第四十四話 「燃やした紙」
二階の扉は朝には閉まっていた。
ミレイユが階段の上まで行って、取っ手を握って、戻ってきた。鍵が掛かっている、と彼女は言った。昨日の隙間は無い。誰かが夜のうちに来て、閉めた。閉めた人は開けた人と同じだろう。同じ人が、夜に来て、朝に帰る。
わたくしは帳面に書いた。二階、施錠。日付。時刻。書いてから、二十三の箱を見た。あと三日。
午前中は箱の中身を書き出した。
箱を一つ開けると、埃と一緒に、古い紙の匂いが立つ。学校の記録係の机と同じ匂いだ。十年前の帳面は紙が厚く、二十年前のものは薄い。薄い紙は破れやすく、開くたびに角が粉になって落ちる。落ちた粉を、クラリスが袖で払った。払っても、また落ちる。
焼けと言われたものを、焼く前に、何があるかを書いておく。ブラントは中身を書くなとは言っていない。箱に書くな、と言っただけだ。箱ではなく、わたくしの帳面に書く。
年度。参加者の数。班の数。俸給の欄に額のある名前。額のある名前は、年に三つから六つ。それが十年ぶん。
ノエルが帳面を一冊ずつ開き、クラリスが年度を読み、ジョゼットが人数を数え、わたくしが書いた。ミレイユは俸給の欄の名前を読んだ。ゆっくりだった。ゆっくりでも、読んだ。
「エ、ル、マー」
四年前の帳面だった。彼女は指で綴りをなぞりながら、もう一度読んだ。エルマー。
わたくしは鞄から手帳を出した。査問の朝に持っていった手帳だ。十五名の名前を、全部書き写した頁がある。探せません。ですから、せめて数えます。そう言ったときの、あの頁。
四年前の三名の、一番上に、その名があった。
「ありました」
「学校の名簿の」
「はい。四年前に書き足されて、二年目に辞めた方です」
ミレイユは三年前の帳面を開いた。俸給の欄。エルマー。二年前の帳面。エルマー。去年の帳面。エルマー。
「四年、ずっと」
「はい。辞めた後も、三年」
辞めた生徒の名が、辞めた後も、演習記録の俸給の欄に残っている。演習に出た記録として。見習い騎士として。俸給を受け取った者として。
学校は二年目で数えるのをやめた。王都は、四年、数え続けている。
昼に、ヨナスが塔に来た。
引率補助の仕事は、昼食を運ぶことだった。厨房から籠を提げて、一班の宿舎と三班の塔を回る。彼は扉を肩で押して入り、籠を箱の上に置いた。籠の中は、麺麭と、干した肉と、林檎が一つずつ。
「今日は林檎が付きました。厨房の人が、演習生にはもったいないって言いながら」
双子が先に取った。ミレイユは林檎を一つ、袖に入れた。誰のぶんかは訊かなかった。
ヨナスはすぐには帰らなかった。箱の上に座って、階段の下の二十三を見ていた。数えているのではなかった。ただ、見ていた。
「ヴァルトハイム様」
「レティシアで、構いません」
「……レティシア様。これ、焼くんですか」
「そう言われています」
彼は膝の上で、手を組んだ。厨房の手だった。指の節が太く、爪が短く、甲に小さな火傷の跡が二つ。痩せていて、細かった。
「俺、去年の秋、紙を一枚拾ったんです」
声は小さかった。小さいまま、続いた。
「西の倉庫で。厨房の薪を取りに行ったとき、床に落ちてて。名簿の一葉みたいなやつ。名前が並んでて、下のほうが白かった」
わたくしは手を止めた。
「誰に渡せばいいか、分からなくて。事務室に持っていったら、書き損じだって言われると思って。それで」
彼は少しだけ笑った。困った笑い方だった。
「燃やしました。厨房の竈で」
燃やした。
「……なぜ、わたくしに」
「渡そうと思ったんです。秋の初め。公爵家の方なら、って。でも、ヴァルトハイム様はもう自分で台帳を開いてて、記録係のところに通ってて。要らないと思いました。あの人が写しを持ってるなら、俺の一枚は」
彼は言葉を切った。
「去年言えなかったから、今年は書面を届けた。それで足りたと思ってました。紙のことは、言ってなかったです」
わたくしは彼の手を見ていた。細い手。厨房で痩せた、細い手。
四年後の朝。雨。膝の下の石畳。右手に握り込んだ、折り目のついた厚い紙。誰かから渡された気がする。渡した手が細かった。
あなただった。
一度目、あなたは燃やさなかった。誰に渡せばいいか分からないまま、公爵家の娘に渡した。渡された娘は、それが何かを知らないまま四年を過ごし、査問で問われ、罪状になった。
二度目、あなたは燃やした。渡す必要が無くなっていたから。わたくしが先に台帳を開いていたから。
同じ手が、一度目は渡し、二度目は燃やした。渡した紙はわたくしを処刑台へ連れていった。燃やした紙は何も起こさなかった。
どちらが正しかったのかを、わたくしは考えなかった。考える必要が無かった。彼はどちらのときも、誰かに渡そうとしていた。渡す相手が、一度目にはいて、二度目にはいらなかった。それだけの違いだ。
「ヨナス」
「はい」
「あなたでしたか」
彼は目を瞬かせた。
「何が、ですか」
「……いいえ」
わたくしは首を振った。言えない。一度目のことは、言えない。言えば、彼は自分を責める。渡した紙が何になったかを知れば。知る必要は無い。二度目の彼は燃やしたのだから。
「ありがとうございます」
「俺、燃やしたんですけど」
「はい。それでも」
彼はまだ困った顔をしていた。困った顔のまま、籠を提げて、帰っていった。扉を肩で押して、出ていく背中が、細かった。
扉が閉まってから、わたくしは自分の右手を見た。四年後の朝、この手が握っていた紙の厚さを、この手はまだ覚えている。覚えているのに、渡した人の顔は、今日まで無かった。今日、顔が付いた。付いた顔が、林檎を運んでくる人の顔だったことが、少しだけ、救いだった。
午後、書き出しを続けた。
ミレイユが名前を読み、わたくしが手帳と突き合わせる。十五名の名が、全部、演習記録の俸給の欄にあった。書き足された年の帳面に載り、辞めた後も、続いている。去年書き足されて今年の秋に辞めた五名も、去年の帳面に載っていた。今年の六名はまだ書かれていない。
書かれていないのではない。これから書かれる。今年の六名も、来年、俸給の欄に載る。載って、辞めて、それでも載り続ける。
「レティシア様」
ミレイユが四年前の帳面を閉じずに持っていた。
「この名前、学校の名簿にありました。エルマーって」
「はい。今、突き合わせました」
「そうじゃなくて」
彼女は首を傾げた。
「今朝、厩で。荷運びの人が呼ばれてました。エルマー、って。誰かが呼んで、その人が振り向きました」
振り向いた。
王都の厩で。四年前に辞めた人の名を、誰かが呼び、誰かが振り向いた。
「学校の靴でした。あの人」
「学校の」
「支給の靴です。平民の生徒はみんな履くので、分かります。踵の縫い目が、二重で」
道を覚える人は、靴も覚える。字が読めなかった頃、人を靴で覚えていたのかもしれない。
わたくしは帳面を閉じた。閉じて、厩のほうを見た。塔の窓は少なく、厩は見えない。見えないところに、数えられ続けている人が、一人、いる。
一度目、レティシアに名簿の一葉を渡した細い手の主は、ヨナスでした。二度目の彼は、燃やしました。渡す相手がもういなかったからです。
厩で振り向いた人の話は、次回です。




