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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第7話 結界が下手な男


 退魔学園の実技場は、朝から霊力の匂いが濃かった。


 広いドーム型の訓練施設には、幾重にも防護結界が張られている。床には術式を刻んだ白線が円形に巡り、壁際には浄化用の鈴と封印具が並んでいた。天井は高く、光を通す特殊硝子の向こうに薄い雲が流れている。普通の体育館ならボールの跳ねる音でも聞こえそうな空間だが、ここで響くのは霊符の燃える音、結界が軋む音、教師の叱責、そして時々、生徒の情けない悲鳴だった。


 人類は教育機関で悲鳴を上げがちだ。


 国語でも数学でも退魔実技でも、それは変わらないらしい。平等とは、時に残酷である。


「今日は結界術の実技確認を行う」


 澄庭かがりの声が、実技場に響いた。


 生徒たちは二列に並び、教師の前で背筋を伸ばしている。見習いからC級相当まで、学年も実力もばらばらだった。退魔学園では、基礎実技の授業だけは学年混合になることがある。任務では年齢順に妖が襲ってくれるわけではない。強い者、弱い者、支える者、守られる者。その全部が現場で混ざる。


 だから、訓練も混ざる。


 合理的だが、生徒からすれば胃に悪い制度だった。


 特に今日のように、S級特待生が同じ場にいる日は。


 篠宮陽鞠は、列の少し外れに立っていた。


 退魔学園指定のブレザーに、短いスカート。金髪ちょいプリンのセミロングが肩で揺れ、金色の瞳は実技場の光を拾っている。背中には黒塗りの弓。腰には日本刀。耳元では月と矢羽根のピアスが揺れ、右手薬指の指輪が淡く光っていた。


 制服姿なのに、立っているだけで戦える。


 小柄な身体なのに、周囲の空気が彼女の霊力に合わせて薄く震える。


 それが篠宮陽鞠だった。


 隣には綴喜朔夜がいる。


 二百センチの長身。銀髪のウルフカット。切れ長の黒い瞳。制服は一見きちんとしているが、よく見ればネクタイは緩く、襟元も少し崩れている。左手薬指には陽鞠と対になる指輪。耳、首、手首、足首にもお揃いのアクセサリーが光る。


 周囲の生徒たちは、ちらちらと二人を見ていた。


「今日、S級二人もやるのかな」


「見たいけど、見たくない」


「わかる。自分の結界が紙に見えそう」


「陽鞠先輩の結界、前に見たけど本当に薄かった。薄いのに割れない」


「綴喜先輩は刀の人でしょ。結界もすごいの?」


「強いらしいけど、なんか雑って聞いた」


「雑?」


 朔夜の眉がぴくりと動いた。


 陽鞠は横で小さく笑う。


「聞こえてるよ、雑って」


「聞こえた」


「怒らないの?」


「事実じゃない」


「そう?」


「陽鞠」


「何」


「そこで目を逸らすな」


 陽鞠はわざとらしく実技場の天井を見た。


「今日はいい天気だね」


「屋内だ」


「光は入ってる」


「話を逸らすな」


「朔夜の結界、強いけど形はちょっと……うん」


「ちょっと何」


「個性的」


「それ、悪口を柔らかくしただけだろ」


「人間関係には柔らかさが大事」


「お前、時々ひどい」


「可愛い彼女だから許して」


 陽鞠がにこっと笑うと、朔夜は一瞬だけ黙った。


 その沈黙を、かがりの声が切った。


「そこの二人。授業開始三分でいちゃつくな」


「いちゃついてません」


 陽鞠は即座に返した。


 朔夜も真顔で頷く。


「会話してました」


「距離が近い」


「いつも通りです」


「だから問題だと言っている」


 かがりは額を押さえた。


 周囲の生徒が必死に笑いを堪えている。笑えば巻き込まれるとわかっているのだ。学習能力がある。実にすばらしい。昨日の自分たちにも分けてほしい、と陽鞠は少しだけ思った。


 かがりは咳払いをして、白線の内側を指した。


「結界術は、退魔師の生存率を左右する。攻撃術がどれほど優れていても、守れなければ現場では死ぬ。自分だけではなく、一般人、味方、負傷者、避難経路、封鎖区域、すべてを守る必要がある」


 生徒たちの表情が引き締まる。


 かがりは続けた。


「今日は三段階で確認する。一つ、正面からの衝撃を受ける防御結界。二つ、対象だけを通す選別結界。三つ、複数方向からの攻撃を捌く多層結界。見習いは一つ目だけでいい。C級相当以上は二つ目まで挑戦。余裕がある者は三つ目も試せ」


 一年生たちが緊張した顔で頷く。


 かがりの視線が陽鞠へ向いた。


「篠宮」


「はい」


「まず見本を」


「私ですか?」


「お前以外に多層結界を見せられる生徒がいるか?」


「朔夜」


「綴喜の結界は見本に向かん」


 即答だった。


 朔夜の眉間に皺が寄る。


「先生」


「何だ」


「俺の結界も強いです」


「強い。だが歪む」


「歪んでも割れません」


「教材として最悪だ。初心者が真似したら霊力の流れを壊す」


 陽鞠は笑いを堪えた。


 朔夜が横目で睨んでくる。


「笑ったな」


「笑ってない」


「口元」


「筋肉の誤作動」


「便利な言い訳だな」


「人類の表情筋は複雑だから」


「妖より面倒だ」


「それは否定しない」


 かがりが手を叩いた。


「篠宮」


「はい」


 陽鞠は前へ出た。


 実技場の中央へ進むと、生徒たちの視線が一斉に集まった。背中の弓を外し、壁際の武器台へ置く。腰の日本刀も抜かない。結界術の見本に、刃は必要ない。


 陽鞠は足元の白線の中心に立った。


 右手を軽く開く。


 指輪が光る。


 ちり、と澄んだ音が実技場に響いた。


 その瞬間、空気が変わった。


 派手な発光はなかった。轟音もない。けれど、陽鞠の周囲に薄い膜のようなものが一枚、静かに展開する。金色に近い透明な光。見えるか見えないかのぎりぎりで、空気の層だけがずれたような結界だった。


 生徒の一人が目を凝らす。


「あれ、一枚?」


「違う」


 隣の上級生が小さく答えた。


「三枚……いや、四枚?」


 陽鞠の指が、もう一度動く。


 薄膜が重なる。


 一枚目は正面衝撃を流すための斜めの膜。二枚目は霊力だけを受け止める膜。三枚目は物理的な破片を止める膜。四枚目は内部の人間に圧がかからないよう衝撃を分散する膜。五枚目は味方の霊力だけを通す補助膜。


 それらが、ほとんど同時に、しかし干渉しない角度で展開していく。


 かがりは訓練用の霊弾発射具を構えた。


「衝撃、入れるぞ」


「どうぞ」


 陽鞠は軽く頷く。


 発射具から青白い霊弾が放たれた。


 速度は速い。見習いなら反応が遅れる程度には鋭い。霊弾は陽鞠の正面へ飛び、最初の結界へ衝突した。


 音がしない。


 霊弾は結界に当たった瞬間、斜め上へ軌道を変えた。弾かれたのではない。滑ったのだ。一枚目の膜が角度を変え、衝撃を殺す。二枚目が霊力を吸い、三枚目が残った光の破片を受け止める。四枚目が内部の空気の揺れを消し、五枚目が陽鞠の霊力だけを循環させる。


 結果、陽鞠の髪の毛一本すら揺れなかった。


 実技場がざわつく。


「今、当たった?」


「当たったのに音がしなかった」


「結界って普通、受けたらもっと鳴るよね」


「五枚? いや、もっとあった?」


「薄すぎて見えない……」


 かがりは満足げに頷いた。


「これが多層結界の理想形の一つだ。強度だけではない。角度、役割、霊力の流れ、対象の選別。すべてを分けることで、最小限の消費で最大の効果を出す」


 陽鞠は右手を少し下げた。


 結界はまだ残っている。


 次に、かがりは白い札を三枚投げた。札は空中で鳥の形へ変わり、三方向から陽鞠へ突っ込む。物理攻撃、霊力攻撃、幻惑干渉をそれぞれ模した訓練札だ。


 陽鞠の瞳が金色に光る。


「右は通す。左は弾く。上は潰す」


 指先が三度動く。


 右から来た札だけが結界をすり抜け、陽鞠の肩口をかすめる寸前で止まった。味方の霊力として認識させたのだ。左の札は斜めに弾かれ、床へ落ちる。上から来た札は、二枚の結界に挟まれて紙片に戻った。


 すべてが、一息のうちに終わる。


 生徒たちは言葉を失った。


 かがりが説明する。


「選別結界は、敵味方の霊力、物理干渉、術式の性質を読み分ける。篠宮の結界は特に精密だ。味方の霊力だけを通し、敵の攻撃だけを弾く。避難結界や射線補助にも応用できる」


「先生」


 一年生の男子が手を上げた。


「はい」


「今の、どれくらい練習したらできますか」


 かがりは少し黙った。


「まず基礎を十年やれ」


「十年」


「篠宮を基準にするな。心が折れる」


 陽鞠は苦笑した。


「先生、それ私の前で言います?」


「お前の前だから言う」


「ひどい」


「褒めている」


「褒め方が渋い」


 陽鞠が戻ってくると、朔夜が小さく拍手した。


 周囲もつられて拍手する。


 陽鞠は少しだけ照れた顔をした。


「何。朔夜まで」


「すごかった」


「いつも見てるでしょ」


「いつ見てもすごい」


「……そういうの、さらっと言わないで」


「じゃあ丁寧に言う?」


「言わなくていい」


 陽鞠は視線を逸らした。


 金色の瞳が、ほんの少しだけ揺れている。


 かがりはその様子を見て、こめかみを押さえた。


「次、綴喜」


「はい」


 朔夜が中央へ進んだ。


 彼が動くと、それだけで空気の圧が変わる。二百センチの身体。長い手足。銀髪の襟足が揺れ、黒い瞳が正面を向く。刀を持っていなくても、彼が戦闘向きの退魔師であることは一目でわかった。


 陽鞠とは逆だ。


 陽鞠は戦場全体を見て、細い糸を張るように守る。


 朔夜は前へ出て、敵の懐へ入り、核を断つ。


 どちらが上という話ではない。


 役割が違う。


 ただし、結界術に関してだけは、話が変わる。


「綴喜、正面防御結界」


「はい」


 朔夜は右手を前へ出した。


 左手薬指の指輪が、鈍い光を宿す。空気が一気に重くなる。陽鞠の結界が薄い膜なら、朔夜の結界は壁だった。目に見えるほど濃い霊力が、彼の前に展開する。黒銀色の光を帯びた巨大な盾のような結界。厚く、重く、強い。


 生徒たちが息を呑む。


「すご……」


「硬そう」


「正面からなら絶対割れなさそう」


 かがりは霊弾発射具を構えた。


「撃つぞ」


「どうぞ」


 霊弾が放たれる。


 今度は大きな音がした。


 がぁん、と金属を叩いたような衝撃音が実技場に響き、床の白線が一瞬震える。霊弾は朔夜の結界に衝突し、砕け散った。光の破片が散り、空中で消える。


 結界は割れていない。


 強度だけなら、見事だった。


 だが。


「……歪んでる」


 陽鞠が小さく呟いた。


 朔夜の結界は、正面から見れば巨大で頑丈な盾だった。だが、端が波打っている。霊力の厚みが場所によって違い、左上がやや過剰、右下が薄い。中央に力が集まりすぎて、外側の流れが詰まっていた。強いのに、美しくない。


 いや、美しさの問題だけではない。


 長時間維持すれば、術者の腕に負担がかかる。斜めからの攻撃には一部が軋む。味方を中に入れるには圧が強すぎる。守るというより、壁を叩きつけている。


 かがりが額に手を当てた。


「綴喜」


「割れてません」


「そこは評価する」


「じゃあ問題ないです」


「ある。形が歪んでいる」


「割れてません」


「それだけを正義にするな」


 生徒たちはどう反応すればいいかわからない顔をしている。


 朔夜は真面目な顔だった。


 真面目に、わかっていない。


 陽鞠は口元を押さえた。


 だめだ。笑うな。ここで笑ったら、朔夜が本気で拗ねる。二百センチの男が結界で拗ねると面倒くさい。主に空気が重くなる。


 かがりは次に、三方向から訓練札を飛ばした。


「複数方向、受けろ」


「はい」


 朔夜は結界を広げた。


 強引に。


 正面の盾を横へ引き伸ばすように展開する。霊力の量は凄まじい。札が触れた瞬間、二枚は粉々になった。だが、上から来た一枚が結界の歪んだ隙間をかすめる。朔夜はすぐに腕を上げ、力任せに補強した。


 ばきん、と嫌な音がする。


 結界の端が割れたのではない。歪みが矯正されず、霊力同士がぶつかった音だ。訓練札は消えたが、朔夜の結界は不格好に波打った。


 陽鞠はとうとう笑ってしまった。


「陽鞠」


 朔夜が振り返る。


「ごめん」


「笑った」


「だって、力技すぎる」


「防いだ」


「防いだのはすごいよ。でも、結界というより、霊力の壁を置いて殴ってる」


「殴ってない」


「結界が殴ってる」


「結界は殴らない」


「朔夜のは殴ってる」


 生徒たちが笑いを堪える。


 かがりは深く息を吐いた。


「篠宮、教えてやれ」


「私が?」


「綴喜の結界の癖は、お前が一番見ているだろう」


「まあ、見てますけど」


「直せるか」


「全部は無理です」


 即答だった。


 朔夜が少し傷ついた顔をする。


「陽鞠」


「だって朔夜、根本が力押しなんだもん。でも、歪みを減らすくらいならできる」


「なら頼む」


 かがりが言った。


 陽鞠は中央へ戻った。


 朔夜の隣に立つと、改めて身長差が際立つ。陽鞠は百四十センチ。朔夜は二百センチ。立ち位置だけで絵面が妙だ。生徒たちがまたちらちらと見る。


 陽鞠は朔夜の右手を見上げた。


「もう一回張って」


「ん」


 朔夜が結界を展開する。


 黒銀色の厚い壁が再び現れた。やはり強い。正面からなら相当な妖の突進でも止められるだろう。だが、形は歪む。霊力の流れが雑に集まり、端で渦を巻いていた。


 陽鞠はため息をつく。


「朔夜、強く張ろうとしすぎ」


「弱いよりいいだろ」


「弱くしろとは言ってない。役割を分けて」


「役割」


「正面で全部受けるんじゃなくて、流すところ、受けるところ、逃がすところを分けるの」


 陽鞠は朔夜の右手に自分の手を添えた。


 小さな手が、大きな手の甲に重なる。


 朔夜の指が、ほんの少し動いた。


 陽鞠は気にせず、彼の手首の角度を直す。


「ここ。手首が硬い。霊力が真正面に出すぎ。少し斜めに逃がして」


「こうか」


「違う。それだと全部右に流れる」


「難しい」


「朔夜、刀はあんなに細かく角度変えるのに、結界になると急に雑になるよね」


「刀は斬るものが見える」


「結界も流れを見て」


「見えにくい」


「じゃあ感じて」


「説明が感覚派」


「朔夜に言われたくない」


 陽鞠は笑いながら、朔夜の手の上に自分の指を重ねた。


 指輪同士が触れる。


 ちり、と音が鳴る。


 その音に、朔夜の黒い瞳が少しだけ揺れた。


 陽鞠は結界の方を見ていたので気づかない。


「まず一枚目を薄くする」


「薄くしたら割れる」


「割れない角度にする。正面から受けるんじゃなくて滑らせるの。朝の駅前で妖の爪をずらした時と同じ」


「あれは陽鞠の結界だろ」


「朔夜にもできる。力はあるんだから、形を覚えればいい」


「覚えたら?」


「私が楽」


「じゃあ覚える」


「動機が雑」


「一番大事だろ」


 陽鞠は少しだけ頬を染めた。


「……そういうの、授業中に言わない」


「放課後ならいい?」


「そういう問題じゃない」


 生徒たちの視線がまた集まる。


 かがりのこめかみがわずかに動いた。


 陽鞠は慌てて授業の顔に戻る。


「ここ、見て。朔夜の霊力、中央に集まりすぎ。だから端が薄くなる。全体を一枚で作ろうとしないで、三つに分ける。中央、左右、後ろの逃げ道」


「後ろ?」


「衝撃を自分の身体に返さないための抜け道。力任せに受けると肩に来るでしょ」


「……来る」


「ほら」


 陽鞠は朔夜の左肩をちらりと見た。


 治ったばかりの傷のあたりだ。朔夜は少しだけ気まずそうな顔をする。


「結界って、硬ければいいわけじゃない。守るための形が必要。朔夜のは強いけど、自分の身体にも負担が来る」


「陽鞠は?」


「私は霊力消費が細かい分、指に来る」


「だから裂ける」


「うん。だからお互い、下手なところを直す」


「俺の方が下手?」


「結界はね」


「陽鞠は刀だと俺より力がない」


「そう。だから朔夜が前に出る」


「お前が道を作る」


「うん」


 陽鞠は笑った。


 その笑顔は、戦闘中の合図に近かった。


 二人の役割は違う。


 陽鞠は戦場を読み、結界を張り、味方を守り、敵の隙を作る。朔夜はその隙に踏み込み、刀で妖核を断つ。どちらか一人では足りない場面も、二人なら届く。


 それを、二人とも知っている。


 朔夜の結界が、少しだけ形を変えた。


 厚い壁が、三層に分かれる。まだ歪んでいる。陽鞠ほど薄くもないし、滑らかでもない。だが、中央に集中していた霊力が左右へ分散し、端の波打ちが少し減った。


 陽鞠の瞳が明るくなる。


「そう! 今のいい!」


「これで?」


「うん。まだ不格好だけど、さっきよりずっといい。右上が重いから、少しだけ抜いて」


「こうか」


「抜きすぎ。そこまで遠慮しなくていい」


「注文が細かい」


「精密結界だから」


「俺に向いてない」


「向いてなくてもやるの。現場で私が動けない時、朔夜が避難結界を張るかもしれないでしょ」


 その言葉に、朔夜の表情が変わった。


 黒い瞳が、静かに陽鞠を見下ろす。


「陽鞠が動けない時?」


「可能性の話」


「嫌な可能性だな」


「でも、考えないと」


「お前が動けないなら、俺が全部斬る」


「斬るだけじゃ守れない人もいる」


「……だから結界か」


「うん」


 陽鞠の声は柔らかかった。


「朔夜は強いよ。刀も、霊符も、近接も。私よりずっと前に出られる。でも、朔夜が結界も少し上手くなったら、もっと守れる」


「お前も?」


「私も」


「ならやる」


 朔夜はあっさり言った。


 陽鞠は少し目を瞬く。


「早い」


「理由ができた」


「単純」


「お前関係だと単純でいい」


 まただ。


 陽鞠は顔が熱くなるのを感じた。


 授業中なのに。


 実技場の中央なのに。


 生徒たちに見られているのに。


 朔夜は本当に、そういうことを平然と言う。社会性をどこかへ置いてきたのかもしれない。いや、陽鞠限定で捨てているだけだ。たちが悪い。


「だから、授業中に」


「陽鞠」


「何」


「もう一回、手」


「今添えてるでしょ」


「もっと」


「もっとって」


 朔夜の左手が、陽鞠の腰の後ろへ回りかけた。


 陽鞠はぎょっとする。


「朔夜、距離」


「近い方がわかる」


「絶対嘘」


「半分」


「残り半分は?」


「触りたい」


「正直すぎる!」


 生徒たちが一斉に目を逸らした。


 かがりの声が飛ぶ。


「綴喜!」


 朔夜の手がぴたりと止まった。


 陽鞠も反射で背筋を伸ばす。


 かがりは白板代わりの術式盤を持ったまま、こちらを睨んでいた。


「授業中だ」


「はい」


「篠宮を教材にするな」


「先生が俺を教材にしました」


「口答えするな」


「はい」


 朔夜は素直に返事をしたが、陽鞠の手はまだ自分の手の上に置かせたままだった。


 かがりは深く息を吐く。


「篠宮も離れろ。教える距離ではない」


「はい……」


 陽鞠は慌てて手を離そうとした。


 その瞬間、朔夜が少しだけ身を屈めた。


 あまりにも自然な動きだった。


 陽鞠の顎の近くへ、彼の顔が下りてくる。黒い瞳が近い。銀髪が頬にかかりそうになる。陽鞠は一拍遅れて理解した。


 この男、授業中にキスしようとしている。


 正気か。


 いや、正気なのだろう。朔夜にとっては正気の範囲なのだ。人間の正気には個人差がありすぎる。


「朔夜!」


 陽鞠が小声で叫ぶ。


「何」


「何じゃない!」


「結界、少しできた」


「ご褒美制度じゃない!」


「一口」


「クレープじゃない!」


「篠宮! 綴喜!」


 かがりの怒声が実技場に響いた。


 同時に、教師用の制御札が飛んでくる。


 札は二人の間にぴたりと挟まるように展開し、薄い防護結界を作った。朔夜の唇は、その結界の直前で止まる。


 ぺち、と非常に情けない音がした。


 実技場が静まり返った。


 朔夜は目の前の教師結界を見て、少しだけ眉を寄せる。


「先生」


「何だ」


「硬い」


「お前の頭ほどではない」


 生徒たちが限界を迎えた。


 あちこちで笑いが漏れる。上級生は肩を震わせ、一年生は口元を押さえている。陽鞠は顔を真っ赤にして、朔夜の胸を押した。


「離れて!」


「まだご褒美が」


「ない!」


「あとで?」


「ない!」


「顔赤い」


「朔夜のせい!」


「篠宮」


 かがりが低く呼ぶ。


 陽鞠はびくっとした。


「はい」


「綴喜に手を添えて教えるのは許可する。だが、距離を保て」


「はい」


「綴喜」


「はい」


「授業中にキスしようとするな」


「はい」


「返事が軽い」


「反省しています」


「反省している顔をしろ」


 朔夜は真顔になった。


 完璧に整った、無表情に近い真顔だった。


 陽鞠はそれを見た瞬間、また笑いそうになった。だめだ。今笑えば自分も巻き添えで反省文だ。人間、笑ってはいけない場面ほど笑いたくなる。心が邪悪なのではなく、脳の設計が悪い。


 かがりは疲れたように息を吐いた。


「……続けろ。ただし、綴喜は一歩離れろ」


「一歩だと手が届きません」


「では篠宮が横に立て。正面から顔を近づけるな」


「わかりました」


 本当にわかっているのか怪しかった。


 陽鞠は朔夜の横に回り、今度は少し距離を取って手首の角度を指示した。朔夜はさっきより真面目に結界を張る。霊力の壁はまだ厚い。けれど、少しずつ角度が整っていった。


 生徒たちはその変化を食い入るように見つめている。


「本当に形変わった」


「綴喜先輩でも、あんなふうに直すんだ」


「篠宮先輩の教え方、わかりやすい」


「でも距離が近すぎる」


「そこは真似しちゃだめなやつ」


 かがりがすぐに言う。


「最後の意見が正しい。技術だけ見ろ。距離感は真似するな」


「先生、聞こえてますよ」


 陽鞠が抗議する。


「聞かせている」


「ひどい」


「教育だ」


「教育って便利な言葉ですね」


「お前たちの恋人距離よりは健全だ」


 朔夜が何か言おうとした。


 陽鞠が即座に彼の袖を引く。


「黙って。反省文増える」


「まだ増えてない」


「増える前に止めてるの」


「優しい」


「そうじゃない」


 それでも、朔夜は少し笑った。


 結界の形が、また少し整う。


 陽鞠はそれに気づき、嬉しそうに頷いた。


「今の、いい。朔夜、さっきよりずっと綺麗」


「綺麗?」


「結界が」


「俺は?」


「授業中」


「放課後なら?」


「……考える」


「許可だな」


「考えるって言った!」


 かがりの視線が飛んでくる。


 二人は同時に黙った。


 その後も授業は続いた。


 見習いの生徒たちは正面防御結界に挑戦し、何人かは霊弾の衝撃で尻もちをついた。C級相当の上級生たちは選別結界に苦戦し、味方役の札まで弾いてしまう者が続出した。陽鞠は時々助言をし、朔夜は不器用ながらも自分の歪んだ結界を少しずつ修正した。


 完璧には程遠い。


 けれど、力任せの壁だったものが、少しだけ守るための形へ変わっていく。


 陽鞠はその変化を見るのが好きだった。


 朔夜は何でもできるように見える。刀も霊符も、近接戦闘も、妖核破壊も。背が高く、顔も整っていて、成績も実技も優秀で、S級特待生。周囲は彼を完成された存在のように見る。


 だが、実際は違う。


 結界は下手だ。


 力でどうにかしようとする。


 細かい霊力操作になると、急に雑になる。


 クレーンゲームにも何度も負ける。


 肩の怪我も隠そうとして失敗する。


 そういう不完全さを、陽鞠は知っている。


 その上で、彼が強いことも知っている。


 授業の終わり、かがりは全員を集めた。


「今日の訓練でわかったと思うが、結界術は単純な霊力量だけでは決まらない。篠宮のように精密な者もいれば、綴喜のように強度はあるが形に難がある者もいる」


 朔夜が少しだけ不満そうな顔をする。


 かがりは無視した。


「自分の得意不得意を知れ。現場では、できないことを意地で押し通すより、できる者と組む方がいい。陽鞠と朔夜の連携が強いのは、互いの能力差を埋めているからだ」


 生徒たちの視線が、二人へ集まる。


 陽鞠は少しだけ背筋を伸ばした。


 朔夜は隣で静かに立っている。


 かがりは続けた。


「ただし、恋人距離は真似するな」


「先生!」


「大事な注意だ」


 実技場に笑いが起きた。


 陽鞠は顔を赤くし、朔夜はなぜか少し誇らしげだった。そこは誇るところではない。本当に違う。人類の価値基準は恋をするとすぐ壊れる。


 授業後、生徒たちが片づけを始める。


 陽鞠は弓を背負い直し、腰の日本刀を確認した。朔夜は隣で自分の手を見ている。結界を何度も張ったせいで、指先が少し痺れているらしい。


「痛い?」


 陽鞠が聞く。


「少し」


「正直でよろしい」


「学習した」


「えらい」


「ご褒美は?」


「またそれ?」


「結界、少し上手くなった」


「確かに」


「じゃあ」


 朔夜が身を屈めかけた。


 陽鞠は即座に彼の額を手で押した。


「ここではなし」


「じゃあどこで」


「人がいないところ」


「屋上?」


「……反省文が増えない場所」


「屋上だな」


「勝手に決めない」


 朔夜は陽鞠の手首を軽く掴み、押し返された額から手を離させた。


 そのまま、彼女の指先を見つめる。


「今日、指は平気だったか」


「平気」


「禁止」


「……ちょっとだけ痛い。でも大丈夫」


「それも怪しい」


「授業くらいなら問題ないよ」


「任務だったら?」


「その時は、朔夜が前に出るでしょ」


「出る」


「私が道を作る」


「俺が斬る」


 二人は当たり前のように言った。


 それは約束だった。


 何度も繰り返してきた役割確認。結界と刀。金と銀。小柄な少女と、長身の少年。違うからこそ並べる。足りないところを埋め合える。


 陽鞠は少しだけ笑った。


「朔夜、結界もう少し練習しようね」


「陽鞠が教えるなら」


「かがり先生の前では距離保って」


「二人きりなら?」


「練習するなら」


「キスは?」


「練習が終わったら考える」


「許可だな」


「だから考えるって」


 背後から、かがりの声が飛んだ。


「二人とも、まだ実技場にいるぞ」


 陽鞠は肩を跳ねさせた。


 朔夜は少しだけ残念そうに顔を上げる。


「先生、耳いいですね」


「教師だからな」


「関係あります?」


「お前たちを監視するには必要だ」


「信用がない」


「積み重ねの結果だ」


 陽鞠は何も言えなかった。


 積み重ね。


 確かに積み重ねている。


 廊下、昇降口、任務後の路地、ゲームセンター、屋上。思い返すと、かがりの胃に負担をかけている自覚は少しだけあった。少しだけ。全部ではない。人間には自己防衛という名の都合のいい記憶操作がある。


 かがりは資料を抱え、二人の前に来た。


「篠宮、綴喜」


「はい」


「今日はこのまま教室へ戻れ。寄り道するな」


「今日は?」


「今日は、だ。お前たちは放っておくと、実技場から屋上、屋上から購買、購買からどこかの路地へ消える」


「そこまででは」


「ある」


 かがりと朔夜の声が重なった。


 陽鞠は朔夜を見上げる。


「あるの?」


「可能性はある」


「否定して」


「嘘はよくない」


「こういう時だけ正直」


 かがりは頭痛を堪えるように目を閉じた。


「とにかく戻れ。綴喜は結界術の補習を別日に入れる。篠宮、お前も補助に入れ」


「はい」


「え、俺だけ補習?」


「当然だ。今日の歪みを見ただろう」


「割れてません」


「まだ言うか」


 陽鞠は吹き出した。


 朔夜が横目で見る。


「笑った」


「だって、割れてませんって言い方が」


「事実」


「そうだけど」


 陽鞠は笑いながら、朔夜の手を取った。


 指輪同士が触れる。


 ちり、と小さく鳴る。


 かがりの目が細くなる。


「手を繋ぐなとは言っていないが、廊下で立ち止まるなよ」


「はい」


「はい」


 二人は今度こそ実技場を出た。


 廊下には放課後前のざわめきが戻りつつある。窓の外では、雲の隙間から光が差していた。陽鞠は繋いだ手を軽く揺らしながら、隣の朔夜を見上げる。


「結界、ほんとに上手くなってたよ」


「陽鞠が教えたから」


「でも、やったのは朔夜」


「じゃあ、少しだけ褒めろ」


「さっき褒めた」


「もっと」


「欲しがり」


「お前限定」


「……そういうの、廊下で言わない」


「じゃあ屋上で」


「行かない」


「教室?」


「もっとだめ」


 陽鞠は呆れながらも、手を離さなかった。


 能力差はある。


 得意なことも、苦手なことも違う。


 陽鞠は結界が得意で、朔夜は刀が得意。陽鞠は精密に守り、朔夜は鋭く斬る。朔夜の結界は歪むし、陽鞠の刀は力負けすることもある。それでも、二人なら戦える。


 恋人として近すぎる距離も、相棒として噛み合う呼吸も、どちらも二人の一部だった。


 廊下の先で、生徒たちの声がする。


 かがりの怒声がまた聞こえないうちに、二人は少しだけ歩幅を速めた。


 指輪の触れる音が、放課後前の廊下に小さく響く。


 陽鞠はその音を聞きながら、ふと思った。


 朔夜の結界は、まだ下手だ。


 でも、きっと上手くなる。


 理由ができた、と彼は言った。


 その理由に自分が含まれていることが、少し恥ずかしくて、少し嬉しかった。


「陽鞠」


「何」


「補習、二人きり?」


「かがり先生いるでしょ」


「残念」


「本音が早い」


「二人きりなら、もっと近くで教われる」


「今日みたいにキスしようとするからだめ」


「しない」


「嘘」


「少しだけ」


「もっとだめ」


 陽鞠は顔を赤くして言った。


 朔夜は低く笑う。


 廊下の窓から差す光が、陽鞠の金髪と朔夜の銀髪を同時に照らした。


 金と銀。


 結界と刀。


 精密と力押し。


 違うから、並べる。


 同じではないから、隣にいる意味がある。


 二人は手を繋いだまま、教室へ戻っていった。


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