第四十一話 「受理番号三一七」
主計課の帳面は、朝一番に机の上に出ていた。
十年前の綴りだ。背は擦れ、角は丸く、頁の縁が茶色い。ヴェラは開かずに待っていた。開くのは、開示を求めた側の目の前で、と規程にある。そう言って、彼女は綴りの紐を解いた。
ノエルが隣に立っていた。隣にいると言った人は、朝一番に隣にいた。
頁を繰る。回付の費用。番号、回付先、日付、費用、差出元。行が並び、行ごとに小さな印が押してある。払った、という印だ。
三箇月ぶんを繰ったところで、彼女の指が止まった。
三一五。
三一六。
三一七。
三行が続いていた。差出元、王立騎士学校。差出人、グレンヴィル男爵。回付先、監察官室。日付は、記録係の三枚の受領書と、一日ずつ遅れて並んでいた。受け取った翌日に回付されている。費用は三通とも同じ額で、払った印が三つ。
「回付されている」
「はい」
「監察官室へ。三通とも。翌日に」
文書課は受理していた。受理した翌日に、監察官室へ回している。費用は払われている。払った控えがここにある。
該当の記録なし。あの三行はこの三行の上に書かれた三行だった。
ヴェラが三一七の行の右端を指した。備考の欄だ。他の行は空いている。この行だけ、小さな字で書き込みがある。
《監察官室より主計課へ再回付。増員根拠として》
再回付。監察官室から、主計課へ。
わたくしはその一行を二度読んだ。
「主計課へ、戻ってきている」
「はい。ただし」
ヴェラは帳面を閉じなかった。閉じずに、別の棚を見た。
「主計課に、上申書はありません。私が来てから五年、一度も見たことがありません。受け取った記録だけが、ここにあります」
受け取った記録があって、受け取ったものが無い。
無いものはあることにできる。あるものを、無いことにするには、どこかへ置けばいい。
「増員根拠、とは」
「見習い騎士の枠を増やすとき、根拠の書類を主計課が保管します。俸給を払うので。十年前の分は、私の前任が綴じているはずです。……はずです」
彼女は、はずです、を二度言った。二度言う人は一度目を信じていない。
写しを取った。
ヴェラが取り、わたくしが読み合わせ、ノエルが立会の名を書いた。三一五、三一六、三一七。回付先、日付、費用、備考。写しの下に、主計課の印。控えの写しは開示を求めた側に渡せる。規程にはそう書いてある。
学務監室へはその足で行った。
東の回廊は今日も人がいなかった。光る床を歩く音が、今日は二人ぶんだった。二重の扉を叩くと、書記が開けた。開ける前に、中から声がした。お通ししなさい。
ザイデルは机の向こうにいた。今日は椅子を引かなかった。引く前に、わたくしが紙を出したからだ。
「学長の使者として、照会の結果をお届けに参りました」
写しを机に置いた。彼はそれを取り、読んだ。全部読んだ。読み終えて、顔を上げた。微笑みは無かった。
「文書課長を、呼びなさい」
書記が走った。走る人を見るのは、王都に来て二度目だった。
ケラーは四半刻で来た。息は整っていた。整えてから来た襟の直し方も、同じだった。彼は扉の内側で頭を下げ、机の上の紙を見て、頭を下げたまま、少し長く止まった。
「文書課長。この照会に、あなたは何と返した」
「……該当の記録なし、と」
「これは」
ザイデルは写しを指で押さえた。押さえ方が父の帳面の押さえ方に似ていた。似ていることが、嫌だった。
「主計課の費用の控えです。三通とも、文書課が受理し、翌日に監察官室へ回付している。受理番号は三一五から三一七。差出元の学校に開示された正当な控えです」
「……」
「文書課の受理簿に、この三つの番号は無いのか」
ケラーは襟を直した。直してから、言った。
「十年前の受理簿は、綴じ替えの際に、一部が」
「一部が」
「……欠けております」
欠けている。
わたくしは鞄から記録係の三枚を出した。本物のほうを。
「文書課長。こちらは、学校の記録係が保管していた受領書です。十年前、上申書を運んだ使いが、王都で受け取って持ち帰ったものです。署名を、ご覧ください」
三枚を、机に並べた。丸い頭文字。読めない綴り。ヴェラの見本帳で照合した、書記時代の署名。
ケラーは三枚を見た。見て、何も言わなかった。言わない代わりに、襟に手が行って、途中で止まった。直す襟がもう無かった。
「オー・ケラー。文書課の書記の署名だと、主計課の見本帳にございました」
「……」
「受け取ったのは、あなたです。回付したのも、文書課です。該当の記録なし、とお書きになったのも」
彼は頭を上げなかった。
ザイデルが立ち上がった。
「文書課長の怠慢だ」
声は大きくなかった。大きくないのに、部屋の温度が下がった。
「学校からの照会に、自らが受理した記録を『無い』と返した。受理簿の欠損を放置した。文書課長の職を解く。後任が決まるまで、書記が受理を行う」
ケラーの肩が下がった。下がって、それきり上がらなかった。
わたくしはその速さを見ていた。
聞きましたが、規程です、と言った人が、今日は四半刻で人を切った。動かさない人ではなかった。動かすものを、選ぶ人だった。切って捨てられるものは、切る。この写しを持ってきたのがわたくしでなくても、この人は同じ速さで切っただろう。
「ヴァルトハイム嬢」
ザイデルがこちらを向いた。微笑みが戻っていた。
「よく調べましたね」
学長室で聞いた言葉と、広間で聞いた言葉と、同じだった。三度目だった。三度聞くと、この言葉は、褒めているのではないと分かる。調べた範囲を、確かめている。ここまでは調べた。ここから先はまだ。
「学務監様。備考の欄に、再回付とございます。監察官室から、主計課へ。増員根拠として」
「そのようですね」
「十年前、主計課長でいらしたのは」
微笑みは動かなかった。
「私です。ただ、十年前の綴りのことは、覚えておりません。数字の仕事は、量が多い」
彼は椅子に座った。座って、写しを引き出しに入れた。入れる前に、頁を一枚、写しから外した。備考のある頁だった。外して、別の抽斗に入れた。抽斗は鍵の付いたものだった。
「これは、学務監室で聞き置きます」
聞き置く。
置かれた。今度は目の前で。
ケラーが部屋を出た。出るとき、わたくしの前で足を止めた。頭は下げなかった。下げる深さがもう決まっていなかった。
「私は、受理しただけです」
「ええ。受理なさいました」
彼は何か言いかけて、言わずに、扉を出た。走らなかった。走る理由も、直す襟も、もう無かった。
回廊に出ると、ノエルが柱の風下に立っていた。
「一人、落ちたな」
「はい」
「落としたのは、お前じゃない」
「はい。落としたのは、学務監様です。四半刻で」
彼は東の一番奥の扉を見た。
「速かった」
「速かったです。切れるものは、切る方です」
「切れないものは」
「置く方です。鍵の付いた抽斗に」
塔に戻る途中、ミレイユが回廊の角で待っていた。
「レティシア様。昼の使いの人、今日は東に入る前に、監察官室に寄りました」
監察官室。回付先。再回付の起点。
備考の一行は抽斗に入った。入ったものはあることになる。無いことにはできない。ただ、開ける鍵は、置いた人が持っている。
わたくしは帳面に書いた。今日の日付。三一五、三一六、三一七。再回付、増員根拠。抽斗、鍵。
増員。誰を、増やしたのか。上申書がなぜ増やす根拠になるのか。
書きながら、指が冷えた。秋に、四年後と書いた紙を握ったときと、同じ冷え方だった。
文書課長ケラーは、受理しただけの人でした。受理しただけの人が、受理したものを「無い」と書く。それだけで、人は一人落ちます。
落としたのはレティシアではなく、学務監でした。四半刻で。あの速さが何だったのかは、まだ書いていません。




