数字の向こう側
翌朝、春樹は小島とともに、前日の監査資料を確認していた。
システム更改プロジェクトの進捗報告書には、テスト工程の完了率が九割を超えたと記載されている。
数字だけを見れば、遅れはあるものの、終盤に差しかかっているように見えた。
しかし、昨日、開発現場で藤原から聞いた話とは、どこか噛み合わない。
「小島さん、昨日の現場管理表、もう一度見せてもらえますか」
小島がファイルを開いた。
「これですね。修正対応まで終わった項目は、確かに多いんですが……」
「再テストまで済んでいるものは?」
小島が表をスクロールする。
「七割台です」
春樹は報告書と管理表を並べた。
完了率の差は、単なる集計時点の違いなのか。それとも、完了の定義そのものが違うのか。
「数字が違うことだけで、何かを決めつけるわけにはいかない。ただ、何をもって完了としているのかは、確認する必要がある」
春樹はそう言って、藤原に連絡を入れた。
昼前、藤原が監査部の会議室に現れた。
手には、昨日と同じ現場管理表があった。
「正式な報告書とは別に、現場で使っているものです。修正した項目と、再テストまで終わった項目を分けて管理しています」
春樹は表を受け取った。
「報告書の九割という数字は、修正対応まで終わった項目を完了としているんですか」
「そうだと思います。少なくとも、現場では再テストまで終わっていないものも残っています」
「この管理表は、正式な進捗報告に使われているんですか」
藤原は少し考えてから答えた。
「いえ。開発チームの管理用です。報告書にどこまで反映されているかは、私も把握しきれていません」
春樹は頷いた。
「分かりました。まずは、報告書と現場管理表の集計方法を確認します」
藤原は、表を渡したまま、しばらく黙っていた。
「……もう一つ、話しておいた方がいいことがあります」
春樹は顔を上げた。
「峰さんのことです」
---
藤原は、峰がプロジェクトに加わった当初のことを話し始めた。
峰は、システムの仕様に詳しかった。問題が起きると、誰かに聞かれる前に原因を調べ、関係者に説明していた。
自分の担当だけでなく、周囲の作業が滞っていれば、自然と手を貸していた。
「私も、何度も助けてもらいました。あの人がいなかったら、もっと早い段階で行き詰まっていたと思います」
プロジェクトの遅れが目立ち始めると、開発メンバーの残業は増えた。
休日に出勤する者もいた。
峰も、その一人だった。
最初のうちは、本人も「今だけだから」と笑っていたという。
だが、次第に様子が変わっていった。
朝、出社しても、なかなかパソコンを開かない。
同じ資料を何度も確認する。
以前ならすぐに答えていた質問にも、少し時間がかかるようになった。
「最近、寝ても疲れが取れないんですよ」
藤原がその言葉を聞いたのは、ある日の昼休みだった。
峰は、机で昼食を取っていた。
「大丈夫ですか」
そう尋ねると、峰はいつものように笑った。
「大丈夫。ちょっと忙しいだけだから」
その後も、峰は出勤を続けた。
遅刻が増えた。午後から出社する日もあった。半日で帰ることもあった。
周囲も忙しく、誰もが余裕を失っていた。
藤原自身も、担当業務を抱えながら、プロジェクト全体の進捗を追うことに追われていた。
峰の変化には気づいていた。
しかし、仕事を頼めば、峰は引き受けてくれた。
それが、藤原にとっても、プロジェクトにとっても、いつしか当たり前になっていた。
「あるとき、峰さんから聞いたんです」
藤原は、視線を落とした。
「木下部長から、こんな状況では中島常務に報告できない、何とか遅れを取り戻せ、と言われたそうです。残業を増やしてでも、という話だったと」
春樹は、黙って聞いていた。
「峰さんは、今の人数で残業を増やしても、ミスが増えるだけだと言ったそうです。人を増やすか、スケジュールを見直す必要がある、と」
「木下部長は、何と?」
「詳しくは聞いていません。ただ、峰さんは、その後もずっと気にしていました」
藤原は一度言葉を切った。
「その頃から、峰さんは自分の仕事が終わっても、なかなか帰らなくなりました。誰かの作業が遅れていると、手伝っていたんです」
ある朝、峰は出社しても席に着いたまま、しばらく動かなかった。
藤原が声をかけると、峰は「すみません、少しだけ」と言った。
その日の午後、峰は早退した。
翌日も、出社しなかった。
最初は、体調不良による休みだと思っていた。
だが、数日後、峰から電話があった。
「藤原さん、申し訳ありません。引き継ぎのことだけ、確認させてください」
声は、いつもの峰とは違っていた。
藤原は、仕事の話を続けることができなかった。
「峰さん、今は仕事のことはいいです。まず、休んでください」
そう言うと、峰はしばらく黙っていた。
「……すみません」
その言葉を最後に、電話は終わった。
峰は、そのまま休職した。
藤原は、峰の体調について、詳しいことは知らない。
ただ、プロジェクトの中心にいた人間が、ある日、仕事に来られなくなった。
それだけは、確かなことだった。
「峰さんが休んでから、私がプロジェクトリーダーになりました」
藤原は、苦笑した。
「正直、私には荷が重かったです。技術的なことは分かっても、全体をまとめるのは得意じゃない。関係部署との調整も、うまくできませんでした」
春樹は、藤原の話を遮らなかった。
「もっと早く、休んでいいんだと言ってあげればよかった。そう思っています」
藤原は、少しだけ顔を上げた。
「でも、私自身も、どうすればいいのか分からなかったんです」
春樹は、胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。
「……それは、あまりにもひどい話ですね」
言葉にした途端、自分の声が少し強くなったことに気づいた。
藤原は、何も言わなかった。
「藤原さんを責めているわけではありません」
春樹は、言い直した。
「ただ、こういう状況が起きていたことは、監査として見過ごせません」
藤原は、小さく頷いた。
---
藤原が帰った後、春樹は小島と資料を整理した。
現場管理表には、修正対応の完了と、再テストの完了が分けて記録されていた。
一方、正式な進捗報告書では、修正対応を終えた項目が完了として集計されている。
それが、報告率の差を生んでいる可能性があった。
「集計方法の違い、ということですか」
小島が尋ねた。
「今の段階では、そういう可能性がある。ただ、それだけで済む話なのかは、まだ分からない」
春樹は、現場管理表を見つめた。
そこには、再テストが未完了の項目だけでなく、担当者の名前も記載されていた。
一つひとつの項目の向こうに、誰かの仕事がある。
そして、その仕事を支えていた人間が、今は職場にいない。
春樹は、資料を閉じた。
「報告書の数字だけを見ていたら、峰さんのことは分からなかったな」
小島は、静かに頷いた。
---
その日の午後、佐伯は春樹を会議室に呼んだ。
「昨日の話ですが」
佐伯は、いつものように資料を机に置いた。
「監査の範囲を、もう少し広げる必要があるかもしれません」
春樹は、少し意外に感じた。
「佐伯さんから、そう言ってもらえるとは思いませんでした」
「何ですか、それは」
佐伯は、わずかに眉を動かした。
「私は、必要なことを言っているだけです」
しばらく、二人の間に沈黙があった。
佐伯は、窓の外に目を向けた。
「中島常務は、私が経営企画にいた頃の上司です」
春樹は、初めて聞く話だった。
「厳しい人でした。ただ、数字や計画に対しては、筋を通す人だった。私は、あの人から多くのことを学びました」
佐伯の声には、敬意があった。
「だからこそ、今回の件が気になっています」
「中島常務が、どこまで知っていたのか」
「そうです。プロジェクトが遅れていることは、知っていたはずです。ですが、現場で何が起きていたのかまで把握していたのかは、分からない」
佐伯は、資料の端を指で揃えた。
「私も、これまでの報告を見て、必要な管理は行われていると思っていました。会議も、報告も、承認も、形式上は整っていた」
「形式が整っていることと、実態が伴っていることは、別ですから」
春樹が言うと、佐伯は小さく頷いた。
「分かっています。ただ、もう少し時間をください」
春樹は、佐伯の顔を見た。
彼は、単に中島をかばっているわけではない。
自分が信じてきたものと、目の前にある事実との間で、揺れているのだ。
「もちろんです。事実を確認するのが、私たちの仕事ですから」
佐伯は、何も言わずに資料を持ち上げた。
---
一方、システム部では、木下が蓮井副部長と向き合っていた。
「監査部から、現場管理表の提出を求められたそうだな」
蓮井は、手元の資料を見た。
「はい。正式な報告書との集計方法について、確認されているようです」
木下は、椅子に深く腰掛けた。
「修正対応が終わったものは、完了として扱っている。再テストが残っているからといって、すべて未完了にするわけにもいかない」
「ただ、現場では再テストまで終わっていないものもあります」
「それは分かっている」
木下の声は、少し強くなった。
「進捗の説明の仕方だ。どこまで進んでいるのか、全体が分かるように整理しておく必要がある」
蓮井は、木下の顔を見た。
「現場の実態も含めて、整理するということですね」
木下は、すぐには答えなかった。
「そうだ。中島常務への説明もある。数字だけが独り歩きしないようにしてくれ」
「承知しました」
木下は、資料に目を落とした。
「引き続き、よろしく頼む」
明確な指示ではなかった。
だが、蓮井には、木下が何を求めているのか、ある程度分かっていた。
報告の数字を、これ以上、問題にしたくない。
それが、木下の本音なのだろう。
蓮井は、会議室を出た。
---
中島常務の執務室では、木下がプロジェクトの状況を説明していた。
「テスト工程は、予定より遅れています。ただ、要員を追加し、修正対応を進めています。今後、遅れを取り戻せる見込みです」
中島は、資料に目を通した。
「現場の負荷はどうなっている」
「一時的に高くなっていますが、対応可能な範囲です」
中島は、しばらく考えていた。
「峰君の件もある。人員の状況は、よく見ておいてくれ」
「承知しました」
中島は、資料を閉じた。
「スケジュールを変更するとなると、経営への説明が必要になる。まずは、現行計画の中で対応できるか、検討してほしい」
木下は、頭を下げた。
「分かりました」
中島は、木下が退室した後も、しばらく机に向かっていた。
遅れが出ていることは、知っていた。
現場の負荷が高まっていることも、聞いていた。
峰の休職も、気にかけていた。
ただ、それぞれの問題が、どこまで深刻になっているのかは、把握できていなかった。
計画を見直せば、これまでの判断について説明しなければならない。
自分が責任を持って進めてきたプロジェクトだった。
木下が、何とかしてくれる。
そう考えていた。
---
夕方、春樹は相沢部長に、これまでの確認事項を報告した。
「現場管理表と正式な報告書で、完了の定義が異なっている可能性があります。集計方法を確認するとともに、実際のテスト状況も検証する必要があります」
相沢は、資料を見ながら頷いた。
「分かった。監査範囲を広げよう」
「開発の進捗だけでなく、要員管理やプロジェクトの意思決定も確認したいと思います」
「いいだろう。ただし、峰さんの情報は慎重に扱ってくれ。本人の了解なく、必要以上に広げることは避けたい」
「承知しました」
相沢は、春樹を見た。
「監査は、誰かを犯人にするためにやるものではない。だが、現場で起きていることを、見なかったことにするわけにもいかない」
春樹は、深く頷いた。
「はい」
---
その夜、春樹は自宅で、美和と夕食を取っていた。
食事を終え、二人で冷凍庫からアイスモナカを取り出した。
美和は、春樹の顔を見た。
「今日も、疲れてるね」
「そうかな」
「うん。何かあった?」
春樹は、少し考えてから話した。
「仕事を抱え込んで、休めなくなった人がいるんだ。周りも気づいていた。でも、誰も止められなかった」
美和は、モナカの袋を開けた。
「春樹も、そういうことがある?」
「俺は……どうだろう」
春樹は、笑ってごまかした。
「ただ、今回は腹が立った。本人が頑張れば何とかなる、という話じゃない」
美和は、春樹の言葉を聞いていた。
「でも、怒っているだけじゃ、何も変わらないんでしょう?」
「そうだね。まずは、事実を確認しないと」
「うん」
美和は、モナカを一口食べた。
「それでも、腹が立つことは、ちゃんと覚えておいた方がいいんじゃない?」
春樹は、美和を見た。
「どういう意味?」
「何も感じなくなったら、きっと見過ごしてしまうから」
春樹は、少しだけ笑った。
「そうかもしれない」
最後の一口を食べる。
モナカの皮が、口の中で軽く砕けた。
春樹は、明日も事実を確かめようと思った。
報告書の数字だけでは、分からないことがある。
その数字の向こうにいる人たちを、見失わないように。




