の規程では、俸給の根拠書類は主計課が保管します。監察官室の裁量より、主計課の規程が先に書かれておりました。書かれた順に、従いました」
彼の目が動いた。窪んだ目が、初めて、はっきりと動いた。
「あなたは、指示に背いた」
「指示は、口頭でした。書面でいただきたいと、三度申し上げました。三度とも、書いてございます」
沈黙があった。塔の中の沈黙は、いつも質が違う。今日は彼のほうが黙っていた。
「……私は、言っていない」
来た、と思った。
「何を、でしょうか」
「焼却炉へ運べとは、言っていない。廃棄しろとも。私は、整理しろと言った」
わたくしは、帳面を、もう一度開いた。開いて、読んだ。声に出して。
「一週間前。二十三箱は、保存の期限が切れている。廃棄する。今週中に、中庭の焼却炉へ運びなさい。三班で。立会、ノエル・グレンヴィル、ミレイユ・カルヴァン」
読み終えて、頁をめくった。
「昨日の夕方。明日の夜明けに焼却炉へ。三班で。立会、同じく二名」
ノエルが階段の下で言った。
「聞いた。俺が立ち会った」
ミレイユが七段目で言った。
「わたしも。書きました。時間かかりましたけど」
ブラントは二人を見た。見て、わたくしを見た。見て、それから、空になった階段の下を見た。埃の薄い四角が二十三。
「……お好きに書きなさい」
同じ言葉だった。一週間前と同じ言葉が、今日は、負けた人の言葉になっていた。
彼は出ていった。扉の音はしなかった。しないまま、外套の裾が、初めて、風を受けて膨らんだ。風下に立つのを、忘れていた。
塔の中で、誰も、しばらく何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、ジョゼットだった。
「勝った?」
「今のは、勝ったのよ。姉が先に言うから」
「妹が先に言いました」
言い合いが戻っていた。いつもの強さで。
わたくしは帳面を閉じた。
記憶が無い場所で、初めて、何かが動いた。動かしたのは記憶ではなかった。規程を読む人と、時刻を二度書く人と、数を二度数える人と、立会の名を書いた二人。それから、荷車を借りた時刻を書いた一人。
一度目のわたくしが、寮の部屋で何も知らずにいた朝と、同じ日付だ。同じ日付に、今日、二十三の箱が主計課にある。
「レティシア」
ノエルが言った。
「あいつ、言ってないって言ったな」
「言いました」
「言ってないって言った瞬間、あいつは、自分が言ったことを認めた」
わたくしは頷いた。
「はい。言っていないと言うには、何を言ったかを、知っていなければなりませんから」
窓の外が、明るくなっていた。雪は止んでいた。
一度目のレティシアは、この朝、寮の部屋で何も知らずにいました。二度目は、荷車を四往復させました。記憶ではなく、手順で動いた最初の朝です。
監察官が「言っていない」と言った瞬間、彼は自分が何を言ったかを知っていると認めました。
ただ、この人はまだ、三班の評価簿を持っています。




