第三十七話 「記録庫の道」
塔の二階は一階より寒かった。
螺旋の階段を上ると、円い部屋がもう一つある。棚が十二。扉が二つ。片方は三階へ続く階段で、もう片方は鍵がかかっていた。窓は一つで、板が打ちつけてある。板の隙間から雪の光が細く入って、埃が光の中で浮いていた。
ミレイユは階段を上りきる前に、段を数えていた。二十三段です、と彼女は言った。三階まで、たぶん同じ。
塔の石は一階より二階のほうが荒い。一階は人が触る高さまで磨かれているが、二階は誰も触らない。触らない石は切り出したときの鑿の跡がそのまま残る。跡の向きが全部同じで、同じ職人が同じ日に切ったのだと分かった。百年前の職人の手の癖が、埃の下にまだあった。
彼女は棚を一つずつ見て回った。見て回るというより、歩いて回った。棚と棚のあいだを歩き、扉の前で止まり、鍵のかかった扉の取っ手を一度だけ握って、離した。
「覚えました。上の形。棚が十二、扉が二つ、鍵は右。降りて、目を閉じても歩けます」
道を覚える人は、部屋の形も覚える。字が読めなかった頃に身についた覚え方だ。読めるようになっても、その覚え方は消えない。消えなくていい、と思った。
朝の指示は口頭だった。
ブラントは階段の下に立ち、上を見ずに言った。二階の棚は触るな。一階の箱を先に終えろ。それだけ言って、外套を翻して出ていった。
わたくしはその場で帳面に書いた。日付と、時刻と、言葉。言葉は聞いたままの形で。二階の棚は触るな。一階の箱を先に終えろ。書き終えて、ノエルに見せた。合っているか、と訊くと、合ってる、触るなと言った、と彼は答えた。行くな、とは言っていない。わたくしはそこに線を引いた。
帳面は王都に着いた日に買ったものだ。学校の帳面より紙が薄く、頁が多い。薄い紙は裏が透ける。透けるから、一頁に一日ぶんしか書かないと決めた。決めたことを、最初の頁に書いた。
ノエルはわたくしの顔を見た。見て、口の端を少し上げた。
「お前、それ全部書く気か」
「言われたことは、言われた形のままで」
彼は帳面の下に、名を書いた。立会、ノエル・グレンヴィル。ミレイユも書いた。ミレイユ・カルヴァン。彼女の名はまだ少し時間がかかる。かかっても、書く。
午前中は一階の箱を続けた。
クラリスとジョゼットは埃を払いながら、王都の家の話を続けていた。二人の叔母は王都に嫁いでいて、手紙で貴族の名前を送ってくるらしい。名前は覚えるものではなく、使うものだと、双子は思っている。
「ザイデル家は三代で学務監よ。祖父も、伯父も」
「今のは伯父じゃなくて、その弟」
「同じよ。家が座ってるんだから、誰が座っても」
「姉が言ったのは、人が座ってるって話でしょ」
「妹が先に言いました」
「座り続けるのって、お金がかかるのよ。叔母様の手紙だと、オルセン商会の帳面に、ザイデルの名前が祖父の代からあるって」
「オルセンって、棄権した子の家の証文をロシュフォールに売ってたところでしょ」
「そう。ロシュフォールの家は、三年、親戚の子が試合に出るたびに同じ手を使ってたの。今年は嫡男が入ってきて、家の手を自分で使っただけ」
「家の手は、誰が使っても同じ手よ」
「姉が先に言った」
わたくしは帳面の年号を読みながら、聞いていた。家が座っている。人が座っているのではなく。
剣術試合の前に三年分の組み合わせ表を並べたとき、わたくしが数えたのは名前だった。名前の後ろで同じ手を使い続けている家までは、数えていなかった。
三代。三代のあいだ、学務監室には記録係の机が無かったのだろうか。それともいつか無くなったのだろうか。
ザイデル様には甥がいらして、とクラリスが続けた。若い騎士で、二十二か三で、まだ独身だと。姉が調べたの、とジョゼットが言い、叔母様が書いてきたの、とクラリスが直した。
双子の声が少しだけ小さくなった。小さくなった理由を、わたくしは訊かなかった。父の「会わせたい者」の顔に、まだ名前を付けたくなかった。
昼過ぎに、ノエルが二階へ上がった。
一階の箱が足りなくなり、組み立て用の板を二階に置いてあったからだ。彼は板を三枚抱えて降りてきた。降りてきたところに、ブラントが立っていた。
いつ来たのか分からなかった。扉の音がしなかった。長い外套が風を受けていなかった。
「上に行ったのか」
「板を取りに」
「触るなと言った」
「棚には触っていません。板は棚の上ではなく、床にありました」
ノエルは板を抱えたまま答えた。ブラントは彼を見て、それから、わたくしを見た。
「私は、上に行くなとは言っていない。触るなと言った」
言った。今朝、そう言った。わたくしはそれを書いている。
ただ、彼の言い方は、今朝の言葉を認めているのではなかった。今朝の言葉を、自分の都合のいい形に言い直して、それを「言った」と呼んでいる。行くな、と言ったことにしたければ、そうしただろう。今日は、言っていないことにするほうが都合がよかっただけだ。
「監察官様。今朝のご指示は、こちらに」
わたくしは帳面を開いて見せた。日付。時刻。二階の棚は触るな。一階の箱を先に終えろ。立会二名。
彼は帳面を見た。長くは見なかった。
「几帳面ですね」
「学校で、教官に教わりました。記録を武器にするなら、自分の記録も同じだけ残しなさい、と」
ブラントの目が、少しだけ動いた。フォルカーの名は出さなかった。出さなくても、伝わる相手には伝わる。秋に三日、あの学校にいた人だ。
「結構。上には行かないように」
「はい。今のご指示も、書いてよろしいですか」
「お好きに」
彼は出ていった。扉の音は今度もしなかった。
わたくしは書いた。日付、時刻、上には行かないように。立会、ノエル。ミレイユ。
書きながら、気づいた。この人は書かれることを嫌がっていない。嫌がっていれば、お好きに、とは言わない。書かれても困らないと思っている。書かれた言葉を、あとで自分の言葉で言い直せると思っている。
「あいつ、書かないな」
ノエルが板を下ろして言った。
「はい」
「書かない人間は、言ってないって言える」
「はい。ですから、こちらで書きます」
箱を組み立てながら、ノエルは階段の踏み板を一つ指した。
「七段目、割れてる。気をつけろ」
「はい」
夕方、最後の箱を階段の下に運ぶとき、七段目を踏んだ。割れた板が沈んで、体が傾いた。傾いた先に、彼の手があった。
掴んだ。今度は掴んだ。掴んで、すぐ離した。彼は何も言わなかった。言わないまま、板の割れ目に箱の端切れを噛ませた。噛ませる手つきが、慣れていた。
グレンヴィルの領地は階段が多かったのか、と訊いた。丘だったからな、と彼は言った。家の中も外も段だらけだ。
彼は端切れを足で押し込んだ。押し込みながら、直せるものは直す、直せないものは書いておく、と言った。わたくしと同じですね、と言うと、お前ほど書かない、と返った。
双子が階段の上から降りてきた。姉が先に、ではなく、今日は妹が先に降りてきた。降りてきた勢いのまま、ジョゼットが言った。
「評価の話、聞いた? 実習の評価。監察官が書くのよ。今朝、一班の子が言ってた。姉が先に聞いたんだけど」
「妹が先に聞きました」
監察官が書く。書かない人が評価だけは書く。
ノエルの推薦は、その評価で決まる。彼は端切れを押し込んだ足を止めた。止めて、何も言わなかった。
塔を出ると、雪は止んでいた。
帳面には今日の指示が二つ書いてある。朝のものと、昼のもの。同じ人が言って、同じ人が言い直した。二つ並べると、言い直した分だけ、隙間が見える。
隙間は書いた人にしか見えない。
ミレイユが塔を振り返った。
「上の扉の鍵、誰が持ってるんでしょう」
「訊いてみましょう。書いて」
「——なるほど」
彼女は小首を傾げ、それから、指で空に鍵の形を描いた。覚えた形は、消えない。
ブラント監察官は「言った」と「言っていない」を、その日の都合で入れ替える人です。入れ替えられないように、レティシアは言われた形のまま書きます。
七段目の割れた板は、直りました。直したのはノエルです。




