聞かなかった声
「声は、届かなかったのではありません」
佐伯は、中島常務を前にして、静かに言った。
「聞かなかったんです」
会議室の空気が、わずかに変わった。
中島は、手元の資料から顔を上げた。
「佐伯君。そういう言い方をされると、私も困る。現場の状況をすべて把握できるわけではない。システム部長に任せていた部分もある」
「お任せになったことは、理解しています。ただ、任せることと、見なくていいことは違います」
佐伯は、言葉を選びながら続けた。
「人が足りない。遅れが出ている。担当者の負荷が高まっている。そうした報告は、少なくとも上がっていたはずです」
「報告は受けていた。しかし、プロジェクト全体としては、まだ挽回できると考えていた」
「その判断の根拠を、確認させていただきたいんです」
中島は、少しだけ眉を寄せた。
「現場には、最後までやり切る力がある。私はそう信じていた」
「信じることは大切だと思います。でも、信じることが、現実を確認しない理由になってはいけないと思います」
春樹は、隣で二人のやり取りを聞いていた。
佐伯が中島に対して、ここまで踏み込んだ言葉を口にするのは初めてだった。
中島は、かつて佐伯が経営企画部にいた頃から、彼の能力を高く評価していた。佐伯にとっても、中島は仕事の進め方を教えてくれた上司だった。
その関係が、今、監査という立場の中で揺らいでいる。
「……分かった」
中島は、資料を閉じた。
「経営会議で、改めて報告する。実際の進捗を確認し、必要であればスケジュール変更も検討しよう」
佐伯は、すぐには返事をしなかった。
「よろしくお願いいたします」
最後に、そう頭を下げた。
会議室を出た後、春樹は佐伯に声を掛けた。
「かなり踏み込みましたね」
「そうだな。言い過ぎたかもしれない」
「そうは思いません」
佐伯は、歩きながら答えた。
「中島常務には、教わったことも多い。だからこそ、簡単には言えなかった」
春樹は、何も言わなかった。
佐伯が、これまで中島を信じてきたことは知っている。
その信頼を否定するのではなく、信頼している相手に対しても、必要なことを伝える。
それは、佐伯自身にとっても、大きな変化だった。
「経営会議の判断を待ちましょう」
春樹が言った。
佐伯は、小さく頷いた。
「今度こそ、実態を踏まえた判断をしてくれると思う」
その言葉には、まだ期待が残っていた。
*
経営会議の審議結果が共有されたのは、数日後だった。
春樹は、佐伯とともに資料を確認した。
「……挽回可能、か」
佐伯が、資料の一文を読み上げた。
プロジェクトには一部課題があるものの、関係部署が連携して対応することで、現行スケジュールでの完了は可能と判断する。
現時点では、スケジュール変更は行わない。
春樹は、もう一度、資料を読み直した。
「実際の進捗は、判断に反映されているんでしょうか」
「少なくとも、私たちが確認した再テストの状況とは整合していない」
佐伯は、資料を机に置いた。
「スケジュール変更も検討すると言っていたのに」
その声には、怒りよりも落胆があった。
中島常務は、現場の実態を踏まえて判断すると約束した。
しかし、経営会議で示された結論は、これまでと変わらなかった。
課題は認識している。挽回は可能である。だから、スケジュールは変えない。
「佐伯さん」
春樹が、静かに声を掛けた。
「監査部としての見解を、改めて整理する必要がありますね」
佐伯は、しばらく資料を見つめていた。
「そうだな。経営会議の判断を否定することが目的ではない。ただ、現行スケジュールを維持する根拠が、十分に示されていない」
「スケジュールを変更しないこと自体が問題なのではありません。実態に基づく検証と、具体的な挽回策が必要です」
「その点を、監査部として明確にしよう」
春樹は頷いた。
「分かりました」
*
監査会議の前日。
監査部の会議室には、監査部長の相沢、佐伯、春樹が集まっていた。
机の上には、監査報告書の最終案が置かれている。
監査部は、スケジュールの見直しを含めた是正が必要との見解を示している。一方、システム部は、現行スケジュールでの挽回が可能との立場を崩していない。
双方の見解は一致していなかった。
報告書には、監査部とシステム部、それぞれの見解が併記されていた。
「こういう形で上程するのは、異例ですね」
春樹が言った。
相沢は、報告書に目を通したまま答えた。
「異例ではある。ただ、合意できないからといって、監査部の見解を曖昧にするわけにはいかない」
佐伯が補足した。
「事実関係については、双方で確認しています。見解が異なる部分を、無理に一つにまとめることはできません」
相沢は、顔を上げた。
「その通りだ。今回は、両論併記で上程する。監査部としての判断も、明確に説明する」
春樹は、報告書を見つめた。
合意がないことを隠すのではなく、合意に至らなかった事実も含めて報告する。
相沢の了承を得て、報告書は監査会議に上程されることになった。
*
監査会議当日。
会議室には、片桐頭取を議長として、監査役、関係役員が出席していた。
中島常務も、関係役員として席に着いている。
佐伯が、監査部の報告を始めた。
「今回のシステム開発プロジェクトについて、監査部としては、進捗管理、要員管理、経営への報告体制に改善すべき課題があると判断しております」
会議室は、静かだった。
佐伯は、資料を一枚めくった。
「まず、進捗管理についてです。システム部の経営報告では、テスト工程の進捗は九割を超えているとされています。一方、監査部が現場の管理資料を確認したところ、修正後の再テストが完了していない案件が相当数残っており、再テストの完了率は七割台にとどまっていました」
中島が、資料に目を落とした。
佐伯は続けた。
「また、完了の判定基準にも問題がありました。修正プログラムの適用をもって完了としている案件がありましたが、修正後の再テストが終わっていなければ、品質が確認されたとは言えません」
「それは、すべての案件に当てはまる話なのか」
中島が口を挟んだ。
「いえ。監査部が抽出した案件について、管理資料とテスト記録を照合した結果です。ただし、完了基準が部署内で統一されていないことは確認しております」
中島は、資料をめくった。
「完了基準については、システム部でも整理しているはずだ」
「整理されていることは確認しています。ただ、実際の進捗管理において、その基準が一貫して適用されていませんでした」
佐伯は、資料を置いた。
「さらに、進捗数値の集計方法について、蓮井副部長に確認したところ、木下システム部長の指示に基づき、修正対応が完了した案件を、再テストの完了を待たずに完了として集計していたとの説明を受けています。その結果、経営報告の数値と、現場の管理資料との間に整合しない部分が生じていました」
中島が、顔を上げた。
「木下部長の判断だったということか」
「はい。木下部長へのヒアリングでも、本人の判断で行ったとの説明を受けています」
佐伯は、淡々と説明した。
「これらの事実から、監査部としては、報告上の進捗が、実際の作業状況を適切に反映していなかったと判断しています」
中島は、椅子に深く座り直した。
「しかし、プロジェクト全体としては、現行スケジュールでの完了は可能だと、システム部から報告を受けている。経営会議でも、その前提で審議した。監査部が、スケジュールの見直しを必要と判断する理由は何だ」
佐伯は、次の資料を開いた。
「残作業の内容と、要員配置についても確認しています。未完了の再テストに加え、修正後の確認作業が残っています。現場では、複数の担当者が複数の工程を兼務しており、特定の中堅社員に作業が集中していました」
「それは、プロジェクトの進め方の問題だろう。適切に人員を配置すれば、対応できるのではないか」
「人員配置の見直しは、必要だと考えています。ただ、現時点で、現行スケジュールを維持したまま、どのように作業を完了させるのか。具体的な要員計画と挽回策は、確認できておりません」
中島は、資料を閉じた。
「挽回策は、システム部が検討している」
「検討していることは、承知しています。しかし、監査部が確認した資料では、残作業と必要工数、要員の稼働状況を踏まえた計画にはなっていませんでした」
中島は、少し間を置いた。
「スケジュールを変更すれば、開発費用も増える。関係部署への影響も大きい。簡単に変更を判断できるものではない」
「その点は、監査部も理解しております」
佐伯は、落ち着いた声で答えた。
「ただ、現行スケジュールを維持するのであれば、それを裏付ける具体的な計画が必要です。監査部は、スケジュール変更そのものを目的としているわけではありません。実態に基づいた計画と、必要な是正が行われることを求めています」
中島は、再び佐伯に向き直った。
「監査部は、少し慎重になり過ぎているのではないか」
佐伯は、手元の資料を閉じた。
「中島常務。監査部は、スケジュール変更を求めるために、事実を確認しているわけではありません」
一呼吸置いた。
「確認した事実から、必要な是正を求めています」
中島は、黙った。
その時、黒田常務が口を開いた。
「少し、よろしいですか」
人事担当常務の黒田だった。
「私は、人事担当として、システム部の人員状況を確認しています。この一年で、システム部の休職者は十名を超えています。退職者も増えている。さらに、三六協定の上限に近い残業をしている社員が、かなりの数に上っています」
会議室が、静かになった。
「個々の休職や退職には、それぞれ事情があるでしょう。すべてをこのプロジェクトに結びつけるつもりはありません。ただ、部門全体として、看過できない状態にあることは事実です」
中島は、少し身を乗り出した。
「それは、システム部全体の人員構成や、業務量の問題もあるのではないか」
「その可能性はあります。だからこそ、現状をきちんと見直す必要があります」
黒田は、資料を置いた。
「遅れを挽回するために、さらに負荷をかけることが適切なのか。人事としては、看過できません。システム開発は、銀行の将来にとって重要です。しかし、社員が健康を損ない、退職し、現場を支える人間が減っていけば、プロジェクトそのものが立ち行かなくなる」
黒田は、続けた。
「もし計画の見直しが必要なのであれば、早い方が傷は浅い。今、見直すことによる影響と、無理に現行計画を維持した場合の影響。その両方を、経営として考えるべきだと思います」
春樹は、黒田の言葉を聞いていた。
人事担当としての発言だった。
だが、単に人員の問題を指摘しているのではない。
このままでは、プロジェクトを支える人間がいなくなる。
黒田は、その危機感を伝えていた。
中島は、資料をめくった。
「……現場の状況については、システム部からも、適宜報告を受けている。人員不足や残業については、必要な対応をしていると認識していた」
「必要な対応が十分だったかどうかは、今回の監査で確認されているところです」
黒田は、穏やかに返した。
中島は、少しだけ表情を変えた。
「そもそも、システム部から正しく報告が上がっていなかった。私としても、報告を受けた内容を前提に判断せざるを得なかった。現場の状況が正確に伝わっていなければ、経営としても対応には限界がある」
佐伯は、中島を見た。
「中島常務」
中島は、言葉を続けようとした。
「システム部の管理に問題があったことは、認めている。しかし、経営側が実態を把握できていなかったことまで、監査部の指摘として扱われるのは違うのではないか」
佐伯は、静かに言った。
「聞こえなかった声と、聞かなかった声は違います」
中島の言葉が止まった。
佐伯は、続けた。
「監査部は、現場の管理資料とヒアリングを通じて、人員不足や遅延、担当者の負荷について確認しています。すべての状況が正確に伝わっていたわけではありません。しかし、問題があることは、認識できたはずです」
「……」
「報告が不十分だったことを、経営判断の理由とすることはできます。ただ、それによって、経営として確認すべき問題がなくなるわけではありません」
会議室の空気が、張り詰めた。
佐伯は、最後に言った。
「監査部は、誰か一人の責任を追及するために、ここにいるわけではありません。確認した事実を踏まえ、必要な是正を求めています」
中島は、資料に目を落とした。
反論を探しているようにも見えた。
だが、言葉は続かなかった。
黒田常務が、再び口を開いた。
「片桐頭取。もう一度、経営会議で審議すべきではないでしょうか」
出席者の視線が、黒田に集まった。
「今回のプロジェクトは、銀行の基幹システムに関わるものです。大きくスケジュールを変更することになれば、追加コストだけでなく、銀行の信用にも影響が出る可能性があります。だからこそ、現行スケジュールで本当に挽回できるのか、変更した場合にどのような影響があるのか。実際の進捗を踏まえ、経営として改めて判断する必要があると思います」
黒田は、春樹の方を見た。
春樹は、わずかに背筋を伸ばした。
黒田の視線に、何かを問われたような気がした。
しかし、春樹は何も言わなかった。
監査部として確認した事実は、すでに報告されている。
ここで自分が言葉を足す必要はなかった。
片桐頭取は、会議室を見渡した。
「分かった。来週の経営会議で、改めて審議する。実際の進捗、スケジュール変更の必要性、変更した場合の影響を整理して報告するように」
「承知しました」
中島が答えた。
佐伯も、頭を下げた。
「ありがとうございます」
片桐頭取は、資料を閉じた。
「本日の監査会議は、これで終了する」
会議室の空気は、まだ重かった。
*
会議が終わり、廊下に出た春樹は、佐伯と並んで歩いていた。
「佐伯さん」
「何だ」
「大変なことになりましたね」
佐伯は、少しだけ笑った。
「そうだな。監査部としては、異例の報告だったから」
「中島常務との関係も、変わってしまうかもしれません」
佐伯は、足を止めた。
「もう、変わっている」
春樹は、何も言わなかった。
「私は、中島常務を信じていた。だから、あの人が現場の声を聞いて、判断を変えてくれると思っていた」
佐伯は、窓の外を見た。
「でも、信じている相手だからこそ、見たくないものを見ないことがあるのかもしれない」
春樹は、少し考えてから言った。
「それでも、今日の報告は必要だったと思います」
佐伯は、春樹の方を見た。
「そうか」
「はい」
それ以上、春樹は言葉を重ねなかった。
佐伯も、何も言わなかった。
二人は、しばらく黙って歩いた。
佐伯が、何かを言いかけた。
しかし、すぐに口を閉じた。
春樹は、それに気づいたが、何も尋ねなかった。
佐伯は、わずかに頷いた。
その口元に、ほんの小さな微笑みが浮かんだ。
「戻ろう」
「はい」
二人は、監査部のあるフロアへ向かった。
佐伯は、いつものように先を歩いた。
春樹は、その半歩後ろを歩いた。
いつもと同じ廊下だった。
けれど、二人の間にある距離は、少しだけ違っていた。
*
その夜、春樹は自宅のソファに座っていた。
冷蔵庫から取り出したアイスを、手に持っている。
美和が、隣に腰を下ろした。
「今日は、疲れた顔をしてるね」
「そうかな」
「うん。いつもより、ちょっとだけ」
春樹は、アイスの蓋を開けた。
「会社って、難しいな」
「何が?」
「正しいことを言っても、それだけじゃ変わらないことがある」
美和は、春樹の顔を見た。
「でも、言わなかったら、もっと変わらないんじゃない?」
春樹は、少し笑った。
「そうだな」
美和は、自分のアイスを一口食べた。
「それに、変わるのに時間がかかることもあるよ」
春樹は、スプーンを止めた。
今日の会議を思い出す。
佐伯の言葉。
中島の沈黙。
黒田の発言。
そして、頭取の判断。
すぐに何かが変わるわけではない。
それでも、誰かが声を上げなければ、何も始まらない。
「美和」
「ん?」
「アイス、もう一個ある?」
美和は、冷蔵庫の方を見た。
「あるけど。食べ過ぎじゃない?」
「今日は、いいだろ」
「そういう日もあるか」
美和は、笑いながら立ち上がった。
春樹は、食べかけのアイスを口に運んだ。
冷たさが、少しずつ広がっていく。
明日も、仕事は続く。
けれど、今夜はもう少しだけ、ここにいたかった。




