第二十六話 「母の時計」
五日前。
わたくしは、帳面を写した。
三冊分すべてではない。名簿に関わる十七頁だけを、一字も変えずに写した。写しながら、何度か手が止まった。
《返答なし》を三度写すのが、いちばん時間がかかった。
写しは三通作った。一通は書面に添える用。一通は記録係に預ける用。一通は自分で持つ用。
やり方は、四十七行のときと同じだ。同じやり方を二度使うのは、たぶん良くない。良くないと分かっていて、ほかに思いつかなかった。
思いつかないときは、うまくいった手を繰り返す。繰り返す人の手つきは、外から見ると読みやすい。
「レティシア様」
ミレイユが炭を置いた。この頃は、毎晩机を並べている。彼女はもう、短い文なら自分で書ける。
「疲れてませんか」
「疲れております」
「素直ですね」
「疲れていないと言うと、ノエルに叱られますので」
彼女は笑った。
「レティシア様、変わりましたね」
「そうでしょうか」
「最初の頃、なんでもひとりでやってました」
言われて、思い返した。
最初の三日、わたくしは誰にも何も言わなかった。記録係に台帳を見せてもらい、司書に立会いを頼み、それだけだった。頼んだのは手続きであって、人ではなかった。
「今は、いっぱい人がいます」
ミレイユは指を折った。
「わたしと、ノエルさんと、クラリスさんとジョゼットさんと、記録係のおじいさんと、医務室の先生と、ヨナスさんと、事務官さんと」
「事務官様は、数に入りますか」
「入ります。あの人、最近レティシア様が来ると台帳出して待ってます」
わたくしは笑った。笑ってから、笑えたことに驚いた。
一度目の四年で、わたくしは何度笑っただろう。数えられる気がした。数えられるということは、少なかったということだ。
その夜、ビアンカ・オルセンが部屋を訪ねてきた。
扉を叩く音が小さすぎて、最初は気のせいかと思った。開けると、彼女が立っていた。手に、何も持っていない。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
ミレイユが席を立とうとしたが、ビアンカが首を振った。
「いてください。二人に話します」
彼女は椅子に座らず、立ったまま言った。
「うち、取引が減りました」
「わたくしのせいですか」
「違います。監査が入ったからです。学校が、しばらく紙を別のところから買うことにしたそうです」
わたくしは言葉を探した。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください。うち、そのぶん困ってません」
彼女は少し笑った。
「父が言ってました。学校の紙は、儲けが薄いって。あれは商売じゃなくて、付き合いだって」
「付き合い」
「はい。誰かに頼まれてやってた仕事だって」
誰か。
「その方のお名前を、お父上はご存じですか」
「知ってます」
ビアンカはそこで、深く息を吸った。
「でも、言いません」
わたくしは頷いた。
「父を守りたいので。ずるいのは分かってます」
「ずるくありません」
「ずるいです。わたし、いつもそうです」
彼女は自分の手を見た。
「でも、ひとつだけ持ってきました」
そう言って、袖から一枚の紙を出した。薄い紙だった。折り目が三つ。
「写しです」
「……写せないと」
「はい。だから、ミレイユさんに教わりました」
わたくしはミレイユを見た。彼女は小さく頷いた。
「三日かかりました」
ビアンカは紙を机に置いた。
細くて右に倒れた字ではない。丸くて大きい、彼女自身の字だった。字は下手だった。行が曲がっている。読めた。
一番上に、こう書いてあった。《必ず本人に言わせること》
わたくしは、その紙を両手で持ち上げた。
「ビアンカ様」
「返さなくていいです。それ、わたしの字なので」
彼女は扉に手をかけた。
「レティシア様。わたし、あなたのこと、やっぱりあんまり好きじゃないです」
「存じています」
「でも、あなたの前だと、嘘をつくのが下手になります」
扉が閉まった。
四日前。
朝、机の上で音がした。
小さな、金属が鳴る音だった。わたくしは寝台から起きて、机を見た。母の懐中時計が、動いていた。針が、進んでいる。
わたくしは時計を持ち上げた。手が震えて、二度落としかけた。
止まっていたはずだった。十年、止まっていた。四年後の朝の刻で止まって、それから一度も動かなかった。
耳に当てると、小さな音がした。生き物のような音だった。
「どうしたんですか」
ミレイユが寝台から顔を出した。
「……動いています」
「時計ですか。よかったですね」
「よくありません」
わたくしは、なぜ「よくありません」と言ったのか、自分でも分からなかった。
止まっていたことに、わたくしは意味を持たせていた。母が死んだ刻でも、処刑の刻でもある時刻で止まっている。それが、わたくしが二度目にいることの証拠のように思えていた。
動き出したということは、証拠が消えるということだ。これはただの古い時計になった。
その日の午後、わたくしは時計を持って、街の時計職人を訪ねた。学校から半刻の距離だ。外出は届け出が要る。届け出は、もちろん出した。
「これは、動きますよ」
老人は片眼鏡を外して言った。
「今、動いています」
「そりゃ、動くからね」
「十年、止まっておりました」
「止まってた理由が無くなったんでしょう」
彼はわたくしに時計を返した。
「こういうのはね、埃か、油か、ぜんまいの巻き癖だ。長く持ち歩いてると、体温と揺れで少しずつほぐれることがある。十年かかることもある」
あっけない答えだった。
わたくしは、仕掛けがあってほしかったのだと思う。仕掛けがあれば、止まっていた十年に意味があったことになる。
「仕掛けは、無いのですね」
「仕掛けって、なんの」
「……いえ」
老人は片眼鏡をかけ直した。
「お嬢さん。時計ってのは、時間を作るもんじゃない。時間を数えるもんだよ」
その一言が、なぜか胸に落ちた。
帰り道、わたくしは時計の音を聞きながら歩いた。
この十年、わたくしはこれを握って何を数えていたのだろう。
母が死んでからの日数か。四年後までの日数か。間に合わなかったものの数か。
どれでもいい。
数えていたのは、過ぎたことだった。
止まった針は、過ぎたことしか指せない。動く針は、これからを指す。
学校の門をくぐったところで、ノエルに会った。
「外出か」
「時計を見ていただいてまいりました」
「壊れたのか」
「動きました」
彼は目を丸くした。
「動いたのか。よかったな」
「ええ」
今度は、素直にそう言えた。
「ノエル。ひとつ、お伝えしておきたいことがございます」
「なんだ」
「四日後、わたくしは学長室で全部出します」
彼は頷いた。
「近くにいる」
「はい。それと、もうひとつ」
わたくしは、時計を握った。針が動いているのが、掌に伝わる。
「あの日、わたくしは、あなたに『来ないでください』と言うつもりでした」
ノエルの眉が上がった。
「言わないのか」
「言いません」
風が門をくぐった。夏の匂いがした。
「わたくしは、あなたを遠ざけることで守ろうとしていました。それは、あなたに何も言わずに決めることです。同じことを、あなたのお父上がなさいました」
彼は黙って聞いていた。
「守るために黙るのは、たぶん、いちばんやってはいけないことでした」
ノエルは、長く息を吐いた。
「お前、ちゃんと反省するよな」
「褒めていらっしゃいますか」
「褒めてる」
彼は笑った。
その夜、わたくしは机に向かって、最後の一枚を書いた。
四日後、学長室で読み上げる順序だった。
一、名簿の書き換え。二、印の不正使用。三、上申の握り潰し。四、生徒に自分の名を書かせた手順。
書き終えて、わたくしは一行足した。五、それを、わたくしが自分の口で言うこと。
時計が、机の上で鳴っていた。
止まっていた時計が動きます。仕掛けではありません。この作品では、戻ってきた理由を最後まで説明しないと決めています。
説明してしまうと、レティシアが何を数えていたのかという話でなくなるからです。




