第三章 守るための嘘だった
岡野を再び訪ねたのは、結衣ひとりだった。
翔太には何も言わなかった。感情をぶつける場ではないと思ったし、岡野が口を開くとしたら、静かな場の方がいい気がした。それに、聞くべきことがある。メモ用紙に書かれた文字の意味を、結衣はまだ岡野に伝えていなかった。
役場の昼休みを外して、夕方に訪ねた。岡野は駐車場の脇で結衣を待っていた。呼んでもいないのに来るとわかっていたような、そういう立ち方だった。
「昨日は、すみませんでした。翔太くんが来てしまって」
「いいです。あれは俺が受けるべきことでした」
少し間があった。夕方の空が低くなっていて、駐車場の向こうに山の稜線が見えた。
「店長が、帳面を見せてくれました。三年前の日付のメモが挟まっていて。いなくなったことにしてください、と書いてありました。真帆さんの字だと思います」
結衣が伝えたことに、岡野は何も言わなかった。
長い沈黙があった。
岡野は山の方を見たまま、少しだけ息を吐いた。諦めたような、それとも長いあいだ抱えてきたものをようやく下ろすような、どちらともとれる息だった。
「話します。全部じゃないかもしれないけど、知っていることは」
近くに小さな喫茶店があった。夕方の時間帯で、客は少なかった。岡野はコーヒーを頼んで、しばらく黙ってカップを見ていた。
「三年前、真帆はかなり追い詰められていました」
話し始めると、声は落ち着いていた。感情を排しているのではなくて、もうずっと整理してきた言葉を出しているような、そういう落ち着きだった。
「お母さんが体調を崩していたのは知っていますか」
「少し聞きました」
「精神的にかなり不安定な時期があって、真帆がほとんど家を支えていた。翔太はまだ中学生で、父親はいない。だから全部、真帆が引き受けていた。家のことも、お母さんのことも、翔太のこともぜんぶ」
結衣は黙いて聞いた。
「そういう状況が、何年も続いていました。真帆はそれを誰にも言わなかった。言えなかったんだと思います。言ったところで解決しないし、家のことを外に出すのが怖かったんだと思う」
「岡野さんには、言っていたんですか」
「少しだけ。俺と真帆は、幼なじみです。子どもの頃からずっと近くにいた。だから、他の人には言えないことを、俺にだけ少し話してくれることがあった」
結衣はその言い方の中にある距離感を、冷静に受け取った。幼なじみ、という言葉の手前に、もう少し別の何かがあったのかもしれないと思ったが、それは今聞くことではなかった。
「俺と真帆が近いことは、商店街では知られていました。それ自体は別に、昔からのことだったんですが」
岡野はカップを少し回した。
「お母さんがそれを気にし始めたんです。精神的に不安定な時期だったこともあって、真帆が俺と会っていることを、ひどく嫌がるようになった。根拠のない思い込みも、あったと思います」
「それが、真帆さんを追い詰めた」
「直接の原因は、それだけじゃないと思います。でも、最後のひとつにはなった。家を支えながら、お母さんの状態に振り回されながら、自分のことは何も決められないまま、ずっとそこにいる。真帆はそういう状況の中で、消えることを考えたんだと思います」
結衣は窓の外を少し見た。商店街の灯りが、夕暮れの中でぼんやりしていた。
「消えることを、誰かに相談したんですか」
「俺に言ってきました。町を出たいと。しばらく、誰も知らないところへ行きたいと」
「止めなかったんですか」
「止めようとしました」
岡野の声が、少しだけ変わった。
「でも止められなかった。あの状態の真帆を、あの家に引き止め続けることが、正しいとは言いきれなかった。息ができなくなっている人を、息のできない場所に留めることが」
結衣は何も言わなかった。
「だから、手を貸してしまった。町を出る準備を、少し手伝った。行き先だけ、俺だけが知っていることにして」
「メモは」
「真帆が店長に頼んだんです。迷惑をかけることへの謝罪と、失踪という形にしてほしいという頼みを。店長は昔から真帆のことをよく知っていたから」
店長も、止めなかった。
結衣はそのことを声に出さなかった。でも岡野は、わかっているような顔をしていた。
「翔太には、なぜ言わなかったんですか」
岡野はしばらく答えなかった。
「最初は、お母さんの状態が落ち着いてから話そうと思っていた。それから、翔太が少し落ち着いてから。真帆の方から連絡が来てからにしようと。そうやって先延ばしにしているうちに、三年が経った」
一呼吸おいて、さらに続ける。
「一度だけ、封筒を持って水崎家の前まで行ったことがあります。まだ一年も経っていない頃でした。渡すなら今しかないと思っていた。でも、玄関の灯りがついているのを見たら、あの家の中へこの手紙を入れることで、何かが決定的に壊れる気がしたんです」
岡野はそこでいったん言葉を切った。
「それで、呼び鈴を押せなかった。帰って、また今度にしようと思ったまま、その次の今度が来なくなりました」
「誰か一人の判断ではなかった」
結衣は小さな声で言った。
「誰も、悪意でやったわけじゃないんです。でも、結果として翔太だけが取り残された。それは俺たちがやったことです。最善のつもりで、間違えた」
岡野はそう伝え、自分の手を見た。テーブルの上に置かれた手が、少しだけ固くなっていた。
喫茶店を出ると、空はすっかり暗くなっていた。
岡野が「少し待ってください」と言って、鞄の中を探った。取り出したのは、封筒だった。古びていて、宛名は書かれていない。
「真帆が、俺に預けていったものです。翔太に渡してほしいと言われていた。でも、タイミングがわからないまま、ずっと持っていた」
結衣は封筒を受け取った。
「中身を読んでいいですか」
「真帆はそう言っていた。渡す人が判断していいと」
封を開けると、便箋が二枚入っていた。結衣はゆっくり広げた。
翔太へ、と書かれていた。それから、丁寧な字で言葉が続いていた。
置いていくことへの謝罪があった。でも、あの家にいたままでは息ができなかったということも。お母さんを責めないでほしいということも。自分は誰かを困らせたくて消えたわけではないということも。いつか話す日が来るなら、そのときは逃げたではなく、生きるために離れたと伝えてほしいということも。
最後の行に、一文だけあった。
――翔太が大人になるところを、どこかで見ていたい。
結衣は便箋を折りたたんで、封筒に戻した。
岡野が「どんな顔をして読んでいるかは、見ないようにしていました」と言った。
「ありがとうございます」
「あなたは、どう思いますか。俺たちがやったことは」
責めてほしいのか、許してほしいのか、どちらでもないような問い方だった。ただ誰かに問うてみないと、三年間が動かなかった。そういう問い方だと結衣は思った。
「正しかったとは言えないと思います。でも、間違えた人たちが全員、真帆さんのことを思っていたのはわかります」
岡野は少し目を細めた。
結衣は話を続ける。
「翔太くんは、知らないままなのが一番嫌だと言っていました。それだけ聞けば、どうするべきか、私にはわかる気がします」
店に戻ると、相談箱の前で足が止まった。
投函口の奥に、また白いものが見えた。
取り出した便箋には、短い一文だけが書かれていた。
――ほんとうのことを知って、あの子は救われますか。
結衣は、その一文の前でしばらく動けなかった。
ほんとうのことが、いつも人を楽にするわけではない。知ったあとで、前より苦しくなることだってある。そのくらいのことは、結衣にもわかっていた。
でも、何も言われないまま置いていかれることにも、別の痛みがある。たずねるきっかけを失って、聞いてはいけない空気だけが残って、気づけばそのことだけが胸の隅で古くなっていく。
時間がたてば薄れることもある。けれど、なくなるわけではない。
言葉にしてもらえたら、少し違ったかもしれないことが、自分にもある気がした。
救われるかどうかは、わからない。
それでも、知らないままでいるよりはいいと、今の結衣には思えた。
結衣はその字をしばらく見た。丸みのある、やわらかい字。二通目と同じ字だった。
今の真帆か、少なくとも真帆とつながる誰かが、この町と相談箱を、まだ見ている。
結衣は便箋を胸のあたりで持ったまま、少しのあいだそこに立っていた。
救われるか、という問いへの答えを、結衣はまだ持っていなかった。真実が人を楽にするとは限らない。岡野の言葉は正しいと思う。でも、知らされないまま取り残されることの痛みも、結衣には少しわかる気がした。
祖母が死んで、進学の時期を逃して、気づいたらここにいた。決めたわけでも、選んだわけでもなく、気がついたらここに残っていた。誰かに言葉で伝えてもらえていたら、少しは違ったかもしれないと思うことが、結衣にもないわけではなかった。
言葉にならないまま置いていかれる感覚を、翔太は三年間抱えてきた。
結衣は便箋を引き出しにしまった。三通並べると、それぞれの字が少し違うように見えた。一通目だけが、他の二通とは違う。一通目は翔太が書いた。二通目と三通目は、別の誰かが書いた。
夜の商店街は静かだった。
店長はもう奥に引っ込んでいた。結衣はひとりで戸締まりをして、電気を落とした。
暗くなった店の中で、相談箱だけが戸の外にある。返事を返せないままずっと置かれてきた箱。でも今は、三年越しの返事を、誰かが待っているのかもしれないと思った。
結衣は上着を取って、鍵を持った。
翔太に、渡さなければならないものがある。




