第三十一話 「後期の課程」
後期の課程は点呼から始まった。
実技場の壁には、教官の名札を掛ける釘が三本ある。真ん中の釘が空いていた。名札は外されていて、釘だけが残っている。誰も釘を抜かなかったのは、抜く規程が無いからだろう。半年前のわたくしなら、そこまで考えなかった。
実技場に並んだ一年生は三十六名。名を読み上げたのは、見たことのない若い教官だった。フォルカー・ハイムの代理だと、最初に自分で言った。声が高く、読み違いをしても直す人がいなかった。読み違えられた生徒は、少し遅れて返事をした。遅れた分だけ、列の空気が緩んだ。
「ヴァルトハイム」
「はい」
「カルヴァン」
「はい」
ミレイユの声は、いつもと同じだった。呼ばれて答える。それだけのことが、半年前はできなかった。名簿に名前が無いか、あっても呼ばれないか、どちらかだったからだ。
代理教官は名簿を閉じ、咳払いをした。
「年末の実地演習は、今年から王都で行う。騎士団本部に一箇月。参加は一班と三班」
実技場が少しざわめいた。
王都。一度目のわたくしは、この言葉を聞いたときに何を思っただろう。思い出そうとして、何も出てこなかった。
午後、学長室に呼ばれた。
後期に入って、学長室の前の廊下には薪が積まれている。冬の支度だ。薪の匂いと、古い紙の匂いが混じっていた。扉を叩くと、返事の前に開いた。
学長は机の前に立っていて、座っていなかった。机の上に、紙が一枚だけ置いてある。その脇に、彼が出した照会状の下書きが二枚。下書きは長く、返ってきた紙は短い。出したものと戻ったものの厚さが、机の上で釣り合っていなかった。わたくしが入ると、彼はその紙を指で押さえた。
「王都から、返事が来た」
「……早いですね」
「早い。読みなさい」
紙は薄く、字は三行だった。
《学務監室文書課より。照会の件、該当の記録なし。以上。
文書課長 オズヴァルト・ケラー》
わたくしは二度読んだ。二度読んでも、三行だった。
「これだけですか」
「これだけだ」
「三度出した上申書について、三度返答が無かった件は」
「触れていない。該当の記録なし、で全部だ」
学長は椅子に座った。座って、長く息を吐いた。
「私は三十年、書類が揃っているのを見てきた。揃っていない書類を見たのは、この秋が初めてだ」
彼は紙をこちらに滑らせた。
「そして、揃っていないと言うと、こういう返事が来る」
該当の記録なし。
記録が無い、と言う人がいる。無いと言えば、無いことになる。一度目のわたくしの言い分は、そうやって無くなった。聞かれなかったのではない。聞いた記録が無かった。
「学長。この方は、お会いになった方ですか」
「いや。学務監に会った。この文書課長は、私が帰ったあとに書いている」
わたくしは三行を、もう一度見た。
文書課長。受け取って、返す人。学務監の名前は、どこにも無い。
「ヴァルトハイム嬢。年末の演習の話は聞いたね」
「はい。王都騎士団本部と」
「三班を出す。それとは別に、頼みがある」
学長は引き出しを開け、封のされた書面を出した。
「照会状の写しだ。私の名で、もう一度出す。今度は、君が持っていきなさい」
「わたくしが」
「使いとしてだ。学生が文書課に物を言う規程は無い。ただ、届ける規程は誰にも禁じられていない」
わたくしは封を受け取った。軽かった。軽いものを、重く持つ。この半年で覚えたことだ。
「届けて、受け取ったという印をもらってきなさい。それだけでいい」
「印」
「受理印だ。彼らはそれを押すのが仕事だ。押した紙は、無いとは言えない」
学長は少しだけ笑った。皺の深い笑い方だった。
夕方、掲示板に演習の参加者名簿が貼られた。
掲示板の前には人だかりができていた。後ろのほうにいると、紙は見えない。見えないまま、前の誰かが読み上げる声だけが聞こえる。一度目、わたくしはいつも後ろにいた。読まれるのを待って、読まれなかった名前を、読まれなかったことにも気づかずに帰った。
今日は前に出た。人の肩のあいだから、自分の名前を自分の目で見た。
一班六名、三班五名。三班は、ノエル、ミレイユ、クラリス、ジョゼット、そしてわたくし。第七週に二班へ移された子息の名は、二班の欄に無かった。二班は行かない。
名簿の前で、代理教官が待っていた。
「ヴァルトハイム嬢。少し」
「はい」
「カルヴァンの件だ。代筆で入学した生徒の在籍は、まだ係争中だと聞いている。演習は騎士団の本部で行う。係争中の生徒を出すのは——」
わたくしは、彼が言い終える前に、鞄から紙を出した。
「学長の署名がございます」
二行の書面。秋の初め、決着より先に取っておいたもの。代筆によって入学した生徒の在籍が有効であること。学長の署名と、日付。
「掲示にも出ました。査問の日の夕方です。ご覧になっていらっしゃらなければ、事務室に控えがございます」
代理教官は紙を見た。それから、掲示板を見た。掲示板には査問の日の紙がまだ貼ってある。貼られた紙は消えない。
「……記録どおりに」
「はい。記録どおりに」
彼は名簿を直さなかった。直す理由が無くなったからだ。
わたくしは紙を鞄に戻した。この紙はこれで二度働いた。一度目は査問の朝、二度目は今日。三度目があるかもしれないと思って、折り目を伸ばした。
寮に戻ると、ミレイユが机に向かっていた。
机の上にはわたくしが秋に書いた手本が広げてある。五十音を、大きく、一字ずつ。彼女はそれを毎晩なぞっている。なぞった紙は捨てずに束ねてあって、束は秋の初めより指二本ぶん厚くなっていた。厚さがそのまま日数だった。
「読みました」
「何をですか」
「掲示。三班、って書いてありました。わたしの名前も」
彼女は自分の名前を指でなぞった。なぞる癖はまだ残っている。残っていていいと思った。書けるようになった人が、なぞらなくなる必要は無い。
「レティシア様」
「はい」
「王都って、遠いですか」
「馬車で三日です」
「——なるほど」
彼女は小首を傾げた。それから、机の紙に何かを書き始めた。覗くと、王都、と書いてあった。都の字の口が四角くなりすぎていた。
夜、手紙が届いた。父からだった。
父の字は母の字と違う。太くて、角がある。封を切ると、紙は一枚で、書いてあることは短かった。
王都で会う。話がある。
それだけだった。婚約解消の件のときも、父は長く書かなかった。長く書かない人は、長く考えている。八つの年から、わたくしはそれを知っている。
話がある。
何の話かは書いていない。書いていないことを、わたくしは半年前なら推し量った。今は推し量らない。聞くまで分からないことは、聞くまで分からない。
それでも、胸の奥で、ひとつだけ数えた。
ノエルは家名を返上する。王都に、公爵家の父がいる。一度目、この二つは同じ場所に置かれたことが無かった。
窓の外はもう暗い。机の上の三行を、わたくしはもう一度読んだ。
該当の記録なし。
無いと言う人に、会いに行く。
第二部は王都です。舞台が変わっても、レティシアがやることは変わりません。紙を届けて、印をもらう。それだけのことが、どれだけ難しいかの話になります。
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