第四章 返事のない投函口に、ようやく言葉を返す
翌日の夕方、結衣は店長と岡野に同じことを伝えた。
「このまま黙っているのは、違うと思います」
店長には閉店後に、岡野には電話で。どちらも、すぐには返事がなかった。店長は湯飲みを両手で包んだまましばらく黙っていて、岡野は電話口で少し間を置いてから「わかりました」と言った。
場所は栞屋にした。閉店後の、誰もいない店の中。相談箱のある場所がいいと思った。理由をうまく言葉にはできなかったけれど、ここで始まったことは、ここで区切りをつけた方がいい気がした。
翔太には「話したいことがある」とだけ伝えた。今夜、栞屋へ来てほしいと。
翔太は「わかりました」とだけ返してきた。それ以上は何も聞かなかった。
夜の八時すぎ、シャッターを半分だけ下ろした栞屋に、四人が集まった。
店長はカウンターの内側に座った。岡野は棚を背にして立っていた。結衣はカウンターの端に立って、翔太は入口近くの丸椅子に座った。蛍光灯の白い光の中で、それぞれが少しだけ遠い距離を保っていた。
話したのは、主に岡野だった。
最初に言ったのは、真帆が生きているということだった。それはもう翔太も知っている。でも改めて、正面から言われると、翔太は少しだけ目を伏せた。
岡野は順番に話した。お母さんの状態のこと。真帆が何年も家を支えていたこと。追い詰められていたこと。自分で町を出ることを決めたこと。失踪という形にしたのは、誰かひとりの判断ではなかったこと。
結衣は補いながら聞いていた。岡野の言葉が短くなるところを、少しだけ埋めるように。
店長は黙っていた。ただ、ずっとそこにいた。
翔太は途中まで、何も言わなかった。
うなずくわけでも、表情を変えるわけでもなく、ただ岡野の話を聞いていた。結衣には、それが怒りを抑えているのか、受け取ろうとしているのか、判断できなかった。ただ、翔太の手が膝の上でゆっくり握られていくのが見えた。
岡野が話し終えると、少しの間があった。
「姉ちゃんが、自分で決めたんですか」
「そうです」
「逃げたんじゃなくて」
「逃げたとも言えるかもしれない。でも、生きるために出た。真帆はそういうつもりでいたと思います」
翔太はしばらく黙ってから、「じゃあなんで?」と問いかけた。声が、少しだけ変わった。
「一度も、来なかったんですか。三年間、一度も」
誰も答えなかった。
「手紙でも、電話でも、何でもよかった。俺が知りたかったのは、姉ちゃんがどこにいるかじゃなくて、生きてるかどうかだけだったのに。それだけでよかったのに」
岡野は正面から翔太を見ていた。
「俺が決められなかった。タイミングを待って、先延ばしにして、三年経った。お前だけ知らないままにしてきたのは、俺たちがやったことです」
「……」
「謝って済む話じゃないとわかってます。でも、間違えたのは俺たちで、お前は何も悪くない」
翔太はすぐには何も言わなかった。
膝の上に置いた手が、ゆっくり強く握られていくのが見えた。怒っているのだと結衣にはわかった。けれど、それだけでもなかった。
もし相手が、冷たく切り捨てたのなら、きっともっと簡単だった。責めればよかったし、許さなくていい理由もはっきりしたはずだ。
でも、岡野の声には、言い逃れではない重さがあった。店長も黙ったままそこにいる。誰も悪びれずに済ませようとしていないことが、かえって翔太を苦しくしているように見えた。
悪意ではなかったのだとわかることと、傷つかなかったことは、同じではない。
翔太は一度だけ息を吸って、それから低い声で言った。
「……だから余計に、嫌だったんです」
その声は大きくなかった。けれど、店の中の空気を少しだけ震わせた。
翔太は岡野を見た。見てから、また目を伏せた。
「俺だけ知らないままなのが、一番嫌だったんです。姉ちゃんが消えたことより、みんなが知ってて俺だけ知らないのが、ずっと嫌で。自分だけ外に置かれてるみたいで」
翔太はそこでいったん言葉を切った。
「母に聞こうとして、やめたことが何度もありました。そのたびに、家の中の空気が変わる気がしたんです。だから聞けなくなった」
膝の上で、翔太の手がゆっくり握られる。
「生きているのかもしれないし、もう会えないのかもしれない。そのどっちも誰も言ってくれないのが、ずっと嫌だったんです」
だれも言葉を返さなかった。
結衣は封筒を取り出した。岡野から預かった、宛名のない封筒。
「真帆さんが、岡野さんに預けていたものです。翔太くんに渡してほしいと言って」
翔太は封筒を受け取った。手の中でしばらく持っていた。開けようとして、少し止まった。
「読んでいいですか、ここで」
「どうぞ」
翔太はゆっくり封を開けた。便箋を取り出して、広げた。
読んでいる間、店の中は静かだった。
外では、商店街の夜が続いていた。シャッターの隙間から、街灯の薄い光が床に細く入っていた。翔太が便箋を持つ手が、少しだけ動いた。
読み終えると、翔太は便箋を膝の上に置いた。
泣かなかった。泣きそうな顔でもなかった。ただ、何かが少しだけ変わったような顔をしていた。長いあいだ宙づりにされていたものが、ゆっくり地面に触れていくような。
「翔太が大人になるところを、どこかで見ていたい、って書いてある」
翔太の声は独り言みたいだった。
結衣は小さくうなずいた。
「……ええ」
「見ててくれてるんですかね、今も」
結衣は少し考えてから言った。
「そうだと思います」
翔太はもう一度、便箋を見た。
「許せるかどうかは、まだわかりません。姉ちゃんのことも、ここにいる人たちのことも。すぐには無理です」
「そうですね」
「でも、知らないままよりは、よかった。それだけは、今言えます」
岡野が少し目を細めた。店長が湯飲みを持ち直すような仕草をした。
それで十分だと、結衣は思った。
岡野と店長が帰ったあと、結衣は片付けをした。翔太はしばらく丸椅子に座ったまま、便箋を封筒に戻したり出したりしていた。
「相沢さん」
「はい」
「姉ちゃんに、会えると思いますか」
結衣はすぐには答えなかった。わからない、と言うのは簡単だった。でもそれだけでは、何かが足りない気がした。
「真帆さんが手紙を残していたということは、いつか届いてほしいと思っていたんだと思います。届いたことが伝われば、次のことを真帆さんが考えるんじゃないかと」
翔太はしばらく考えてから、「そうですね」と言った。
それから立ち上がって、椅子を元の場所に戻した。そういう几帳面さが、結衣には少しだけ真帆に似ている気がした。
「ありがとうございました」
翔太は、今度は結衣に向かって、ちゃんと礼を言った。
「相談箱のおかげです」
翔太は戸口で少し振り返って、相談箱を見た。古びた木の箱が、外の街灯の光を受けて薄く光っていた。
「なんでも相談箱、って書いてあったんですね。かすれてて読めなかったけど」
「昔はもっとはっきり書いてあったみたいです」
「返事、来ると思わなかった」
それだけ言って、翔太は出ていった。
数日が経った。
いつもと変わらない朝だった。シャッターの列のあいだを、自転車の音が細く抜けていく。結衣は栞屋の鍵を開けて、戸を引いた。乾いた音がして、紙とインクの匂いが流れ出す。
店先の相談箱の前で、足が止まった。
店長が後ろから来て、隣に並んだ。
「しまうかい」
店長に言われ、結衣は少し考えた。
返事なんてほとんど返せない箱だった。最初からずっとそうだった。それでも誰かが言葉を落としていける場所があることを、結衣はずっと大切だと思っていた。そしてこの箱は、三年越しの返事の始まりになった。返せないと思っていた投函口から、言葉が動いた。
「そのままでいいです」
結衣がそう答えると、店長は「そうだね」と言って、先に店の中へ入っていった。
結衣はカウンターから新しい便箋を一枚取った。水色の鳥の絵が入ったものを選んだ。ペンを持って、短く書いた。
――届きました。ちゃんと、届きました。
投函口に入れた。
相手は真帆かもしれない。あるいは、返事を待っていた誰か全部かもしれない。言葉が届くことを信じてどこかにいる人かもしれないし、三年間黙って抱えてきた時間そのものかもしれない。
その曖昧さのまま、結衣は店の中へ入った。
朝の商店街は、まだ半分眠っていた。シャッターが少しずつ開き始めて、どこかで誰かが鍵を開ける音がした。いつもと同じ朝が、穏やかに始まっていた。
(了)




