第二十七話 「写しはどこにあるか」
三日前。
揃っていないものが、ひとつだけあった。名簿そのものだ。
今ある名簿は、書き換えたあとのものだ。あとから足された六行は、確かに墨の色が違う。違うが、「あとから足した」ことは不正ではない。代筆欄も埋められた。監査は通った。
書き換える前がどうだったかを示せなければ、書き換えとは言えない。
書き損じは普通、燃やす。事務官はそう言った。普通は燃やす。わたくしは、記録係の詰所へ行った。
「書き損じた台帳は、どうなさるのですか」
「燃やすよ」
「必ず」
「必ずではないね。年に一度、まとめて燃やす。それまでは倉に置く」
わたくしは顔を上げた。
「倉」
「西の倉庫だ。古い台帳と一緒にな」
「今年の書き損じは」
「まだ燃やしとらん。燃やすのは年末だ」
心臓が鳴った。
「拝見できますか」
「倉の鍵は事務長が持っとる」
事務長。監査の前日に、ミレイユへ「代筆の書類は無効になりうる」と通告した人だ。
わたくしは礼を言って、詰所を出た。詰所を出る前に、わたくしはもうひとつ訊いた。
「記録係様。四十年、台帳を書いてこられて、書き損じはどうなさいましたか」
「わしのかね」
「はい」
「わしは書き損じん」
あっさり言われた。
「一度も」
「一度もだ。書く前に下書きをする。下書きが書き損じで、清書は間違えん」
「下書きは」
「取ってある」
わたくしは、動きを止めた。
「……四十年分」
「四十年分だ」
彼は詰所の奥を顎で示した。棚が三段、紙束で埋まっている。
「捨てる場所が無くてな」
わたくしは、その棚を見つめた。
「拝見してもよろしいですか」
「わしのものだから、構わんよ」
彼は立ち上がり、上の段から束をひとつ下ろした。埃が舞った。
「何年のがいるかね」
「今年の、入学者名簿の分を」
彼は束を繰った。指が慣れている。
「これだ」
差し出された紙を、わたくしは受け取った。
台帳に清書する前の、下書きだった。入学者の名前が三十、並んでいる。六名分の欄が、白紙だった。息が止まった。
「記録係様。これは、いつ書かれたものですか」
「入学式の三日前だ。清書は前日」
「前日の清書には、三十六名ございました」
「そうかね。わしは三十で写した」
彼は当たり前のように言った。
「わしが写したあとに、誰かが足したんだろう」
わたくしは、紙を両手で持った。
書き換える前の名簿が、ここにあった。燃やされる場所ではなく、燃やす習慣を持たない人の棚に。
「記録係様」
「なんだね」
「これを、お借りできますか」
「持ち出しは駄目だ。写しなさい」
わたくしは、その場で写した。半刻かかった。写しの末尾に、彼が日付と署名を入れてくれた。
「これで、写しが二部になったな」
「二部」
「わしの下書きと、あんたの写しだ」
わたくしは深く頭を下げた。
その日の午後、わたくしは西の倉庫の前に立った。
鍵はかかっていた。窓は高い。中を覗くと、埃をかぶった木箱が積んである。
「見学かね」
声に振り返ると、フォルカー・ハイムが立っていた。今日も偶然の顔をしていた。
「教官」
「その倉に、何か用が」
「古い台帳を拝見したくて」
「何年分だね」
「今年分です」
彼は少しだけ首を傾げた。
「今年の台帳は事務室にある」
「書き損じのほうです」
空気が、わずかに変わった。彼は表情を動かさなかった。動かさなかったことが、答えのように思えた。
「書き損じは廃棄予定のものだ。閲覧の対象にならない」
「規程には、廃棄予定のものを閲覧してはならないとは書かれておりません」
わたくしは言った。彼は、初めて少しだけ笑った。今度は微笑みではなく、短い笑いだった。
「君は、本当によく読む」
「読むようになりました」
「いつからだと訊いたね、以前」
「最近です、とお答えしました」
彼は倉の扉に手を置いた。
「ヴァルトハイム嬢。ひとつだけ、忠告ではなく感想を言おう」
「伺います」
「君は、私が十年かけて作った手順を、半年で読み解いた」
風が、倉の板を鳴らした。
「読み解いたところで、何が変わると思っているのかね」
「六名です」
「六名」
「来年、名簿に足されるはずだった六名です」
彼の目が、初めてはっきりと動いた。
「……六名のために、これだけのことを」
「六名は、六名です。数が少ないと、価値が減るのですか」
彼は答えなかった。しばらくして、彼は倉の扉から手を離した。
「鍵は事務長が持っている。私は持っていない」
それだけ言って、去っていった。わたくしは扉の前に立ったまま、その背中を見送った。
持っていない、と彼は言った。嘘ではないだろう。この人は嘘をつかない。
持っていないなら、この人は今夜、鍵を持っている人のところへ行く。
その夜、わたくしは倉庫の見える廊下の窓辺にいた。
隣にノエルがいた。クラリスとジョゼットもいた。四人で並んで、暗い庭を見ている。
「見張りって、初めてです」
「静かにな」
「わたし、静かにするの得意です」
ジョゼットが小声で言い、クラリスに小突かれた。三の鐘が鳴ってしばらくして、灯りがひとつ、庭を横切った。
人が二人。ひとりは背が高い。もうひとりは小柄で、鍵の束を持っている。倉の扉が開いた。
わたくしは息を殺した。中の灯りが動く。木箱を開けている音がした。
「レティシア。行くか」
ノエルが言った。
「いいえ」
「なんで」
「今止めると、何をしていたかを証明できません」
わたくしは窓枠を握った。
「あの方は、今夜、書き損じを持ち出します。持ち出したあとの倉は空です。空の倉を見ても、何も分かりません」
「じゃあ、どうする」
「明日の朝、倉の閲覧を正式に申し込みます」
クラリスが小さく声を上げた。
「無くなってるのが分かるってこと?」
「はい。無くなっていることは、記録に残せます」
わたくしは、記録係の言葉を思い出していた。一箇所だけ書き直しても、前後と噛み合わない。
「教官は、今夜のうちに書き損じを燃やされるでしょう。燃やせば、証拠は消えます。ただし」
庭を、灯りが戻っていく。
「西の倉の廃棄は、年末に、事務長の立会いで行うと台帳に書かれています。年末より前に廃棄した記録は、残せません。残せないので、書けません。書けない廃棄は、していないことになります」
ジョゼットが、目を丸くした。
「してないことにしたら、どうなるんですか」
「していないものは、あることになります」
クラリスが息を呑んだ。
「無いのに、あることになるの」
「はい。そして、無いものを出せと言われたとき、出せない理由を説明しなければなりません」
ノエルが、低く笑った。
「えぐいな、お前」
「褒めていらっしゃいますか」
「褒めてる」
灯りが消えた。庭は静かになった。わたくしは窓から離れ、四人に向き直った。
「今夜見たことを、それぞれ別々に書いてください。日付と時刻と、見えたものだけを。相談せずに」
「相談したら駄目なんですか」
「相談すると、ひとつの証言になります。別々に書けば、四つになります」
クラリスが紙を受け取り、ジョゼットが炭を分けた。ノエルが最後に受け取り、わたくしを見た。
「お前の分は」
「わたくしも書きます」
彼は頷いた。
「五つだな」
部屋に戻ると、ミレイユが起きていた。
わたくしは事情を話し、彼女にも紙を渡した。彼女は見ていない。だから書けることは無い。それでも彼女は受け取った。
「わたし、何も見てないです」
「ええ」
「だから、見てないって書きます」
わたくしは、少し笑った。
「それは、いちばん強い証言かもしれません」
西の倉庫には、書き損じと反故紙が年度ごとに束ねて置かれます。捨てる日は決まっていません。
決まっていないものは、誰かの都合でなくなります。




