第三話 「突き飛ばされた、と彼女は言った」
二日のあいだに、わたくしは三つのことをした。
ひとつ。回廊の記録係に、東の回廊の見回り時刻を訊いた。三の鐘半と、四の鐘。ちょうど二回、人が通る。
ふたつ。その時刻に自分が別の場所にいる用事を作った。図書室の司書に、稀覯本の閲覧を申し込む。閲覧には立会人が要る。立会人の名前と時刻が、台帳に残る。
みっつ。ノエル・グレンヴィルに、話しかけなかった。
三つ目が一番難しかった。
食堂で見かけるたび、足が向きかける。廊下ですれ違うたび、名前を呼びそうになる。そのたびに、雨の朝を思い出して踏みとどまった。彼は、わたくしのそばにいたから死んだ。
二日で三度、わたくしは自分の足を止めた。三度目には、止めるのが少し上手くなっていた。上手くなっていく自分が、あまり好きではなかった。
三日目の午後。東の回廊で、悲鳴が上がった。
わたくしは図書室にいた。司書が稀覯本の頁を繰り、羊皮紙の匂いが立っている。窓の外を人が走っていく。走っていく足音を数えながら、わたくしは息を吐いた。
——始まった。
「見に行かなくていいのかね」
司書のマルグリット先生が、老眼鏡越しにこちらを見た。
「閲覧の途中ですので」
「感心な子だ」
感心ではない。ここにいることが、わたくしの用事だった。半刻後、閲覧記録に署名して図書室を出た。廊下はまだざわついていた。
悲鳴の主はビアンカ・オルセンだった。回廊の石段の下に座り込み、膝を押さえて、震えている。周りに人が集まり、その真ん中でエイドリアンが膝をついていた。
「誰にやられた」
「……わかりません。後ろから」
ビアンカは首を振る。振ってから、顔を上げた。人垣の向こう、遅れて着いたわたくしを、まっすぐに見た。
「でも、髪の色が」
空気が変わった。
わたくしの髪は、この学年にひとりしかいない色をしている。銀に近い灰色。母から受け継いだ、隠しようのない色だ。
一度目は、ここで終わりだった。
髪の色を言われ、周りが振り返り、わたくしが「していません」と言い、それで何も変わらなかった。していないことを証明する方法を、当時のわたくしは持っていなかった。していないことは、放っておくと証明できない。それを知らなかった。
エイドリアンが立ち上がる。
「レティシア。何か言うことはあるかい」
「ええ、あります」
自分の声が思ったより静かだったので、少し驚いた。
「わたくしはこの半刻、図書室におりました。司書のマルグリット先生と、稀覯本の閲覧記録に署名しております。時刻は三の鐘半から四の鐘まで。台帳をお持ちいたしましょうか」
エイドリアンの眉が、わずかに動いた。
「……台帳」
「ええ。それから回廊の記録台帳も。東の回廊は三の鐘半と四の鐘に見回りが通ります。ビアンカ様が突き飛ばされたのが本当にその間なら、見回りの記録に人影が残っているはずです」
誰かが「取ってこよう」と言って走った。走ったのはわたくしの味方ではない。ただ面白がっただけの誰かだ。それでいい。面白がる人がいるほうが、記録は早く運ばれる。
台帳は二冊とも運ばれた。
図書室の閲覧記録には、わたくしの名と司書の名と、三の鐘半と四の鐘の二つの時刻が並んでいた。行の頭と末尾。始まりと終わり。
回廊の台帳も同じ書き方をしている。三の鐘半、見回り一名通過、異常なし。四の鐘、見回り一名通過、石段付近に生徒一名、座り込み。
「座り込み……四の鐘」
読み上げた誰かが、言葉を切った。
「ビアンカ様。あなたが突き飛ばされたのは、いつですか」
わたくしは訊いた。責める調子にならないよう、できるだけ平らに。
「……三の鐘半、くらいだと」
「三の鐘半には、見回りが通っています。異常なしと書かれています。四の鐘に初めて、あなたが座り込んでいたと書かれています」
ビアンカの唇が動いて、止まった。
「その半刻のあいだに何があったのかは、わたくしには分かりません。ただ、その半刻、わたくしは図書室におりました。それは書かれています」
言い終えてから、自分の手が震えていないことに気づいた。
一度目のわたくしは、この場で何も言えなかった。言葉がなかったからではない。聞いてもらえると思えなかったからだ。
聞いてもらう方法は、先に紙に書いておくことだった。それだけのことだった。それだけのことを、わたくしは死ぬまで知らなかった。
人垣の後ろで、誰かが小さく言った。
「石段、雨のあと滑るもんな」
言ったのは上級生だった。ただの世間話のつもりだったのだと思う。けれど、その一言でざわめきの向きが変わった。突き飛ばされたのではなく、滑ったのではないか。そう考えるほうが、この場の全員にとって都合がよかった。
都合のよさは、正しさとは違う。違うけれど、人を動かす力は同じくらいある。
わたくしは訂正しなかった。訂正する材料を持っていないからだ。ビアンカが滑ったのか、突き飛ばされたのか、わたくしは知らない。知っているのは、その時刻に自分が図書室にいたということだけで、それ以上のことを言えば、わたくしも同じ穴に落ちる。
言えることだけを言う。それが一度目に足りなかったものの、たぶん半分だった。
人垣が緩んだ。
誰も謝らなかったし、誰もわたくしを庇わなかった。ただ、話題が別のものに移っただけだ。それでいい。ざわめきが引いていくのを、わたくしは黙って見ていた。
胸の底で、何かが小さく音を立てる。留飲、というのだろうか。四年ぶりに、自分の言葉を最後まで喋り切れた。
ビアンカが立ち上がる。膝の埃を払いながら、こちらへ小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい。わたし、勘違いを」
「お気になさらず」
わたくしは彼女の手元を見ていた。握り込んだ左手から、紙の角が覗いている。
折り目が三つ。文字が書いてある。彼女の字ではない。ビアンカの字は今日の入学書類で見た。丸くて大きい。あの紙の字は細くて、右に倒れている。
誰かが、書いた。ビアンカが読んだ。読んで、言った。だとすれば、この子は駒だ。駒を憎んでも、盤は変わらない。
人が去った回廊に、エイドリアンだけが残っていた。
「君は変わったね」
笑っていなかった。四年後、罪状を読み上げたときと同じ目をしている。この人はこういう目をするのだと、わたくしは初めて知った。一度目は、見ようとしなかったから。
「そうでしょうか」
「昔の君なら、まず彼女を心配した」
「今も心配しています。ただ、順番を変えました」
「順番」
「先に事実を確かめて、それから心配します。逆にすると、心配が誰かの武器になりますので」
エイドリアンは何も言わずに歩き去った。
わたくしは回廊の石段に手をつき、そこでようやく息を吐いた。膝が笑っている。震えは終わってから来るものらしい。
柱の陰から、足音がひとつ。
「お前」
ノエルだった。
いつからいたのだろう。左手を軽く握り、体の横に垂らしている。
「なんで、あんな用意ができた」
答えられるわけがなかった。だから、答えなかった。
「わたくし、心配性なんです」
「……そうかよ」
彼は納得していない顔で頷き、それきり何も訊かなかった。訊かないまま、わたくしが立ち上がるまでそこにいた。
立ち上がるとき、手を貸そうとして、途中でやめたのが分かった。婚約者のいる令嬢に触れるのは外聞が悪い。そういうことを、この人はちゃんと考える。
考えなくてよくしてあげたい、と思った。思ってから、自分の考えの向きに驚いた。
紙の折り目は三つ。字は細くて、右に倒れている。あれを書いたのは、誰だろう。




