第6話 クレープの甘さ
休日の街は、退魔学園の廊下よりずっと騒がしい。
それなのに、どこか気が抜けていた。
駅前の大通りには、昼過ぎの光が明るく落ちている。ショーウィンドウには春物の服が並び、雑貨屋の前では小さな風鈴のような飾りが揺れていた。信号が変わるたびに人の流れが動き、カップル、家族連れ、部活帰りらしい学生、買い物袋を提げた女性たちが、思い思いの速さで歩いていく。
どこかの店から焼き菓子の匂いが流れてくる。
交差点の向こうでは、路上ライブのギターがかすかに鳴っている。
クレープ屋の前には、甘い匂いが濃く漂っていた。
焼けた生地の香ばしさ。温められたバターの匂い。ホイップクリームの甘さ。苺の酸味。チョコレートソースの濃い香り。透明なショーケースには、色とりどりの果物やクリームが並び、店先の看板には期間限定の文字がやたら大きく書かれている。
人間は「限定」という言葉に弱い。
退魔師だろうがS級だろうが、それは変わらない。世界は不公平だが、甘いものの誘惑だけは平等に性質が悪い。
陽鞠は店の前で足を止め、看板をじっと見上げていた。
休日なので、制服ではない。
白い薄手のニットに、黒い短めのプリーツスカート。膝上までのソックスと、歩きやすい厚底の靴。小柄な身体には少し大きめの淡いベージュのジャケットを羽織っている。けれど、背中にはいつもの弓がある。腰の日本刀は目立たないよう特殊なケースに収めているが、退魔師なら一目で武器だとわかる。
金髪ちょいプリンの髪は、今日は軽く巻いていた。
根元に少し伸びた黒が、柔らかい金色の髪の中で妙に彼女らしい。きっちり作り込まれた可愛さではなく、強気で、少し雑で、それでも目を離せない。耳元ではお揃いのピアスが揺れている。月と矢羽根の飾りが、街のざわめきに紛れて小さく鳴った。
右手薬指には指輪。
銀の輪に埋め込まれた金色の石が、陽鞠の瞳と同じ色に光っている。
「決まった?」
頭上から声が降る。
陽鞠は顔を上げた。
隣に立つ朔夜は、休日でも相変わらず目立っていた。
二百センチの長身。銀髪のウルフカット。切れ長の黒い瞳。黒の薄手のコートに、白いシャツ、細身の黒いパンツ。制服でなくても、どこか崩れている。シャツの襟元は少し開き、首元には陽鞠と同じ意匠のネックレスが覗いている。左手首のブレスレット、足首のアンクレット、左手薬指の指輪。全部、陽鞠とお揃いだった。
腰には、当然のように刀。
休日デートなのに武器持参。
普通の恋人同士ならありえない。だが、二人にとっては傘を持つかどうか程度の感覚だった。街中に妖が出る時代に、武器なしで出歩くほど人類に楽観的ではない。そこだけは賢い。ほかはよくわからない。
「決まらない」
陽鞠は真剣な声で言った。
「苺チョコもいいけど、キャラメルバナナも強い。期間限定の白桃クリームも気になる。でもチョコブラウニーも捨てがたい」
「全部食べる?」
「食べない」
「陽鞠なら四口ずつで終わるだろ」
「私の胃を何だと思ってるの」
「可愛い胃」
「胃に可愛いとかない」
「陽鞠についてるならある」
「雑に口説かないで」
「丁寧に口説けばいい?」
「そういう問題じゃない」
陽鞠は頬を膨らませた。
朔夜はその顔を見て、口元を少し緩める。人通りの多いクレープ屋の前で、彼は本当に遠慮なく陽鞠を見る。その視線に照れそうになり、陽鞠は慌ててメニューへ目を戻した。
甘い匂い。
街のざわめき。
背中の弓の重さ。
朔夜の手がすぐ隣にある感覚。
休日だ。
ちゃんと、休日だった。
ここ数日、妖の凶暴化が続いている。駅前広場。ゲームセンター。どちらも本来なら下級妖で済むはずだった。けれど、現実には一般人を襲うほど変質していた。黒い五芒星の印。ゲーム音の奥で濁った声。封印袋の冷たさ。
思い出しかけて、陽鞠は首を振った。
今日は休日だ。
考えなければいけないことはある。だが、今この瞬間だけは、クレープの味で迷っていたい。人類には糖分による一時避難が必要だ。たぶん。医療論文は知らないが、心には効く。
「白桃クリームにする」
「決めた?」
「うん。期間限定に負けた」
「人間らしい敗北」
「朔夜は?」
「苺チョコ」
「意外と普通」
「陽鞠が迷ってたから」
「私に少しくれる気?」
「食べるだろ」
「食べる」
「じゃあそれ」
自然すぎる返事だった。
陽鞠は一瞬黙り、それから小さく目を逸らした。
「……ありがと」
「ん」
朔夜は何でもない顔で注文に向かった。
陽鞠はその背中を見上げる。
長い脚。広い背中。銀髪の襟足。黒いコートの裾。近寄りがたい見た目のくせに、陽鞠が迷っていた苺チョコを当たり前みたいに選ぶ。そういうところが、ずるい。
店員がクレープ生地を鉄板へ広げる。
丸く薄く伸ばされた生地が、熱で少しずつ色を変えていく。甘く香ばしい匂いが強くなった。焼き上がった生地にクリームが絞られ、白桃の果肉が乗せられる。紙で包まれたクレープは、見た目よりずっと温かかった。
陽鞠は両手でそれを受け取った。
「熱い?」
朔夜が聞く。
「平気」
「平気禁止」
「クレープにも?」
「陽鞠が言うと何でも怪しい」
「信頼がない」
「心配がある」
「言い方」
陽鞠は紙包みの端を持ち直し、そっと一口食べた。
柔らかい生地の内側から、冷たいクリームと白桃の甘さが広がる。舌の上で果肉がほどけ、クリームの甘さと混ざる。紙包み越しに伝わる生地の温かさと、口の中の冷たさの差が心地よかった。
「おいしい」
思わず声がこぼれた。
朔夜が隣で苺チョコを持ったまま、陽鞠を見ている。
「食べないの?」
「食べる」
「見てたじゃん」
「おいしい顔してたから」
「見なくていい」
「見る」
「食べて」
朔夜はようやく自分のクレープへ口をつけた。
苺とチョコレートの甘い匂いが混じる。陽鞠はちらちらとそちらを見た。見ていないつもりだったが、たぶん見ていた。朔夜は一口食べてから、無言で自分のクレープを差し出してくる。
「いる?」
「……一口」
「最初からそう言えば」
「見てただけ」
「顔が食べたがってた」
「顔のせいにしないで」
陽鞠は朔夜の手元へ顔を近づけ、小さく一口かじった。
苺の酸味とチョコレートの濃さが口に広がる。
「こっちもおいしい」
「だろ」
「朔夜も白桃いる?」
「いる」
「はい」
陽鞠は自分のクレープを差し出した。
朔夜は当然のように、陽鞠がかじった場所のすぐ横を食べた。
その近さに、陽鞠は一拍遅れて気づく。
「……そこ?」
「何が」
「いや、別に」
「間接キス?」
「言うな」
「今さらだろ」
「今さらでも言うな」
陽鞠はクレープで顔を隠した。
隠しきれていない。
金色の瞳が、紙包みの上から揺れている。朔夜はそれを見て、また口元を緩めた。
「可愛い」
「まだ何もしてない」
「照れてる」
「照れてない」
「目が泳いでる」
「街を見てる」
「俺しか見てないだろ」
「自信過剰」
「違う?」
「……違わないのが腹立つ」
陽鞠は悔しそうに言い、小さくクレープをかじった。
街は賑やかだった。
クレープ屋の横を、子どもを連れた家族が通り過ぎる。向かいの雑貨屋では、友人同士らしい女子高生たちが髪飾りを選んでいる。車道をバスが走り、信号待ちの人々がスマートフォンを眺めている。誰も、陽鞠と朔夜がS級退魔師だとは知らない。背中の弓や腰の刀に目を留める者はいても、コスプレか何かだと思っている顔だ。
それでいい。
知らなくていい。
普通の人たちは、妖の核に刻まれた黒い印など知らずに、クレープの味で迷っていてほしい。駅前で何が起きたかを知ってしまった人も、いつかまた甘いものを買えるようになってほしい。
そう思った瞬間、陽鞠の胸が少しだけ苦しくなった。
朔夜が、すぐに気づく。
「陽鞠」
「何?」
「また考えてる」
「……ちょっとだけ」
「黒い印?」
陽鞠はクレープの紙包みを握り直した。
「うん。でも、今は考えないようにしてる」
「なら考えるな」
「そんな簡単に」
「俺を見ればいい」
「は?」
「俺を見る。クレープ食べる。狐の名前を考える。忙しいだろ」
「朔夜を見るのも予定に入ってるの?」
「最優先」
「何で朔夜が決めるの」
「俺が見てほしいから」
陽鞠の顔が熱くなった。
どうしてこの男は、時々あまりにも真っ直ぐに言うのか。言葉に照れという機能が搭載されていないのか。いや、たぶん搭載されていない。人間としての便利機能がいくつか抜けている。その代わり、陽鞠への甘さだけ異常に強い。偏りがひどい。
「……見るだけなら」
「うん」
「近づかないでよ。クレープ落とす」
「落とさせない」
「そういう自信が怖い」
陽鞠は文句を言いながらも、朔夜を見た。
銀髪が午後の光に透けている。黒い瞳は、普段より少し穏やかだ。左肩の傷はもうほとんど塞がっているが、動かす時にまだ庇う癖がある。彼は隠しているつもりだろうが、陽鞠にはわかる。
陽鞠はそっと手を伸ばし、朔夜の左肩の近くへ触れた。
「痛む?」
「少し」
「正直でよろしい」
「学習した」
「えらい」
「ご褒美は?」
「クレープ一口」
「キス」
「調子に乗らない」
「じゃあクレープ」
朔夜は素直に白桃クリームを一口もらった。
その時、陽鞠の口元にクリームがついた。
自分では気づかなかった。
朔夜の視線が、そこへ落ちる。
「何?」
陽鞠が聞いた。
「ついてる」
「え、どこ」
陽鞠が指で拭おうとするより早く、朔夜の手が伸びた。
彼の親指が、陽鞠の口元へ触れる。
唇の端に付いていた白いクリームを、ゆっくり拭った。指先が肌をかすめる。ほんの一瞬のことなのに、陽鞠の呼吸が止まった。街のざわめきが遠くなる。紙包みの温かさだけが、手の中に残る。
朔夜は拭ったクリームを見た。
そして、当たり前みたいにその指を舐めた。
陽鞠の思考が止まった。
完全に止まった。
信号も、クレープ屋の呼び込みも、通行人の話し声も、どこか遠くへ消えた気がした。目の前で、朔夜が何でもない顔をしている。今、何をした。自然すぎた。自然すぎて逆に不自然だった。人間はもう少し社会的ためらいを持つべきである。特に二百センチの銀髪男は。
「……朔夜」
「何」
「今」
「クリーム」
「それはわかってる」
「ついてたから」
「拭くだけでよかったでしょ」
「もったいない」
「そういう問題じゃない!」
陽鞠の声が裏返りかけた。
金色の瞳が揺れている。頬がみるみる赤くなっていく。耳元のピアスが小さく震え、右手の指輪が紙包みに当たってちり、と鳴った。
朔夜はその顔を、ひどく満足そうに見ていた。
「可愛い」
「言うと思った!」
「可愛いから」
「今のは朔夜が悪い」
「悪い男でいい」
「よくない」
「嫌だった?」
低い声が、少しだけ真面目になる。
陽鞠は言葉に詰まった。
嫌ではなかった。
嫌ではないから困っている。
朔夜は、こういう時だけちゃんと確認する。距離は近い。甘い。遠慮は少ない。けれど、陽鞠が本当に嫌がることはしない。敵の強引な接触とは違う。陽鞠が拒める余白を、必ず残す。
だから、余計に照れる。
陽鞠は視線を逸らし、小さく言った。
「……嫌じゃ、ない」
朔夜の黒い瞳が柔らかくなる。
「ならよかった」
「よくない。心臓に悪い」
「生きてる確認になる」
「休日デートでまで生きてる確認しないで」
「必要だろ」
「必要だけど、今じゃない」
「今も」
「朔夜」
「陽鞠」
名前を呼ばれるだけで、言葉が詰まる。
ずるい。
陽鞠はそう思いながら、クレープをもう一口食べた。甘い。白桃の香りが口いっぱいに広がる。クリームは冷たく、紙包みは温かい。少しだけ溶けかけたクリームが、また垂れそうになる。
今度は自分で慌てて拭った。
朔夜が少し残念そうな顔をする。
「何その顔」
「拭かれた」
「自分で拭くよ!」
「次は俺が」
「次はない」
「ある」
「ない」
くだらないやりとりをしながら、二人はクレープを食べ終えた。
紙包みをゴミ箱へ捨てる頃には、陽鞠の頬の赤みも少しだけ引いていた。完全には戻っていない。朔夜が見ているせいだ。いや、朔夜が悪い。たぶん全部。少なくとも七割くらいは。
通りの人混みが少し増えてきた。
昼から夕方へ移り始める時間帯で、買い物客も学生も多い。陽鞠は弓の位置を直し、朔夜と並んで歩き出した。手は、いつの間にか繋がれている。どちらからともなく。もはや呼吸のようなものだった。
指輪同士が触れる。
ちり、と鳴る。
「次、どこ行く?」
朔夜が聞く。
「雑貨屋見たい。狐のぬいぐるみに合う小さいリボンとかあるかな」
「赤いのついてただろ」
「替えのリボン」
「ぬいぐるみに替えのリボン」
「何。だめ?」
「いや」
「笑ってる」
「可愛いなって」
「狐が?」
「陽鞠が」
「もうそれ禁止」
「無理」
「努力」
「善処する」
「一番信用できないやつ」
陽鞠は頬を膨らませながら、朔夜の手を引いた。
そのまま大通りから少し外れた細い道へ入る。雑貨屋へ行くには近道だった。表通りより人は少ないが、完全な裏路地ではない。小さなカフェの勝手口や、古着屋の搬入口、色褪せたポスターが貼られた壁が並んでいる。上から差す光はビルに遮られ、少しだけ薄暗い。
クレープの甘さが、まだ唇に残っていた。
白桃とクリームの香り。
朔夜の指先。
可愛い、という低い声。
思い出した瞬間、陽鞠はまた顔が熱くなった。
「陽鞠」
「何」
「また赤い」
「暑いだけ」
「路地、涼しい」
「じゃあ寒暖差」
「便利な言葉だな」
「うるさい」
朔夜は足を止めた。
陽鞠もつられて止まる。
表通りのざわめきが、少し遠くなっている。薄暗い路地の中で、二人の影が近づいて重なった。朔夜は繋いだ手を引き、陽鞠を壁際へ寄せる。強くはない。彼女が逃げようと思えば逃げられる力だ。けれど陽鞠は逃げなかった。
「何」
聞く声が、自分でも少し小さくなった。
「クリーム」
「もうついてない」
「知ってる」
「じゃあ何」
「甘そうだったから」
「意味がわからない」
「キスしたい」
直球だった。
陽鞠は数秒固まった。
それから、金色の瞳を揺らして朔夜を睨む。
「……いちいち言わなくていい」
「言った方がいいだろ」
「そうだけど」
「嫌ならしない」
朔夜の黒い瞳が、静かに陽鞠を見ている。
陽鞠は唇を引き結んだ。
嫌ではない。
そんなことは、もうわかっている。
わかっているから、悔しい。
「……短く」
「努力する」
「絶対長くするやつ」
「善処する」
「もっと信用できない」
文句を言いながら、陽鞠は朔夜のコートの前を掴んだ。
答えとしては、それで十分だった。
朔夜が身を屈める。
二百センチの身体が、百四十センチの彼女へ合わせて低くなる。銀髪の影が、陽鞠の頬へ落ちた。お揃いのピアスが近づき、かすかな音を立てる。陽鞠の指輪がコートの布に触れ、ちり、と鳴った。
唇が重なる。
クレープの甘さが、まだ残っていた。
白桃の香り。苺チョコの濃い甘さ。クリームの柔らかさ。その全部が、朔夜の体温と混ざる。陽鞠は最初、短く終わらせるつもりだった。だが、朔夜の手が腰へ回った瞬間、その予定はあっさり崩れた。
まったく、人間の予定は脆い。
特に恋人の手が腰に回った時の予定など、紙よりも薄い。
「ん……」
陽鞠の喉から、小さな声が漏れた。
慌てて朔夜のコートを掴む手に力を込める。彼の唇が少しだけ深くなった。強引ではない。けれど、逃がさないように丁寧だった。壁に背中が触れる。薄暗い路地の空気が、二人の呼吸で少し熱を持つ。
朔夜の手の感触が、腰にある。
大きくて、温かい。
戦闘後の生きている確認とは違う。今は血の匂いもない。妖の濁った声もない。ただ、休日の甘さの中で触れている。それなのに、胸の奥がきゅっと詰まる。平和な時にも、こんなふうに確かめたくなるのだと、陽鞠は少しだけ困った。
唇が離れる。
近い距離で、息が触れた。
「……短くって言った」
陽鞠はかすれた声で抗議する。
「短かった」
「嘘」
「俺基準」
「その基準、壊れてる」
「陽鞠基準だと?」
「長い」
「じゃあ間を取って普通」
「取れてない」
朔夜は陽鞠の口元を見た。
「甘い」
「クレープ食べたからね」
「もう一回」
「しない」
「考えて」
「しない」
「あとで?」
「しない」
「顔、迷ってる」
「迷ってない」
陽鞠が言い返した瞬間だった。
鞄の中で、任務用端末が鳴った。
澄んだ鈴の音。
休日の街にも、薄暗い路地にも、甘い雰囲気にも似合わない音だった。
陽鞠の表情が変わる。
朔夜の手が、腰からゆっくり離れた。
甘さが、空気の中で一瞬にして冷える。
二人は同時に端末を取り出した。
画面に赤い文字が浮かぶ。
緊急任務。
発生地点は、ここから徒歩十分ほどの地下商店街。複数の一般人が体調不良を訴え、霊力反応が急上昇。妖の発生源は不明。現地の退魔師が避難誘導を開始しているが、通路が複雑で封鎖が追いついていない。
陽鞠の金色の瞳が細くなった。
さっきまで揺れていた照れは消えた。背中の弓の位置を確かめ、腰の日本刀へ手を添える。休日の白いニットも、黒いスカートも、その一瞬で戦装束に変わる。
朔夜も刀へ手をかけた。
黒い瞳が冷える。
「地下商店街」
「人が多い」
「逃げ道も少ない」
「結界、細かく張る。朔夜、先に走って状況見て」
「陽鞠は」
「すぐ追う」
「一人にしない」
「十秒だけ」
「五秒」
「面倒くさい彼氏」
「心配性の彼氏」
「自覚あるなら直して」
「無理」
陽鞠は小さく笑った。
笑ってしまった。
任務通知が鳴り、街のどこかで妖が人を脅かしている。それなのに、朔夜がいつも通りすぎて、胸の奥の緊張が少しだけ整った。
彼女は端末をしまい、朔夜を見上げる。
「続きは?」
朔夜が先に聞いた。
陽鞠は一瞬だけ目を瞬く。
それから、唇の端を少しだけ上げた。
「生きて帰ったら」
「任務後?」
「うん」
「長くていい?」
「……考える」
「許可だな」
「考えるって言った」
指輪同士が触れた。
ちり、と音が鳴る。
甘いクレープの香りは、まだ唇に残っている。
けれど、風の中に別の匂いが混じり始めていた。
湿った地下の空気。
古い排水溝の臭い。
人の不安が集まる時の、重く冷たい気配。
陽鞠は深く息を吸った。
「行くよ、朔夜」
「ああ」
二人は路地を飛び出した。
表通りのざわめきが一気に戻る。買い物客の笑い声、車の音、店先の音楽、クレープ屋の甘い匂い。その全部を背に、陽鞠と朔夜は地下商店街へ向かって走り出す。
休日デートは、そこで終わった。
けれど、完全に終わったわけではない。
唇に残った甘さと、任務後の約束が、二人の間にまだ確かに残っていた。




