第7話 結界が下手な男
退魔学園の実技場は、朝から霊力の匂いが濃かった。
広いドーム型の訓練施設には、幾重にも防護結界が張られている。床には術式を刻んだ白線が円形に巡り、壁際には浄化用の鈴と封印具が並んでいた。天井は高く、光を通す特殊硝子の向こうに薄い雲が流れている。普通の体育館ならボールの跳ねる音でも聞こえそうな空間だが、ここで響くのは霊符の燃える音、結界が軋む音、教師の叱責、そして時々、生徒の情けない悲鳴だった。
人類は教育機関で悲鳴を上げがちだ。
国語でも数学でも退魔実技でも、それは変わらないらしい。平等とは、時に残酷である。
「今日は結界術の実技確認を行う」
澄庭かがりの声が、実技場に響いた。
生徒たちは二列に並び、教師の前で背筋を伸ばしている。見習いからC級相当まで、学年も実力もばらばらだった。退魔学園では、基礎実技の授業だけは学年混合になることがある。任務では年齢順に妖が襲ってくれるわけではない。強い者、弱い者、支える者、守られる者。その全部が現場で混ざる。
だから、訓練も混ざる。
合理的だが、生徒からすれば胃に悪い制度だった。
特に今日のように、S級特待生が同じ場にいる日は。
篠宮陽鞠は、列の少し外れに立っていた。
退魔学園指定のブレザーに、短いスカート。金髪ちょいプリンのセミロングが肩で揺れ、金色の瞳は実技場の光を拾っている。背中には黒塗りの弓。腰には日本刀。耳元では月と矢羽根のピアスが揺れ、右手薬指の指輪が淡く光っていた。
制服姿なのに、立っているだけで戦える。
小柄な身体なのに、周囲の空気が彼女の霊力に合わせて薄く震える。
それが篠宮陽鞠だった。
隣には綴喜朔夜がいる。
二百センチの長身。銀髪のウルフカット。切れ長の黒い瞳。制服は一見きちんとしているが、よく見ればネクタイは緩く、襟元も少し崩れている。左手薬指には陽鞠と対になる指輪。耳、首、手首、足首にもお揃いのアクセサリーが光る。
周囲の生徒たちは、ちらちらと二人を見ていた。
「今日、S級二人もやるのかな」
「見たいけど、見たくない」
「わかる。自分の結界が紙に見えそう」
「陽鞠先輩の結界、前に見たけど本当に薄かった。薄いのに割れない」
「綴喜先輩は刀の人でしょ。結界もすごいの?」
「強いらしいけど、なんか雑って聞いた」
「雑?」
朔夜の眉がぴくりと動いた。
陽鞠は横で小さく笑う。
「聞こえてるよ、雑って」
「聞こえた」
「怒らないの?」
「事実じゃない」
「そう?」
「陽鞠」
「何」
「そこで目を逸らすな」
陽鞠はわざとらしく実技場の天井を見た。
「今日はいい天気だね」
「屋内だ」
「光は入ってる」
「話を逸らすな」
「朔夜の結界、強いけど形はちょっと……うん」
「ちょっと何」
「個性的」
「それ、悪口を柔らかくしただけだろ」
「人間関係には柔らかさが大事」
「お前、時々ひどい」
「可愛い彼女だから許して」
陽鞠がにこっと笑うと、朔夜は一瞬だけ黙った。
その沈黙を、かがりの声が切った。
「そこの二人。授業開始三分でいちゃつくな」
「いちゃついてません」
陽鞠は即座に返した。
朔夜も真顔で頷く。
「会話してました」
「距離が近い」
「いつも通りです」
「だから問題だと言っている」
かがりは額を押さえた。
周囲の生徒が必死に笑いを堪えている。笑えば巻き込まれるとわかっているのだ。学習能力がある。実にすばらしい。昨日の自分たちにも分けてほしい、と陽鞠は少しだけ思った。
かがりは咳払いをして、白線の内側を指した。
「結界術は、退魔師の生存率を左右する。攻撃術がどれほど優れていても、守れなければ現場では死ぬ。自分だけではなく、一般人、味方、負傷者、避難経路、封鎖区域、すべてを守る必要がある」
生徒たちの表情が引き締まる。
かがりは続けた。
「今日は三段階で確認する。一つ、正面からの衝撃を受ける防御結界。二つ、対象だけを通す選別結界。三つ、複数方向からの攻撃を捌く多層結界。見習いは一つ目だけでいい。C級相当以上は二つ目まで挑戦。余裕がある者は三つ目も試せ」
一年生たちが緊張した顔で頷く。
かがりの視線が陽鞠へ向いた。
「篠宮」
「はい」
「まず見本を」
「私ですか?」
「お前以外に多層結界を見せられる生徒がいるか?」
「朔夜」
「綴喜の結界は見本に向かん」
即答だった。
朔夜の眉間に皺が寄る。
「先生」
「何だ」
「俺の結界も強いです」
「強い。だが歪む」
「歪んでも割れません」
「教材として最悪だ。初心者が真似したら霊力の流れを壊す」
陽鞠は笑いを堪えた。
朔夜が横目で睨んでくる。
「笑ったな」
「笑ってない」
「口元」
「筋肉の誤作動」
「便利な言い訳だな」
「人類の表情筋は複雑だから」
「妖より面倒だ」
「それは否定しない」
かがりが手を叩いた。
「篠宮」
「はい」
陽鞠は前へ出た。
実技場の中央へ進むと、生徒たちの視線が一斉に集まった。背中の弓を外し、壁際の武器台へ置く。腰の日本刀も抜かない。結界術の見本に、刃は必要ない。
陽鞠は足元の白線の中心に立った。
右手を軽く開く。
指輪が光る。
ちり、と澄んだ音が実技場に響いた。
その瞬間、空気が変わった。
派手な発光はなかった。轟音もない。けれど、陽鞠の周囲に薄い膜のようなものが一枚、静かに展開する。金色に近い透明な光。見えるか見えないかのぎりぎりで、空気の層だけがずれたような結界だった。
生徒の一人が目を凝らす。
「あれ、一枚?」
「違う」
隣の上級生が小さく答えた。
「三枚……いや、四枚?」
陽鞠の指が、もう一度動く。
薄膜が重なる。
一枚目は正面衝撃を流すための斜めの膜。二枚目は霊力だけを受け止める膜。三枚目は物理的な破片を止める膜。四枚目は内部の人間に圧がかからないよう衝撃を分散する膜。五枚目は味方の霊力だけを通す補助膜。
それらが、ほとんど同時に、しかし干渉しない角度で展開していく。
かがりは訓練用の霊弾発射具を構えた。
「衝撃、入れるぞ」
「どうぞ」
陽鞠は軽く頷く。
発射具から青白い霊弾が放たれた。
速度は速い。見習いなら反応が遅れる程度には鋭い。霊弾は陽鞠の正面へ飛び、最初の結界へ衝突した。
音がしない。
霊弾は結界に当たった瞬間、斜め上へ軌道を変えた。弾かれたのではない。滑ったのだ。一枚目の膜が角度を変え、衝撃を殺す。二枚目が霊力を吸い、三枚目が残った光の破片を受け止める。四枚目が内部の空気の揺れを消し、五枚目が陽鞠の霊力だけを循環させる。
結果、陽鞠の髪の毛一本すら揺れなかった。
実技場がざわつく。
「今、当たった?」
「当たったのに音がしなかった」
「結界って普通、受けたらもっと鳴るよね」
「五枚? いや、もっとあった?」
「薄すぎて見えない……」
かがりは満足げに頷いた。
「これが多層結界の理想形の一つだ。強度だけではない。角度、役割、霊力の流れ、対象の選別。すべてを分けることで、最小限の消費で最大の効果を出す」
陽鞠は右手を少し下げた。
結界はまだ残っている。
次に、かがりは白い札を三枚投げた。札は空中で鳥の形へ変わり、三方向から陽鞠へ突っ込む。物理攻撃、霊力攻撃、幻惑干渉をそれぞれ模した訓練札だ。
陽鞠の瞳が金色に光る。
「右は通す。左は弾く。上は潰す」
指先が三度動く。
右から来た札だけが結界をすり抜け、陽鞠の肩口をかすめる寸前で止まった。味方の霊力として認識させたのだ。左の札は斜めに弾かれ、床へ落ちる。上から来た札は、二枚の結界に挟まれて紙片に戻った。
すべてが、一息のうちに終わる。
生徒たちは言葉を失った。
かがりが説明する。
「選別結界は、敵味方の霊力、物理干渉、術式の性質を読み分ける。篠宮の結界は特に精密だ。味方の霊力だけを通し、敵の攻撃だけを弾く。避難結界や射線補助にも応用できる」
「先生」
一年生の男子が手を上げた。
「はい」
「今の、どれくらい練習したらできますか」
かがりは少し黙った。
「まず基礎を十年やれ」
「十年」
「篠宮を基準にするな。心が折れる」
陽鞠は苦笑した。
「先生、それ私の前で言います?」
「お前の前だから言う」
「ひどい」
「褒めている」
「褒め方が渋い」
陽鞠が戻ってくると、朔夜が小さく拍手した。
周囲もつられて拍手する。
陽鞠は少しだけ照れた顔をした。
「何。朔夜まで」
「すごかった」
「いつも見てるでしょ」
「いつ見てもすごい」
「……そういうの、さらっと言わないで」
「じゃあ丁寧に言う?」
「言わなくていい」
陽鞠は視線を逸らした。
金色の瞳が、ほんの少しだけ揺れている。
かがりはその様子を見て、こめかみを押さえた。
「次、綴喜」
「はい」
朔夜が中央へ進んだ。
彼が動くと、それだけで空気の圧が変わる。二百センチの身体。長い手足。銀髪の襟足が揺れ、黒い瞳が正面を向く。刀を持っていなくても、彼が戦闘向きの退魔師であることは一目でわかった。
陽鞠とは逆だ。
陽鞠は戦場全体を見て、細い糸を張るように守る。
朔夜は前へ出て、敵の懐へ入り、核を断つ。
どちらが上という話ではない。
役割が違う。
ただし、結界術に関してだけは、話が変わる。
「綴喜、正面防御結界」
「はい」
朔夜は右手を前へ出した。
左手薬指の指輪が、鈍い光を宿す。空気が一気に重くなる。陽鞠の結界が薄い膜なら、朔夜の結界は壁だった。目に見えるほど濃い霊力が、彼の前に展開する。黒銀色の光を帯びた巨大な盾のような結界。厚く、重く、強い。
生徒たちが息を呑む。
「すご……」
「硬そう」
「正面からなら絶対割れなさそう」
かがりは霊弾発射具を構えた。
「撃つぞ」
「どうぞ」
霊弾が放たれる。
今度は大きな音がした。
がぁん、と金属を叩いたような衝撃音が実技場に響き、床の白線が一瞬震える。霊弾は朔夜の結界に衝突し、砕け散った。光の破片が散り、空中で消える。
結界は割れていない。
強度だけなら、見事だった。
だが。
「……歪んでる」
陽鞠が小さく呟いた。
朔夜の結界は、正面から見れば巨大で頑丈な盾だった。だが、端が波打っている。霊力の厚みが場所によって違い、左上がやや過剰、右下が薄い。中央に力が集まりすぎて、外側の流れが詰まっていた。強いのに、美しくない。
いや、美しさの問題だけではない。
長時間維持すれば、術者の腕に負担がかかる。斜めからの攻撃には一部が軋む。味方を中に入れるには圧が強すぎる。守るというより、壁を叩きつけている。
かがりが額に手を当てた。
「綴喜」
「割れてません」
「そこは評価する」
「じゃあ問題ないです」
「ある。形が歪んでいる」
「割れてません」
「それだけを正義にするな」
生徒たちはどう反応すればいいかわからない顔をしている。
朔夜は真面目な顔だった。
真面目に、わかっていない。
陽鞠は口元を押さえた。
だめだ。笑うな。ここで笑ったら、朔夜が本気で拗ねる。二百センチの男が結界で拗ねると面倒くさい。主に空気が重くなる。
かがりは次に、三方向から訓練札を飛ばした。
「複数方向、受けろ」
「はい」
朔夜は結界を広げた。
強引に。
正面の盾を横へ引き伸ばすように展開する。霊力の量は凄まじい。札が触れた瞬間、二枚は粉々になった。だが、上から来た一枚が結界の歪んだ隙間をかすめる。朔夜はすぐに腕を上げ、力任せに補強した。
ばきん、と嫌な音がする。
結界の端が割れたのではない。歪みが矯正されず、霊力同士がぶつかった音だ。訓練札は消えたが、朔夜の結界は不格好に波打った。
陽鞠はとうとう笑ってしまった。
「陽鞠」
朔夜が振り返る。
「ごめん」
「笑った」
「だって、力技すぎる」
「防いだ」
「防いだのはすごいよ。でも、結界というより、霊力の壁を置いて殴ってる」
「殴ってない」
「結界が殴ってる」
「結界は殴らない」
「朔夜のは殴ってる」
生徒たちが笑いを堪える。
かがりは深く息を吐いた。
「篠宮、教えてやれ」
「私が?」
「綴喜の結界の癖は、お前が一番見ているだろう」
「まあ、見てますけど」
「直せるか」
「全部は無理です」
即答だった。
朔夜が少し傷ついた顔をする。
「陽鞠」
「だって朔夜、根本が力押しなんだもん。でも、歪みを減らすくらいならできる」
「なら頼む」
かがりが言った。
陽鞠は中央へ戻った。
朔夜の隣に立つと、改めて身長差が際立つ。陽鞠は百四十センチ。朔夜は二百センチ。立ち位置だけで絵面が妙だ。生徒たちがまたちらちらと見る。
陽鞠は朔夜の右手を見上げた。
「もう一回張って」
「ん」
朔夜が結界を展開する。
黒銀色の厚い壁が再び現れた。やはり強い。正面からなら相当な妖の突進でも止められるだろう。だが、形は歪む。霊力の流れが雑に集まり、端で渦を巻いていた。
陽鞠はため息をつく。
「朔夜、強く張ろうとしすぎ」
「弱いよりいいだろ」
「弱くしろとは言ってない。役割を分けて」
「役割」
「正面で全部受けるんじゃなくて、流すところ、受けるところ、逃がすところを分けるの」
陽鞠は朔夜の右手に自分の手を添えた。
小さな手が、大きな手の甲に重なる。
朔夜の指が、ほんの少し動いた。
陽鞠は気にせず、彼の手首の角度を直す。
「ここ。手首が硬い。霊力が真正面に出すぎ。少し斜めに逃がして」
「こうか」
「違う。それだと全部右に流れる」
「難しい」
「朔夜、刀はあんなに細かく角度変えるのに、結界になると急に雑になるよね」
「刀は斬るものが見える」
「結界も流れを見て」
「見えにくい」
「じゃあ感じて」
「説明が感覚派」
「朔夜に言われたくない」
陽鞠は笑いながら、朔夜の手の上に自分の指を重ねた。
指輪同士が触れる。
ちり、と音が鳴る。
その音に、朔夜の黒い瞳が少しだけ揺れた。
陽鞠は結界の方を見ていたので気づかない。
「まず一枚目を薄くする」
「薄くしたら割れる」
「割れない角度にする。正面から受けるんじゃなくて滑らせるの。朝の駅前で妖の爪をずらした時と同じ」
「あれは陽鞠の結界だろ」
「朔夜にもできる。力はあるんだから、形を覚えればいい」
「覚えたら?」
「私が楽」
「じゃあ覚える」
「動機が雑」
「一番大事だろ」
陽鞠は少しだけ頬を染めた。
「……そういうの、授業中に言わない」
「放課後ならいい?」
「そういう問題じゃない」
生徒たちの視線がまた集まる。
かがりのこめかみがわずかに動いた。
陽鞠は慌てて授業の顔に戻る。
「ここ、見て。朔夜の霊力、中央に集まりすぎ。だから端が薄くなる。全体を一枚で作ろうとしないで、三つに分ける。中央、左右、後ろの逃げ道」
「後ろ?」
「衝撃を自分の身体に返さないための抜け道。力任せに受けると肩に来るでしょ」
「……来る」
「ほら」
陽鞠は朔夜の左肩をちらりと見た。
治ったばかりの傷のあたりだ。朔夜は少しだけ気まずそうな顔をする。
「結界って、硬ければいいわけじゃない。守るための形が必要。朔夜のは強いけど、自分の身体にも負担が来る」
「陽鞠は?」
「私は霊力消費が細かい分、指に来る」
「だから裂ける」
「うん。だからお互い、下手なところを直す」
「俺の方が下手?」
「結界はね」
「陽鞠は刀だと俺より力がない」
「そう。だから朔夜が前に出る」
「お前が道を作る」
「うん」
陽鞠は笑った。
その笑顔は、戦闘中の合図に近かった。
二人の役割は違う。
陽鞠は戦場を読み、結界を張り、味方を守り、敵の隙を作る。朔夜はその隙に踏み込み、刀で妖核を断つ。どちらか一人では足りない場面も、二人なら届く。
それを、二人とも知っている。
朔夜の結界が、少しだけ形を変えた。
厚い壁が、三層に分かれる。まだ歪んでいる。陽鞠ほど薄くもないし、滑らかでもない。だが、中央に集中していた霊力が左右へ分散し、端の波打ちが少し減った。
陽鞠の瞳が明るくなる。
「そう! 今のいい!」
「これで?」
「うん。まだ不格好だけど、さっきよりずっといい。右上が重いから、少しだけ抜いて」
「こうか」
「抜きすぎ。そこまで遠慮しなくていい」
「注文が細かい」
「精密結界だから」
「俺に向いてない」
「向いてなくてもやるの。現場で私が動けない時、朔夜が避難結界を張るかもしれないでしょ」
その言葉に、朔夜の表情が変わった。
黒い瞳が、静かに陽鞠を見下ろす。
「陽鞠が動けない時?」
「可能性の話」
「嫌な可能性だな」
「でも、考えないと」
「お前が動けないなら、俺が全部斬る」
「斬るだけじゃ守れない人もいる」
「……だから結界か」
「うん」
陽鞠の声は柔らかかった。
「朔夜は強いよ。刀も、霊符も、近接も。私よりずっと前に出られる。でも、朔夜が結界も少し上手くなったら、もっと守れる」
「お前も?」
「私も」
「ならやる」
朔夜はあっさり言った。
陽鞠は少し目を瞬く。
「早い」
「理由ができた」
「単純」
「お前関係だと単純でいい」
まただ。
陽鞠は顔が熱くなるのを感じた。
授業中なのに。
実技場の中央なのに。
生徒たちに見られているのに。
朔夜は本当に、そういうことを平然と言う。社会性をどこかへ置いてきたのかもしれない。いや、陽鞠限定で捨てているだけだ。たちが悪い。
「だから、授業中に」
「陽鞠」
「何」
「もう一回、手」
「今添えてるでしょ」
「もっと」
「もっとって」
朔夜の左手が、陽鞠の腰の後ろへ回りかけた。
陽鞠はぎょっとする。
「朔夜、距離」
「近い方がわかる」
「絶対嘘」
「半分」
「残り半分は?」
「触りたい」
「正直すぎる!」
生徒たちが一斉に目を逸らした。
かがりの声が飛ぶ。
「綴喜!」
朔夜の手がぴたりと止まった。
陽鞠も反射で背筋を伸ばす。
かがりは白板代わりの術式盤を持ったまま、こちらを睨んでいた。
「授業中だ」
「はい」
「篠宮を教材にするな」
「先生が俺を教材にしました」
「口答えするな」
「はい」
朔夜は素直に返事をしたが、陽鞠の手はまだ自分の手の上に置かせたままだった。
かがりは深く息を吐く。
「篠宮も離れろ。教える距離ではない」
「はい……」
陽鞠は慌てて手を離そうとした。
その瞬間、朔夜が少しだけ身を屈めた。
あまりにも自然な動きだった。
陽鞠の顎の近くへ、彼の顔が下りてくる。黒い瞳が近い。銀髪が頬にかかりそうになる。陽鞠は一拍遅れて理解した。
この男、授業中にキスしようとしている。
正気か。
いや、正気なのだろう。朔夜にとっては正気の範囲なのだ。人間の正気には個人差がありすぎる。
「朔夜!」
陽鞠が小声で叫ぶ。
「何」
「何じゃない!」
「結界、少しできた」
「ご褒美制度じゃない!」
「一口」
「クレープじゃない!」
「篠宮! 綴喜!」
かがりの怒声が実技場に響いた。
同時に、教師用の制御札が飛んでくる。
札は二人の間にぴたりと挟まるように展開し、薄い防護結界を作った。朔夜の唇は、その結界の直前で止まる。
ぺち、と非常に情けない音がした。
実技場が静まり返った。
朔夜は目の前の教師結界を見て、少しだけ眉を寄せる。
「先生」
「何だ」
「硬い」
「お前の頭ほどではない」
生徒たちが限界を迎えた。
あちこちで笑いが漏れる。上級生は肩を震わせ、一年生は口元を押さえている。陽鞠は顔を真っ赤にして、朔夜の胸を押した。
「離れて!」
「まだご褒美が」
「ない!」
「あとで?」
「ない!」
「顔赤い」
「朔夜のせい!」
「篠宮」
かがりが低く呼ぶ。
陽鞠はびくっとした。
「はい」
「綴喜に手を添えて教えるのは許可する。だが、距離を保て」
「はい」
「綴喜」
「はい」
「授業中にキスしようとするな」
「はい」
「返事が軽い」
「反省しています」
「反省している顔をしろ」
朔夜は真顔になった。
完璧に整った、無表情に近い真顔だった。
陽鞠はそれを見た瞬間、また笑いそうになった。だめだ。今笑えば自分も巻き添えで反省文だ。人間、笑ってはいけない場面ほど笑いたくなる。心が邪悪なのではなく、脳の設計が悪い。
かがりは疲れたように息を吐いた。
「……続けろ。ただし、綴喜は一歩離れろ」
「一歩だと手が届きません」
「では篠宮が横に立て。正面から顔を近づけるな」
「わかりました」
本当にわかっているのか怪しかった。
陽鞠は朔夜の横に回り、今度は少し距離を取って手首の角度を指示した。朔夜はさっきより真面目に結界を張る。霊力の壁はまだ厚い。けれど、少しずつ角度が整っていった。
生徒たちはその変化を食い入るように見つめている。
「本当に形変わった」
「綴喜先輩でも、あんなふうに直すんだ」
「篠宮先輩の教え方、わかりやすい」
「でも距離が近すぎる」
「そこは真似しちゃだめなやつ」
かがりがすぐに言う。
「最後の意見が正しい。技術だけ見ろ。距離感は真似するな」
「先生、聞こえてますよ」
陽鞠が抗議する。
「聞かせている」
「ひどい」
「教育だ」
「教育って便利な言葉ですね」
「お前たちの恋人距離よりは健全だ」
朔夜が何か言おうとした。
陽鞠が即座に彼の袖を引く。
「黙って。反省文増える」
「まだ増えてない」
「増える前に止めてるの」
「優しい」
「そうじゃない」
それでも、朔夜は少し笑った。
結界の形が、また少し整う。
陽鞠はそれに気づき、嬉しそうに頷いた。
「今の、いい。朔夜、さっきよりずっと綺麗」
「綺麗?」
「結界が」
「俺は?」
「授業中」
「放課後なら?」
「……考える」
「許可だな」
「考えるって言った!」
かがりの視線が飛んでくる。
二人は同時に黙った。
その後も授業は続いた。
見習いの生徒たちは正面防御結界に挑戦し、何人かは霊弾の衝撃で尻もちをついた。C級相当の上級生たちは選別結界に苦戦し、味方役の札まで弾いてしまう者が続出した。陽鞠は時々助言をし、朔夜は不器用ながらも自分の歪んだ結界を少しずつ修正した。
完璧には程遠い。
けれど、力任せの壁だったものが、少しだけ守るための形へ変わっていく。
陽鞠はその変化を見るのが好きだった。
朔夜は何でもできるように見える。刀も霊符も、近接戦闘も、妖核破壊も。背が高く、顔も整っていて、成績も実技も優秀で、S級特待生。周囲は彼を完成された存在のように見る。
だが、実際は違う。
結界は下手だ。
力でどうにかしようとする。
細かい霊力操作になると、急に雑になる。
クレーンゲームにも何度も負ける。
肩の怪我も隠そうとして失敗する。
そういう不完全さを、陽鞠は知っている。
その上で、彼が強いことも知っている。
授業の終わり、かがりは全員を集めた。
「今日の訓練でわかったと思うが、結界術は単純な霊力量だけでは決まらない。篠宮のように精密な者もいれば、綴喜のように強度はあるが形に難がある者もいる」
朔夜が少しだけ不満そうな顔をする。
かがりは無視した。
「自分の得意不得意を知れ。現場では、できないことを意地で押し通すより、できる者と組む方がいい。陽鞠と朔夜の連携が強いのは、互いの能力差を埋めているからだ」
生徒たちの視線が、二人へ集まる。
陽鞠は少しだけ背筋を伸ばした。
朔夜は隣で静かに立っている。
かがりは続けた。
「ただし、恋人距離は真似するな」
「先生!」
「大事な注意だ」
実技場に笑いが起きた。
陽鞠は顔を赤くし、朔夜はなぜか少し誇らしげだった。そこは誇るところではない。本当に違う。人類の価値基準は恋をするとすぐ壊れる。
授業後、生徒たちが片づけを始める。
陽鞠は弓を背負い直し、腰の日本刀を確認した。朔夜は隣で自分の手を見ている。結界を何度も張ったせいで、指先が少し痺れているらしい。
「痛い?」
陽鞠が聞く。
「少し」
「正直でよろしい」
「学習した」
「えらい」
「ご褒美は?」
「またそれ?」
「結界、少し上手くなった」
「確かに」
「じゃあ」
朔夜が身を屈めかけた。
陽鞠は即座に彼の額を手で押した。
「ここではなし」
「じゃあどこで」
「人がいないところ」
「屋上?」
「……反省文が増えない場所」
「屋上だな」
「勝手に決めない」
朔夜は陽鞠の手首を軽く掴み、押し返された額から手を離させた。
そのまま、彼女の指先を見つめる。
「今日、指は平気だったか」
「平気」
「禁止」
「……ちょっとだけ痛い。でも大丈夫」
「それも怪しい」
「授業くらいなら問題ないよ」
「任務だったら?」
「その時は、朔夜が前に出るでしょ」
「出る」
「私が道を作る」
「俺が斬る」
二人は当たり前のように言った。
それは約束だった。
何度も繰り返してきた役割確認。結界と刀。金と銀。小柄な少女と、長身の少年。違うからこそ並べる。足りないところを埋め合える。
陽鞠は少しだけ笑った。
「朔夜、結界もう少し練習しようね」
「陽鞠が教えるなら」
「かがり先生の前では距離保って」
「二人きりなら?」
「練習するなら」
「キスは?」
「練習が終わったら考える」
「許可だな」
「だから考えるって」
背後から、かがりの声が飛んだ。
「二人とも、まだ実技場にいるぞ」
陽鞠は肩を跳ねさせた。
朔夜は少しだけ残念そうに顔を上げる。
「先生、耳いいですね」
「教師だからな」
「関係あります?」
「お前たちを監視するには必要だ」
「信用がない」
「積み重ねの結果だ」
陽鞠は何も言えなかった。
積み重ね。
確かに積み重ねている。
廊下、昇降口、任務後の路地、ゲームセンター、屋上。思い返すと、かがりの胃に負担をかけている自覚は少しだけあった。少しだけ。全部ではない。人間には自己防衛という名の都合のいい記憶操作がある。
かがりは資料を抱え、二人の前に来た。
「篠宮、綴喜」
「はい」
「今日はこのまま教室へ戻れ。寄り道するな」
「今日は?」
「今日は、だ。お前たちは放っておくと、実技場から屋上、屋上から購買、購買からどこかの路地へ消える」
「そこまででは」
「ある」
かがりと朔夜の声が重なった。
陽鞠は朔夜を見上げる。
「あるの?」
「可能性はある」
「否定して」
「嘘はよくない」
「こういう時だけ正直」
かがりは頭痛を堪えるように目を閉じた。
「とにかく戻れ。綴喜は結界術の補習を別日に入れる。篠宮、お前も補助に入れ」
「はい」
「え、俺だけ補習?」
「当然だ。今日の歪みを見ただろう」
「割れてません」
「まだ言うか」
陽鞠は吹き出した。
朔夜が横目で見る。
「笑った」
「だって、割れてませんって言い方が」
「事実」
「そうだけど」
陽鞠は笑いながら、朔夜の手を取った。
指輪同士が触れる。
ちり、と小さく鳴る。
かがりの目が細くなる。
「手を繋ぐなとは言っていないが、廊下で立ち止まるなよ」
「はい」
「はい」
二人は今度こそ実技場を出た。
廊下には放課後前のざわめきが戻りつつある。窓の外では、雲の隙間から光が差していた。陽鞠は繋いだ手を軽く揺らしながら、隣の朔夜を見上げる。
「結界、ほんとに上手くなってたよ」
「陽鞠が教えたから」
「でも、やったのは朔夜」
「じゃあ、少しだけ褒めろ」
「さっき褒めた」
「もっと」
「欲しがり」
「お前限定」
「……そういうの、廊下で言わない」
「じゃあ屋上で」
「行かない」
「教室?」
「もっとだめ」
陽鞠は呆れながらも、手を離さなかった。
能力差はある。
得意なことも、苦手なことも違う。
陽鞠は結界が得意で、朔夜は刀が得意。陽鞠は精密に守り、朔夜は鋭く斬る。朔夜の結界は歪むし、陽鞠の刀は力負けすることもある。それでも、二人なら戦える。
恋人として近すぎる距離も、相棒として噛み合う呼吸も、どちらも二人の一部だった。
廊下の先で、生徒たちの声がする。
かがりの怒声がまた聞こえないうちに、二人は少しだけ歩幅を速めた。
指輪の触れる音が、放課後前の廊下に小さく響く。
陽鞠はその音を聞きながら、ふと思った。
朔夜の結界は、まだ下手だ。
でも、きっと上手くなる。
理由ができた、と彼は言った。
その理由に自分が含まれていることが、少し恥ずかしくて、少し嬉しかった。
「陽鞠」
「何」
「補習、二人きり?」
「かがり先生いるでしょ」
「残念」
「本音が早い」
「二人きりなら、もっと近くで教われる」
「今日みたいにキスしようとするからだめ」
「しない」
「嘘」
「少しだけ」
「もっとだめ」
陽鞠は顔を赤くして言った。
朔夜は低く笑う。
廊下の窓から差す光が、陽鞠の金髪と朔夜の銀髪を同時に照らした。
金と銀。
結界と刀。
精密と力押し。
違うから、並べる。
同じではないから、隣にいる意味がある。
二人は手を繋いだまま、教室へ戻っていった。




