第四十五話 「数えられたくない人」
厩は回廊の外にあった。
本部の裏手、壁に沿って長屋のように建っている。馬は五十頭ほど。冬の厩は湿った藁の匂いと、馬の息の匂いがして、学校の厩より暗かった。暗いのは窓が小さいからだ。小さい窓の下で、荷運びの男たちが飼葉の袋を積んでいた。
ノエルが隣にいた。二人一組の規程は、本部の中では要らない。要らなくても、彼は来た。来る理由を、訊かなかった。
ミレイユが袋を積む列の一番奥を指した。
「あの人です。踵の縫い目」
二十歳ほど。背は低く、肩が広く、袋を担ぐ腰の落とし方が慣れていた。慣れているのに、袋を置くとき、いつも一度、足元を見る。学校の実技場で教わる置き方だ。重い物は足元を確かめてから下ろせ。フォルカー・ハイムが、そう教えていた。
わたくしは彼の前に立った。
「エルマー様」
彼は袋を置いた。置いて、足元を見た。それから、顔を上げた。
「……人違いです」
「王立騎士学校の、四年前の入学者名簿に、その名がございます。四年前に書き足され、二年目に退学した方です」
彼の目が動いた。動いて、わたくしの制服を見た。制服の襟。学校の紋。それから、ノエルの制服。ミレイユの靴。
学校の人ですか、と彼は訊いた。一年のレティシア・ヴァルトハイムだと名乗ると、公爵家の、と言った。はい、と答えた。名乗った名前が、この人にとって何を意味するのかを、わたくしはまだ知らなかった。
彼はもう一度袋を持ち上げた。持ち上げて、列に積んだ。積んでから、こちらを見ずに言った。
「何の用ですか」
わたくしは鞄から手帳を出した。査問の朝の手帳。十五名の頁。彼の名は一番上にある。
「王都の演習記録の俸給の欄に、あなたの名が、四年続けて載っております。見習い騎士として。辞められた後も、三年」
彼の手が止まった。
「俸給は、主計課が払っています。四年ぶん。受け取りの印は、学務監室の代理です」
「……」
「あなたは、受け取っておられますか」
長い沈黙だった。厩の奥で、馬が一頭、足を踏み鳴らした。
「一銭も」
彼はそれだけ言った。
「一銭も、受け取ってない。俺は荷運びの日当で暮らしてる。見習い騎士なんて、なったこともない。辞めろと言われて辞めた。それだけだ」
「辞めろ、と」
「二年目の秋に。一身上の都合、家庭の事情、健康上の理由。三つの箱があって、どれかに丸をつけろって。俺は一身上につけた。それで終わりだ」
三つしかない箱。記録係が言った、あの箱だ。
「辞めた後、王都で仕事を紹介された。荷運び。紹介してくれた人は、親切だった。学校のことは忘れて、ここで真面目にやれって。それで四年」
彼は袋の口を縛り直した。縛る手が少し震えていた。
「あんた、それを何に使うんだ」
「記録に、残します。あなたが四年、数えられ続けていたことを。数えられていたのに、一銭も受け取っていないことを」
彼は、初めて、正面からわたくしを見た。
「やめてくれ」
声は小さかった。小さいのに、厩の中で、はっきり聞こえた。
「俺は、もう数えられたくない」
わたくしは言葉を失った。
「名前を出せば、どうなる。俸給簿に四年ぶん、俺が受け取ったことになってる。それが嘘だと分かったら、誰が返せと言われる。俺だ。受け取ってない金を、返せと言われる。返せなければ、今度は本当に、王都からも消される」
彼は袋を担いだ。
「学校で数えられなかったのは、まだいい。誰も見てなかった。王都で数えられてたのは、知らなかった。知らないまま四年、俺は生きてこられた。知った今日から、俺は帳面の上で四年ぶんの借りがある」
担いだ袋を、彼は列に積まなかった。積まずに、担いだまま、言った。
「あんたが数えると、俺の借りが、あることになる」
そうして、彼は奥へ歩いていった。奥は暗く、背中はすぐに見えなくなった。
厩を出ると、雪が降っていた。
ノエルは何も言わなかった。ミレイユも何も言わなかった。三人で、回廊まで歩いた。歩きながら、わたくしは手帳を握っていた。握った頁の角が、少し折れた。
数えられていない人がいる。それを記録に残してほしいと、わたくしは査問で言った。数えられていないことを、無いことにしないために。
数えられたくない人がいる。それを、今日、初めて知った。数えることが、その人の借りを、あることにする。
どちらも正しかった。正しいことが二つあって、二つが噛み合わない。
回廊の柱の陰で、わたくしは足を止めた。鞄を開けた。紙を出した。今夜、書くつもりだった。エルマーの名と、俸給の欄と、一銭も受け取っていないという言葉。書いて、明日、主計課とヴェラに。
「レティシア」
ノエルの声だった。
「お前、また一人で決めてないか」
紙を持つ手が止まった。
「あいつは、やめてくれと言った。お前は、記録に残しますと言った。あいつの言い分を、お前は聞いた。聞いて、それでも書くのか」
わたくしは彼を見た。
「書かなければ、無いことになります」
「なるな」
「なります。あの方が四年、数えられ続けていたことが」
「あいつは、それでいいと言った」
ノエルは、雪の中で、動かなかった。
「お前がひとりで決めるのは、これで最後だと、秋に言った。あれは、お前が自分のことをひとりで決めるなって話だった」
彼はわたくしの手の紙を見た。
「今のは、あいつのことを、お前がひとりで決めてる」
紙を、鞄に戻した。戻すのに、時間がかかった。かかったのは彼が正しいと分かっていたからだ。
「……はい」
「書くなとは言ってない。先に、あいつに訊け。それから書け」
わたくしは頷いた。頷いて、鞄を閉じた。
ミレイユが袖から林檎を出した。昨日の林檎だ。
「あの人に、渡そうと思ったんですけど」
「渡せませんでしたね」
「はい。渡す前に、行っちゃったので」
彼女は林檎を袖に戻した。渡す相手がいなくても、持っておく。ヨナスの紙と、同じだった。
夕方、稽古場から戻ったノエルが、塔で言った。
「クルトが来た。稽古場に。型を見てた。終わってから、話しかけてきた。いい奴だった」
彼は箱の上に座った。
「それが、嫌だ」
わたくしは、笑いそうになって、やめた。同じことを、ミレイユが昨日言った。悪い人じゃないです、じゃあ困りますね。同じことを、違う人が、違う理由で言う。
明日、もう一度厩へ行く、と言った。一人でか、と彼が訊いた。いいえ、先に訊きに、と答えた。
彼は頷いた。頷いて、二十三の箱を数えた。数え終えて、あと二日、と言った。
夜、帳面に書いた。
エルマー。一銭も。数えられたくない。ひとりで決めるな。
四行書いて、五行目に、先に訊く、と書いた。書いてから、それが今日いちばん重い一行だと思った。
数えられたくない人がいます。数えられることが、その人の借りを「あること」にするからです。レティシアが査問で言ったことの、裏側です。
ノエルの「ひとりで決めるな」は、秋とは向きが変わっています。
答えが出るまで、もう少しかかります。正しいことが二つあって噛み合わないのが刺さった方は、ブックマークをどうぞ。




