第三十五話 「聞き置く人」
記録庫の扉は、鍵を回してから肩で押さないと開かなかった。
塔の一階は円い部屋で、真ん中に螺旋の階段が上へ伸びている。階段を囲むように棚が並び、棚には番号の札が打ちつけてある。一番、二番、三番。札は真鍮で、番号は彫ってあった。彫った番号は消えない。消えないものを、誰かが百年前に選んだのだろう。
埃は厚かった。厚いところと薄いところがあって、薄いところは最近誰かが触った場所だ。ミレイユがそれを最初に見つけた。
「ここだけ、白くないです」
「どの棚ですか」
「三十九番と、四十一番のあいだ」
三十九番の棚の隣に、四十一番の棚があった。あいだに棚は無い。壁があるだけだ。
「四十番が、無いです」
「無い、というより」
わたくしは壁を見た。壁の石に、四角い跡があった。棚の脚が長く置かれていた跡だ。跡の中だけ、埃が薄い。
「動かされた、というほうが近いですね」
ミレイユは頷いて、四十一番の札を指でなぞった。彼女は数字を覚えるとき、必ず指でなぞる。なぞった数字は、忘れない。
「——なるほど。一つ飛んでます」
ブラントの指示は、朝に口頭で出た。
棚の番号順に埃を払う。十年より前の演習記録は箱に分ける。箱には何も書かなくていい。分けたら、私が見る。
それだけ言って、彼は塔を出ていった。紙は一枚も置いていかなかった。
ノエルが箱を組み立て、クラリスとジョゼットが埃を払い、ミレイユとわたくしが帳面の年号を読んだ。読んで、十年より前なら箱へ入れる。入れた箱は階段の下に積んだ。
帳面は演習の記録だった。年ごとに一冊、参加者の名と班と評価が書いてある。学校の演習記録と同じ書式で、学校の名簿より一つ多い欄があった。俸給、と書いてある。演習生に俸給は出ない。出ないはずの欄に、線が引いてある年と、引いていない年があった。線の無い年の帳面は、他より厚かった。
わたくしはその厚い帳面を、十年より前の箱には入れずに、手元に置いた。ブラントは、十年より前は箱へ、としか言っていない。手元に置くな、とは言っていない。
「なんで、箱に書かないのかしら」
「書くと、中身が決まるからよ」
「姉が先に言った」
「妹が先に言いました」
クラリスは埃を払う手を止めずに言った。家同士の借り貸しに詳しい人は、書かない理由にも詳しい。書かない箱はあとで何にでもなる。
昼過ぎに、学務監室から呼び出しが来た。
使いに来たのは若い書記で、紙を持っていた。紙には、学務監が学校の使者に面会を求める、とだけ書いてある。署名は無い。名前の代わりに、学務監室の印。
学務監室は回廊の東側の一番奥にあった。
東側の回廊は他より人が少ない。柱の陰に兵が一人立っているだけで、歩く人はいなかった。床の石が他の回廊より磨かれている。歩く人が少ない床は、減らない。減らない床は光る。光る床を歩くと、自分の足音が大きく聞こえた。
扉が二重で、内側の扉は布張りだった。中は広く、暖炉が二つある。窓が大きく、雪の光が床まで届いていた。机が一つ、椅子が四つ。書記の机は無かった。
机の向こうに、六十前後の男が座っていた。髪は白く、頬に赤みがあって、目が柔らかい。彼は立ち上がり、椅子を一つ引いて、座るように手で示した。
「学務監のザイデルです。ヴァルトハイム嬢ですね。学長から、お噂は」
「一年の、レティシア・ヴァルトハイムと申します」
「まあ、お座りなさい。寒かったでしょう」
椅子は暖炉の近くに置かれていた。座ると、火の熱が右の頬に当たった。
「学長の照会状を、お届けくださったそうですね」
「はい。文書課に。受理番号は四〇二です」
「四〇二」
彼は繰り返した。繰り返しただけで、何にも書かなかった。机の上には、紙も、ペンも、墨も無い。
「それで、あなたは何をお知りになりたい」
わたくしは話した。
十年前、グレンヴィル男爵が三度上申したこと。三度とも返答が無かったこと。学長が秋に王都で「記録が無い」と言われたこと。文書課の返答が三行だったこと。
受領書の三枚のことは、話さなかった。話さないと決めたのは、部屋に入って書記の机が無いと分かったときだ。
ザイデルは全部聞いた。
頷き、ときどき目を細め、一度も遮らなかった。一度目のわたくしが、処刑台で三度言って、三度とも聞かれなかったことを、この人は最後まで聞いた。
聞き終えて、彼は言った。
「よく分かりました」
それだけだった。
「……学務監様」
「はい」
「今のお話は、記録していただけますか」
「私が聞いています」
「記録係の方は」
「この部屋には置いていません。私が聞くことが、この部屋の記録です」
彼は微笑んだ。柔らかい笑みだった。フォルカーのように微笑まない人でも、ケラーのように受け取るだけの笑みでもない。本当に、聞いた人の笑みだった。
「十年前の件は、私の前任の頃です。私は七年前に、この職に就きました」
「前任の方は」
「亡くなりました。三年前に」
わたくしは暖炉の火を見た。右の頬が熱い。左は冷たい。
「ヴァルトハイム嬢。あなたの言い分は、確かに聞きました。学務監として、聞き置きます」
聞き置く。
その言葉を、わたくしは初めて聞いた。聞いて、置く。置かれた言葉は、どこへ行くのだろう。
「ありがとうございます」
そう言って、頭を下げた。言うべき礼だった。この人はわたくしの話を最後まで聞いた。一度目に誰もしなかったことを、した。
礼を言いながら、胸の奥が冷えた。
回廊に出ると、風が来た。
聞かれた。
一度目、わたくしは聞かれなかった。聞かれなかったから、記録が無かった。
今日、わたくしは聞かれた。聞かれたのに、記録が無い。
どちらも残らない。
残らないなら、聞かれたことと、聞かれなかったことの違いは、どこにあるのだろう。
答えは出なかった。出ないまま、塔に戻った。
塔の中は朝より暗くなっていた。積まれた箱が増えている。ノエルが階段の下で、箱の数を数えていた。
「十四」
「十四ですか」
「書かない箱が十四。中身は俺が覚えてる」
彼は自分の頭を指で叩いた。書かない人の指示を、書かないまま覚える。それが今のところ、この塔でできる唯一の記録だった。
ミレイユは四十一番の棚の前に立っていた。
「レティシア様」
「はい」
「四十番、どこに行ったんでしょう」
彼女は壁の四角い跡を、もう一度なぞった。
「棚は動きません。動かすには、人が要ります。人が動かしたなら、動かした先があります」
「——なるほど」
彼女は小首を傾げて、それから、階段の上を見上げた。
「上、まだ見てないです」
螺旋の階段は暗い上へ続いていた。
聞き置かれた言葉と、動かされた棚。どちらもどこかに置かれている。置かれたものは、置いた人が覚えている。
覚えているだけで、書いていない。
ならば、書けばいい。誰が。わたくしが。
その夜、わたくしは学務監室で話したことを、全部紙に書いた。日付を入れ、自分の名を書いた。読まれる日が来るかは分からない。来たときに、無いのが嫌だった。
学務監ザイデルは、この作品で初めて「最後まで聞く人」として登場します。聞くことと残すことが別だと分かるまで、レティシアには少し時間が要ります。
四十番の棚がどこへ行ったかは、道を覚える人が担当します。
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