第5話 S級特待生
退魔学園の職員室には、普通の学校にはまず置かれないものがいくつもある。
壁に貼られた全国妖発生予測地図。窓際に吊るされた浄化済みの鈴。教師用の机に積まれた授業プリントと、隣に置かれた封印箱。古い木棚には、生徒の進路資料と並んで、霊符、護符、簡易結界具、応急用の治癒札が整然と収められている。
だが、その日の職員室で一番目立っていたのは、封印箱でも予測地図でもなかった。
澄庭かがりの眉間の皺だった。
「篠宮」
「はい」
「綴喜」
「はい」
「昨日、私は何と言った」
かがりの声は低かった。
職員室の一角に置かれた応接用の机の前で、陽鞠と朔夜は並んで立っていた。陽鞠は制服のブレザーをきちんと着て、背中の弓も外し、腰の日本刀も一時預けている。見た目だけなら素直に叱られている生徒だった。見た目だけなら。人間社会は見た目に騙されすぎるので、そろそろ学んだ方がいい。
隣の朔夜は、二百センチの長身を少しだけ縮めるように立っていた。
縮めるといっても限界がある。銀髪の頭は相変わらず高い位置にあり、職員室の蛍光灯に近い。ネクタイは一応締め直されているが、もう緩みかけている。襟元も微妙に崩れていた。反省している雰囲気を作ろうとして失敗した大型犬、という感じだった。
かがりはその二人を見上げる形になる。
教師としての威厳を保つためには、首の角度という物理的問題と戦わなければならない。教育とは過酷だ。特に相手が二百センチある場合は。
「昨日、私は言ったな。傷の再診が終わるまで寄り道をするな、と」
「はい」
陽鞠が素直に返事をする。
「綴喜、お前にも言ったな。肩の霊毒が完全に抜けるまで無茶をするな、と」
「はい」
朔夜も返事をする。
「その上で、なぜゲームセンターで妖を祓っている?」
かがりの声が一段低くなった。
職員室の空気が固まる。
近くの机で採点をしていた教師が、そっと赤ペンを止めた。別の教師は見ないふりをして湯呑みを持ち上げたが、中身はもう空だった。人は修羅場を前にすると、空の湯呑みでも飲もうとする。哀れである。
陽鞠は一度だけ朔夜を見た。
朔夜は陽鞠を見返す。
ほんの一瞬、目だけで会話が成立した。
どうする。
正直に言う?
狐のぬいぐるみが欲しかったと?
俺が九回目で取ったことも?
そこは別に言わなくていい。
むしろ言いたい。
やめて。
陽鞠は小さく咳払いした。
「気配を感知したので、対応しました」
「その前に寄り道した理由を聞いている」
「地域巡回を兼ねて」
「篠宮」
「はい」
「嘘をつくなら、せめてもう少し上手くつけ」
陽鞠は黙った。
かがりの視線が、今度は朔夜へ向く。
「綴喜」
「はい」
「お前の報告書には、発生場所が駅前ゲームセンター、発生源が景品用クレーンゲーム周辺とある」
「はい」
「添付写真に、白い狐のぬいぐるみを抱えた篠宮が写っている」
陽鞠は思わず目を逸らした。
昨日の騒動後、店内の被害記録を撮影した若い退魔師が、なぜか陽鞠の腕の中の狐まで写していたのだ。あの退魔師は悪気がなかった。ないから余計に厄介だ。善意と不注意は時々、悪意より鋭く人を刺す。
かがりは机の上に資料を置いた。
「気晴らしに行ったな」
「……はい」
陽鞠は観念した。
朔夜も静かに頷く。
「俺が誘いました」
「知っている。篠宮一人なら、まず保健室の再診を優先する」
「え、先生、私のことそういうふうに見てたんですか」
「お前は無茶はするが、手順は守る。綴喜は手順を守る顔をして、隙あらば飛ばす」
「ひどい」
朔夜が低く呟く。
かがりは即座に返した。
「事実だ」
「否定できない」
陽鞠が小さく言うと、朔夜が横目で睨んできた。
「陽鞠」
「だって事実だし」
「お前も結界で景品を動かそうとしただろ」
「何の話かな」
「先生、篠宮も不正未遂を」
「綴喜、告げ口で減点を免れようとするな」
「減点制なんですか」
「私の中ではとっくに赤点だ」
かがりがそう言うと、陽鞠は少しだけ肩を竦めた。
説教は怖い。
けれど、かがりの叱り方は嫌いではなかった。怒鳴りつけて従わせるだけではない。ちゃんと見て、知って、心配した上で叱る。退魔学園の教師には珍しくない姿勢だが、それでも陽鞠にとってはありがたかった。
強いから大丈夫、とは言わない。
S級だから当然、とは言わない。
そこが、かがりらしい。
かがりは深く息を吐き、資料を閉じた。
「怪我人は出なかった。店内の一般客は全員避難。店舗被害は出たが、凶暴化妖の規模を考えれば最小限と言っていい。そこは評価する」
「ありがとうございます」
「だが」
陽鞠と朔夜の背筋が、ほぼ同時に伸びた。
「再診前に寄り道したこと、発生直後に私へ直接連絡を入れなかったこと、現場判断で店内戦闘に入ったこと。全部、後で反省文だ」
「反省文……」
陽鞠の声が沈む。
朔夜は少し眉を寄せた。
「枚数は」
「三枚」
「多い」
「五枚にするか?」
「三枚で」
即答だった。
陽鞠は少しだけ笑いそうになり、必死に堪えた。かがりの前で笑えば、確実に増える。人間は時に、口角ひとつで自分の首を絞める生き物だ。
その時、職員室の扉が控えめにノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、一年生の退魔実技補助班だった。
五人ほどの生徒が、緊張した顔で立っている。まだ実戦任務には出られない見習い退魔師たちだ。彼らはかがりに用事があったらしく、書類を抱えていたが、陽鞠と朔夜を見るなり足を止めた。
目が丸くなる。
「あ……」
「篠宮先輩と、綴喜先輩……」
陽鞠は軽く手を上げた。
「お疲れ」
朔夜は黙って頷いた。
それだけで、一年生たちの背筋が伸びる。面白いくらいに緊張していた。陽鞠は少し困った。自分たちは別に、そんなに恐れられるような存在ではない。いや、腰に刀を差して妖を斬り、昨日ゲームセンターで凶暴化妖を祓ったばかりの二人が言う台詞ではないのかもしれない。客観性というものは、時々ほんとうに邪魔だ。
かがりは一年生たちを見て、少し考えるように目を細めた。
「ちょうどいい。お前たち、ランク制度の小テストで散々な点を取ったな」
一年生たちが一斉に肩を震わせた。
「うっ」
「それは……」
「A級とB級の違いがややこしくて……」
「S級はすごいってことだけはわかります」
「そこだけわかっていても現場では死ぬ」
かがりの声は容赦がなかった。
陽鞠は少しだけ同情した。退魔師ランクは、ただの肩書きではない。任務の危険度、同行者、退避判断、現場指揮権に直結する。間違えれば本当に死ぬ。とはいえ、入学したばかりの一年生にとっては、記号の羅列に見えても仕方ない。
かがりは陽鞠と朔夜を見た。
「篠宮、綴喜。反省文の前に、少し付き合え」
「え」
「今から?」
「お前たちを教材にする」
朔夜が露骨に嫌そうな顔をした。
陽鞠も同じくらい嫌だった。
教材。
人間はすぐ他人を教材にする。とても恐ろしい習性だ。
かがりは一年生たちを職員室横の小会議室へ連れていった。陽鞠と朔夜もついていく。小会議室には白板と長机があり、壁には退魔師ランク別任務基準表が貼られていた。
かがりは白板の前に立ち、ペンを取る。
「復習だ。退魔師ランクは上からS、A、B、C、D、E、F。その下に、学生に多い見習いがいる」
一年生の一人が手を上げた。
「先生、F級より見習いの方が下なんですか?」
「基本的にはな。F級は卒業後の退魔師にも多い。実戦経験が浅く、単独任務は許されない。見習いは学生が中心で、現場へ出る場合も補助だけだ。自分の判断で妖へ近づくな。死ぬぞ」
「はい……」
かがりは白板に簡単な表を書いた。
「E級は、大抵の退魔師が最初に通る。低難易度任務でも必ずA級かB級の同行が必要だ。D級は低難易度任務なら多人数で挑むことが許される。C級で、ようやく一人前とされる。低難易度任務を単独で担うことができる」
陽鞠は懐かしい気持ちで聞いていた。
自分も入学直後、同じ説明を受けたはずだ。だが、その時にはすでに測定結果が異常値で、周囲の反応は少し違っていた。お前は普通の段階を踏まない、と教師に言われた時の空気を覚えている。
特別。
例外。
測定不能。
便利な言葉だった。
そして少し、息苦しい言葉だった。
「B級はエリート扱いだ。低難易度任務は単独で可能。中難易度任務なら複数人で担う。A級になると、中難易度任務を単独で担当できる。高難易度任務は複数人で挑む。ここまで来れば、現場ではかなり頼られる」
一年生たちは真剣にメモを取っている。
かがりはそこで、陽鞠と朔夜を指した。
「そしてS級だ」
視線が一斉に集まった。
陽鞠は少しだけ居心地悪そうに眉を寄せる。朔夜は興味なさそうな顔をしていたが、陽鞠の手が落ち着かなく動いたのを見ると、さりげなく隣へ半歩寄った。
それだけで、陽鞠の肩の力が少し抜ける。
「S級は、現在五人しかいない。測定不能の霊力を持ち、通常の任務基準から外れる。自由行動も一部許される。ただし、何をしてもいいという意味ではない」
最後の言葉だけ、かがりは陽鞠と朔夜を見ながら言った。
陽鞠は目を逸らす。
朔夜も目を逸らす。
すばらしい反省態度である。見る者が見れば、何も反省していないと一瞬でわかる。教師という職業はたいへんだ。
一年生の一人が、おずおずと手を上げた。
「あの、先生。篠宮先輩と綴喜先輩は、まだ学生ですよね」
「そうだ」
「でも、昨日も実戦任務に出たって聞きました。学生でもS級なら、退魔師の任務に同行できるんですか?」
「正確には、許可された特待生に限る」
かがりは白板を軽く叩いた。
「本来、学生は見習いとして補助に回る。実戦任務へ出る場合も、教師や上位退魔師の管理下だ。だが、篠宮と綴喜は例外的な特待生として、退魔師クラスの任務同行が認められている。二人ともS級測定。通常の学生枠では収まらない」
通常では収まらない。
陽鞠はその言葉を、黙って聞いた。
褒め言葉なのだろう。
けれど、いつ聞いても少しだけ遠い場所へ置かれる感じがする。教室にいるのに、同級生とは違う枠へ移される。制服を着て、授業を受けて、購買で菓子パンを買っているのに、任務通知が鳴れば戦場へ走る。
学生。
退魔師。
特待生。
S級。
どれも自分のことなのに、時々、その全部が重たくなる。
「ただし、S級なら必ず安全というわけではない」
かがりの声が続く。
「むしろ、S級だからこそ危険な現場へ呼ばれる。昨日のゲームセンターのように、本来なら下級妖で済むはずだったものが凶暴化している例も増えている。測定上は低級でも、一般人を襲うほど変質していれば、見習いどころかC級でも危ない」
一年生たちの顔が引き締まる。
陽鞠は昨日の妖を思い出した。
ぬいぐるみの綿と配線でできた身体。機械の音に混じる濁った鳴き声。もう一回、と繰り返す声。店内に残った子どもたちの悲鳴。逃がすために張った結界。朔夜の刀。
そして、妖核の奥に一瞬だけ見えた黒い印。
結局、妖は祓った。
客に大きな怪我はなかった。
だが、自然発生だけでは説明がつかない異常は、確かにあった。
陽鞠は無意識に右手薬指の指輪へ触れた。
朔夜の視線が、すぐにその動きを拾う。
「篠宮」
かがりが呼んだ。
陽鞠は顔を上げる。
「はい」
「お前から一年に言えることはあるか」
「え、私ですか」
「現場に出た者の言葉は、教師の説教より刺さる」
「先生、今自分で説教って言いました?」
「黙れ」
「はい」
陽鞠は少し困ったように、一年生たちを見た。
真剣な目が並んでいる。憧れもある。恐れもある。知りたいという気持ちもある。陽鞠はその全部に少しだけ息を詰まらせてから、ゆっくり口を開いた。
「ランクは、大事だよ。自分がどこまでできるかを知るためにも、誰を頼るべきか判断するためにも。勝てない相手から逃げるのは、恥じゃない。一般人を守って退くのも、任務だから」
一年生たちが黙って聞いている。
「でも、ランクだけで妖を見ないで。昨日の妖は、見た目も発生源も下級だった。普通なら、低ランクでも対処できる範囲だったと思う。でも、実際は違った。一般人を狙ったし、機械を利用したし、霊力の増幅もおかしかった。そういう時、資料の通りに動くだけだと遅れる」
陽鞠は自分の指先を見る。
治癒符の下に、まだ少しだけ痛みがある。
「怖いと思ったら、ちゃんと怖いと思って。嫌な感じがしたら、気のせいにしないで。退魔師は、強がる仕事じゃない。生きて帰って、次も誰かを守る仕事だと思う」
言い終えると、陽鞠は少し照れた。
自分で言いながら、朔夜に言われたことと似ている気がした。強いから痛くないわけじゃない。怖いことをなかったことにしない。結局、あの路地で朔夜に言われた言葉が、自分の中に残っていたのだ。
朔夜が隣で、ほんの少しだけ笑った。
陽鞠は気づいて睨む。
「何」
「いいこと言った」
「茶化さないで」
「茶化してない」
「絶対ちょっと笑ってた」
「可愛いなって」
「今じゃない」
一年生たちが一斉に目を逸らした。
かがりが額を押さえる。
「お前たちは、なぜ一分も真面目な空気を保てない」
「朔夜が悪いです」
「陽鞠が可愛いのが悪い」
「綴喜」
「はい」
「反省文、四枚」
「増えた」
「当然だ」
陽鞠は笑いを堪えた。
朔夜は少しだけ不服そうな顔をしたが、文句は言わなかった。たぶん、五枚になるのを避けたのだろう。賢明である。人類は時に、沈黙によって命を守る。
その後、一年生たちはかがりから追加説明を受け、資料を抱えて出ていった。
去り際、一人の女子生徒が振り返った。
「あの、篠宮先輩」
「ん?」
「昨日のゲームセンターで助けられた女の子、親戚の子なんです。怪我、なかったって。ありがとうございました」
陽鞠は一瞬、言葉を失った。
それから、少しだけ表情を緩める。
「よかった」
「はい。本当に、ありがとうございました」
女子生徒は深く頭を下げ、廊下へ出ていった。
扉が閉まる。
小会議室に静けさが戻った。
陽鞠はしばらく扉を見ていた。
あの女の子。キャンディの袋を握って泣いていた子だ。母親のもとへ走っていった後ろ姿を覚えている。無事だった。怪我がなかった。たったそれだけの事実に、胸の奥が少し温かくなる。
朔夜が、陽鞠の右手を取った。
「よかったな」
「うん」
「狐も守れたし」
「そこで狐を並べる?」
「陽鞠が大事そうにしてた」
「大事だけど」
「名前は?」
「まだ決めてない」
「待ってて」
「だから違う」
陽鞠が言い返すと、かがりが机を軽く叩いた。
「いちゃつくな。職員室横だ」
「いちゃついてません」
「手を繋いでいる」
「これは……癖です」
「悪い癖だな」
陽鞠は慌てて手を離そうとした。
朔夜が離さなかった。
「朔夜」
「癖だから」
「その開き直りやめて」
かがりは深くため息をついた。
「篠宮、綴喜。お前たちが互いを支えにしているのはわかっている。任務前後の確認も、精神の安定に必要な面があることは否定しない」
陽鞠の顔が一気に赤くなった。
「先生、その言い方」
「だが、場所を選べ」
「はい……」
「特に綴喜。廊下、昇降口、現場付近、ゲームセンターの景品コーナー。報告に上がっているだけでこれだ。教師の胃にも限界がある」
「善処します」
「その返事は信用ならん」
「努力します」
「それも信用ならん」
朔夜は黙った。
かがりはもう一度ため息をつき、二人の前に反省文用紙を置いた。
「放課後、これを書け。終わるまで帰るな」
「先生」
朔夜が口を開く。
「何だ」
「屋上で書いても?」
「なぜ屋上」
「風通しがいい」
「反省文に風通しは必要ない」
「陽鞠が疲れてるので」
かがりの視線が、陽鞠へ向いた。
陽鞠は一瞬、背筋を伸ばす。
「疲れてません」
「顔色は少し悪い」
「それは……」
「昨日から任務続きだからな」
かがりの声が、少しだけ柔らかくなった。
「屋上へ行くなら、三十分だけだ。反省文はその後、教室で書け。綴喜、篠宮を寝かせるな。篠宮、綴喜をサボらせるな」
「はい」
「はい」
二人は同時に返事をした。
その返事の揃い方だけは真面目だった。
かがりは信用していない顔をしていた。
実に正しい。
五分後。
陽鞠と朔夜は屋上にいた。
退魔学園の屋上は、一般生徒には通常開放されていない。結界塔の点検口があり、学園全体を覆う防護結界の補助陣も刻まれているためだ。だが、S級特待生には一部区域への立ち入りが許されていた。自由行動の許可という名の、便利に使われている例外である。人間社会は例外を作ると、だいたい本人の休憩場所にも仕事場にもする。欲張りがすぎる。
夕方の風が、屋上を抜けていく。
フェンスの向こうに校庭が見えた。実技場では、まだ何人かの生徒が結界練習をしている。遠くで霊力の衝突音が小さく響き、校舎の窓には夕焼けが反射していた。空は淡い橙から紫へ変わり始めている。
陽鞠は屋上の隅に腰を下ろした。
制服のスカートを軽く整え、背中を壁に預ける。白い狐のぬいぐるみは、今日は教室のロッカーに置いてきた。さすがに説教の場へ持っていく勇気はない。勇気の使い道としても間違っている。
朔夜は隣に座ろうとして、陽鞠に袖を引かれた。
「こっち」
「何」
「寝て」
朔夜が少しだけ目を瞬く。
「かがり先生に寝かせるなって言われた」
「寝かせるなとは言われたけど、膝枕するなとは言われてない」
「屁理屈」
「朔夜に言われたくない」
陽鞠は自分の膝を軽く叩いた。
「肩、まだ痛いでしょ。少し休んで」
「陽鞠が疲れてる」
「私も休む。朔夜の頭を乗せたまま」
「それは休めるのか」
「気分的に」
朔夜はしばらく陽鞠を見ていた。
黒い瞳が、少しだけ柔らかくなる。
「じゃあ、借りる」
「うん」
朔夜は長い身体を横たえた。
二百センチの男が、百四十センチの少女の膝に頭を預ける。冷静に見ると、何かの比率がおかしい。世界の縮尺が狂っている。けれど、二人の間ではそれが妙に自然だった。
朔夜の銀髪が、陽鞠の太ももの上に広がる。
夕方の光を受けた毛先は、淡く白く光っていた。陽鞠はそっと手を伸ばし、彼の前髪を指で梳いた。戦闘中には鋭い銀色に見える髪が、今は柔らかい。指の間をすり抜ける感触に、陽鞠の表情も少し緩んだ。
朔夜は目を閉じた。
「寝ちゃだめだよ」
「うん」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「寝る声」
「寝ない」
「信用できない」
「陽鞠が起こして」
「どうやって」
「キス」
「却下」
「じゃあ寝る」
「脅し方が幼稚」
陽鞠は呆れながらも、朔夜の髪を撫で続けた。
風が吹く。
お揃いのピアスが揺れ、小さな音を立てる。陽鞠の右手薬指の指輪が、朔夜の銀髪に触れた。左手を伸ばした朔夜の指輪と、ほんの少しだけ触れる。
ちり、と澄んだ音がした。
屋上の静けさの中で、その音はとても小さく、けれどはっきり響いた。
「S級ってさ」
陽鞠がぽつりと言った。
「うん」
「便利な言葉だよね」
朔夜は目を閉じたまま、黙って聞いている。
「すごいって意味にもなるし、危ない任務へ行けって意味にもなるし、普通じゃないって意味にもなる。今日、一年生に話してて思った。私たち、制服着てるのに、制服着てるだけじゃ済まないんだなって」
「嫌になった?」
「ううん」
陽鞠は朔夜の髪を梳く手を止めない。
「嫌ではない。誰かを守れるのは、嫌じゃない。昨日の女の子、無事だったって聞いて、よかったって思ったし。朝の駅前でも、助かった人がいた。それは、本当によかった」
「うん」
「でも、たまに変な感じがする。教室にいる私と、任務に行く私は同じなのに、周りの目が違う。最強ペアとか、S級特待生とか、測定不能とか。そう言われると、強い顔をしなきゃいけない気がする」
言ってから、陽鞠は少し笑った。
「朔夜に言ったら、また怒られそう」
「怒らない」
「本当?」
「今は膝枕中だから」
「膝枕中じゃなかったら怒るんだ」
「少し」
「やっぱり」
朔夜は目を開けた。
下から陽鞠を見上げる形になる。その黒い瞳に、夕焼けの橙が少しだけ映っていた。
「強い顔しなくていい」
「でも」
「俺の前では、いらない」
陽鞠の手が止まる。
朔夜は静かに続けた。
「任務中は、お前が強いのを知ってる。結界も、弓も、刀も。誰より見てる。けど、痛い時は痛い顔していい。怖い時は怖いって言えばいい。腹が立つなら怒ればいい。俺はそれで弱いとは思わない」
「……うん」
「あと、俺の前で無理に平気な顔すると、すぐばれる」
「それは本当に困る」
「困れ」
「意地悪」
「お前限定」
陽鞠は小さく息を吐いた。
胸の奥にあった硬いものが、少しだけほどける。澄庭かがりの説教も、一年生の視線も、S級という言葉の重さも、完全には消えない。消えなくていい。たぶん、これからも背負うものだ。
でも、今は朔夜の髪を撫でている。
屋上の風がある。
夕焼けがある。
膝の上に、重たい銀髪の頭がある。
それだけで、ちゃんと学園生活の中に戻ってこられる気がした。
「朔夜」
「何」
「肩、明日も痛かったらちゃんと言って」
「陽鞠も指が痛かったら言え」
「先に返事」
「わかった」
「嘘じゃない?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
「わかった」
陽鞠は満足げに頷いた。
それから、少しだけ身を屈める。
朔夜の額に、そっと唇を落とした。
短いキス。
戦闘前でも後でもない。生きている確認というほど切羽詰まったものでもない。ただ、夕方の屋上で、膝枕をしている恋人へ落とす、穏やかなキスだった。
朔夜が目を細める。
「額?」
「何」
「口がいい」
「反省文四枚の人に贅沢言う権利ない」
「陽鞠は三枚だろ」
「そうだけど」
「一枚分、俺より余裕ある」
「その理屈はおかしい」
「じゃあ一枚分だけ」
「何が」
「キス」
「反省文の単位にしないで」
陽鞠は呆れた声を出したが、顔は少し赤かった。
朔夜がそれを見て、口元を緩める。
「可愛い」
「寝るよ、膝から落とすよ」
「落とされる前に掴む」
「腰に手を回す口実にしない」
「ばれた?」
「ばれる」
陽鞠は朔夜の前髪を少し乱すように撫でた。
朔夜はされるがままだった。普段、近寄りがたいと言われる冷たい美形が、陽鞠の膝の上で目を細めている。これを一年生が見たら、さっきのS級説明の威厳は半分くらい飛ぶだろう。いや、すでに廊下や昇降口で飛ばしている気もする。威厳というものは、恋人の前ではだいたい紙より薄い。
屋上の扉の向こうで、遠くチャイムが鳴った。
三十分の終わりを告げる予鈴だった。
陽鞠は顔をしかめる。
「戻らないと」
「あと五分」
「先生に三十分って言われた」
「人類はなぜ時間を区切る」
「反省文から逃げるために哲学しない」
「陽鞠」
「何」
「あと一回」
「だから反省文の前に調子に乗らない」
「なら反省してる顔する」
朔夜は目を閉じ、ひどく真面目そうな表情を作った。
陽鞠は数秒見つめてから、吹き出した。
「全然反省してない顔」
「難しい」
「妖核の位置は読めるのに?」
「反省の位置が読めない」
「最低の言い訳」
陽鞠は笑いながら、もう一度だけ朔夜の額にキスをした。
今度は少し長めに。
朔夜が満足そうに目を細める。
「口は?」
「戻る」
「陽鞠」
「戻る」
「あとで?」
「反省文が終わって、先生に提出して、肩の再診を受けたら考える」
「許可だな」
「考えるって言った」
「さっきも似たような会話したな」
「朔夜が毎回同じこと言うから」
二人はようやく立ち上がった。
朔夜の銀髪に、陽鞠の指の跡が少し残っている。陽鞠はそれを直してやろうとして、逆にわざと乱した。朔夜が眉を上げる。
「何してる」
「反省してない罰」
「可愛い罰だな」
「もっとひどい罰がいい?」
「膝枕延長」
「それ罰じゃない」
「俺にはご褒美」
「知ってる」
陽鞠は差し出された朔夜の手を取った。
指輪同士が触れる。
ちり、と音が鳴る。
屋上の扉へ向かいながら、陽鞠は校庭を一度だけ見下ろした。見習いの一年生たちが、実技場の端で結界の基礎練習をしている。A級教師が横について、何度も形を直していた。誰もが最初は見習いから始まる。F、E、D、C、B、A。段階を踏み、失敗し、怒られ、学んでいく。
自分たちは、その普通の階段から少し外れている。
学生でありながらS級。
任務に同行し、凶暴化妖を祓い、一般人を守る。
異常だ。
でも、異常だから孤独でいなければならないわけではない。
陽鞠は隣の朔夜を見上げた。
朔夜も彼女を見ていた。
「何」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「うん。別にじゃないかも」
「言えば」
「朔夜が隣にいてよかったなって思っただけ」
朔夜の足が止まった。
陽鞠は言ってから、自分の顔が熱くなるのを感じた。
「今のなし」
「無理」
「忘れて」
「無理」
「反省文五枚になればいいのに」
「それでも忘れない」
「しつこい」
「好きだから」
「……戻る!」
陽鞠は手を引いて、屋上の扉を開けた。
夕焼けの光が背中から差し込み、二人の影が校舎の階段へ伸びる。下では、かがりが反省文用紙を用意して待っているだろう。逃げ場はない。ある意味、妖より恐ろしい。
それでも、陽鞠の足取りは軽かった。
S級特待生。
最強ペア。
測定不能。
いくつもの言葉が、これからも二人につきまとう。
けれど今だけは、ただの放課後だった。
叱られて、屋上で膝枕をして、キスの回数で揉めながら反省文へ向かう、十八歳の恋人同士の放課後。
陽鞠は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
朔夜が当たり前のように握り返す。
二人の指輪が、階段の薄暗がりでまた小さく鳴った。




