現場にあるもの
「開発現場を見たい、ですか」
佐伯は、手元の資料から顔を上げた。
「はい。先日の確認で、報告書と実際の進捗管理に少し違いがあることが分かりました。資料だけでは判断しきれない部分もあります」
春樹は、小島がまとめた資料を机に置いた。
「具体的には?」
「修正対応済みとされている不具合の中に、再テストが終わっていないものがあります。それから、予定していた工程に対して、実際の作業がどこまで進んでいるのか。現場で確認したいと思っています」
佐伯は資料に目を落とした。
「開発の状況を見たところで、監査として何が分かるのでしょうか。現場の印象と、管理上の事実は別です」
「もちろん、現場の印象だけで判断するつもりはありません。ただ、管理上の事実を確認するためにも、実際の作業を見ておきたいんです」
佐伯はしばらく黙っていた。
「……相沢部長からの指示もありますからね。小島さんと確認してきてください。ただし、技術的な判断は小島さんに任せること。菅野次長が深入りする必要はありません」
「分かりました」
春樹は頭を下げた。
佐伯の言い方には、どこか釘を刺すような響きがあった。
それでも、現場を見ることは認められた。
*
システム部の開発フロアは、春樹が想像していたよりも雑然としていた。
机の上には、設計書やテスト結果の資料が積み重なっている。壁のホワイトボードには工程表が貼られ、日付の横に赤い文字で修正箇所が書き込まれていた。
キーボードを叩く音。電話の声。隣の席との短いやり取り。
それらが途切れることなく続いている。
「こちらが、勘定系システム更改プロジェクトの開発チームです」
小島が説明した。
「銀行の基幹システムですから、影響範囲が広いんです。仕様書に書いてあることだけでは分からない部分も多いと思います」
春樹は、席を立って説明している社員に目を向けた。
「この修正は、先にこちらを確認しないと影響が出ます」
若い社員が、隣の社員に説明している。
その隣では、電話をしながら資料をめくる男性がいた。受話器を置いた後、しばらく画面を見つめている。
疲れているのだろう。
春樹には、そう見えた。
小島が、開発担当者を紹介した。
「藤原さんです。現在、開発チームのプロジェクトリーダーを務めています」
「藤原です。よろしくお願いします」
藤原健司は立ち上がり、軽く頭を下げた。三十八歳。目の下には薄く疲れが浮かんでいた。
「監査部の菅野です。今日は、実際の開発状況を確認させてください」
「はい。分かる範囲でお答えします」
藤原は、机の上に置いていた資料を手に取った。
「今、どのあたりが大変なんですか」
春樹が尋ねると、藤原は少し考えた。
「一つの不具合を直すと、別の機能に影響が出ることがあります。その確認に時間がかかっています」
「当初の予定どおりには進んでいない?」
「……正直に言えば、そうです」
藤原は、ホワイトボードを見た。
「予定していたテストが終わらないまま、次の工程に入らざるを得ないこともあります。もちろん、確認作業は続けていますけど」
「残業や休日出勤も増えていますか」
「増えています。特に、ここ数か月は」
藤原は言葉を選ぶように続けた。
「メンバーも頑張ってくれています。ベンダーさんにも人を追加してもらっています。ただ、追加で来てもらった方は、これまでの経緯を知らないので、こちらで説明する必要があります」
「人を増やせば、すぐに負担が減るわけではないんですね」
「そうですね。教える側も、手を止めることになりますから」
藤原は苦笑した。
「みんな、余裕がなくなっているのは確かです」
そのとき、隣の席から声がした。
「藤原さん、今日中に確認する三件なんですけど、どれを優先しますか」
藤原は、手元の資料をめくった。
「ええと……まず、Aの方をお願いします。それから、Bもできれば今日中に」
「Bは、先に別のテストを終わらせないと着手できません」
「ああ、そうでしたね。じゃあ、そちらを先に」
社員は小さく頷き、席に戻った。
藤原は、春樹に向き直った。
「すみません。今、少し立て込んでいて」
「いえ」
春樹は、そのやり取りを見ていた。
指示を出している藤原に、悪意はない。仕事を進めようとしていることも分かる。
ただ、優先順位を決めるための情報が、藤原の手元に十分集まっていないようだった。
その不足を、メンバーが自分たちで補っている。
「困ったときは、チーム内で相談できていますか」
「できるだけ、そうしています」
藤原は答えた。
「ただ、みんな自分の作業を抱えていますから。相談すると、その人の作業も止めてしまう。結局、自分で調べて何とかすることも多いです」
「藤原さんご自身も、かなり忙しいのでは?」
「まあ……そうですね」
藤原は、困ったように笑った。
「自分の作業もありますし、進捗の確認やベンダーさんとの調整もあります。どこまで自分で見て、どこから任せるか、まだうまくできていないところもあります」
「チームの管理は、難しいですか」
藤原は、すぐには答えなかった。
「難しいですね。みんな頑張っているので、あまり強く言いたくもないですし。でも、遅れているものは遅れているので、何とかしないといけない」
「休暇は取れていますか」
「取っていますよ」
藤原は少し笑った。
「ただ、休む前に仕事を片付けておかないと、戻ってきたときに大変なので」
その言い方が、春樹には気になった。
休めていることと、無理なく働けていることは、同じではない。
「ところで、システム部に私の同期がいるんです。峰という者ですが」
春樹は、何気なく尋ねた。
「峰さんですか」
藤原の表情が、少し変わった。
「……今は休職されています」
「そうなんですか」
「はい。峰さんは、かなり詳しい方でした。技術的なこともそうですが、過去の経緯をよく覚えていて。困ったときに、よく相談していました」
「引き継ぎは、うまくいっていますか」
春樹が尋ねると、藤原は少し視線を落とした。
「資料はあります。ただ、資料に書ききれないことも多くて」
「例えば?」
「過去にどういう判断をしたのか。なぜ、その仕様になっているのか。そういうところですね」
藤原は、少し間を置いた。
「峰さんだけじゃないんです。以前から中心になっていた人が、何人か抜けてしまって」
春樹は、黙って聞いていた。
「その後、私がリーダーをやることになったんですが……」
藤原は、言いかけて口を閉じた。
「すみません。私の話ばかりで」
「いえ」
「みんな、一生懸命やってくれています。ただ、私自身、うまくまとめられているのか分からないこともあります」
藤原は、机の上の資料を揃えた。
「本当は、もっとちゃんと指示を出さないといけないんでしょうけど。分からないことも多くて」
春樹は、藤原の顔を見た。
責任感はある。仕事を投げ出すつもりもない。
ただ、経験や力量が、今の役割に追いついていないのかもしれない。
主力メンバーが抜けた後、誰かがその役割を担わなければならなかった。
藤原は、そうして選ばれたのだろう。
本人の準備が整うのを待つ余裕は、現場にはなかった。
春樹は、そうした事情を少しずつ理解し始めていた。
*
小島が、開発管理表を開いた。
「こちらが、現在の不具合管理表です」
春樹は、画面を覗き込んだ。
「修正対応済みと、再テスト完了は別の項目になっていますね」
「はい。修正した後に、確認作業が必要です」
「進捗報告書では、どちらも完了として扱われているものがある」
「そうです。そこは、管理基準を確認する必要があります」
春樹は、藤原に尋ねた。
「藤原さん。現場では、この二つをどう区別していますか」
「基本的には、修正が終わった段階と、テストが終わった段階を分けています。ただ、報告上の扱いは、プロジェクト全体のルールによります」
「なるほど」
春樹は、メモを取った。
ここで、報告書が誤っていると決めつけることはできない。
必要なのは、完了の定義と、報告に反映されるまでの手順を確認することだった。
「ありがとうございます。管理基準と実際の運用を照合させてください」
藤原は頷いた。
「分かりました」
*
開発フロアを出て、春樹は小島と並んで廊下を歩いた。
「少し、トイレに寄ってきます」
小島と別れ、奥のトイレに入る。
手前の洗面台には誰もいなかった。個室に入り、用を足す。換気扇の低い音と、水道管を流れる水の音が聞こえていた。
個室を出て、洗面台で手を洗っていると、奥の個室から人の声がした。
「……峰さんがいてくれたらな」
独り言のようだった。
春樹は、手を止めた。
「今さら、どうしようもないけど……」
少し間が空いた。
水を流す音がして、個室の扉が開いた。
出てきたのは、先ほど開発フロアで見かけたプロジェクトリーダー、藤原健司だった。
藤原は洗面台に向かい、春樹に気づくと、一瞬だけ言葉に詰まった。
「あ……監査部の」
「お疲れさまです」
春樹は軽く会釈した。
藤原は手を洗いながら、気まずそうに笑った。
「……すみません。独り言です」
「いえ」
春樹は、それ以上聞かなかった。
藤原はペーパータオルを丸め、ゴミ箱に押し込んだ。
「失礼します」
先にトイレを出ていった。
洗面台に残った水滴を見ながら、春樹は先ほどの言葉を思い返した。
峰さんがいてくれたら。
その一言が、妙に耳に残った。
*
監査部に戻ると、佐伯が会議室で資料を確認していた。
「どうでしたか」
「開発の状況は、予定どおりとは言い難いようです。人員の負担も大きくなっています」
「現場の方は、そうおっしゃるでしょうね」
佐伯は、資料から目を離さなかった。
「ただ、進捗管理上は、一定の報告がなされています。現場の認識と管理上の数字に違いがあるとしても、それだけで問題とは言えません」
「はい。そこは理解しています」
春樹は、小島の資料を机に置いた。
「ただ、修正対応済みと再テスト完了の違いは、確認する必要があると思います。どの段階をもって完了と判断しているのか。それが報告書にどう反映されているのか」
佐伯は、資料を手に取った。
「……そこは確認しましょう」
以前よりも、少しだけ柔らかい口調だった。
「小島さん、整理をお願いします」
「分かりました」
小島が答えた。
春樹は、佐伯の横顔を見た。
現場の状況を見たことで、佐伯も何かを感じているのかもしれない。
ただ、それを口にすることはなかった。
*
その日の夕方、春樹は相沢部長に報告した。
「開発現場では、かなり負担が大きくなっているようです。人員の補充はされていますが、引き継ぎや教育に時間がかかっています」
「そうか」
相沢は、椅子に深く腰掛けた。
「報告書の数字だけでは見えない部分だな」
「はい。特に、過去の経緯を知る人が休職していることで、業務の引き継ぎに影響が出ているようです」
「個人の事情に踏み込む必要はない。ただ、業務への影響は確認しておいた方がいい」
「そう思います」
相沢は、机の上の資料を整えた。
「監査は、間違いを探すだけの仕事ではない。だが、現場の説明をそのまま受け入れる仕事でもない」
春樹は、その言葉を聞きながら頷いた。
「分かりました」
*
帰宅すると、妻の美和が夕食の準備をしていた。
「おかえり。今日は遅かったね」
「うん。システム部の開発現場を見てきた」
春樹は、上着を脱ぎながら話した。
「かなり大変そうだった。みんな頑張っているんだけど、頑張ることで何とか回している感じがする」
「それって、ずっと続けられるものなの?」
美和は、鍋の火を弱めた。
「……難しいだろうね」
春樹は、椅子に座った。
「人を増やしても、教える側の負担が増える。休職している人の仕事も、残った人が引き受けている」
「誰かが無理をしているんだね」
「そうだと思う」
春樹は、峰のことを話した。
「今日、現場で藤原さんが言っていたんだ。峰さんがいてくれたら、って」
「その人も、相当大変なんだろうね」
「そうだね」
美和は、食卓に料理を並べた。
「春樹が監査でできることって、何なんだろうね」
「……難しいな」
春樹は、すぐには答えられなかった。
監査部が、誰かの体調を回復させることはできない。
開発の遅れを、簡単に取り戻すこともできない。
ただ、無理をしなければ成り立たない状況を、無理のないものとして扱わないこと。
今の春樹には、それくらいしか思いつかなかった。
食事を終え、美和が冷凍庫からチョコモナカアイスを取り出した。
「はい。今日はこれ」
「ありがとう」
春樹は、モナカを半分に割った。
パリッとした音が、静かな部屋に響いた。
峰さんがいてくれたら。
藤原の声が、また頭に浮かぶ。
春樹は、最後の一口を食べた。
モナカの皮が、口の中で少しだけ砕けた。




