第三十八話 「覚えていない王都」
朝の実技は騎士団の稽古場で行われた。
学校の実技場の倍はある。床は土ではなく板で、踏むと乾いた音がした。壁に沿って木剣が並び、その上に、歴代の団長の名を彫った板が掛かっている。名は二十ほど。一番新しい板だけ、まだ色が明るい。
一班と三班が向かい合って型を打った。代理教官は端に立って数を数え、騎士団の教官が横で見ていた。騎士団の教官は何も言わなかった。言わないで、ときどき紙に何かを書いた。書く人だ、と思って、少しだけ安心した。安心してから、その紙が誰の手に渡るのかを考えて、安心をやめた。
型が終わると、ノエルが隣に来た。汗を拭きながら、稽古場の板を見上げている。
「一度目のお前は、ここに来たか」
訊かれると思っていた。思っていたのに、答えるのに時間がかかった。
「来ていません」
「一度も」
「四年、一度も。年末の演習は四度あったはずなのに、王都の記憶が無いのです。井戸や落馬のように細かくずれているのではなくて、最初から、何も」
彼は汗を拭く手を止めた。
「じゃあ、今回は」
「記憶は、保険になりません。ここには、保険そのものがありません」
そう言うと、彼は少し笑った。困った笑い方だった。困っているのに、嫌そうではなかった。
「初めてだな。お前が何も知らない場所」
「はい」
「俺と同じだ」
午前中は塔に戻って一階の続きをした。
手元に残しておいた厚い帳面を、わたくしはもう一度開いた。演習記録。俸給の欄に線の無い年。帳面の一枚目に、演習の要領が印刷されている。参加の要件、班の編成、評価の付け方。細かい字で、二十行ほど。
その中に、一行あった。
《査問を受け、又は受くべき者は、当該年度の実地演習より除く》
読んで、指が止まった。
査問を受けた生徒は、演習から外れる。
一度目のわたくしは、一年次の秋に査問を受けた。何も言えないまま部屋を出された、あの日。あの日から、罪状は四年かけて形になった。四年のあいだ、わたくしは「査問を受くべき者」であり続けた。
だから、来ていない。
外されていたのだ。年末の演習から。一度目の四年、ずっと。
わたくしは帳面を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。同じ一行が同じ場所にあった。
編成外。
名簿に書き足された二十四名が、班に編成されず、演習に出ないまま、参加した記録だけを作られた。そのうち十五名が、二年以内に消えた。あれと同じ側に、一度目のわたくしはいた。公爵令嬢のまま、演習の名簿から外れ、外れたことに気づかず、四年を過ごした。
数えられていなかった。わたくしも。
喉の奥が塞がる感じがして、帳面の角を握った。握っても、何も変わらない。一度目はもう無い。無いものを、今さら数えても仕方が無い。
仕方が無いのに、数えたかった。一度目のわたくしが、四度、演習の名簿から外れていたことを。誰も気づかなかったことを。
一度目の四年で、わたくしが知らされたことは少ない。グレンヴィル家が取り潰されると知ったのも、処刑の前の晩だった。牢の番人が扉の格子越しに書類を掲げて、お前が済んだらこの男爵家も取り潰しだ、もう回っている、と言った。
罪状も、取り潰しも、わたくしのいない場所で先に紙になっていた。
「レティシア様」
ミレイユの声で、顔を上げた。彼女は帳面の一枚目を覗いていた。
「読めます、それ。ゆっくりなら」
「はい」
「読みましょうか」
「……いいえ。読みました」
彼女は少し首を傾げた。傾げて、それ以上は訊かなかった。訊かないことを覚えた人は、訊くべきときに訊ける。
「代わりに、お願いがあります」
「はい」
「ここから先、わたくしの記憶は使えません。ミレイユの目で見たものを、教えてください。何でも」
彼女は瞬きをした。それから、はっきりと頷いた。
「じゃあ、一つ」
「どうぞ」
「昼の使いの人。主計課の封を集めて、東へ行きます。東の一番奥まで行って、戻ってくるとき、封の数が一つ減ってません」
わたくしは彼女を見た。
「減っていない」
「昨日も一昨日も。主計課で三つ集めて、東で三つ渡すなら、戻りは手ぶらのはずです。戻りも三つ持ってました。同じ封かは、分かりません。数だけ」
道を覚える人は、数も覚える。字が読めなかった頃、数だけが彼女の記録だった。
昼過ぎ、監察官室へ行った。
十年前の回付簿の写しは、保存の期限が切れて監察官室が預かっている。ヴェラはそう言った。預かっているものは、預けた課の帳面で辿れる。わたくしは閲覧の願いを一枚書いて、若い書記に渡した。
書記は紙を読んだ。読んで、また困った顔をした。
「監察官殿が、お戻りになってから」
「規程では、閲覧の願いはどなたが」
「……監察官殿の裁量です」
裁量。書かれていない部分に、人の名前が入る言葉だ。
ブラントは夕方に戻ってきた。扉の音はしなかった。彼は書記の机の上の願いを見て、わたくしを見た。長い外套は乾いていて、外の雪が付いていなかった。どこにいたのかは、分からなかった。
「十年前の回付簿ですか」
「はい。写しの閲覧を」
「非公開です」
それだけだった。理由は言わなかった。訊いた。
「規程には」
「監察官室が預かるものは、監察官室の裁量で扱う。規程には、そう書いてあります」
ヴェラの言い方と、同じ言葉を使った。同じ言葉がまったく違う形に聞こえた。ヴェラの規程は彼女を縛り、ブラントの規程は彼が使う。
「非公開、というのは、いつまで」
「私が公開と言うまで」
彼は願いの紙を、机の抽斗に入れた。入れて、鍵を掛けた。受理印は押さなかった。
塔に戻ると、階段の下に、書かない箱が二十まで積まれていた。
ノエルが箱の数を指で数えていた。数え終えて、こちらを見た。断られたか、と訊く顔だった。
断られました、と答えた。非公開だと。
「非公開」
「はい」
「公開してた帳面が、期限が切れると非公開になるのか」
「そのようです。切れたものは、預けた先の裁量で」
彼は箱の上に座った。座って、天井を見た。天井は円く、螺旋の階段が暗い上へ続いている。
「レティシア。上の階、まだ見てないだろ」
「はい。行くなと言われています」
「行くな、とは言ってない。上には行かないように、と言った」
わたくしは少し笑った。この人は、わたくしの帳面の書き方を、もう覚えている。
「同じことです」
「同じか」
「同じですが、書き方が違うので、両方書いてあります」
夜、宿舎の机で、今日のことを書いた。
査問を受けた者は演習から除く。一度目のわたくしは、四年、除かれていた。
主計課の封は東で数が減らない。
十年前の回付簿の写しは、非公開。
三行書いて、ペンを置いた。
記憶の無い場所で、記憶の代わりになるものを、三つ拾った。拾ったものは拾った日付と一緒に紙に残る。一度目の四年が残らなかったのは、わたくしが何も書かなかったからだ。書かなかったのは、書く理由が無いと思っていたからだ。
今はある。
窓の外で、雪が積もる音がした。音のしないものが、積もると音になる。
一度目のレティシアが王都に来ていなかった理由は、規程の一行でした。査問を受けた者は演習から除く。彼女は四年間、それに気づかずに外されていました。
記憶が無い場所で、彼女はミレイユの目を借ります。数だけを覚える人の目です。
規程のたった一行で四年が説明されるのが効いた方は、☆をひとつ置いていってください。




