第二十八話 「聞かれなかった言い分」
翌朝、わたくしは西の倉の閲覧を申し込んだ。事務長は、鍵を持って自ら立ち会った。
倉の中は、思ったより広かった。木箱が三十ほど積んである。年ごとに札が貼られていた。
「今年の書き損じは、どちらでしょう」
事務長は札を確かめ、手前の箱を開けた。空だった。
彼はもう一つ開けた。それも空だった。三つ目には、去年の書き損じが入っていた。
「……おかしいな」
「今年分だけがございませんね」
「まだ入れていないのかもしれん」
「入れる前は、どちらに」
「事務室だ」
わたくしたちは事務室へ戻った。無かった。
「事務長様。台帳に記載をお願いいたします」
「何を」
「本日、西の倉庫を閲覧し、今年分の書き損じが存在しなかったこと。それだけです」
彼は渋った。渋ったが、断る根拠を持っていなかった。台帳に、一行が書かれた。
それでよかった。わたくしが欲しかったのは、名簿ではなく、この一行だった。
その日の午後、掲示板に紙が貼られた。
《明日、学務査問を行う。対象:一年ヴァルトハイム・レティシア。事由:学校の記録の無断閲覧および外部への持ち出しの疑い》
わたくしは、その紙の前に立った。
持ち出しの疑い。
わたくしは何も持ち出していない。閲覧の記録は、全部台帳に残してある。残してあることを、疑いの根拠にされている。
一度目と、同じだった。
一度目のわたくしも、こう書かれた紙の前に立った。四年後の朝より前に、この日があった。
あのとき、わたくしは何もできなかった。何を言えばいいのか分からず、部屋に呼ばれ、問われ、答え、それで終わった。
紙の下に、小さくもう一行あった。
《なお、本件について生徒からの申し立ては、査問の場では受け付けない。書面にて事前に提出のこと》
わたくしは、その一行を三度読んだ。
申し立ては受け付けない。書面で事前に。
書面は、読まれない。読まれなかったことは、記録に残らない。一度目、わたくしの言い分が消えたのは、ここだった。
膝の力が抜けた。柱に手をついて、しばらく立っていた。
「レティシア様」
ミレイユだった。掲示を見上げ、それから、わたくしを見た。
「読み上げましょうか」
「……いいえ。読みました」
「顔が白いです」
わたくしは笑おうとして、うまくいかなかった。
部屋に戻り、机に向かった。書面を書こうとして、手が止まった。
書いても読まれない。読まれない書面を書くのは、一度目のわたくしがやったことだ。
では、どうすればいいのか。
昼、わたくしは学長室の前へ行った。扉は閉まっていた。事務官が通りかかって、首を振った。
「学長は今日、王都だよ」
「王都」
「昨日の朝、急に呼ばれてね。戻りは明日の昼だ」
明日の昼。査問は明日の三の鐘だ。
昼に戻れば、間に合う。半刻でも遅れれば、正面に座るのは事務長だけになる。わたくしは廊下の窓に手をついた。
偶然かもしれない。偶然にしては、うまく噛み合っている。
学長がいなければ、査問を仕切るのは事務長だ。事務長は、代筆の書類は無効になりうると通告した人だ。
書面は事前に、と掲示に書いてあった。誰が読むのかは書いていない。
読む人がいないところへ出す書面は、出さなかったのと同じだった。
「事務官様。学長がご不在の場合、査問の記録は誰が保管なさいますか」
「記録係だよ。あの人が書く」
わたくしは顔を上げた。
「必ず、あの方が」
「査問は必ず記録係が入る。四十年そうだ」
息が、少しだけ楽になった。
書く人が一人いる。それが分かっているのと、いないのとでは、明日の重さが違う。
夕方、クラリスとジョゼットが部屋に来た。ノエルも来た。ヨナスまで来た。狭い部屋に六人はさすがに多かった。
「レティシア様、査問って何ですか」
「呼ばれて、問われて、答える場です」
「弁明できないんですか」
「できます。ただ、その場では受け付けないと書かれています」
クラリスが眉を寄せた。
「じゃあ何のために呼ぶんですか」
「答えさせるためです」
わたくしは、机の上のビアンカの写しを見た。《必ず本人に言わせること》
背筋が、すっと冷えた。分かった。
査問は、罰する場ではない。わたくしに、わたくし自身の口で、何かを言わせる場だ。
「無断で閲覧しました」と言わせれば、それで足りる。無断ではなかったという説明は、その場では受け付けない。言った事実だけが記録に残る。
一度目、わたくしは何と言っただろう。
思い出そうとして、思い出せた。
——見ました、と言った。
それだけだった。見ましたと言い、それが記録に残り、四年後、罪状の一行目になった。
「レティシア」
ノエルが呼んだ。
「顔、戻ってきたぞ」
「……分かりました」
「何が」
「何を言わないか、です」
わたくしは紙を引き寄せた。
「明日、わたくしは問いに答えません」
「答えないと、不利になるんじゃないですか」
ヨナスが小さく言った。この人が自分から口を開くのは、珍しかった。
「不利になります」
「じゃあ」
「不利になるのと、記録に残るのは、別のことです」
わたくしは、六人を見回した。
「わたくしが黙れば、記録に残るのは『答えなかった』の一行だけです。一行なら、あとから読む人が、なぜ答えなかったのかを訊きます」
クラリスが、ゆっくり頷いた。
「答えたら、答えた言葉が残るのね」
「はい。答えた言葉は、切り取られます」
「ひとつ、確かめておきたいことがございます」
わたくしは、六人を見た。
「明日、わたくしが黙ったあと、場が荒れるかもしれません。荒れたときに、誰か一人でも声を上げると、その声だけが記録に残ります」
「駄目なんですか」
ジョゼットが訊いた。
「駄目です。声を上げた人が、明日の主役になります」
クラリスが眉を寄せた。
「レティシア様を庇ったら、駄目ってことですか」
「庇っていただきたくありません」
わたくしは、はっきり言った。
「庇われた記録は、庇った人のものです。わたくしのものではありません」
ノエルが、低く言った。
「一度目、俺が叫んだのか」
部屋の空気が止まった。わたくしは、答えられなかった。答えないことが、答えになった。
「……そうか」
彼は、それ以上訊かなかった。
「明日は叫ばない」
「はい」
「そのかわり、近くにいる」
「はい」
ヨナスが、遠慮がちに手を挙げた。
「あの。俺たちは、何をすればいいですか」
「見ていてください」
「見るだけですか」
「見た人が多いほど、あとで数えられます」
彼は納得したのかしていないのか分からない顔で、頷いた。六人が帰ったあと、部屋にはミレイユだけが残った。
「レティシア様。わたし、明日行っていいですか」
「もちろんです」
「わたしが行くと、また『適格性』の話になりませんか」
鋭かった。この人はいつも、いちばん痛いところを素で突く。
「学長の書面があります」
「効きますか」
「効かなかったら、また学長のところへ行きます」
ミレイユは小首を傾げ、それから笑った。
「レティシア様、しつこいですね」
「よく言われます」
その夜、わたくしは書面を一通だけ書いた。事前提出の書面だ。読まれないかもしれない。それでも出す。中身は一行だった。
《本日までに閲覧した記録は、すべて台帳に日付と署名を残してあります。台帳をご確認ください》
解釈は書かなかった。主張も書かなかった。台帳を見ろ、とだけ書いた。書き終えて、わたくしは窓を開けた。
夏の夜だった。虫の音がしていた。四年後の朝は雨で、寒かった。今は、あたたかい。机の上で、母の時計が動いている。
明日、わたくしは呼ばれる。呼ばれて、問われて、そして答えない。答えないために、この半年を使った。
第一話でレティシアが三度言った言葉が、ここでもう一度出てきます。今度は、誰も遮りません。
明日、査問です。
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