第一章 相談箱に入っていた、消えた姉の名前
朝の商店街は、開き切る前がいちばん静かだ。
まだ半分眠っているみたいなシャッターの列のあいだを、自転車の音だけが細く抜けていく。相沢結衣は文具店〈栞屋〉の鍵を開け、戸を引いた。乾いた音がして、少し遅れて紙とインクの匂いが流れ出す。
店先には、木の相談箱が置かれている。
角はすっかり丸くなり、白く塗られていたはずの文字も、いまはもうかすれて読みにくい。
――なんでも相談箱。そんな大げさな名前のわりに、最近入るのは子どものいたずらか、誰にも言えないほどでもない愚痴ばかりだった。
結衣は箱の蓋にたまった薄いほこりを指で拭って、小さく息をついた。
片づけてもいいのでは、と店長は何度も言う。けれど言うだけで、ほんとうにしまおうとはしない。だから結衣も毎朝なんとなく、店を開けるついでにそれを整える。今となっては習慣みたいなものだった。
その日、投函口の奥に、白いものが見えた。
折りたたまれた便箋を取り出したとき、結衣はまた子どもの悪ふざけだろうと思った。けれど、開いた紙に並んでいた文字は、思いのほか整っていた。
――三年前に消えた姉は、本当にいなくなったんでしょうか。
結衣はしばらく、その一文を見つめた。朝の光が店先から斜めに差し込み、便箋の端だけを白く照らしている。たった一行なのに、妙に目を離しにくかった。
差出人の名前はない。問い合わせ先も、返事をほしいという言葉もない。ただその一行だけが、律儀な字で真ん中に書かれていた。
店の奥から、野添総一郎が出てきた。六十八歳になるこの店長は、朝の開店準備でも急ぐということを知らない。背中を少し丸めながら、棚の文具をゆっくり並べ直している。
「今日も何か入ってたかい」
「ええ。少し、変わったものが」
結衣は便箋を差し出した。店長は老眼鏡を額に押し上げ、それを手に取って読んだ。表情はほとんど動かなかった。
「子どもかなあ」
「わかりません。でも、字がきれいで」
「そうだねえ」
それ以上は何も言わず、店長は便箋を結衣に返した。そのまま奥へ引っ込んでいく。結衣はその背中を少し見てから、手紙をカウンターの引き出しにしまった。
捨てるのが、なんとなくできなかった。
翌日の午後、店先でぐずぐずしている人影に気づいたのは、結衣が品出しをしていたときだった。
高校生くらいの男の子で、紺色のブレザーを着ていた。入ろうかどうしようか迷っているようで、店の前で三度ほど行き来してから、ようやく声をかけてきた。
「あの、相談箱って、今も使えますか」
「使えますよ。ずっと置いてあります」
「……昨日、手紙を入れたのは俺です」
結衣は手を止めた。
男の子は少しだけ顎を引き、目が合うと逸らしそうになるのをこらえているような顔をしていた。子ども扱いを嫌がっているのが、ひと目でわかった。
「入ってきますか」
うなずいて、彼はドアをくぐった。
水崎翔太、と名乗った。近所の高校に通っている。三年前から、商店街のそばで母と二人で暮らしている。
「姉が、いなくなりました。三年前に」
カウンターの前の丸椅子に座って、翔太は小さな声で話した。小さな声、というより、感情を声に出さないようにしているように見えた。
「突然だったんです。前の日まで普通だったのに、朝起きたらいなくて。母が『しばらく帰らない』と言われたって。でも、それだけで。どこへ行ったか、なんで行ったか、今どこにいるか、全部わからないままで」
「警察には」
「届けは出したらしいんですけど、すぐに本人からどこかに電話があったとかで。そのあとは、うやむやになった感じで。家では話題にすると重くなるし、どこかで誰かが本気で探してる様子もなくて」
「それが、不自然だと思った」
「……そうです」
翔太はうなずいた。俯き加減のまま、少しだけ力を込めるような声で。
「普通、知り合いが消えたら、もっと騒ぎになるじゃないですか。でもここは、なんか、みんな知ってるのに知らないふりしてるみたいで。誰に聞いても、顔だけ曇らせて、はぐらかすんですよ」
結衣は、手紙の一文を思い出した。
――三年前に消えた姉は、本当にいなくなったんでしょうか。
「私にできることはないと思います。家族のことを、相談箱から調べるのは」
「知ってる人がいるなら、それでいいんです」
翔太の言葉は短かった。
「誰も何も言わないから。誰に聞いても同じだから。だから、関係ない人に聞いてみようと思って」
結衣は少し考えてから、もう一度だけ口を開いた。
「お姉さんの名前、聞いてもいいですか」
「真帆。水崎真帆」
その名前に、何かが引っかかった。
記憶の薄い場所にある、静かな印象。
ずいぶん前のことだ。便箋を選んでいた若い女性がいた。あまり話したわけでもない。ただ、棚の前で少し迷っていて、結衣が一種類だけ勧めて、それを丁寧に受け取っていった。それだけのことだったのに、なぜか今も、その人の横顔だけが残っている。
水崎真帆。
結衣はその名前を、頭の中で一度繰り返した。
その夜、翔太が帰ってから、結衣は閉店作業をひとりでこなした。
棚を拭き、釣り銭を数え、電気を落とす。毎日やることが決まっていて、それがかえって頭を空っぽにさせてくれる。
ドアに鍵をかける前に、もう一度だけ相談箱に目をやった。
返事なんてほとんど返せない。最初からそうだった。箱を置いた店長も、わかっていてそうしていたはずだ。それでも誰かが言葉を落としていける場所があることを、結衣はどこかで大切だと思っていた。言葉にするだけで、少し軽くなることがある。受け取る誰かがいると思えるだけで、続きが書けることがある。
そう思うのは、結衣自身にも、ちゃんと聞けないまま終わったことがあるからかもしれなかった。
たずねるには遅く、飲み込むにはまだ少し重いまま残っていること。
返事がないまま時間だけが過ぎても、人は案外、そのことを胸の隅に置いたまま生きていけてしまう。
けれど、ときどき何でもない朝に、それが急に紙の端みたいに指先へ触れることがあった。
だから翔太の手紙も、捨てられなかったのだろうと思っていた。
翌朝、投函口の奥にまた白いものが見えた。
結衣は一瞬、また翔太が来たのかと思った。けれど折りたたんだ便箋を開くと、字が違った。丸みのある、やわらかい字。
書かれていたのは、三つのことだった。
――水色の鳥の絵が入った便箋。インクはグレーを勧めてもらった。「手紙は、出さなくても書くだけで少し楽になることがあるんですよ」と言われた。
それだけだった。差出人はない。何かを訴えているわけでも、教えを求めているわけでもない。ただそれだけが、丁寧な字で書かれていた。
結衣は、ゆっくり息を吐いた。
水色の鳥の便箋。グレーのインク。三年前の、棚の前の、あの横顔。そして、結衣が何気なく口にしたはずの一言。
それは噂から知れることじゃない。
あの場にいた人間か、あの場にいた人間から直接聞いた誰かでなければ、知りえないことだった。
閉店後、結衣は店長に二通の手紙を見せた。
店長はテーブルを挟んで向かいに座り、老眼鏡越しに便箋を読んだ。最初の一通を読み終えてから、少しだけ間があった。二通目を手に取ったとき、その指がほんのわずか止まったのを、結衣は見逃さなかった。
「店長、真帆さんのこと、知ってるんですか」
店長は視線を、手紙から少しだけ外した。正確には、結衣を見るでもなく、窓の外を見るでもなく、どこでもない場所へ。
「昔のことだよ」
「それは、知ってるということですか」
返事はなかった。
店長はしばらく黙って便箋を持ったまま、やがてそれを静かにテーブルに置いた。結衣はそれ以上は聞けなかった。けれど、沈黙の意味はわかった。
「そのことには」
店長が、ぽつりと言った。
「もう触れん方がいいと思っていたんだけどね」
それだけだった。
結衣は、その言葉の重さを確かめるように、しばらく黙って座っていた。触れん方がいい、という言い方は、知らないということじゃない。知っていて、それでも黙っていたということだ。
外では、商店街の明かりがひとつずつ落ちていく音がした。
静かな夜だった。相談箱は戸の外にあって、今ごろ暗い中に置かれている。差出人のいない二通の手紙が、引き出しの中で誰かの返事を待っている。
結衣は窓の向こうを少し見てから、手紙を引き出しにしまった。捨てる気には、まだなれなかった。




