表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
返事のない投函口 ――相談箱に届いた、消えた姉の名前  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/4

第三章 守るための嘘だった

 岡野を再び訪ねたのは、結衣ひとりだった。

 翔太には何も言わなかった。感情をぶつける場ではないと思ったし、岡野が口を開くとしたら、静かな場の方がいい気がした。それに、聞くべきことがある。メモ用紙に書かれた文字の意味を、結衣はまだ岡野に伝えていなかった。

 役場の昼休みを外して、夕方に訪ねた。岡野は駐車場の脇で結衣を待っていた。呼んでもいないのに来るとわかっていたような、そういう立ち方だった。

「昨日は、すみませんでした。翔太くんが来てしまって」

「いいです。あれは俺が受けるべきことでした」

 少し間があった。夕方の空が低くなっていて、駐車場の向こうに山の稜線が見えた。

「店長が、帳面を見せてくれました。三年前の日付のメモが挟まっていて。いなくなったことにしてください、と書いてありました。真帆さんの字だと思います」

結衣が伝えたことに、岡野は何も言わなかった。


 長い沈黙があった。

 岡野は山の方を見たまま、少しだけ息を吐いた。諦めたような、それとも長いあいだ抱えてきたものをようやく下ろすような、どちらともとれる息だった。

「話します。全部じゃないかもしれないけど、知っていることは」


 近くに小さな喫茶店があった。夕方の時間帯で、客は少なかった。岡野はコーヒーを頼んで、しばらく黙ってカップを見ていた。

「三年前、真帆はかなり追い詰められていました」

 話し始めると、声は落ち着いていた。感情を排しているのではなくて、もうずっと整理してきた言葉を出しているような、そういう落ち着きだった。

「お母さんが体調を崩していたのは知っていますか」

「少し聞きました」

「精神的にかなり不安定な時期があって、真帆がほとんど家を支えていた。翔太はまだ中学生で、父親はいない。だから全部、真帆が引き受けていた。家のことも、お母さんのことも、翔太のこともぜんぶ」

 結衣は黙いて聞いた。

「そういう状況が、何年も続いていました。真帆はそれを誰にも言わなかった。言えなかったんだと思います。言ったところで解決しないし、家のことを外に出すのが怖かったんだと思う」

「岡野さんには、言っていたんですか」

「少しだけ。俺と真帆は、幼なじみです。子どもの頃からずっと近くにいた。だから、他の人には言えないことを、俺にだけ少し話してくれることがあった」

 結衣はその言い方の中にある距離感を、冷静に受け取った。幼なじみ、という言葉の手前に、もう少し別の何かがあったのかもしれないと思ったが、それは今聞くことではなかった。

「俺と真帆が近いことは、商店街では知られていました。それ自体は別に、昔からのことだったんですが」

岡野はカップを少し回した。

「お母さんがそれを気にし始めたんです。精神的に不安定な時期だったこともあって、真帆が俺と会っていることを、ひどく嫌がるようになった。根拠のない思い込みも、あったと思います」

「それが、真帆さんを追い詰めた」

「直接の原因は、それだけじゃないと思います。でも、最後のひとつにはなった。家を支えながら、お母さんの状態に振り回されながら、自分のことは何も決められないまま、ずっとそこにいる。真帆はそういう状況の中で、消えることを考えたんだと思います」

 結衣は窓の外を少し見た。商店街の灯りが、夕暮れの中でぼんやりしていた。

「消えることを、誰かに相談したんですか」

「俺に言ってきました。町を出たいと。しばらく、誰も知らないところへ行きたいと」

「止めなかったんですか」

「止めようとしました」

岡野の声が、少しだけ変わった。

「でも止められなかった。あの状態の真帆を、あの家に引き止め続けることが、正しいとは言いきれなかった。息ができなくなっている人を、息のできない場所に留めることが」

 結衣は何も言わなかった。

「だから、手を貸してしまった。町を出る準備を、少し手伝った。行き先だけ、俺だけが知っていることにして」

「メモは」

「真帆が店長に頼んだんです。迷惑をかけることへの謝罪と、失踪という形にしてほしいという頼みを。店長は昔から真帆のことをよく知っていたから」

 店長も、止めなかった。

 結衣はそのことを声に出さなかった。でも岡野は、わかっているような顔をしていた。

「翔太には、なぜ言わなかったんですか」


岡野はしばらく答えなかった。

「最初は、お母さんの状態が落ち着いてから話そうと思っていた。それから、翔太が少し落ち着いてから。真帆の方から連絡が来てからにしようと。そうやって先延ばしにしているうちに、三年が経った」

 一呼吸おいて、さらに続ける。

「一度だけ、封筒を持って水崎家の前まで行ったことがあります。まだ一年も経っていない頃でした。渡すなら今しかないと思っていた。でも、玄関の灯りがついているのを見たら、あの家の中へこの手紙を入れることで、何かが決定的に壊れる気がしたんです」

 岡野はそこでいったん言葉を切った。


「それで、呼び鈴を押せなかった。帰って、また今度にしようと思ったまま、その次の今度が来なくなりました」

「誰か一人の判断ではなかった」

 結衣は小さな声で言った。

「誰も、悪意でやったわけじゃないんです。でも、結果として翔太だけが取り残された。それは俺たちがやったことです。最善のつもりで、間違えた」

 岡野はそう伝え、自分の手を見た。テーブルの上に置かれた手が、少しだけ固くなっていた。


 喫茶店を出ると、空はすっかり暗くなっていた。

 岡野が「少し待ってください」と言って、鞄の中を探った。取り出したのは、封筒だった。古びていて、宛名は書かれていない。

「真帆が、俺に預けていったものです。翔太に渡してほしいと言われていた。でも、タイミングがわからないまま、ずっと持っていた」

 結衣は封筒を受け取った。

「中身を読んでいいですか」

「真帆はそう言っていた。渡す人が判断していいと」

 封を開けると、便箋が二枚入っていた。結衣はゆっくり広げた。

 翔太へ、と書かれていた。それから、丁寧な字で言葉が続いていた。

 置いていくことへの謝罪があった。でも、あの家にいたままでは息ができなかったということも。お母さんを責めないでほしいということも。自分は誰かを困らせたくて消えたわけではないということも。いつか話す日が来るなら、そのときは逃げたではなく、生きるために離れたと伝えてほしいということも。

 最後の行に、一文だけあった。

 ――翔太が大人になるところを、どこかで見ていたい。

 結衣は便箋を折りたたんで、封筒に戻した。

 岡野が「どんな顔をして読んでいるかは、見ないようにしていました」と言った。

「ありがとうございます」

「あなたは、どう思いますか。俺たちがやったことは」

 責めてほしいのか、許してほしいのか、どちらでもないような問い方だった。ただ誰かに問うてみないと、三年間が動かなかった。そういう問い方だと結衣は思った。

「正しかったとは言えないと思います。でも、間違えた人たちが全員、真帆さんのことを思っていたのはわかります」

 岡野は少し目を細めた。

 結衣は話を続ける。

「翔太くんは、知らないままなのが一番嫌だと言っていました。それだけ聞けば、どうするべきか、私にはわかる気がします」


 店に戻ると、相談箱の前で足が止まった。

 投函口の奥に、また白いものが見えた。

 取り出した便箋には、短い一文だけが書かれていた。


 ――ほんとうのことを知って、あの子は救われますか。


 結衣は、その一文の前でしばらく動けなかった。

 ほんとうのことが、いつも人を楽にするわけではない。知ったあとで、前より苦しくなることだってある。そのくらいのことは、結衣にもわかっていた。

 でも、何も言われないまま置いていかれることにも、別の痛みがある。たずねるきっかけを失って、聞いてはいけない空気だけが残って、気づけばそのことだけが胸の隅で古くなっていく。

 時間がたてば薄れることもある。けれど、なくなるわけではない。

 言葉にしてもらえたら、少し違ったかもしれないことが、自分にもある気がした。

 救われるかどうかは、わからない。

 それでも、知らないままでいるよりはいいと、今の結衣には思えた。


 結衣はその字をしばらく見た。丸みのある、やわらかい字。二通目と同じ字だった。

 今の真帆か、少なくとも真帆とつながる誰かが、この町と相談箱を、まだ見ている。

 結衣は便箋を胸のあたりで持ったまま、少しのあいだそこに立っていた。

 救われるか、という問いへの答えを、結衣はまだ持っていなかった。真実が人を楽にするとは限らない。岡野の言葉は正しいと思う。でも、知らされないまま取り残されることの痛みも、結衣には少しわかる気がした。

 祖母が死んで、進学の時期を逃して、気づいたらここにいた。決めたわけでも、選んだわけでもなく、気がついたらここに残っていた。誰かに言葉で伝えてもらえていたら、少しは違ったかもしれないと思うことが、結衣にもないわけではなかった。

 言葉にならないまま置いていかれる感覚を、翔太は三年間抱えてきた。

 結衣は便箋を引き出しにしまった。三通並べると、それぞれの字が少し違うように見えた。一通目だけが、他の二通とは違う。一通目は翔太が書いた。二通目と三通目は、別の誰かが書いた。

 夜の商店街は静かだった。

 店長はもう奥に引っ込んでいた。結衣はひとりで戸締まりをして、電気を落とした。

 暗くなった店の中で、相談箱だけが戸の外にある。返事を返せないままずっと置かれてきた箱。でも今は、三年越しの返事を、誰かが待っているのかもしれないと思った。

 結衣は上着を取って、鍵を持った。

 翔太に、渡さなければならないものがある。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ