第四話 「婚約者という肩書き」
翌朝、食堂でノエルが向かいに座った。
断りもなく、当たり前のように、盆を置いて腰を下ろす。周りの視線が集まった。公爵令嬢の向かいに男爵家の次男が座るというのは、この学校ではそれなりに珍しい絵らしい。
「おはようございます」
「おう」
それきり彼は黙って食べ始めた。わたくしも黙っていた。十年ぶりの朝食で何を話すのが正しいのか、誰も教えてくれない。
最後に一緒に食事をしたのは八つの年だ。ヴァルトハイムの庭にグレンヴィルの一家が招かれて、子どもだけ別の卓に座らされた。ノエルはパンを二つ取り、片方をわたくしの皿に置いた。理由は言わなかった。わたくしが小さかったからだと思う。
今、彼はパンを二つ取り、片方をわたくしの皿に置いた。
「……あの」
「食え。昼まで実技だぞ」
喉が詰まった。
この人は、十年ぶりでも同じことをする。
あの年の冬に母が死に、翌年、グレンヴィル家は領地を手放して王都を離れた。理由は聞かされなかった。子どもに理由を聞かせる大人はいない。手紙を三通書いて、返事は来なかった。四通目を書こうとして、乳母に止められた。身分が違いますから、と言われた。
身分が違うということが、手紙の返事が来ない理由になるのだと、そのとき覚えた。
食器を下げに行く途中で、ノエルが言った。
「訊いてもいいか」
「どうぞ」
「昨日のあれ、いつから用意してた」
「二日前です」
「二日前には、まだ何も起きてない」
「ええ」
彼は立ち止まった。廊下の窓から光が入り、髪の輪郭だけが白く光る。
「お前、なにか隠してるだろ」
わたくしは、彼の顔を見なかった。見たら喋ってしまいそうだった。
処刑台の話をしたら、この人はどうするだろう。信じないだろうか。それとも、信じてしまうだろうか。信じてしまったら、四年後、また同じ場所に立つのではないか。人垣の後ろから、頼まれてもいないのに剣を抜くのではないか。
「隠していると思われるようなことを、しましたか」
「はぐらかすな」
「……はぐらかしています」
正直に言うと、ノエルは眉を上げた。それから、少し笑った。
「まあいいや。言いたくなったら言え」
「言いたくならなかったら」
「じゃあ、言わなくていい」
彼はそのまま歩き出した。拍子抜けして、わたくしはしばらく動けなかった。
一度目のわたくしは、この人に一度も話しかけなかった。同じ学年にいて、同じ食堂を使い、四年間ずっと。理由は簡単で、婚約者がいる身で幼馴染と親しくするのは外聞が悪い、と誰かに言われたからだ。誰に言われたのだったか。思い出せない。思い出せない程度の誰かの言葉で、わたくしは四年を捨てたことになる。
午前の座学は、王国騎士法の総論だった。
教官が読み上げるのを、わたくしは書き取った。第三十二条、隊務における証言の取り扱い。第三十三条、被告の申し立てを聴取する義務。第三十四条、記録の保全。
書き取りながら、指が冷えていくのが分かった。
全部、あった。四年後のあの朝に一つも行われなかったことが、全部、条文としては存在していた。
「教官」
手を挙げると、周りが少し驚いた顔をした。座学で質問をする生徒は珍しいらしい。
「第三十三条の聴取が行われなかった場合、どうなりますか」
「行われないことはない。義務だからね」
「義務が果たされなかった場合の規定は、条文にありますか」
教官は少し黙り、それから条文集をめくった。めくって、閉じた。
「……無いな」
教室が静かになった。
「無い場合は、どうなりますか」
「実務では、上申することになる。誰かが気づいて、書面で出せばね」
誰かが気づいて、書面で出せば。わたくしは礼を言って座った。
条文には、破ったときの罰が書かれていない。書かれていないから、破っても何も起きない。何も起きないことを、四年後のわたくしは身をもって知った。
であれば、気づく人と、書面を出す人を、先に用意しておくしかない。
午後の実技は、走り込みだった。
外周を五周。革の胸当てを着けたまま走るので、三周目には隊列が崩れる。わたくしは公爵家の令嬢としては体を動かすほうだったが、それでも四周目で息が上がった。
前を走るミレイユは、まったく崩れない。呼吸の間隔が最初から最後まで同じだった。
「ミレイユ様、お強いのね」
「様はやめてください。落ち着きません」
「では、ミレイユ」
「はい。——なるほど」
何がなるほどなのか分からなかったが、彼女は満足そうだった。
五周目、後ろから足音が並んだ。ノエルだ。並んで、そのまま速度を合わせてくる。
「顎、上げろ。息が入らない」
「……はい」
言われたとおりにすると、実際に楽になった。そのとき、彼の左手が目に入った。
手袋をしていない。甲から手首にかけて、細い傷跡が走っている。古い傷だ。皮膚の色が周りと違う。
「その傷」
「ん」
「左手の」
「ああ、転んだんだよ」
即答だった。あまりに即答だったので、逆に引っかかった。
「いつ転ばれたのですか」
「覚えてない」
「覚えていないほど昔なのに、転んだことは覚えていらっしゃるのね」
ノエルは前を向いたまま、しばらく走った。
「……何度も言わせるな」
それが答えだった。走り終えたあと、水場でミレイユが訊いてきた。
「レティシア様、グレンヴィル様と仲がいいんですね」
「幼馴染です」
「幼馴染って、いいですね」
彼女は水を汲みながら、そう言った。羨ましそうな声ではなかった。遠くの国の話を聞いたときのような、平らな声だった。
「ミレイユには、いないの」
「いたかもしれません。覚えてないので」
覚えていない、と彼女は言った。覚えていないことを、この人はよく言う。
覚えていないのではなく、覚えていないことにしているのかもしれない。そういう言い方を、わたくしも四年後に覚えた。答えたくないことを訊かれたとき、忘れたと言うのが一番角が立たない。
「ミレイユは、どうして騎士学校へ」
「募集の紙が村に貼ってあったんです。誰でも受けられますって書いてあって」
「誰でも」
「はい。読める人に読んでもらいました」
水桶の底で、光が揺れていた。
「受かると思っていらした?」
「思ってませんでした。だから受かったとき、村の人がみんな見に来たんです。紙を貼りに来た人も来ました」
彼女はそこで少し笑った。嬉しそうな笑い方ではなく、思い出しているだけの笑い方だった。
「その方は、なんとおっしゃったの」
「よく書けていた、って」
わたくしは、桶を持つ手を止めた。
書類は、村の誰かに書いてもらったのではなかったか。だとしたら、その人が褒めたのは、ミレイユではない誰かの字だ。
訊かなかった。訊くには、まだ材料が足りない。
夕方、寮の廊下でエイドリアンとすれ違った。
「レティシア」
彼は立ち止まり、いつもの角度で笑った。
「グレンヴィルの次男と、ずいぶん親しくしているようだね」
「幼馴染ですから」
「僕は君の婚約者だ」
その言葉が、思ったより深く刺さった。
四年後、この人は同じ肩書きのまま、書面から目を上げなかった。婚約者という肩書きは、わたくしを守らなかった。守らないものを、わたくしはずっと「守ってくれるはずのもの」だと思っていた。
「エイドリアン様」
「なんだい」
「婚約者というのは、何をする人なのでしょう」
彼は笑みを崩さなかった。崩さないまま、答えなかった。
「変なことを言うね」
「そうかもしれません。おやすみなさい」
背を向けて歩き出すと、後ろから声がした。
「レティシア。父上への話は、僕から通しておく」
「いいえ。わたくしから申し上げます」
振り返らずに言った。廊下の角を曲がってから、壁に手をついた。
——あと少し。
書面が出る前に、この婚約を切る。切れば、四年後の罪状に彼の署名は載らない。載らなければ、少なくとも一人分は、あの朝の顔ぶれが変わる。
部屋に戻ると、ミレイユが窓辺で紙を睨んでいた。今度は向きが合っている。
「レティシア様」
「なんでしょう」
「明日、班分けの掲示が出るそうです」
班分け。
一度目の記憶では、わたくしはエイドリアンと同じ班だった。四年間ずっと。




