第二十五話 「グレンヴィルの証書」
ノエルの父が、学校に来た。
前触れは無かった。昼過ぎに門番が呼びに来て、ノエルが走っていった。わたくしは中庭で待っていた。待つつもりはなかったのに、足が動かなかった。
中庭の石が、昼の日を吸って白く光っていた。半刻というのは、待つ側にいると長い。
半刻ほどして、ノエルが戻ってきた。手に、古びた革の鞄を提げていた。
「父が置いていった」
彼は石段に座り、鞄を膝に乗せた。開けなかった。
革は角が丸くなっていて、留め具だけが新しかった。付け替えたのだろう。中身を持ち歩いた年月のぶん、外側が先に古くなる。
「帳面ですか」
「帳面だ」
「口外禁止の条件は」
「破るってさ」
わたくしは、彼の横顔を見た。
「ノエル。ひとつ、先にお伝えしておくことがございます」
「なんだ」
「三年前に、この学校を辞めた生徒に、エルサ・グレンヴィルという名前があります」
彼は顔を上げた。
「知らない名前だ」
「ご親戚に」
「いない。うちは父と俺と、母だけだ」
やはり、そうだった。
わたくしは手帳の頁を思い出した。三年前に辞めた生徒は四名。そのうちの一人に、もう無い領の名前がついている。
「出身地は、グレンヴィル男爵領と記載されています」
「……もう無いだろ、そんな領」
「ええ。三年前には既に、オルセン商会のものです」
ノエルは鞄の留め具を握った。
「うちの名前が、使われてるってことか」
「そう思われます」
彼はしばらく黙り、それから短く笑った。笑い方が、乾いていた。
「家名を返上したら、もっと使いやすくなるな」
「……ええ」
「父にそれを言えばよかった」
「今からでも」
「言わない」
彼は首を振った。
「父はもう決めた。決めたことを覆させるのは、また誰かが一人で決めることになる」
その言い方に、わたくしは何も返せなかった。
決めた側と、報告される側。この学校で見てきた話の形と、同じだった。
「うちの家名を返上するなら、条件も一緒に返す。父はそう言った」
返上する。
打診を、受けるということだった。
「ノエル」
「うん」
「お家は」
「無くなる」
彼は鞄の留め具を指で撫でた。
「父が決めた。俺には報告だけだった」
わたくしは、何と言えばいいのか分からなかった。彼が「また一人で決めた」と怒った相手は、わたくしだけではなかった。
「開けてもいいか」
「わたくしがいてよろしいのですか」
「一人で読みたくない」
留め具が外れた。
帳面は三冊あった。革の表紙は擦り切れ、頁の端が茶色くなっている。
一冊目を開くと、几帳面な字が並んでいた。日付が行の頭に、内容がその下に。
「父の字だ」
「きれいな字ですね」
「昔はもっときれいだったらしい」
わたくしたちは、並んで読んだ。
最初の二冊は、領地の記録だった。収穫、税、揉め事。人の名前と日付。読んでいて退屈だった。退屈なほど正確だった。
頁をめくる速さが、途中から合ってきた。彼が先に読み終えて、わたくしを待つ。待たれているのが分かるので、少しだけ急いだ。
三冊目の後半で、字が変わった。同じ人の字なのに、線が固い。急いで書いた字だ。
《王立騎士学校の入学者名簿に、当領の子が二名載っている。当領から受験した者はいない》
わたくしは、頁を押さえた。
《照会したところ、二名とも当領の出身と記載されている。名は聞かぬ名である。書類は当家の印で出されている。印は使っていない》
ノエルの指が止まった。
「……なんだこれ」
「お家の印が、使われています」
次の頁。
《本日、学務監へ上申書を提出。名簿の記載と当家の印の使用について、照会を求める》
日付は、十年前の春だった。その次の頁。《返答なし》その次。《返答なし》
三度、同じ言葉が並んでいた。そして、四頁目。
《オルセン商会より人が来た。領地を買いたいと言う。条件に口外禁止が入っている。何を口外するなとは書かれていない》
最後の記述は、その二日後だった。《売る。妻と息子を守る。上申は取り下げる》
帳面は、そこで終わっていた。
中庭は静かだった。風が若葉を鳴らしていた。ノエルは、長いこと動かなかった。
「……売ったんじゃない」
彼は言った。
「黙らされたんだ」
わたくしは頷いた。それしかできなかった。
十年前、ノエルの父は名簿の異常に気づいた。上申した。返答は無かった。三度書いて、三度無視された。
そのあと商家が来て、領地を買った。買値には、口外しないことが含まれていた。
名簿を書き換えるには、実在する家の印が要る。持っていない家の子を「どこかの領の出身」ということにするために。
印を貸してくれる家は無い。だから、気づかれない家を選ぶ。気づかれたら、その家ごと消す。
グレンヴィル家は、気づいてしまった家だった。
「ノエル」
「うん」
「一度目——いえ」
言いかけて、止まった。彼は顔を上げた。
「言えよ」
わたくしは、膝の上で手を握った。
「わたくしは、あなたの家が四年後に取り潰されるのを見たことがあります」
言ってしまった。
言ったあと、空気が変わるのを待った。何を言われても仕方がないと思った。頭がおかしいと思われても、それでよかった。
ノエルは、しばらくわたくしを見ていた。
「四年後」
「はい」
「見たのか」
「見ました」
彼は前を向いた。
「そうか」
それだけだった。
「……信じるのですか」
「信じる」
「なぜ」
「お前が嘘をつくときは、目を逸らすからだ。今は逸らしてない」
わたくしは、息を吸った。吸って、吐いた。うまく吐けなかった。
「もっと訊いてください」
「訊かない」
「なぜ」
「訊いたら、お前が全部話す。全部話したら、お前は楽になる。でも、そのあとお前は、話したことを後悔する」
彼は膝の帳面を閉じた。
「お前が言いたくなるまで待つ。俺は待つのは得意だ」
わたくしは、そこで初めて泣いた。四年ぶりだった。処刑台では泣かなかった。戻ってからも泣かなかった。
中庭の石段で、みっともなく泣いた。
ノエルは何も言わなかった。背中も撫でなかった。ただ、隣にいた。しばらくして、彼が言った。
「レティシア」
「……はい」
「この帳面、どう使う」
「使ってよろしいのですか。お家が」
「家はもう返す。父が決めた」
彼はわたくしのほうを向いた。
「だから、これは俺のものだ。俺が決める」
夕日が、彼の左手の傷を照らしていた。
「お前がひとりで決めるのは、これで最後だ」
わたくしは、帳面を受け取った。重かった。三冊で、十年ぶんだった。
「ノエル。ひとつだけ、伺わせてください」
「なんだ」
「お父上は、上申を取り下げたことを、悔やんでいらっしゃいますか」
彼は少し考えた。
「訊いてない」
「訊かれますか」
「訊かない」
彼は鞄の留め具を閉じた。
「父は、母と俺を守った。守ったことを悔やんでるかどうかは、父のものだ。俺が取り上げるもんじゃない」
わたくしは頷いた。
この人は、いつもそうだ。人のものを取り上げない。
わたくしは、四年後に自分の言い分を取り上げられて死んだ。取り上げない人が、ずっと隣にいた。
「ノエル」
「なんだ」
「四年後の話を、いつかしてもよろしいですか」
「いつでもいい」
「怖くありませんか」
「怖い」
彼はあっさり言った。
「でも、お前が一人で怖がってるほうが嫌だ」
わたくしは、帳面を胸に抱えた。重さが、少しだけ軽くなった気がした。
「六日後に、使わせてください」
「六日後」
「はい。全部、その日に出します」
「分かった」
彼は立ち上がり、手を差し出した。
わたくしは、その手を取って立った。左手だった。傷のあるほうだった。
グレンヴィルの証書です。ノエルの左手の傷は第一話から出していましたが、由来をここまで書きませんでした。
差し出されたのが左手だったことに気づいた方は、ブックマークをしておいてください。




