誰のための数字
翌朝、春樹は八重洲の監査部オフィスに、少し早く出勤した。
昨日、藤原から受け取った現場管理表を、もう一度確認するためだった。
正式な進捗報告書では、テスト工程の完了率は九割を超えている。
一方、現場管理表では、修正対応が終わっていても、再テストが完了していない項目が残っていた。
数字の差は、集計方法の違いで説明できる可能性がある。
だが、問題はそこだけではなかった。
報告書に記載された数字が、どの資料を基に、誰の判断で作られたのか。
そして、その数字を見た人が、実際の進捗をどう理解するのか。
春樹は、そこを確かめたいと思っていた。
「小島さん、進捗報告書の作成過程を確認したいんです」
出勤してきた小島に声をかけた。
「システム部から提出された資料だけでなく、作成前の集計表や、関係者間のやり取りも見たい」
「分かりました。追加で依頼します」
「お願いします」
春樹は、パソコンを開いた。
数字を疑うことと、数字を作った人間を疑うことは、同じではない。
まずは、事実を積み上げる。
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午前十時。
監査部の会議室に、蓮井副部長が現れた。
春樹と小島が席に着くと、蓮井は持参した資料を机に置いた。
「進捗報告書の作成経緯について、確認したいということでしたね」
「はい。今回の報告書で、テスト工程の完了率を九割超とした根拠を教えていただきたいのです」
蓮井は、資料を開いた。
「各開発チームから進捗を集計し、システム部で取りまとめています。修正対応が完了したものを、完了項目として計上しています」
「再テストが終わっていない項目については、どのように扱っていますか」
「修正対応が終わっていれば、基本的には完了です。ただし、重大な不具合については、再テストの結果も確認しています」
春樹は、手元の現場管理表に目を落とした。
「現場では、修正対応と再テストを分けて管理しています。今回の報告書では、その区分が分かりにくくなっているように見えます」
蓮井は、少しだけ姿勢を正した。
「報告書は、経営層が全体の進捗を把握するためのものです。細かな工程をすべて記載することは、難しい面があります」
「その点は理解しています。ただ、報告書の完了率が、実際の工程のどこまでを示しているのかは、明確にする必要があると思います」
蓮井は、春樹を見た。
「監査部としては、報告の仕方に問題があると考えているのでしょうか」
「現時点では、判断していません。作成の経緯を確認している段階です」
春樹は、言葉を選んだ。
「ただ、報告書の数字と、現場で管理されている数字が異なる以上、その理由は明らかにしたいと考えています」
蓮井は、資料を閉じた。
「分かりました。作成時の資料を確認しておきます」
会議室を出る際、蓮井は一度だけ振り返った。
「監査部の確認は、どこまで進んでいるのでしょうか」
春樹は、すぐには答えなかった。
「必要な範囲で、確認を進めています」
蓮井は、小さく頷いた。
その表情から、何を考えているのかは読み取れなかった。
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蓮井が退室した後、小島が口を開いた。
「少し警戒しているように見えました」
「そうだね」
春樹は、会議室の窓から外を見た。
「でも、警戒する理由があるのかどうかも、まだ分からない」
「報告書の数字を作ったのは、蓮井副部長なのでしょうか」
「取りまとめをしているのは、システム部だ。蓮井さんが、どこまで関わっているかは、これから確認する」
春樹は、現場管理表を机に置いた。
「数字だけを見て、誰かを疑うのは簡単だ。でも、数字ができるまでの過程を見ないと、監査にはならない」
小島は、静かに頷いた。
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昼過ぎ、藤原から電話があった。
「昨日の件で、少し思い出したことがありまして」
春樹は、席を立ち、廊下に出た。
「峰さんのことですか」
「はい。あの頃のことを、もう少し話しておいた方がいいと思いました」
藤原は、しばらく言葉を探していた。
「峰さん、休職する少し前まで、私の仕事を手伝ってくれていたんです」
春樹は、黙って聞いた。
「私がリーダーになったばかりの頃、進捗会議で説明がうまくできなくて。会議が終わった後、峰さんが資料を見ながら、こう言ったんです」
『藤原さん、全部を一度に説明しようとしなくていいですよ。まず、何が終わっていて、何が終わっていないか。それだけでいいんです』
藤原は、少し笑った。
「その言葉に、助けられました。私が困っていると、いつもさりげなく手を貸してくれたんです」
「峰さんは、周囲のことをよく見ていたんですね」
「そうですね。昼休みに、よくコンビニのコーヒーを買ってきてくれました。私が忙しくて昼食を取れないと、『これ、余ったから』って、パンを置いていくんです」
藤原の声が、少しだけ柔らかくなった。
「でも、今思えば、峰さん自身が、誰よりも疲れていたんですよね」
春樹は、返す言葉が見つからなかった。
「私、あの人に何度も助けてもらったのに。最後は、助けることができなかった」
「藤原さん」
春樹は、静かに呼びかけた。
「今、話していただいたことは、監査のためだけに聞いているわけではありません。峰さんが、どんな状況に置かれていたのかを知るためです」
藤原は、電話の向こうで息を吐いた。
「ありがとうございます」
少し間があった。
「もう一つ、気になっていることがあります」
春樹は、耳を傾けた。
「峰さんが休む少し前、進捗会議の後に、私と峰さんで資料を確認していたことがありました。そのとき、峰さんが、木下部長から言われたことを話してくれたんです」
「どんな話でしたか」
「中島常務への報告があるから、遅れを何とかしてほしい。そう言われた、と」
春樹は、手元のメモを開いた。
「そのほかにも、何か話していましたか」
「峰さんは、再テストまで終わっていないものを完了として扱うのは、まずいんじゃないかと言っていました。修正しただけでは、本当に直ったか分からない。そういう話です」
「木下部長に、直接伝えたのでしょうか」
「そこまでは分かりません。ただ、峰さんは、現場の進捗表を正確に出すことにこだわっていました」
藤原は、少し言葉を詰まらせた。
「私も、当時はそこまで深く考えていませんでした。リーダーとして、遅れを取り戻すことばかり考えていたので」
春樹は、静かに聞いていた。
「峰さんは、何かを変えようとしていたのかもしれません。でも、私には、その声を拾う余裕がなかった」
「藤原さん、ありがとうございます。今の話は、確認する上で重要な手掛かりになります」
電話が切れた後、春樹はしばらく廊下に立っていた。
峰は、進捗を支える人間だった。
周囲にパンを置いていく人間だった。
そして、報告の数字が実態と異なることに、早くから気づいていた可能性がある。
春樹は、会議室に戻った。
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午後三時。
蓮井から、追加資料が届いた。
各開発チームの進捗集計表。
システム部で取りまとめた一覧表。
木下部長の確認印がある報告書の原案。
春樹と小島は、資料を並べて確認した。
「ここですね」
小島が、集計表の一か所を指さした。
開発チームから提出された資料では、修正対応済みの項目と、再テスト完了の項目が分けられていた。
しかし、システム部の取りまとめ表では、修正対応済みの項目が、完了として集計されている。
その数字が、正式な報告書に反映されていた。
「集計方法は、途中で変わっているんですね」
小島が言った。
「そうだね。ただ、誰が、いつ、どのような判断で変更したのかは、まだ分からない」
春樹は、資料の作成日を確認した。
取りまとめ表には、蓮井の名前が記載されていた。
木下の確認印もある。
「蓮井副部長が取りまとめたことは、分かりました」
「木下部長の確認も入っていますね」
「うん。でも、確認印があるからといって、木下部長が集計方法の変更を指示したとは限らない」
春樹は、原案をめくった。
「ここから先は、作成者と確認者、それぞれに聞く必要がある」
小島は、資料を整理した。
「まずは、蓮井副部長に、集計方法を変更した理由を確認しましょう」
春樹は頷いた。
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翌日、蓮井は再び監査部を訪れた。
今回は、春樹と佐伯が同席した。
「先日、提出いただいた資料について、追加で確認したいことがあります」
春樹は、取りまとめ表を机に置いた。
「開発チームから提出された資料では、修正対応と再テストが分けられています。一方、システム部の集計では、修正対応済みの項目が完了として扱われています。この変更は、どなたの判断でしょうか」
蓮井は、資料に目を落とした。
「……木下部長から、指示がありました」
春樹は、すぐには反応しなかった。
「どのような指示だったのでしょうか」
「修正対応が終わったものについては、完了として整理するように、ということです」
「再テストが終わっていない項目が含まれることは、木下部長も認識されていたのでしょうか」
蓮井は、少し間を置いた。
「認識されていたと思います」
「そのことを、報告書に記載するよう指示はありましたか」
「……いえ」
会議室に、短い沈黙が流れた。
佐伯が口を開いた。
「蓮井さん。今回の集計方法について、問題があると感じたことはありませんでしたか」
蓮井は、佐伯を見た。
「報告書の作成にあたっては、木下部長の指示に従いました。私としては、修正対応が進んでいることを示すための整理だと理解していました」
「その理解は、今も変わりませんか」
蓮井は、少し考えた。
「……現場の進捗を正確に伝えるという意味では、再テストの状況も記載すべきだったと思います」
春樹は、蓮井の言葉を記録した。
「ありがとうございます。もう一点、確認させてください」
春樹は、原案を指さした。
「この報告書を、中島常務に説明する前に、木下部長と蓮井副部長で確認されていますね」
「はい」
「その際、完了率の算出方法について、中島常務に説明する必要があるという話は出ましたか」
蓮井は、目を伏せた。
「……出ていません」
春樹は、静かに頷いた。
「分かりました。今日は、ここまでにします」
蓮井が席を立とうとしたとき、佐伯が声をかけた。
「蓮井さん。今回の件で、あなた自身が何かを隠していると決めつけているわけではありません。資料の作成過程を、正確に確認したいだけです」
蓮井は、少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます。ただ、私も、もう一度、当時のやり取りを確認しておきます」
そう言って、会議室を出ていった。
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蓮井が退室した後、春樹は資料を見つめていた。
「木下部長の指示で、集計方法が変わった」
「そうですね」
佐伯が答えた。
「ただ、木下部長がどういう認識で指示したのかは、直接聞く必要があります」
春樹は頷いた。
「はい。現場の進捗を示すための整理だったのか、それとも、別の意図があったのか」
佐伯は、少し考えてから言った。
「木下部長は、中島常務との定例報告を、かなり気にしていたはずです」
「中島常務から、何か言われていたのでしょうか」
「直接的な指示があったとは聞いていません。ただ、これまでのやり取りを考えると、木下部長が相当なプレッシャーを感じていた可能性はあります」
佐伯は、言葉を選ぶように続けた。
「中島常務は、計画を簡単に変える人ではありません。問題があれば、まず現行計画の中で解決することを求める。そういう姿勢でした」
「それが、木下部長には重かった」
「ええ。中島常務の期待に応えたいという気持ちもあったでしょう。自分が責任者として進めているプロジェクトですから」
春樹は、資料に目を落とした。
「ただ、プレッシャーを感じていたことと、報告の仕方を変えたことは別の話ですね」
佐伯は、春樹を見た。
「そのとおりです」
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木下部長へのヒアリングは、翌日の午後に設定された。
会議室に入ってきた木下は、落ち着いた様子だった。
春樹、佐伯、小島が席に着いている。
「今回の進捗報告書について、確認させていただきたいと思います」
春樹が切り出した。
「開発チームから提出された資料では、修正対応と再テストが分けられていました。一方、システム部の取りまとめ表では、修正対応済みの項目を完了として集計しています」
木下は、資料に目を落とした。
「はい。私の指示です」
「どのような理由で、集計方法を変更されたのでしょうか」
木下は、少し考えてから答えた。
「修正対応が終わった項目については、開発としての作業は進んでいると考えています。再テストが残っているものもありますが、修正が完了していれば、一定の進捗として評価できる」
「報告書には、テスト工程の完了率と記載されています。修正対応の完了率とは、意味が異なるのではないでしょうか」
佐伯が尋ねた。
木下は、佐伯を見た。
「確かに、表現としては、もう少し正確にすべきだったかもしれません」
春樹は、資料をめくった。
「現場では、再テストが終わっていない項目が七割台という管理表もあります。この状況について、木下部長は把握されていましたか」
「はい。把握しています」
「では、報告書の完了率が九割を超えていることについて、経営層に説明する必要があるとは考えませんでしたか」
木下は、すぐには答えなかった。
「進捗が遅れていることは、認識していました。ただ、修正対応は進んでいました。全体として、前に進んでいることを示したかった」
「再テストが終わっていないことも、報告すべきではなかったでしょうか」
木下の表情が、わずかに硬くなった。
「そうかもしれません。ただ、細かな数字を並べても、経営層には全体が伝わりにくい。報告の仕方には、ある程度の整理が必要です」
「その整理によって、実際の進捗よりも順調に見える可能性はありませんか」
木下は、春樹を見た。
「……そこまでの意図はありませんでした」
春樹は、返事をせずに次の資料を開いた。
「中島常務には、どのように説明されていたのでしょうか」
木下は、少し背筋を伸ばした。
「スケジュールに遅れが出ていることは、報告しています。要員を追加し、修正対応を進めていることも説明しました」
「中島常務からは、どのような話がありましたか」
「現行計画の中で、何とかできないかという話です」
木下は、机の上の資料に目を落とした。
「中島常務も、プロジェクトが遅れていることは理解されていました。ただ、スケジュールを変更すれば、経営への説明も必要になります。まずは、要員を追加して、遅れを取り戻すようにと」
「スケジュールの見直しを提案されたことはありますか」
「あります」
木下は、少しだけ間を置いた。
「ただ、今の段階で計画を変えるのは難しい。そういう雰囲気でした」
「中島常務から、明確に計画を変更するなと言われたのでしょうか」
「いえ。そういう言い方ではありません」
木下は、すぐに答えた。
「ただ、これまで何度も、現行計画で進めることを求められてきました。こちらとしても、何とかしなければならないと思っていました」
春樹は、木下の言葉を聞きながら、少しずつ輪郭が見えてくるのを感じていた。
「今回の集計方法を変更したのは、いつ頃ですか」
「進捗が厳しくなってきた頃です」
「その判断は、木下部長ご自身でされたのですか」
木下は、しばらく黙っていた。
「……最終的には、私の判断です」
「蓮井副部長には、どのように伝えましたか」
「修正対応が終わったものは、完了として整理するようにと」
「再テストが残っていることを、報告書に記載するよう指示はされなかったのですか」
木下は、視線を上げた。
「報告書のスペースも限られていますし、細かいところまで記載する必要はないと考えました」
春樹は、静かに尋ねた。
「ただ、完了率が九割を超えていると報告すれば、受け取る側は、テストがほぼ終わっていると理解するのではないでしょうか」
木下は、口を閉じた。
会議室に、時計の音だけが聞こえた。
「……結果として、そう受け取られる可能性はあります」
木下の声は、少し小さくなった。
「ただ、私としては、何とかプロジェクトを前に進めたかったんです。現場も頑張っていましたし、修正作業そのものは進んでいた。そこを評価してほしかった」
「現場の負荷については、どう考えていましたか」
木下は、椅子の背もたれに寄りかかった。
「厳しい状況だったことは分かっています。峰君のこともあります」
「峰さんが休職する前、どのような状況だったか、把握されていましたか」
「忙しくしていることは知っていました。本人からも、負荷が高いという話はありました」
「人員の追加や、スケジュールの見直しは検討されましたか」
「要員の追加は検討しました。ただ、すぐに経験者を確保できるわけではありません。スケジュールを変えることも、簡単ではありませんでした」
木下は、そこで一度言葉を切った。
「峰君には、もう少し頑張ってもらいたいと思っていました。あの人なら、何とかしてくれると……」
言いかけて、木下は口を閉じた。
「今思えば、それも間違っていたのかもしれません」
その言葉に、春樹は木下の顔を見た。
木下は、机の上の資料を揃えた。
「私も、プロジェクトを失敗させたくなかった。中島常務から任されていましたし、ここで計画を変更すれば、これまでの管理の仕方も問われることになる。何とか予定どおり進めることが、自分の責任だと思っていました」
春樹は、木下の言葉を遮らなかった。
「ただ、結果として、現場に無理をさせたことは否定できません」
木下は、少しうつむいた。
「報告書の数字についても、今になって考えれば、もっと正確に書くべきだったと思います」
春樹は、記録を続けた。
木下の話には、焦りも、後悔もあった。
だが、自分の判断が誤っていたと認めることには、まだ抵抗があるように見えた。
木下は、ふと顔を上げた。
「今回の監査結果は、どこまで報告されるのでしょうか」
春樹は、木下を見た。
「監査結果の報告先、ということでしょうか」
「はい。頭取まで報告されるのでしょうか」
木下の声は、先ほどまでよりも慎重だった。
春樹は、少し考えてから答えた。
「監査部の報告ルートに従って、必要な経営層や取締役会に報告することになります。内容と重要性に応じて判断されます」
木下は、目を伏せた。
「……取締役会にも、ですか」
「その可能性はあります」
木下は、しばらく黙っていた。
机の上の資料を、揃え直す。
一度揃えた資料を、もう一度、揃え直した。
「分かりました」
その声は、先ほどよりも小さかった。
春樹は、木下の表情を見た。
監査結果がどこまで報告されるのか。
木下が気にしているのは、プロジェクトの問題だけではないのかもしれない。
自分の判断が、どこまで明らかになるのか。
そのことを、木下は意識し始めているように見えた。
「木下部長の認識は分かりました。本日の確認は、ここまでにします」
春樹がそう言うと、木下は小さく頭を下げた。
会議室を出る直前、木下は振り返った。
「一つだけ、言わせてください」
春樹は、顔を上げた。
「私は、誰かに数字を偽れと言われたわけではありません。自分で判断しました」
その言葉は、言い訳のようにも、覚悟の表明のようにも聞こえた。
「分かりました。そこも含めて、確認した事実を整理します」
木下は、静かに会議室を出ていった。
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会議室に残った三人は、しばらく口を開かなかった。
先に話したのは佐伯だった。
「中島常務から、直接的な指示はなかったようですね」
「はい。ただ、木下部長は、中島常務の意向をかなり意識していたように感じました」
春樹は、記録を見直した。
「中島常務は、現行計画で進めることを求めた。木下部長は、それに応えようとした。そして、自分の判断で報告の数字を変えた」
「その結果、現場の状況が見えにくくなった」
小島が言った。
春樹は頷いた。
「それだけじゃない。木下部長自身も、計画を変更すれば、自分の管理責任が問われると考えていた」
佐伯は、何も言わなかった。
「中島常務の期待に応えたい気持ちもあったでしょう。でも、自分を守りたい気持ちもあった。どちらか一つではないと思います」
佐伯は、資料を閉じた。
「そうですね」
少し間を置いてから、佐伯が続けた。
「中島常務は、あのような言い方をする人です。明確な指示を出さなくても、何を求めているかは分かる。私も、そういう場面を何度も見てきました」
春樹は、佐伯の顔を見た。
「それは、仕事を進める上では、良い面もあるのでしょうね」
「ええ。判断が早く、方向性も明確です。部下が自分で考えて動けるようにする。そういう人でもあります」
佐伯は、少し視線を落とした。
「ただ、今回のように、部下がその意向を先回りして受け取ってしまうこともあるのかもしれません」
春樹は、すぐには答えなかった。
誰かが明確に命令したわけではない。
それでも、上の人間が望む結果を察し、期待に応えようとする。
そのうちに、誰もが少しずつ無理をする。
そして、誰もが自分の判断を正当化する。
組織は、そうやって歪んでいくのかもしれない。
「中島常務に、確認する必要がありますね」
春樹が言うと、佐伯は頷いた。
「私が、直接聞きます」
その声には、いつもの落ち着きがあった。
ただ、資料を閉じる手は、いつもより少しゆっくりだった。
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その夜、春樹は自宅で、美和と夕食を取っていた。
食事を終え、二人で冷凍庫からアイスモナカを取り出した。
美和は、春樹の顔を見た。
「今日は、何か進んだ?」
「うん。報告書の数字が、どうやってできたのかは分かった」
「でも、まだ終わってないんだね」
「そうだね。次は、その数字を受け取った人が、何を知っていたのかを確認する」
春樹は、モナカを一口食べた。
「誰かが、直接、悪いことをしろと言ったわけじゃない。でも、上の人間が何を望んでいるかを察して、先回りしてしまうことがある」
「それって、会社ではよくあることなの?」
「あると思う。期待に応えようとするのは、悪いことじゃない。でも、期待に応えることが目的になると、いつの間にか、正しいことよりも、求められていることを優先してしまう」
美和は、少し考えてから言った。
「言われていないのに、言われたように感じてしまうんだね」
「そうだね」
春樹は、モナカを見つめた。
「でも、だからといって、何をしてもいいわけじゃない。最後に判断したのは、それぞれの人間だから」
美和は、静かに頷いた。
「難しいね」
「うん。だから、事実を確かめるしかない」
春樹は、最後の一口を食べた。
木下は、自分の判断だったと言った。
その言葉を、春樹は忘れないようにしようと思った。
次に確認するのは、中島常務だ。
何を知っていたのか。
何を望んでいたのか。
そして、木下が何を受け取っていたのか。
その答えを聞く前に、春樹はもう一度、佐伯と確認事項を整理する必要があると感じていた。




