第四十七話 「見習い騎士エルマー」
厩は昨日より暗かった。
雪雲が低く、小さな窓から入る光が少ない。荷運びの男たちは、今日は袋ではなく、樽を転がしていた。樽は重く、転がすと床の板が鳴る。鳴る音の中で、一人だけ、樽を転がす前に足元を見る人がいた。
彼は、わたくしを見て、樽から手を離した。離して、逃げなかった。逃げないで、腕を組んだ。
また来たのか、と彼は言った。はい、と答えた。書くのか、と彼は訊いた。
わたくしは鞄を開けた。開ける前に、一度、手を止めた。昨日この鞄から紙を出しかけて、戻した。戻した手が今日また開ける。開けるのは同じ手だが、開ける理由が違う。紙を出した。白い紙だ。何も書いていない。
「先に、あなたの言い分を書きます」
彼は紙を見た。
「あなたが言ったことを、あなたが言った形のまま、わたくしが書きます。書いた紙は、あなたに渡します。出すかどうかは、あなたが決めてください。出さないと決めたら、わたくしは、その紙のことを誰にも言いません」
ノエルが隣に立っていた。何も言わなかった。言わないで、いた。
エルマーは、腕を組んだまま、しばらく動かなかった。動かないあいだに、樽が三つ、横を転がっていった。
「……誰にも」
「はい。学校の記録係にも、主計課にも、父にも」
彼は腕をほどいた。ほどいて、樽の一つに腰を下ろした。座ると、目の高さが下がる。下がった目がわたくしの紙を見ていた。
「何から言えばいい」
「最初から。言いたい順で」
わたくしは樽の上に紙を置いた。ペンを持った。持って、待った。
彼は話し始めた。
四年前の秋、村の役場から手紙が来た。王立騎士学校に入学が決まったと書いてあった。願書を出した覚えは無い。父も母も知らなかった。ただ、行けば飯が食えると言われた。行った。
学校に着いたら、名簿に名前があった。班には無かった。演習にも呼ばれなかった。呼ばれないまま、一年が過ぎた。二年目の秋に、事務室に呼ばれた。辞めろと言われた。三つの箱があった。一身上の都合に、丸をつけた。
「つけろと言われたから、つけた。他の箱は、意味が分からなかった」
わたくしは書いた。言われた形のまま。
辞めた翌日、王都行きの荷馬車に乗せられた。乗せたのは事務室の人ではなかった。王都から来た人だった。荷台には紙の束が積んであって、幌にオルセン商会と書いてあった。
着いたら、厩で荷運びの仕事が用意されていた。紹介した人は親切だった。学校のことは忘れて、ここで真面目にやれと言った。名前は名乗らなかった。ただ、厩の主に、学務監様の紹介だと言っていた。
オルセン商会。秋に、学校が取引を止めた商会だ。
学務監様、とわたくしは繰り返した。そう聞いた、四年前だ、と彼は言った。
ペンが止まった。止めなかった。止めずに、書いた。オルセン商会の荷馬車。学務監の紹介。四年前。
「それから四年、荷運びをしてる。日当は、月に銀貨で三枚。見習い騎士の俸給は、その十倍あるって、昨日あんたが帰ってから、厩の主に聞いた」
彼は自分の手を見た。樽を転がす手だった。
「十倍を、四年。俺の名前で、誰かが受け取ってる。俺は知らなかった。知らなかったのに、帳面の上では、俺が受け取ってる」
そこで、彼は言葉を切った。切って、長く息を吐いた。
「俺が数えられたくないのは、数えられたら、また辞めろと言われるからだ」
わたくしは顔を上げた。
「学校でそうだった。名前があって、班が無くて、それで辞めろと言われた。王都でも同じだ。名前があって、俺が無くて、名前だけが金を受け取ってる。それを言えば、今度は、名前ごと消せと言われる。消されたら、荷運びの仕事も無くなる」
名前があって、本人が無い。
学校では、本人がいて、名前が数えられなかった。王都では、名前が数えられて、本人がいない。同じ人に、二度、逆のことが起きている。
辞めさせるのが、目的だった。
急に、分かった。二年目の秋に辞めろと言われるのは、名簿の不正を隠すためではない。辞めた瞬間から、学校は数えるのをやめる。数えるのをやめた名前を、王都は数え続けられる。本人が学校にいると、本人が演習に出ていないことが、いつか誰かに見つかる。本人がいなければ、見つからない。
十五名が二年以内に辞めたのは、副作用ではなかった。手順だった。
「エルマー様」
「様は、いらない」
「エルマー。最後に、一つだけ」
わたくしはペンを置いた。
「あなたが、今、言いたいことは、何ですか。誰かに対して」
彼は少し考えた。考えて、樽から立ち上がった。
「……辞めろと言った人に」
「はい」
「俺は、辞めたくなかった。それだけだ」
わたくしは、それを書いた。俺は、辞めたくなかった。
紙を、彼に渡した。彼は受け取った。受け取って、読んだ。読むのに、時間がかかった。字が読めないのではない。読めるのに、時間がかかる文だった。
これは俺の言葉か、と彼は訊いた。あなたが言った形のままだと答えると、そうか、と言った。
彼は紙を折らなかった。折らずに、持っていた。持っている手は、樽を転がす手だ。紙は軽い。軽いものを、彼は重そうに持っていた。
「出すか、出さないか、俺が決めるのか。決めたら、あんたはどうする」
「出すと決めたら、わたくしが数えます。あなたを数えて、辞めろと言う人が来たら、その人に、書面で言わせます。口で言わせません」
ノエルが初めて口を開いた。
「書面で言わない奴は、言ってないことになる。それが、こいつのやり方だ」
エルマーはノエルを見た。見て、それから、わたくしを見た。
「出してくれ」
紙を、わたくしに返した。返した手が震えていなかった。
「数えてくれ。今度は、辞めたくないって、先に言ってある」
厩を出ると、ミレイユが待っていた。
袖から林檎を出して、彼女はエルマーに渡した。彼は、林檎を受け取って、しばらく見ていた。見てから、上着の中に入れた。何も言わなかった。言わなかったが、受け取った。
回廊に戻る途中で、ミレイユが言った。
「レティシア様。四十番の棚のこと、思い出しました」
「はい」
「最初の日。塔に入る前に、東へ運ばれる箱を見ました。使いの人が二人で、綴じた帳面を箱に入れて。箱に番号の札が付いてました」
彼女は指で空に描いた。四十。
「どこへ」
「東の、一番奥。学務監室です。扉が二重の」
四十番の棚は動かされた。中身ごと、東の一番奥へ。十年前の主計課の綴り。増員の根拠として綴じられたもの。起案した課長が保管する規程。起案した課長は、今、東の一番奥にいる。
塔に戻ると、二十三の箱が、朝と同じ場所にあった。
あと一日。
わたくしは帳面を開いた。今日の頁に、エルマーの言い分の写しを取った。本物は鞄の一番奥。受領書の隣。
それから、一行足した。
学務監の紹介。四年前。十年前の主計課長。名はザイデル。
書いて、閉じた。閉じてから、ノエルを見た。
「先に、訊きました」
「聞いてた」
「それから、書きました」
「見てた」
彼は七段目の板を足で確かめた。緩んでいなかった。
「明日、焼くのか」
「いいえ」
わたくしは言った。決めたのは今だった。
「焼きません。先に、届けておきます」
エルマーは、辞めたくなかった、と先に言いました。先に言ってあることは、後から言われたことより強い。この作品のいちばん最初の話と、同じ形です。
四十番の棚の行き先が分かりました。二十三の箱を焼く期限は、明日の夜明けです。




