第四十八話 「婚約者候補」
主計課の朝は墨の匂いで始まる。
ヴェラは硯を左手で押さえ、筆を右手に持ち、わたくしが扉を開けても顔を上げなかった。書き終えるまで上げない。上げてから、ご用でしょうか、と言う。今日もそうだった。昨日も、その前も、同じだった。同じことを同じ順でする人は、順が崩れたときに、崩れたことが分かる。分かる人がこの部屋に一人いる。
「規程を、一つ伺いたいのです」
「範囲で」
「見習い騎士の俸給の、根拠書類は、どの課が保管するのでしょう」
彼女は筆を置いてから答えた。
「主計課です。俸給を払う課が、払う根拠を持ちます。規程には、そう書いてあります」
「演習記録に俸給の欄があって、額が書いてある場合、その演習記録は」
「根拠書類です」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「監察官室が預かっている演習記録が、俸給の根拠を含むなら、主計課はそれを受け取る立場にあります。受け取れば、受領書を切ります。受領書を切ったものは、主計課の保管になります」
「廃棄の指示があった場合は」
「主計課の保管になったものを、他の課は廃棄できません」
規程にはそう書いてあります。
彼女はその言葉を言わなかった。言わなくても、聞こえた。
明日の朝、二十三箱を持ってきてよいかと訊いた。朝一番に、と彼女は言った。受領は執務の時間内に行います。執務の時間はいつからかと訊いた。
彼女は少しだけ口の端を動かした。この人が笑うのを初めて見た。
「規程には、始まりの時刻は書いてありません。終わりだけです」
塔に戻ると、ブラントが来ていた。
二十三の箱を見て頷き、明日の夜明けに焼却炉へ運ぶようにと言った。三班で。それだけ言って出ていった。扉の音はしなかった。わたくしは帳面に書いた。明日、夜明け、焼却炉、三班で。立会はノエルとミレイユ。
書き終えたところで父の使いが来た。
今夜、屋敷で。短い言葉だった。今度は、話がある、と付いていた。話がある、と書かれた手紙を、わたくしは秋にも受け取った。あのときは何の話かを推し量らなかった。今日は推し量る必要が無かった。書斎に椅子がいくつ出ているかで、話の中身は分かる。
二人一組の相手は、今日はノエルにした。
門の前で、彼は門柱に背を預けようとしてやめた。やめてわたくしを見た。今日は中に入る、と彼は言った。入る理由ができた、と。
理由が何かは言わなかった。言わなくても分かった。話がある、と父が書いた。話の中身が何かも分かっていた。分かっていることを、この人は隣で聞くつもりだった。
執事はノエルを見て頭を下げた。深さはミレイユのときより深かった。連れの身分で決める人が、今日は連れの顔で決めていた。
書斎には三人いた。
父と、クルトと、もう一人。もう一人は、見たことのない中年の男で、紙を持っていた。紙は婚約の書面のように見えた。見えたのは、父の机の上に、印が出ていたからだ。
「座りなさい」
父は、わたくしとノエルに、椅子を二つ示した。ノエルの分の椅子があった。用意されていた。用意した人は彼が来ることを知っていた。
父は机の上の紙を指で押さえた。
「年末の査閲の席で、公表する。クルト・ザイデル殿との婚約を。話は、通してある」
話は通してある。
一度目、入学式の朝、エイドリアンが言った。あの日とまったく同じ角度で。今日は父が言った。同じ言葉を、違う人が、違う角度で言う。
「いいえ」
わたくしは言った。
父の眉が動いて止まった。エイドリアンの笑みが止まったときと同じ速さだった。
「……いいえ、とは」
「父にはわたくしから申し上げます。書面は、まだ出しておりませんでしょう。出す前で、よかった」
一度目と、同じ言葉だった。同じ言葉を、二度目に、父に言った。言えるとは思っていなかった。言えた。
中年の男が、紙を持ったまま、父を見た。父は男を見なかった。わたくしを見ていた。
「聞こう」
「婚約は、わたくしが決めます。秋にも申し上げました。今も同じです」
「相手は、学務監の甥だ。騎士団の三年目で、素行に問題は無い。家は三代で学務監を出している」
「はい。存じております。悪い方ではないと、わたくしも思います」
クルトが少しだけ姿勢を変えた。
「それでも、いいえ、と申し上げます。理由は、査閲の日までに、わたくしの言葉で申し上げます。今日は、いいえ、だけです」
父は長く黙った。黙っているあいだ、暖炉の火が、四度、爆ぜた。回数が増えている。
「クルト殿」
父が言った。
「あなたから、何か」
クルトは立ち上がった。立ち上がって父に頭を下げ、それからわたくしに頭を下げた。深さが初めて、練習したものではなくなっていた。
「僕は、この方の言い分を先に伺うと申しました。まだ、伺っておりません」
父の眉がまた動いた。
「伺うまで、僕は書面に印を押せません。叔父の言いつけでも、押せません。押したら、僕は言ったことと違うことをしたことになります」
彼は机の上の印を見て、見るのをやめた。
「査閲の日まで、お待ちします。それが、僕の言い分です」
中年の男が紙を下ろした。下ろした紙は机の端に置かれた。置かれたまま誰も触らなかった。
父は椅子の背に体を預けて天井を見た。
「……三人とも、言い分がある、か」
三人。わたくしと、クルトと、それから。
父はノエルを見た。ノエルは椅子に座ったまま何も言っていなかった。何も言わないでいた。
「グレンヴィルの倅は、言い分は無いのか」
「あります」
ノエルは座ったまま答えた。
「ただ、今日は言いません。この人が決めるまで、俺の言い分は、混ざらないほうがいい」
父はノエルを長く見た。それから、机の上の帳面を一冊、指で押さえた。押さえたのは、革の背が一番褪せた、一番古い帳面だった。母が死んだ年の帳面だと、背の色で分かった。
「……お前の父親も、そういう言い方をした」
ノエルの肩がわずかに動いた。
「十年前。上申を取り下げたとき。俺の言い分は、いま混ぜないほうがいい、と。そう言って、領地を売った」
ノエルは何も返さなかった。返さないで、父を見ていた。
父はそれ以上言わなかった。言わないまま立ち上がった。
「査閲の日までに、決めろ。三人とも」
それで、終わりだった。
坂を下りながら、ノエルは白いほうを歩いた。わたくしも今日は白いほうを歩いた。二人で歩くと、白いところが減る。減った分だけ、後から来る人は黒いところを歩くことになるが、今日は、それを気にしなかった。
公爵は俺の父を知っていた、と彼は言った。上申のことも。十年前に混ぜないと言ったことも。わたくしは、はい、と三度答えた。
彼は黙って歩いた。黙って歩く人の隣でわたくしも黙った。二つ目の坂の角で、金物屋の鍋が雪を載せて動かなかった。
「レティシア。いいえ、って言ったな。公爵に」
「言いました」
「一度目と同じ言葉か」
「……はい。同じ言葉を、同じ角度で言われましたので」
彼は少しだけ笑った。息が白かった。言えたな、と彼は言った。言えました、と答えた。
言えた。それだけで、今日は足りた。足りないものは、明日の夜明けに運ぶ。
父が「話は通してある」と言い、レティシアが「いいえ」と返しました。第一話とまったく同じ言葉です。相手だけが違います。
クルトは、印を押しませんでした。押したら言ったことと違うことになるからです。
明日の夜明けに、二十三の箱が動きます。同じ言葉に二度目の「いいえ」を返すところが効いた方は、☆をひとつ置いていってください。




