第二十九話 「査問の日の朝」
その日は、晴れた。
四年後の朝は雨だった。同じ月日で、天気が違う。それだけのことで、少しだけ息がしやすかった。
わたくしは早く目が覚めた。まだ暗いうちだった。ミレイユは眠っていた。起こさないように着替えて、部屋を出た。
中庭に出ると、石段にノエルが座っていた。
「早いですね」
「眠れなかった」
「わたくしもです」
彼の隣に座った。石が冷たかった。空が白み始めている。
「レティシア」
「はい」
「今日か」
「はい」
彼は膝の上で手を組んだ。
「怖いか」
「怖いです」
素直に言えた。これも、半年で覚えたことのひとつだった。
「一度目の——」
言いかけて、わたくしは言い直した。
「わたくしが見た四年後の朝も、今日と同じ日付でした」
ノエルは黙って聞いていた。
「石畳が雨で黒くて、人の輪が幾重にもできていて、わたくしはその真ん中で膝をついておりました」
言葉が、思ったより滑らかに出た。何十回も頭の中で見た場面だからだろう。
「言い分を聞かせてください、と三度言いました。誰も答えませんでした」
鳥が鳴いた。
「そのとき、人垣の後ろで、あなたが叫びました」
ノエルの肩が、わずかに動いた。
「彼女は無実だ、と」
わたくしは、そこで一度息を継いだ。
「そして、剣を抜いて、斬られました」
中庭が静かだった。長い沈黙のあと、彼が言った。
「……そうか」
「はい」
「俺、間に合わなかったのか」
「間に合いませんでした」
言ってしまってから、涙が出るかと思った。出なかった。四日前に泣いたぶん、今日は落ち着いていた。
「レティシア」
「はい」
「それ、いつから抱えてた」
わたくしは、指を折った。
「入学式の朝からです」
「半年か」
「はい」
彼は天を仰いだ。仰いで、長く息を吐いた。
「重かったな」
「……はい」
それだけだった。彼は何も責めなかった。なぜ言わなかったとも、なぜ今言うのかとも訊かなかった。
「ひとつ言っていいか」
「どうぞ」
「俺、たぶん今日も同じことをする」
わたくしは彼を見た。
「あなたを止めるつもりでした」
「止まらない」
「知っております」
言ってから、少しおかしくなった。半年かけて、この人を遠ざける方法を探して、結局ひとつも見つからなかった。
「だから、止めるのはやめました」
わたくしは立ち上がった。
「代わりに、あなたが剣を抜かなくてよい場所を作りました」
朝日が、中庭の石を照らし始めた。
「今日、わたくしは広間に呼ばれます。人垣はできます。四年後と同じです。違うのは、そこに台帳があることです」
わたくしは、抱えていた鞄を叩いた。
中には、四十七行の日付表。三冊の帳面の写し。学長の署名した二行の書面。五人が別々に書いた昨夜の証言。ビアンカが三日かけて写した手順書。そして、倉が空だったという台帳の一行。
「あなたが叫ばなくても、紙が喋ります」
ノエルは、しばらくわたくしを見上げていた。それから、立ち上がった。
「かっこいいな、お前」
「クラリス様にも言われました」
「あいつ、見る目あるな」
彼は笑った。
わたくしも笑った。今日、初めて笑えた。
「ノエル」
「なんだ」
「近くにいてください」
「いる」
彼は左手を差し出した。わたくしは、その手を取った。今度は、取るのに時間がかからなかった。
中庭を離れる前に、わたくしはもうひとつ言った。
「ノエル。ひとつだけ、お願いがございます」
「なんだ」
「今日、もし何かがうまくいかなかったら」
「いかなかったら」
「わたくしを、責めないでください」
彼は、意外そうな顔をした。
「責めないよ」
「責めていただきたくないのです。わたくしが、自分で責めますので」
言ってから、少し恥ずかしくなった。ノエルは、しばらく黙っていた。
「レティシア」
「はい」
「一度目のお前は、誰にも責められなかったんじゃないか」
息が止まった。
「罪状は読まれたんだろ。でも、責められたわけじゃない。誰も、お前に向かって喋ってない」
わたくしは、その言葉を受け止めるのに時間がかかった。
そのとおりだった。あの朝、誰もわたくしに話しかけていない。書面が読まれ、判が押され、それだけだった。
責められてすらいなかった。
「だから、今日は責める」
彼は言った。
「うまくいかなかったら、俺が責める。ちゃんと向かって言う」
わたくしは、笑おうとして失敗した。
「……ひどい方ですね」
「そうか」
「ええ。でも」
わたくしは鞄を抱え直した。
「そちらのほうが、ずっといいです」
寮に戻ると、部屋の前に人が集まっていた。
ミレイユと、クラリスとジョゼットと、ヨナスと、それから見覚えのない生徒が数人。二年生と三年生だった。
「あの」
三年生の一人が、前に出た。
「俺たち、一年のとき編成外だったんです」
わたくしは、言葉を失った。
「ヨナスに聞いて。それで、書いてきました」
彼は紙を差し出した。何枚もあった。どれも短い。日付と、呼ばれた日と、言われたことだけが書いてある。
辞めなかった人たちだった。辞めずに、演習に出ないまま、二年、三年とここにいた人たち。
誰も数えていなかった。数えていなかっただけで、いなくなってはいなかった。わたくしは紙を受け取った。手が震えた。
「……ありがとうございます」
「礼はいいです。俺たち、何もしてないんで」
「書いてくださいました」
「書いただけです」
書いただけ。
記録係と、同じ言い方だった。この学校には、書くだけの人が、思っていたよりずっと大勢いた。
鐘が鳴った。
一の鐘。査問は、三の鐘だ。わたくしは門のところへ行った。
学長の馬車が戻るとすれば、この門だ。昼に戻ると事務官は言った。昼はもう過ぎている。門番が怪訝な顔をした。
「誰か待ってるのかい」
「学長を」
「今日は聞いてないなあ」
わたくしは石の門柱に手を置いた。
間に合わなければ、正面に座るのは事務長だけになる。事務長は、代筆の書類は無効になりうると通告した人だ。
その場合、わたくしはどうするか。
考えて、答えはひとつしか出なかった。
同じことをする。誰が座っていても、記録係が書く。書かれたものは残る。残ったものは、いつか読まれる。
読まれる日が来ると思って書いてはいない。来たときに、無いのが嫌だ。あの人の言い方を借りるなら、そういうことだった。
「レティシア」
振り返ると、ノエルが来ていた。
「待ってるのか」
「はい」
「来なかったら」
「同じことをします」
彼は頷いて、隣に立った。二の鐘が鳴った。門の外は静かだった。
半刻ほど経った頃、道の先に土埃が上がった。馬車だった。
門をくぐった馬車から、学長が降りた。旅装のままで、顔に疲れが出ていた。
彼はわたくしを見て、足を止めた。
「……待っていたのかね」
「はい」
「なぜ」
「間に合われるかどうかを、確かめたくて」
学長は、少しだけ笑った。老人の、皺の深い笑い方だった。
「王都で、学務監に会ってきた」
わたくしは息を止めた。
「十年前の上申書の話を、こちらから訊いた」
「……なんと」
「記録が無い、と言われた」
彼は上着の埃を払った。
「無いものは、あることにできる。君がそう言っていたね」
わたくしは頭を下げた。
「学長。お戻りいただき、ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。私は三十年、書類が揃っているのを見てきただけだ」
彼は門をくぐりながら、言った。
「今日は、揃っていないものを見たい」
三の鐘まで、あと半刻。
「行ってらっしゃい」
ミレイユが言った。
「はい。行ってまいります」
わたくしは鞄を抱え直した。紙が増えて、重くなっていた。
査問の日の朝です。この一話だけ、レティシアはほとんど何もしません。持っていくものを数えて、出ていくだけです。
支度に一話を使ったのは、これが最後の朝だからです。




