第二話 「二度目の入学式」
相部屋の扉を開けると、床に人が座っていた。
正確には、荷物の山に埋もれるようにして、書類を睨んでいた。栗色よりも濃い、赤みのある髪。膝を抱えるでもなく、行儀よく正座するでもなく、片膝を立てて紙を目の高さに持ち上げている。
「あ」
その人は顔を上げ、わたくしを見て、それから紙を後ろ手に隠した。隠してから、隠したことに自分で気づいたようだった。
「……えっと。ミレイユ・カルヴァンです」
「レティシア・ヴァルトハイムです。よろしくお願いします」
ミレイユは目を丸くした。何か変なことを言っただろうか。
「公爵家の方が、平民に頭を下げるんですか」
「頭は下げていません。名乗っただけです」
「——なるほど」
彼女は小首を傾げて、そう言った。納得したというより、引き出しに何かをしまったような言い方だった。袖から紙片を出す。
「これ、落とされませんでしたか」
「あ! はい、それです。ありがとうございます」
受け取る手が早かった。早すぎて、少し不自然だった。紙片は名前しか書かれていない。落として困るようなものには見えない。
「大事なものですか」
「大事っていうか……お守りみたいなものです」
ミレイユはそれを胸元にしまい、荷物の山を崩し始めた。話は終わり、という意思表示だと分かったので、わたくしも自分の鞄を開けた。
寮の部屋は思ったより狭い。寝台が二つ、机が二つ、窓がひとつ。一度目のわたくしは一人部屋だった。公爵令嬢は一人部屋、というのが慣例だと聞かされて、疑わなかった。
その慣例は、今年は適用されなかったらしい。
なぜ変わったのか、少し考えた。
変わったのはわたくしの側ではない。今朝までのわたくしは、一度目とまったく同じ振る舞いをしていた。婚約を断ったのは式のあとだ。部屋割りはそれより前に決まっている。
ということは、変わったのは向こう側だ。
一度目にはミレイユ・カルヴァンがいなかった。今年はいる。彼女がいるから、部屋が足りなくなった。
考えて、寒気がした。
わたくしが何もしなくても、世界は勝手にずれている。ずれは小さいうちは見えない。見えたときには、たいてい遅い。
「レティシア様、こっちの寝台でいいですか」
「ええ。窓側をお使いになって」
「いいんですか」
「わたくし、朝が弱いので」
嘘だった。朝は強い。ただ、窓側を譲るくらいのことで人が少し安心するのなら、安いものだと思った。
ミレイユは「——なるほど」と言って、荷物を窓側へ運んだ。
その日の午後、実技場でひとつ、記憶にない出来事が起きた。
新入生の顔合わせということで、木剣を持たされた。並んだ列の前で、上級生が「好きに打ち合え」と言っただけの雑な時間だ。
ミレイユが選ばれ、相手はどこかの伯爵家の子息だった。
「平民が剣を握るな」
彼はそう言って、いきなり打ち込んだ。悲鳴のような声が上がる。わたくしは足を踏み出しかけて、止まった。
ミレイユは、受けなかった。
半歩下がり、木剣の先を通した。もう一度打ち込まれて、また通す。三度目、四度目。受け止める音がひとつも鳴らない。彼女は打たれるたびに半歩ずつ位置を変え、そのたびに相手の剣を空に泳がせた。
三十合ほど続いたところで、伯爵家の子息の肩が上下し始めた。
「疲れました?」
ミレイユが訊く。嫌味のない、本当に心配している声だった。だからこそ、周りが笑った。
わたくしは笑わなかった。あれは体力の差ではない。相手の踏み込む足を見て、体重が乗る瞬間だけ動いている。教わらなければできないことだ。誰に教わったのだろう。
一度目のわたくしは、この光景を見ていない。見ていれば忘れない。ということは、一度目のミレイユはこの場にいなかった。
背筋が冷えた。
——記憶は、そのまま使えるわけではない。
当たり前のことだった。わたくしが婚約を切ろうとしただけで、エイドリアンの表情が変わった。表情が変われば言葉が変わる。言葉が変われば、その言葉を聞いた誰かの行動が変わる。四年分の出来事が、そっくりそのまま繰り返されるはずがない。
わたくしが持っているのは地図ではなく、古い地図だ。道が付け替わっているところがある。
夕方、寮の階段でミレイユに呼び止められた。
「レティシア様。昼間、笑わなかったですよね」
「笑うところではありませんでしたから」
「そう言ってくれた人、初めてです」
彼女は少し黙り、それから言った。
「わたし、あの人の足を見てたんです。踏み込むとき、右の膝が先に落ちるので。落ちてから動けば、当たらないんです」
「誰かに習ったのですか」
「習ったというか……ずっと見てたので」
ずっと。何を。
訊こうとして、やめた。訊きすぎると人は閉じる。それは一度目に学んだことのひとつだ。夜、わたくしは回廊へ出た。
王立騎士学校の回廊には記録係の詰所がある。生徒の出入り、来客、備品の搬入。すべてが台帳に書かれる。四年後の裁きの場で、この台帳は一度も読まれなかった。読ませてもらえなかった、と言うほうが正しい。
詰所の窓は開いていた。白髪交じりの記録係が、羽根ペンを動かしている。
「失礼します。台帳を拝見してもよろしいでしょうか」
「見るのは構わんよ。書き写すのは駄目だ」
あっさりしていた。わたくしは礼を言い、開かれた頁を覗き込む。そして、気づいた。
時刻が、二度書かれている。
行の頭に「三の鐘」と書き、行の末尾にもう一度「三の鐘半」と書いてある。次の行も同じだ。始まりと終わりを、どちらも記している。
「時刻を、二度お書きになるのですね」
「うん? ああ、癖でね。始めと終わりを両方書いておかんと、あとで揉める」
揉めるときのことを、この人は知っている。
「揉めたことが、おありなのですか」
「昔ね。誰かが一箇所だけ書き直した。だが前後の行と噛み合わんかった。それで済んだ」
羽根ペンは止まらない。書きながら喋る人だった。
「書き直した人は、どうなりました」
「知らんよ。わしは書くだけだ」
——一箇所だけ書き直しても、前後と噛み合わない。
わたくしは礼を言い、詰所を離れた。廊下の柱に背中を預けて、しばらく動けなかった。
三日後、ビアンカ・オルセンは「東の回廊で突き飛ばされた」と言う。時刻まで言う。一度目のわたくしは、その時刻に東の回廊にいたと「されて」いた。誰も確かめなかった。誰かが確かめようと思えば、この台帳が詰所にあったのに。
今度は、確かめられる。
確かめさせる、と言うべきかもしれない。人は放っておいても確かめない。確かめざるを得ない形にしておくことだけが、こちらにできることだ。
部屋に戻ると、ミレイユが寝台の上で書類を睨んでいた。昼と同じ紙だ。
「まだ読んでいらっしゃるの」
「……はい」
わたくしは何気なく覗き込み、そして一つだけ気づいた。紙が、上下逆さになっている。
ミレイユは慌てて向きを直した。直してから、こちらを見上げ、それから諦めたように笑った。
「順番、間違えました」
「よくあることです」
それ以上は言わなかった。彼女もそれ以上は言わなかった。
寝台に横になり、天井を見た。
わたくしは、いくつのことを知らないままだったのだろう。四年、この学校にいて、同じ寮に住んで、それでも知らないままだったことが。
窓の外で、鐘が二つ鳴った。あと二日。




