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返事のない投函口 ――相談箱に届いた、消えた姉の名前  作者: 明石竜


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第二章 町の人たちは、知っていて知らないふりをしている

 翌朝、結衣はいつもより少し早く店を開けた。

 相談箱の前で足を止める。蓋を開けると、中は空だった。昨日の二通は引き出しの中にある。それがわかっているのに、なんとなく確かめずにはいられなかった。

 本格的に調べるつもりはなかった。自分には関係のない話だし、家族の事情に文具店の相談箱から首を突っ込む権利が自分にあるとも思えない。

 ただ、あの二通目の便箋が気になっていた。

 誰かが知っている。そして、わざわざ伝えてきた。その意味が、何なのかだけが。


 午前中に柏木晴美さんが来た。隣のクリーニング店の店主で、商店街では誰よりも話が早い人だ。洗濯ばさみとミニアルバムを買いながら、世間話の流れで結衣は切り出してみた。

「柏木さん、水崎真帆さんって、覚えてますか」

「真帆ちゃん?」

柏木は少しだけ目を細めた。

「覚えてるわよ。いい子だったでしょう」

「どんな子だったんですか。私、あまりよく知らなくて」

「あらそう。弟さんの方はよく見かけるけど、真帆ちゃんはもう少し前ね」

柏木はレジ袋の口をまとめながら、懐かしむように続けた。

「まじめな子だったわ。弟さんのこともよく気にしてたし、お母さんの調子が悪い時期があったでしょ、あの頃もよく動いてた。しっかりしてるなあって」

「失踪したって聞いたんですけど」

 結衣がそう言うと、柏木の手が、少しだけ止まった。

「そうねえ。突然だったわよ。びっくりした。あんな子が急にいなくなるとは思わないから」

「何か、心当たりは」

「それが、ねえ」

柏木は少し声を落とした。

「あの頃から疲れてそうだな、とは思ってたの。なんか、誰かを待ってるような顔をしてた。でも悪いことをするような子じゃないし。本当にわからないのよ」

「誰かを待ってる、というのは」

「なんとなく、そう見えただけ。うまく言えないけど」

 そこで話は変わった。柏木は次の話題へ滑らかに移り、結衣は相槌を打ちながら袋を渡した。

 話は多かった。でも核心だけが、どこにもなかった。

 柏木の言い方を、結衣は袋を片づけながら思い返した。

 真帆の名前を出したとき、柏木の手はたしかに一度止まった。驚いたというより、うっかり触れてしまったものを見たような止まり方だった。

 いい子だった。しっかりしていた。疲れているように見えた。誰かを待っているようだった。

 言葉はあったのに、その先だけがなかった。

 知らないから話せない、というふうには見えなかった。どこまでなら口にしてよくて、どこから先は触れない方がいいのかを、柏木は最初から知っているみたいだった。

 結衣はレジ横の小さな籠を整えながら、無意識に指先へ力を入れていた。

 話の形をしているのに、肝心なところだけが沈黙になっている。

 その感じが、少し気味悪かった。 


 午後から、結衣は少しずつ商店街の人たちに話を向けてみた。花屋の竹内さん、電器屋の奥さん、八百屋の常連の老人。真帆の名前を出すと、みんな似たような顔をした。

 いい子だった。突然で驚いた。元気にしてるといいね。

 そういう言葉が返ってくる。でも、なぜいなくなったのかを聞くと、みんな少し目を細めて、「さあ」と言う。さあ、の言い方が全員少し似ていた。困っているんじゃなくて、その先を踏まないようにしているような。

いちばん妙だったのは、沈黙のしかたが似ていることだった。ある人はレジの下を見たまま口をつぐみ、ある人は店の奥へちらりと目をやってから、「さあねえ」と笑った。

その笑い方まで、どこか申し合わせたみたいに似ていた。

口止めをされているようには見えない。ただ、ここまでは言っても、その先は言わないと、それぞれが同じ場所で覚えたみたいだった。

 結衣は品出しの手を動かしながら考えた。普通の失踪なら、もっと噂が荒れてもいいはずだ。事故か駆け落ちか、あるいは家庭に問題があったんじゃないかとか、憶測が広がってもおかしくない。なのに、この商店街では逆に静かだった。誰もひどいことを言わない代わりに、誰も踏み込まない。

 まるで、みんなで同じ線の手前で止まっているみたいに。


 夕方、翔太が来た。

「何かわかりましたか」

「まだ何も。ただ、何人かに話を聞きました」

「どうでした」

「……みんな、真帆さんのことを悪く言う人はいませんでした」

 翔太は少しだけ目を伏せた。

「知ってます。それは俺も」

「でも、なぜいなくなったかは、誰も言わない」

「そうでしょう。みんなそうなんですよ。俺が聞いても、家でも、全部そうで。悪い話じゃないのに、なんか、触れちゃいけないみたいに」

 結衣はその言葉を聞きながら、昨夜の店長の顔を思い出した。

 そのことには、もう触れん方がいいと思っていたんだけどね。

 翔太は帰り際に、少しだけ立ち止まった。ドアノブに手をかけたまま、外を向いたまま、ぽつりと言った。

「姉ちゃんがいなくなった次の日から、家の中が変わったんです。何がどう変わったかうまく言えないんですけど、なんか、薄くなった感じで。母は話さなくなって、俺も何を聞いていいかわからなくて」

 結衣は何も言わなかった。

「別に、姉ちゃんを責めたいわけじゃないんです。ただ、知りたいだけで。知らないままなのが、一番嫌なんです」

 それだけ言って、翔太は出ていった。

 ドアが閉まってから、結衣はしばらくその場に立っていた。知らないままなのが一番嫌、という言葉の、静かな重さの中に。


 翌日の昼休み、結衣は役場の窓口を訪ねた。

 名前が頭に浮かんだのは、柏木の話がきっかけだった。「仲が良かったんじゃない、岡野くんと」という言い方に何かが引っかかって、あとから思い返すと、真帆の話題が出るたびにあちこちでその名前がちらついていた。

 岡野修しゅう。三十一歳。今は町役場に勤めている。商店街で育って、今も近所に住んでいる。

 岡野は想像していたよりも落ち着いた人だった。背が高く、話し方が短い。窓口の外で少し話せますかと声をかけると、昼の間なら、と応じて出てきた。

「水崎真帆さんのことを、少し聞きたくて」

 岡野の表情はほとんど動かなかった。ただ、何かを確認するような間があった。

「なぜ、相沢さんが」

「相談箱に手紙が入ったんです。弟さんから。お姉さんのことを知りたいって」

「……翔太が」

 岡野は一度、視線を外に向けた。役場の駐車場に、水たまりが光っていた。

「その話は、もう終わったことです」

「終わった、というのは」

「三年前に、一応の区切りはつきました。今さら掘り返して、誰かが楽になるとは思えない」

「翔太くんは楽になるかもしれません」

「なるとは限らない」

 岡野の言い方は穏やかだった。拒絶でも怒りでもなく、ただ確信があるような言い方だった。

「知ったからって、楽になるとは限らないんです」

 結衣は少し考えてから、言い方を変えた。

「真帆さんは、今どこにいるか、ご存じですか」

 短い沈黙があった。

「……それを聞いてどうするんですか」

「翔太くんに、生きているかどうかだけでも伝えられたらと思って」

「生きています」

「それ以上は」

「言えません」

「言えない、というのは、知らないということではないですよね」

 岡野は答えなかった。

けれど、その黙り方は、何も知らない人のものではなかった。

 不意を突かれて言葉を失ったのではなく、何度も考えて、それでもなお言わないと決めている人の沈黙だった。

 結衣は、岡野の横顔を見た。表情はほとんど変わっていないのに、そこだけが妙に固く見えた。

 何かを隠している、というより、何かを長く持ち続けている顔だった。

 その重さを、結衣はうまく言葉にできなかった。ただ、この人は線の外にいるのではなく、ずっと線の上に立ち続けてきたのだと、そんなふうに思った。


 結衣は少しだけ間を置いてから、もう一度だけ口を開いた。

「商店街の人たちに話を聞きました。真帆さんのことを悪く言う人は誰もいなかった。でも、なぜいなくなったかを聞くと、全員が同じように黙った。みんなで何かを知っていて、みんなで同じところで止まっているみたいに見えました」

 岡野は結衣を見た。

「それが、おかしいと思うんですか」

「おかしいとは思いません。でも、翔太くんだけが知らないままでいる。その人だけが、その線の外に置かれている。それは、少し違う気がします」


 しばらく、間があった。

 岡野は視線を水たまりの方へ戻した。光を映したそれを、しばらく眺めていた。

「真帆は、誰かを困らせたくてああしたわけじゃないんです。それだけは、言えます」

 岡野は、ゆっくりとした口調で言った。

「……そうなんですね」

「誰も悪くない。そういうことです」

 それ以上は出てこなかった。

 何かが岡野の言葉の奥にあるのはわかった。でも、今日はここまでだとも感じた。

 ありがとうございました、と結衣が言いかけたとき、後ろから足音がした。


 振り向くと、翔太がいた。

 学校が終わって来たのか、まだ制服のままだった。役場の前で結衣の姿を見つけて、すぐに察したような顔をした。そして岡野を見た。

 翔太の顔が、少し変わった。怒りではなかった。三年間どこかに押し込めてきたものが、ようやく出口を見つけたような、そういう顔だった。

「岡野さん」

 岡野の表情が、わずかに変わった。緊張ではなく、何かを引き受けようとするような顔だった。

「翔太」

「俺には関係ないわけじゃないですよね」

「そんなことは言っていない」

「でも、教えてくれないじゃないですか」

 翔太の声は荒れなかった。荒れないように抑えているのがわかった。言葉を選んでいるわけでもなくて、ただ感情を叩きつけることをしないでいるような、そういう我慢だった。

「家でも誰も言わなくて、商店街の人たちに聞いても同じで。みんな、知ってるんでしょう。なのに俺だけ、三年間何も知らないままで」

「……」

「姉ちゃんが悪いことをしたとは思ってないです。家がつらかったのも、なんとなくわかってる。でも俺には何も言わないで行ったのは、それは俺には、まだわからなくて」

 岡野は黙っていた。

 怒らなかった。言い訳もしなかった。ただ翔太の言葉を正面から受けて、黙っていた。その沈黙の重さが、結衣には何かを語っているように見えた。何も知らない人間の沈黙じゃない。知っていて、言えなくて、言えないことへの負い目のある沈黙だった。

「俺が知りたいのは、姉ちゃんが何で消えたかじゃないんです。生きてるのか、どこかにいるのかが知りたいんです。それだけで、それだけでいいんです」

 岡野はしばらく翔太を見ていた。

 それから、短く言った。

「生きている」


 翔太は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ目を細めた。泣くわけでもなく、安心するわけでもなく、三年間宙づりにされてきたものが少しだけ地面に触れたような、そういう顔だった。

「今日のところは。昼休みが終わります」

 岡野はそれだけ言って、役場の中へ戻っていった。

 結衣と翔太は、しばらく並んで立っていた。水たまりが光を映したまま、風もなく静かだった。

「……ありがとうございました」

翔太は結衣にではなく、どこかへ向けて、ひとりごとみたいにそう言った。


 その夜、結衣が帳簿をつけていると、店長が奥の倉庫から出てきた。

 手に古い帳面を持っていた。黙って持ってきて、カウンターの上に置く。ひどく古びていて、表紙の端が少し傷んでいた。

「見せるべきじゃないと思っていた。でも、もうそういう段階でもないのかもしれんね」

 店長は言う。

 結衣は帳面を開いた。売上の記録や仕入れのメモが続いている。その間のページに、小さな紙が一枚挟まっていた。折りたたまれた、小さなメモ用紙。三年前の日付が鉛筆で書き込まれている。

 開くと、走り書きに近い字があった。


 ――いなくなったことにしてください。


 それだけだった。

 結衣はしばらく、その文字を見つめた。

 いなくなった人の書いた言葉じゃない。自分でそう決めた人間の言葉だ。真帆は消えたんじゃなくて、消えることを選んだ。誰かに頼んで、その形を作った。

 では、誰が頼まれたのか。

 結衣は店長の顔を見た。店長は視線を外したまま、カウンターの端をゆっくりと指で撫でていた。

 窓の外に、商店街の夜が続いていた。相談箱が暗がりの中に置かれていた。三年間、誰かの言葉を待ち続けてきた投函口が、今夜もひっそりと口を開けている。


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