第三十九話 「非公開、という言葉」
朝、閲覧の願いをもう一枚書いた。
宛先は学務監室。文面は昨日と同じで、預かり先が監察官室である旨と、その裁量が非公開である旨を、そのまま書き添えた。非公開である、と書くと、非公開であることが記録になる。断られたことを書くのは、断られたことを無いことにしないためだ。
学務監室の書記は、昨日と同じ紙を持って呼びに来た。署名は無く、印だけ。わたくしは帳面に、呼ばれた時刻を書いてから、東の回廊を歩いた。
部屋は暖かかった。暖炉が二つとも燃えていて、窓の光が床に長く伸びている。ザイデルは同じ机の向こうにいて、同じ椅子を引いた。今日は椅子が暖炉から少し離れていた。離した理由は分からない。分からないことは、書かないでおく。
回付簿の写しの件ですね、と彼は言った。監察官から聞いたと。非公開だと。わたくしが口を開く前に、用件のほうが先に着いていた。この部屋には記録係の机が無いのに、話だけは速く届く。届いた話がどこに置かれるのかは、届いた本人にも分からない。
彼は微笑んだ。柔らかい笑みだった。
「あなたの言い分は、聞きました。監察官の言い分も、聞きました。どちらも、聞きました」
「学務監様は、どちらの言い分をお採りに」
「規程です。監察官室が預かるものは、監察官室の裁量で扱う。私はそれを変える立場にありません」
聞きましたが、規程です。
聞いた、と言う。聞いたと言うだけで、聞いたことが何かを動かすことは無い。動かせないのではない。動かさない。動かさないことを、この人は「聞く」と呼んでいる。
七年前にこの職に、と確かめると、彼は頷いた。その前はどちらに、と訊いた。
微笑みが少しだけ形を変えた。変わったのを、暖炉の光のせいだと思うこともできた。思わなかった。
「主計課におりました。課長を、三年ほど」
「主計課」
「はい。数字の仕事です。今より静かでした」
わたくしは礼を言って、部屋を出た。出るとき、書記の机の無い床を見た。床は磨かれていて、机の脚の跡は無かった。最初から、無かったのだ。少なくとも七年は。
塔に戻る途中、宿舎の前に人が立っていた。
公爵家の執事だった。外套の肩に雪を載せたまま、回廊の柱の陰で待っていた。柱の風下ではなく、風上に立っていた。風上に立つのは、通る人から先に見える位置だ。見つけてほしい人の立ち方だった。わたくしを見ると、頭を下げた。深さは屋敷のときと同じだった。
旦那様からのお言葉を、と彼は言った。どうぞ、と答えた。
「公爵家の娘が騎士団の帳面を漁っている、という話が、王都で出ております」
彼は淡々と言った。言いにくいことを、言いにくい顔をせずに言う人だ。
「旦那様は、体面のことを申しております。年末の査閲には、旦那様もお出になります。その席で、あの方をお引き合わせになるおつもりです」
「あの方」
「お名前は、私からは申し上げられません」
執事はそこで少しだけ間を置いた。
「旦那様は、お嬢様が数えるのを止めろとは仰いませんでした。ただ、数えているところを、人に見せるなと」
わたくしは、その言葉を、何度か頭の中で繰り返した。止めろ、とは言わない。見せるな、と言う。
父は昨夜も遅くまで書斎に、と訊いた。執事は、少し間を置いて、はい、と答えた。
彼は頭を下げて、坂のほうへ戻っていった。背中に雪が積もっていた。積もった分だけ、長く待っていたのだと分かった。
塔ではノエルが七段目の板を見ていた。
塔の中は、朝より箱が増えて、歩ける場所が狭くなっている。一階の帳面はあと二棚ぶんで終わる。終わったら、ブラントは次の指示を口頭で出すだろう。出された指示を書く帳面は、今日で四頁目に入った。
昨日噛ませた端切れが、少し緩んでいる。彼はそれを叩き直しながら、わたくしの顔を見た。見て、何も訊かなかった。訊かない代わりに、板を叩く音が二度、余計に鳴った。
「学務監は、聞きましたが規程です、と」
「そうか」
「執事が来て、父は体面のことを言っていると」
「そうか」
「年末の査閲で、会わせたい者を引き合わせると」
叩く音が止まった。
「……そうか」
三度目のそうかは、前の二つより長かった。彼は端切れを足で押し込み、立ち上がった。立ち上がって、階段の上を見た。上には行かないように、と言われた階段だ。
「レティシア。俺は今、何を言えばいい」
「何も」
「何も、か」
「言ってほしいことは、ございません。ただ」
言いかけて、やめた。やめたことを、彼は見ていた。見ていて、何も言わなかった。この人の黙り方は、いつも同じ形をしている。同じ形なのに、今日だけ、少し違って見えた。
夕方、一班の生徒が塔に来た。
巡回の帰りらしく、外套が湿っていた。彼は扉の内側で足を止め、クラリスとジョゼットのほうを見て、それからわたくしのほうを見た。
評価の話だけど、と彼は前置きした。稽古場で型を打つとき、いつも列の一番端にいる生徒だ。端にいる人は端から全体が見える。
「うちの班の分、もう書かれてる。稽古場の教官が、今日の型の分を書いて、監察官室に回した。監察官が判を押して、評価簿に写す」
「三班の分は」
「……白い」
白い。彼は言いにくそうに、それだけ言った。
「稽古場の教官は、三班の分も書いてる。俺、見た。だけど監察官室から評価簿に写った分が、三班だけ、無い。欄が空いてる」
双子が同時にこちらを見た。同時に見られると、答えなければならない気がする。答えは無かった。
「監察官が、写していない」
「たぶん。判が無いから。姉が言ったんじゃなくて、今のは私」
「妹が先に言いました」
いつもの言い合いが、今日は少し弱かった。
ノエルは階段の下で箱の数を数えていた。数え終えたのは、ずっと前だ。数え終えてから、彼はもう一度、最初から数えていた。
推薦は評価で決まる。評価は監察官が写す。写さなければ、白い。白い欄は無い欄と同じだ。
夜、宿舎の机に向かった。
今日書けたのは、三つの言葉だった。
非公開。聞き置く。体面。
三つとも形が同じだった。聞かれないのではない。聞かれて、閉じられる。一度目に聞かれなかったのと、どちらが、と考えて、考えるのをやめた。比べても、どちらも残らない。
帳面の頁を、一枚めくった。明日の頁だ。白い。
白い欄は、無い欄と同じだと、今日分かった。ならば、白いうちに書けばいい。書く人がいれば、白くはならない。
誰が。わたくしが。
ただ、わたくしの帳面には、評価簿を写す力は無い。
ミレイユが寝台から顔を上げた。
「レティシア様。昼の使いの人、今日も三つでした」
「東で、減らずに」
「減らずに。それと、一つ増えてました。戻りに、四つ」
増えていた。
東から、何かが出てきている。出てきたものが、どこへ行くのか。数だけを覚える人の目が、まだ何かを見ている。
わたくしは、明日の頁に、最初の一行を書いた。四つ。それだけ書いて、灯りを消した。
非公開、聞き置く、体面。この回で出てくる三つの言葉は、どれも「聞いた上で閉じる」ための言葉です。レティシアにとって、聞かれないことより慣れていない種類の壁です。
昼の使いの封が増えていました。行きは三つ、帰りも三つ。今日は四つ。数だけを覚える人が、それを覚えています。
数える人がもう一人いると分かったところが面白かった方は、☆をひとつどうぞ。




