第三十四話 「父と娘」
外出の許しは午後に出た。
演習生の外出は二人一組と決まっている。決めたのは騎士団で、理由は書かれていない。書かれていない理由は、たぶん迷子だ。王都は広く、学校の生徒は道を知らない。
わたくしの相手は、ノエルになった。決めたのは代理教官で、理由はやはり言わなかった。三班の男はノエル一人だから、それ以外の組み方が無かっただけだろう。
それでも、廊下でクラリスが「お似合いね」と言い、ジョゼットが「姉が先に言ったから」と足した。双子は王都に来てから、言い合いの回数が増えている。慣れない場所では、慣れた言い合いが要るのだろう。
外出の札は木でできていて、門番に見せると裏に印を押される。帰りにもう一度見せて、印の隣に帰着の時刻を書かれる。出た人と戻った人を、同じ札で数える仕組みだ。学校には無かった。学校では出た人を数えていなかった。
公爵邸は回廊を出て坂を三つ上ったところにある。
雪は止んでいた。止んだあとの道は、踏まれたところだけ黒く、踏まれていないところは白い。ノエルは白いほうを歩いた。靴が濡れるのを気にしていない歩き方だった。
「ここ、覚えてるか。二つ目の坂の角。パン屋があった」
角には金物屋があった。看板は新しく、店の前に鍋が吊るしてある。無くなってますね、と言うと、彼は無くなった、と言った。それ以上は言わなかった。八つの年まで、この街にいた人だ。十年で店は変わり、家は変わる。変わらないのは坂の角度だけで、その角度を、彼の足が覚えていた。
三つ目の坂を上りきると、屋敷の門が見えた。
門の前で、ノエルが足を止めた。
「ここで待つ」
「中へ、どうぞ」
「入る理由が無い」
彼は門柱に背を預けた。雪が積もった門柱は、背中の形にだけ溶けるだろう。
「待つのは慣れてる」
わたくしは、少し迷ってから、頷いた。この人に入れと言って入らせるより、待たせるほうが、彼の言い分に近い。
屋敷の中は暖かかった。
この屋敷に入るのは、入学式の前の日以来だ。半年と少し。一度目には四年のあいだに何度か戻った。戻ったときのことは、覚えていない。覚えているのは、玄関の右手に母の肖像があることと、その下に懐中時計の台が空のまま置いてあることだけだ。時計はわたくしの手にある。台だけが、十年、空いている。
玄関の石は磨かれていて、暖炉の火が廊下まで届いている。執事が出てきて、頭を下げた。頭の下げ方が、学校の事務官より深く、文書課長より浅い。この深さの違いを、わたくしは一度目には気づかなかった。
旦那様は書斎でお待ちです、と彼は言い、お連れの方はと訊いた。門の外に、と答えると、執事は一瞬だけ門のほうを見た。見て、何も言わなかった。言わないことにも、深さがある。
書斎の扉は開いていた。
父は机の向こうに座っていた。五十を越えて、髪は白いほうが多い。机の上には帳面が三冊と、手紙が一通。手紙の封は学校の印だった。学長の字だ。遠くからでも分かる。
書斎はわたくしが八つの年から変わっていない。壁の書棚、床の絨毯、窓の前の砂時計。変わったのは父の髪の色と、机の上の帳面の厚さだけだ。帳面は年ごとに一冊増える。父は自分の領地の出納を、人に任せずに自分で付ける。それを母は「数える人」と呼んでいた。呼んでいたことを、今になって思い出した。
座りなさい、と父は言った。椅子は机から少し離して置いてあった。座ると、父の顔が高くなる。この配置も昔から変わっていない。八つの年、母の葬儀の翌日に、わたくしはこの椅子で「泣くな」と言われた。泣かなかった。泣かない代わりに、時計を握った。
「学長から手紙が来た。娘が騎士団の帳面を数えている、と書いてあった」
父は手紙を持ち上げ、机に戻した。
「数えて、どうする」
「数えなければ、無いことにされます」
「誰が」
「それを、王都で確かめに来ました」
父は長く黙った。長く書かない人は、長く考える。考えているあいだ、暖炉の火が二度、爆ぜた。
「王都にいる間に、会わせたい者がいる」
来た、と思った。思って、息を整えた。
「婚約の件でしたら」
「まだ、そうとは言っていない」
「では、先に申し上げます。婚約は、わたくしが決めます」
父の眉がわずかに動いた。エイドリアンの笑みが止まったときと、同じ速さだった。
「秋に、ロシュフォールとの解消を自分で言った。あれは聞いた」
「はい」
「今度も、自分で言うつもりか」
「はい」
父は、机の上の帳面を一冊、指で押さえた。押さえたまま、動かさなかった。
「……お前は、母に似てきた」
何と返せばいいか分からなかった。似ている、と言われたのは初めてだった。似ていない、とも言われたことはない。母のことを、父はこの十年、ほとんど口にしなかった。
「グレンヴィルの倅と、同じ班だと聞いた」
「はい」
「今も、外にいるのか」
「門の前に」
父は窓のほうを見た。書斎の窓からは、門は見えない。それでも彼はしばらく、見えない門のほうを見ていた。
「……手紙は、届いたか」
「手紙、ですか」
「いや。なんでもない」
彼は帳面から手を離した。
「話は、あらためてする。今日は顔を見ただけだ」
「はい」
「風邪をひくな。王都は学校より寒い」
それで終わりだった。婚約の話も、会わせたい者の名も、出なかった。出なかったのに、出たのと同じ重さで、鞄の中に何かが増えた気がした。
書斎を出るとき、振り返った。父は帳面を開いていた。開いて、ペンを取って、何かを書いていた。今日のことを書いているのか、領地のことを書いているのかは分からない。ただ、この人は書く人だ。そのことだけが、少し救いだった。
玄関で執事が外套を着せてくれた。着せながら、彼は小さな声で言った。旦那様は昨夜遅くまで書斎にいらっしゃいました。それだけ言って、扉を開けた。言わないことに深さがある人が、言うときは短い。
門の前で、ノエルは同じ姿勢で立っていた。
門柱の雪が背中の形に溶けている。外套の肩に、新しい雪が薄く積もっていた。止んだと思った雪が、また降り始めていた。
お待たせしました、と言うと、彼は早かったなと返し、顔を見ただけだと言うと、そうかと言った。それだけで、彼は門柱から背を離した。背中のあった場所に、雪の無い四角が残った。
坂を下りた。下りは上りより滑る。ノエルは白いほうを歩き、わたくしは黒いほうを歩いた。黒いほうのほうが滑る。二度目に足を取られたとき、彼の袖が近くにあった。掴まなかった。掴まなかったが、半歩、寄った。彼は何も言わなかった。言わないまま、歩く速さを少し落とした。
公爵は何て、と彼が訊いた。会わせたい者がいると、と答えた。彼は、そうか、とだけ言った。そうか、の前に、少しだけ間があった。間の長さを、わたくしは数えなかった。数えると、意味を付けてしまう。
二つ目の坂の角で、金物屋の鍋が風に揺れた。
「怒らないのですか」
「怒る理由が無い」
彼は前を見たまま言った。
「お前が決めるんだろ。秋にそう言った」
「はい」
「なら、待つ」
金物屋の前を通り過ぎた。パン屋だった場所を、彼はもう見なかった。
「待つのは慣れてる。十年待った」
十年。手紙を三通書いて、返事が来なかった十年。四通目を書こうとして、止められた十年。
止めたのは乳母だった。身分が違いますから、と言った。あの言葉が、誰の口から乳母へ降りてきたのか、わたくしは考えたことがなかった。
父は、手紙は届いたか、と訊いた。
回廊が見えてきた。雪が本降りになっていた。ノエルの肩の雪を払おうとして、手を出しかけて、やめた。払わなくても、彼はここにいる。一度目、わたくしはこの人を待たせたまま死んだ。
今度は、待たせたままにしない。そう思って、それを口には出さなかった。出すのは、決めてからでいい。
王都の坂は三つあって、ノエルはその角度を覚えています。十年前の店は無くなっていますが、坂は無くなりません。
父が最後に言いかけた「手紙」は、この部でもう一度出てきます。
二人の距離が気になった方は、ブックマークで続きを待っていただけると嬉しいです。




