第四十三話 「公爵家の食卓」
父からの使いは、昼に来た。
今夜、屋敷で食事を、という短い言葉だった。会わせたい者、とは書いていなかった。書いていないところに、会わせたい者がいる。父の手紙はいつもそうだ。
外出は二人一組で、今日の相手はミレイユだった。代理教官が決めたのではない。わたくしが頼んだ。ノエルを連れていくと、門の外で待たせることになる。待たせるのはもう嫌だった。
公爵家の屋敷と聞いて、ミレイユは入っていいのかと訊いた。入ります、二人一組ですから、と答えた。
彼女は少し考えてから頷いた。考えたのは入っていいかどうかではなく、何を着ればいいかだったらしい。制服しか無いです、と彼女は言った。制服でいいです、と答えた。制服は王都に来てから二度洗った。二度洗うと、袖口の紐が少し縮む。縮んだ紐を彼女は結び直していた。
坂を三つ上った。
雪は固く踏まれていて、ミレイユは白いほうを歩いた。ノエルと同じ歩き方だった。道を覚える人は、踏まれていないところを歩く。踏まれたところは、他人の道だからだ。
三つ目の坂の角を右に曲がって門、と彼女は言った。もう覚えたのかと訊くと、坂は三つしかないので、と答えた。
門の前で、彼女は足を止めた。門柱の雪をじっと見て、ここに誰か長いこと立っていた、と言った。背中の形が残っている、と。
残っていた。四日前の背中の跡が、新しい雪に埋まりきらずに、門柱の側面に薄く残っていた。わたくしはそれを見て、見なかったことにした。
屋敷の中で、執事がミレイユを見た。
頭を下げた。深さは、わたくしより浅く、文書課長より深い。この人は、人の身分ではなく、人の連れの身分で深さを決める。ミレイユはわたくしの連れだった。
「お連れの方は、厨房でお食事を」
「はい」
ミレイユはそれが自然なことのように頷いた。頷いて、厨房のほうへ歩いていった。歩きながら、廊下の曲がり角を数えていた。数える癖は屋敷の中でも消えない。
食堂には三人分の席があった。
父とわたくしと、もう一人。もう一人の席には若い男が立っていた。立って、わたくしが入るのを待っていた。二十二か三。髪は明るい茶で背筋が伸びていて、騎士団の制服を着ている。制服の襟に小さな紋章。
「クルト・ザイデルと申します」
彼は頭を下げた。深さはちょうどよかった。ちょうどよすぎて、練習したのだと分かった。
「学務監の甥です。叔父の言いつけで、参りました」
叔父の言いつけで。
自分でそう言う人を、わたくしは初めて見た。言いつけで来た人は、普通、言いつけで来たとは言わない。言わないで、自分の意思で来たように振る舞う。エイドリアンは、そうだった。
「レティシア・ヴァルトハイムです」
「存じております。秋のことも、少し」
父が席に着くように手で示した。
食事は静かだった。父は食べながら領地の話をし、クルトはそれに短く答え、わたくしはほとんど何も言わなかった。言わないでいると皿の音が大きく聞こえる。皿の音を数えていた。数えても何も分からなかった。
肉が下げられたところで、父が言った。
「クルト殿は、騎士団の三年目だ。稽古場で、教官の補佐をしている」
「はい」
「学務監殿とは、古い付き合いだ」
古い付き合い。父はザイデルを知っている。知っていて、その甥をこの席に座らせた。
わたくしは父の顔を見た。父は皿を見ていた。
「婚約の話でしたら」
言いかけたとき、クルトが先に口を開いた。
「ヴァルトハイム嬢。その前に、一つだけ」
彼はナプキンを置いた。
「僕は、叔父から、あなたと会うように言われました。何のためかも、聞いています。ただ、叔父が言ったことと、あなたが言うことは、たぶん違う」
父の眉が少し動いた。
「あなたの言い分を、先に伺いたい。僕が何かを言うのは、その後で」
言い分を、先に。
わたくしは、その言葉を聞いて、一拍、遅れた。遅れたのは驚いたからではない。この言葉を、誰かの口から聞くのが、初めてだったからだ。一度目の四年で、一度も。二度目の半年で、一度も。ノエルでさえ、先に聞かせろとは言わなかった。彼は聞く前に隣にいた。
「……ありがとうございます」
「まだ何も」
「先に伺う、と言ってくださいました。それだけで」
父が咳払いをした。
「話は、あらためてする。今日は、顔を合わせただけだ」
四日前と、同じ言葉だった。同じ言葉を二度言う人は、二度目に何かを足している。今日足されたのは、席が三つあったことだ。
食事が終わり、クルトが先に席を立った。
立つとき、彼はわたくしのほうを見た。見て、少し困った顔をした。困っているのに、嫌そうではなかった。どこかで見た顔だ、と思って、思い出した。ノエルが記憶の無い場所の話をしたときの顔だ。
「ヴァルトハイム嬢。稽古場には、朝、来られますね」
「はい。型を」
「僕もおります。お話は、そこでも」
彼は頭を下げて、出ていった。
父と二人になった。
父は暖炉のほうを向いていた。向いたまま、言った。
「あの男を、どう思う」
「聞く方だと思いました。先に聞くと仰いました。誰にも言われたことのない言葉でした」
父はこちらを向かなかった。向かないまま、長く黙った。黙っているあいだ、火が三度、爆ぜた。四日前より、一度多かった。
「……お前の母は、私に一度も、先に聞けと言わなかった」
「はい」
「言わなかったが、私が聞かないと、黙って数えていた。数えて、帳面に書いていた。私が聞かなかった回数を」
わたくしは息を止めた。
「その帳面は」
「ある。書斎に」
彼はそれ以上言わなかった。言わないまま、立ち上がった。立ち上がって、扉のところで、一度だけ足を止めた。
「グレンヴィルの倅は、今日は来なかったのか」
「はい。今日はミレイユと」
「そうか」
父は出ていった。そうか、の前に、間があった。ノエルのそうかと、同じ長さの間だった。同じ長さの間を、違う人が置く。置かれた間を、わたくしは数えなかった。数えると、意味を付けてしまう。
厨房で、ミレイユは麺麭を三つ食べていた。
執事が四つ目を勧めていた。彼女は断らなかった。断らないで、四つ目を半分に割って、半分を紙に包んで、袖に入れた。誰のぶんかは訊かなかった。
「レティシア様。お屋敷の人、あの若い方。厨房の前を通るとき、わたしに頭を下げました。厨房にいる人に」
彼女は少し首を傾げた。
「悪い人じゃないです、たぶん」
「はい。わたくしも、そう思いました」
「——なるほど。じゃあ、困りますね」
困る。
言い当てられて、わたくしは笑った。悪い人なら、簡単だった。企みが空振りする場面を、先に置けばよかった。聞く人が相手だと、置く場所が無い。
坂を下りながら、わたくしは一度だけ、ノエルの顔を思い浮かべた。
クルトが「先に伺いたい」と言ったとき、隣にノエルがいたら、どんな顔をしただろう。たぶん、何も言わない。言わないで、聞く。聞いてから、そうか、と言う。
思い浮かべて、やめた。いない人の顔を先に想像するのは、その人に言う前に答えを出すのと同じだ。答えは決めてからでいい。
門の前で、ミレイユが袖の麺麭を確かめた。
「ノエル様、夕飯まだだと思うので」
「……はい」
三つ目の坂を下りきったところで、雪が降り始めた。降り始めた雪は、門柱の背中の跡を、今度こそ埋めるだろう。埋まっても、あった。あったことを、わたくしは書いた。
クルト・ザイデルは、学務監の甥です。悪い人ではありません。悪い人でないほうが、レティシアは困ります。
父の「聞かなかった回数を数えた帳面」は、この部でもう一度出てきます。




