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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第4話 ゲーセンの狐ぬいぐるみ


 放課後の退魔学園は、朝よりも少しだけ人間らしい音を立てる。


 授業終わりの解放感に浮かれた声。廊下を走って教師に叱られる一年生。実技場から聞こえる竹刀と結界のぶつかる音。購買前で最後の菓子パンを奪い合う男子生徒。教室の窓から差し込む夕方の光が、机の上に置き忘れられた霊符の束を薄く照らしていた。


 陽鞠は昇降口で靴を履き替えながら、右手の指を軽く開閉した。


 結界の反動で裂けていた指先は、保健室で処置されている。包帯というほど大げさではない。薄い治癒符を貼り、その上から透明な保護膜を重ねただけだ。痛みは少し残っていたが、弓を引けないほどではない。


 腰の日本刀も、背中の弓も、いつも通りそこにある。


 制服のブレザーは朝より少しだけ整っていた。血の匂いは浄化して落とした。けれど、完全に消えたわけではない気がする。鼻ではなく、記憶の奥に残る匂いだ。割れたガラス。黒い灰。妖の濁った鳴き声。封印袋に沈んでいた黒い五芒星。


 考え始めると、指先にまた冷たい感覚が戻りそうになる。


 陽鞠は意識して息を吐いた。


「陽鞠」


 低い声が頭上から落ちてくる。


 顔を上げると、朔夜が昇降口の柱にもたれていた。二百センチの長身が、柱一本を無駄に圧迫している。銀髪のウルフカットは夕方の光を受けて柔らかく光り、切れ長の黒い瞳はいつものように少し眠たげだった。


 制服は、相変わらず微妙に崩れている。


 ネクタイは緩い。シャツの第一ボタンは開いている。ブレザーの袖口も片方だけ雑に捲られていた。左肩の傷は治癒符で塞いであるが、動かすとまだ少し引きつるはずだ。本人は平気な顔をしている。まったく、強がりの種類が小学生よりわかりやすい。


 耳元で、陽鞠とお揃いのピアスが揺れた。


 月と矢羽根の飾りが、かすかな音を立てる。首元には同じ意匠のネックレス。手首には黒革のブレスレット。左手薬指には、陽鞠の右手薬指と対になる指輪が光っていた。


「帰るぞ」


「どこに?」


「ゲーセン」


 当然のように言われて、陽鞠は目を瞬いた。


「……任務報告のあとに?」


「報告は終わった」


「更紗への妖核提出も?」


「した」


「かがり先生への経過説明も?」


「した」


「肩の再診は?」


「逃げた」


「戻れ」


 陽鞠は即答した。


 朔夜は少しだけ視線を逸らす。図体が大きいくせに、こういう時だけ悪戯が見つかった猫みたいな顔をする。いや、猫に失礼かもしれない。猫はもっと堂々と悪いことをする。


「治癒符貼った」


「再診は?」


「後で」


「その『後で』が信用できない」


「ゲーセンの後」


「ゲーセンを挟む意味」


「陽鞠、朝からずっと顔が硬い」


 陽鞠は言葉に詰まった。


 朔夜の黒い瞳が、まっすぐ彼女を見ていた。からかうような軽さはある。だが、その奥にあるものは誤魔化せない。心配している時の目だ。


「気晴らし」


「……私の?」


「俺のってことにしてもいい」


「朔夜、クレーンゲーム下手じゃん」


「今日は取れる」


「その台詞、負ける人のやつ」


「じゃあ勝つ」


「言い方だけは強い」


 陽鞠は呆れたように息を吐いた。


 けれど、断らなかった。


 放課後の校門を出る時、二人は自然に手を繋いだ。陽鞠の右手を朔夜の左手が包む。指輪同士が触れ、ちり、と小さな音が鳴った。朝の任務後からずっと身体の奥に残っていた冷たさが、その音で少しだけ薄れる。


 校門前では、何人かの生徒が二人を見送っていた。


「また手繋いでる」


「今日は任務ないよな?」


「あの二人、任務なくてもだいたい一緒にいるだろ」


「S級って放課後ゲーセン行くんだ……」


 最後の声には、陽鞠も少しだけ振り返りそうになった。


 行く。


 S級でもゲーセンくらい行く。人類、妖を斬る者にも遊興施設の利用を許すべきだ。むしろ精神衛生上、積極的に許すべきである。とはいえ、背中に弓、腰に日本刀、隣に二百センチの銀髪男という組み合わせでゲームセンターへ入るのは、一般社会への配慮という面ではだいぶ終わっている。


 駅前から二本入った通りに、そのゲームセンターはあった。


 赤と青のネオン看板が、まだ暮れきらない空の下でちらちら光っている。入口の自動ドアが開くたび、中から電子音と甘い匂いが溢れ出した。ポップな効果音。リズムゲームの派手な音楽。メダルが落ちる連続音。誰かの歓声。景品コーナーに置かれたビニールとぬいぐるみの匂い。少し古い空調の埃っぽさ。


 陽鞠は入口で一瞬だけ足を止めた。


 店内は明るい。


 眩しすぎるくらいだった。


 無数の画面が色を変え、機械のランプが点滅し、ガラスケースの中で景品が照らされている。朝の血の匂いなど、ここにはない。代わりにあるのは、人間が小銭を入れて小さく一喜一憂する平和な音だ。世の中には、妖核を斬る音よりずっと間抜けで、ずっと救われる音がある。


 陽鞠は少しだけ笑った。


「何」


 朔夜が見下ろす。


「ううん。平和だなって」


「平和にするために来たんだろ」


「朔夜の気晴らしって言ってなかった?」


「お前が笑ったから俺の気晴らしにもなった」


「そういうことをさらっと言うな」


「さらっとじゃなくても言う」


「余計悪い」


 陽鞠は繋いだ手を引いて、景品コーナーへ向かった。


 並んだクレーンゲームの中には、ぬいぐるみ、フィギュア、菓子箱、小さな家電、謎の巨大クッションなどがぎっしり詰められている。人間はどうして、取れそうで取れないものを透明な箱に入れて金を払うのか。冷静に考えると妖より不可解だ。だが、その不可解さこそ娯楽なのだろう。人類、まことに面倒で愛すべき失敗作である。


 陽鞠の金色の瞳が、ある一台の前で止まった。


 白い狐のぬいぐるみだった。


 手のひらよりは大きく、抱えるには少し小さい。ふわふわした白い毛並みに、金色の耳の内側。首には赤い小さな鈴付きのリボンが巻かれている。尻尾は身体より大きく、先端だけ淡い金色に染まっていた。丸い黒目と、少しだけ得意げな口元が妙に可愛い。


 陽鞠はガラスに近づいた。


「……可愛い」


 朔夜が隣に立つ。


「欲しい?」


「別に」


「欲しい顔」


「見てるだけ」


「陽鞠」


「……ちょっと欲しい」


「取る」


 朔夜は即答した。


 陽鞠は彼を見上げる。


「取れるの?」


「取る」


「聞き方変えるね。取れる腕あるの?」


「取る」


「それ答えになってない」


 朔夜は財布を取り出し、両替機へ向かった。


 その後ろ姿を見ながら、陽鞠は少しだけ笑った。戦闘中は妖の核を一瞬で見抜き、刀を通す最短の軌道を選べるくせに、クレーンゲームになると途端に勝率が怪しくなる。生き物としてのバランスが変だ。まあ、人間はだいたい変だが、朔夜は特に偏っている。


 戻ってきた朔夜は、百円玉を投入した。


 軽い音がして、機械が明るく鳴る。


 制限時間が表示され、クレーンが動き出した。朔夜は真剣な顔で操作レバーを握る。あの顔で妖を見据えれば周囲の退魔師が黙るのに、今は相手が白狐のぬいぐるみ。世界は時々、すごく無駄に壮大な絵面を作る。


「もう少し右」


 陽鞠が言う。


「わかってる」


「奥行き見えてる?」


「見えてる」


「嘘。行きすぎ」


「行ってない」


「行った」


 クレーンが下りる。


 アームは狐のぬいぐるみの胴体を掴んだ。いや、掴んだように見えた。持ち上がった瞬間、ぬいぐるみはするりと抜けて、元の位置より少しだけ奥に転がった。


 ぽすん。


 気の抜ける音がした。


 朔夜の眉が、わずかに寄る。


「惜しい」


 陽鞠は慰めるように言った。


「今のは滑っただけ」


「ぬいぐるみだからね」


「次で取る」


「うん。頑張って」


 二回目。


 アームは狐の尻尾をかすめただけで終わった。


 三回目。


 首のリボンに引っかかったように見えたが、持ち上がる前に外れた。


 四回目。


 朔夜が角度を読みすぎて、何もない空間を掴んだ。


「……朔夜」


「何」


「そこ、狐いなかったよ」


「わかってる」


「本当に?」


「今のは確認」


「何の?」


「空間」


「クレーンゲームで空間確認しないで」


 陽鞠は笑いを堪えきれず、口元を手で押さえた。


 朔夜が横目で見る。


「楽しそうだな」


「楽しい」


「俺が失敗してるのに?」


「朔夜が真剣に狐に負けてるから」


「負けてない」


「負けてる」


「まだ終わってない」


「かっこいい台詞なのに、対象がぬいぐるみなの本当に面白い」


 朔夜は返事をせず、さらに百円玉を投入した。


 その横顔が少しだけ苛立っているのを、陽鞠は見逃さなかった。黒い瞳が細くなり、唇がわずかに引き結ばれている。妖と戦う時の殺気ではない。もっと子どもっぽい、思い通りにならない機械への苛立ちだった。


 五回目。


 ぬいぐるみはほんの少し手前にずれた。


 六回目。


 また尻尾だけが持ち上がり、落ちた。


 七回目。


 アームが弱すぎて、触れただけだった。


 朔夜の周囲の空気が、じわりと冷えた。


 近くで遊んでいた男子高校生二人が、さりげなく距離を取る。気持ちはわかる。二百センチの銀髪男がクレーンゲームの前で無言になる圧力は、ちょっとした低級妖より怖い。


 陽鞠は慌てて朔夜の袖を引いた。


「朔夜、機械を壊さない」


「壊してない」


「壊す前の顔」


「アームが弱い」


「それは店の設定だから」


「不公平だろ」


「娯楽はだいたい不公平でできてる」


「世の中終わってる」


「クレーンゲームで世界に絶望しないで」


 陽鞠はガラスの中を見た。


 白い狐は、手前の落とし口に近づいている。あと少し。少しだけ角度を変えれば落ちそうだった。朔夜が再び百円玉を入れようとする。その横で、陽鞠はそっと右手を上げた。


 指先に、ほんの薄い金色の光が宿る。


 ガラスの内側、狐のぬいぐるみの下に、目に見えないほど薄い結界を差し込む。ほんの一ミリだけ傾ける。それだけでいい。景品の重心が落とし口へ寄る。誰も傷つけない。妖退治ではなく、ぬいぐるみ救出作戦である。倫理的にどうなのかは、まあ、考えない方が人間は幸せだ。


 結界が狐の尻尾へ触れた瞬間、朔夜の手が陽鞠の手首を掴んだ。


「だめ」


「まだ何もしてない」


「してる」


「してない」


「結界」


「……ちょっとだけ」


「だめ」


「狐が呼んでる」


「呼んでない」


「私には聞こえる」


「退魔師の能力を嘘に使うな」


 陽鞠は唇を尖らせた。


「朔夜だって霊力でアーム強化したら?」


「しない」


「なんで」


「取った時、お前が喜べないだろ」


 陽鞠は黙った。


 朔夜は彼女の手首を離し、もう一度レバーへ手を置いた。横顔は少し苛立ったままだったが、さっきよりずっと集中している。


「正攻法で取る」


「……うん」


「見てろ」


「見てる」


 八回目。


 クレーンが動く。


 朔夜は、これまでより少し長く奥行きを見た。ぬいぐるみの胴体ではなく、尻尾と胴体の境目。アームで掴むのではなく、引っかけて回転させる位置。戦闘中、妖核へ刃を通す軌道を読む時と同じ目だった。


 陽鞠は思わず息を止めた。


 クレーンが下りる。


 アームの片側が狐の大きな尻尾に入り、もう片側が胴体の下をかすめた。持ち上げる力は弱い。だが、朔夜の狙いは持ち上げることではなかった。ぬいぐるみの重心が斜めに崩れる。大きな尻尾が台の縁に引っかかり、胴体がくるりと回った。


 ぽす。


 狐が落とし口へ半分乗る。


 陽鞠が思わずガラスに手をついた。


「いける!」


 朔夜は続けて百円玉を入れた。


 九回目。


 今度は迷わなかった。


 アームが狐の頭を軽く押す。掴むのではなく、押す。白い狐のぬいぐるみは一瞬だけ台の端で揺れた。落ちそうで落ちない。陽鞠の身体に力が入る。朔夜の黒い瞳が細くなる。


 アームが戻る直前、爪の先が首の赤いリボンをかすめた。


 狐が傾く。


 ころん、と落ちた。


 景品取り出し口の奥で、白いぬいぐるみが丸く転がった。


「取れた!」


 陽鞠の声が弾けた。


 朔夜は息を吐き、ようやくレバーから手を離した。ほんの少しだけ勝ち誇った顔をしている。妖核を斬った時より得意げに見えるのはどういうことだ。人間の誇りは、たまに置き場所を間違える。


 陽鞠はしゃがんで取り出し口から狐を抱え上げた。


 ふわふわだった。


 思った以上に柔らかい。白い毛並みは指先に優しく、金色の尻尾の先が小さく揺れる。首の赤い鈴付きリボンが、ちり、と鳴った。狐の丸い黒目は、どこか得意げに見える。


「可愛い……!」


「よかったな」


「朔夜、すごい!」


 陽鞠は狐を片腕に抱えたまま、勢いよく朔夜へ抱きついた。


 身長差のせいで、彼女の額は朔夜の胸元に当たる。朔夜は少しだけ目を見開いたが、すぐに片腕で陽鞠の背を支えた。もう片方の手は、狐が潰れないように微妙に避けている。そういうところだけやけに器用だ。


「ありがとう!」


「ん」


「ほんとに取れると思わなかった!」


「そこは思ってろ」


「だって七回負けてたし」


「九回目で勝った」


「勝ちは勝ちだね」


 陽鞠は顔を上げた。


 金色の瞳が、ゲームセンターの派手な光を映してきらきらしている。戦闘中とは違う光だった。何かを守るために研ぎ澄まされた光ではなく、ただ嬉しくて輝いている光。


 朔夜の表情が緩む。


「可愛い」


「狐が?」


「お前」


「今は狐の話」


「狐抱えて喜んでるお前の話」


「……そういうこと言うから」


「何」


「こうなる」


 陽鞠は爪先立ちになった。


 届かない分、朔夜のネクタイを掴んで引き下ろす。朔夜は抵抗せず、身を屈めた。お揃いのピアスが揺れる。月と矢羽根が近づき、ゲーム音の中でかすかに鳴った。


 陽鞠は、朔夜の唇にキスをした。


 短いはずだった。


 景品を取ってくれたお礼。嬉しさの勢い。放課後のゲーセンで、周囲に見られていることを忘れた一瞬。けれど、朔夜がそんな都合よく終わらせるわけがない。陽鞠が離れようとする前に、彼の手が腰へ回った。


 ブレザー越しに、大きな手の感触が伝わる。


 陽鞠の息が、唇の端で小さく跳ねた。


「ん……」


 喉の奥から漏れかけた声を、彼女は慌てて飲み込む。抱えた狐の鈴が、ちり、と鳴った。二人の指輪も触れて、小さく澄んだ音を立てる。近くのクレーンゲームから流れる軽快な音楽が、場違いなくらい明るい。


 周囲の高校生たちが、完全に固まっていた。


 小学生くらいの男の子が口を開けて見ており、その母親らしき女性が慌てて目を覆わせる。男子高校生二人は、さっき朔夜の圧に怯えて離れたくせに、今度は見てはいけないものを見た顔でまた一歩後退した。人間は危険からも恋愛からも距離を取りたがる。わかる。どちらも急に爆発するからだ。


 陽鞠はようやく唇を離した。


 顔が熱い。


「……長い」


「短い」


「景品のお礼でしょ」


「もっともらっていい?」


「調子に乗らない」


「取ったの俺」


「九回目でね」


「勝ったからいいだろ」


 朔夜はそう言って、陽鞠の腕の中の狐を指で軽くつついた。


「名前つける?」


「え、どうしよう」


「狐」


「そのまますぎる」


「白狐」


「ちょっとだけ進化した」


「朔夜二号」


「嫌」


「即答」


「朔夜は一人で十分」


 陽鞠がそう言うと、朔夜は一瞬だけ黙った。


 それから、目元を柔らかくする。


「それ、かなり嬉しい」


「変な受け取り方しないで」


「した」


「戻して」


「無理」


 陽鞠は狐のぬいぐるみを胸に抱き、顔を逸らした。


 心臓が少し速い。


 朝から血の匂いを吸って、妖を祓って、黒い五芒星を見つけて、報告して、手当てして。その流れの先に、放課後のゲーセンで狐のぬいぐるみを抱えている。落差が激しすぎる。人生というものは情緒の階段を踏み外させる作りをしているらしい。設計者がいるなら説教したい。


 それでも、今は楽しかった。


 楽しいと思えることが、少しだけ救いだった。


 陽鞠が狐の頭を撫でた、その時だった。


 ゲームセンターの音が、わずかに歪んだ。


 最初は、スピーカーの不調かと思った。


 リズムゲームの曲の低音に、ざらついた雑音が混じる。メダルゲームの電子音が一拍遅れて響く。クレーンゲームの明るい効果音が、不自然に伸びた。


 ぴろりん、という可愛い音が、ぐずり、と湿った音に変わる。


 陽鞠の指が止まった。


 朔夜も同時に顔を上げる。


 空気が変わった。


 さっきまでの眩しい光と人の熱の中に、冷たいものが混じっている。血の匂いではない。もっと古い。埃っぽく、湿っていて、長く放置された機械の裏側に溜まった澱みのような匂い。そこへ、人の欲と苛立ちが絡みついている。


 取りたい。


 落ちろ。


 もう一回。


 なんで取れない。


 金を入れたのに。


 そういう小さな執着が、店内のあちこちから細い糸のように集まっていく感覚。


 陽鞠は狐のぬいぐるみを抱き直した。


「朔夜」


「ああ」


 朔夜の声が低くなった。


 彼の黒い瞳から、甘さが消える。代わりに、冷たい退魔師の色が宿った。腰の刀へ手が伸びる。ゲームセンターの派手なライトが、彼の銀髪を青や赤に染めていく。


 陽鞠は周囲を見た。


 一般客が多い。


 子どももいる。学生もいる。カップルもいる。メダルゲームに夢中の老人もいる。店員はカウンターの奥で機械トラブルだと思っているのか、慌てて操作パネルを確認していた。


 逃がさないといけない。


 そう思った瞬間、奥のプリクラ機のカーテンが、不自然に揺れた。


 風はない。


 次に、クレーンゲームのアームが勝手に動いた。


 一台ではない。


 景品コーナーに並んだ複数の台が、次々に明滅する。投入されていないはずの機械が起動し、アームがぎこちなく上下した。ぬいぐるみの山が、内側から盛り上がる。ガラスケースの中で、何かが這った。


 リズムゲームの画面が一斉に暗転する。


 黒い画面に、白い文字が浮かんだ。


 もう一回。


 もう一回。


 もう一回。


「……最悪」


 陽鞠は呟いた。


 店内のスピーカーから、濁った鳴き声が漏れた。


 朝に聞いた妖の声とは違う。もっと細く、もっと機械的で、もっと幼い。壊れた電子音の奥で、喉に泥を詰めたような声が笑っている。


「も、う、いっかい」


 クレーンゲームのガラスが内側から叩かれた。


 どん。


 どん。


 どん。


 陽鞠の腕の中で、狐の鈴が震える。


 次の瞬間、さっきまで白狐のぬいぐるみが入っていた台の奥から、黒い腕が突き出した。


 細い腕だった。


 ぬいぐるみの綿と、機械の配線と、人の髪の毛のようなものが絡み合ってできている。指先にはプラスチックの爪。手首には景品タグがいくつもぶら下がり、動くたびに紙片が擦れた。ガラスにひびが入る。


 子どもが悲鳴を上げた。


「下がって!」


 陽鞠は叫んだ。


 右手を広げる。


 金色の結界が、景品コーナーと客の間に一気に走った。薄い膜が床から立ち上がり、店内の通路を区切る。一般人を出口へ誘導するための線が、足元に伸びた。ゲームセンターの床に描かれた派手な模様の上を、陽鞠の霊力がまっすぐ走っていく。


「店の外へ! 金色の線に沿って走って! 立ち止まらないで!」


 陽鞠の声に、客たちが一斉に動き出す。


 だが、恐怖で固まる者もいる。スマートフォンを向けようとする者さえいた。人類、危機に対して動画撮影という謎の反応を見せるのを本当にやめた方がいい。陽鞠は苛立ちを押し殺し、結界の圧を少しだけ強めた。撮影しようとしていたスマートフォンが、持ち主の手から柔らかく押し下げられる。


「撮らない! 逃げる!」


 朔夜が前へ出た。


「陽鞠、客」


「わかってる。朔夜、割れる前に押さえて」


「押さえるだけ?」


「店内で大太刀回りしないで。人が多い」


「注文多いな」


「いつものこと」


「それもそう」


 クレーンゲームのガラスが砕けた。


 甲高い音が店内に響く。破片が飛び散る直前、陽鞠の結界がそれを受け止めた。光の膜に当たったガラス片が、空中で止まり、床へ静かに落ちる。


 ガラスの中から、妖が這い出てきた。


 小さい。


 本来なら、店の機械の裏に溜まった人の苛立ちや、取り損ねた景品への執着から生まれた下級妖だろう。ぬいぐるみの綿をまとい、配線を尻尾のように引きずり、タグやキーホルダーを身体中に貼りつけている。低級の付喪寄りの妖。普通なら、軽い悪戯で機械を止める程度のはずだ。


 だが、目の前のそれは、違った。


 身体の中心が黒く膨れている。


 ぬいぐるみの綿の間から、赤黒い脈動が見えた。背中にはゲーム機のアームに似た金属の爪が何本も突き出し、腹には小さな口がいくつも開いている。その口が、同時に同じ言葉を漏らした。


「も、う、いっかい」


「もういっかい」


「もういっかい、もういっかい、もういっかい」


 客の悲鳴が重なる。


 妖の背中の金属爪が、近くにいた男子高校生へ伸びた。


 陽鞠は弓を引くには近すぎると判断する。


 結界を斜めに張った。


 金属爪が結界へ当たり、火花を散らして滑る。その半歩のずれへ、朔夜が踏み込んだ。刀はまだ抜かない。鞘ごと振り上げ、金属爪を叩き落とす。鈍い音が鳴り、爪が床にめり込んだ。


「店壊れる」


 陽鞠が言う。


「もう壊れてる」


「最小限!」


「善処する」


「それ信用できない!」


 妖が天井へ跳ねた。


 ぬいぐるみのような身体からは想像できない速度だった。配線の尻尾がリズムゲームの筐体に絡み、天井の照明へ移る。ライトが明滅し、店内が赤く染まったり青く染まったりする。そのたびに、妖の姿がぶれて見えた。


 陽鞠は狐のぬいぐるみを片腕から下ろした。


 近くの空いた景品棚の上に置く。


「ちょっと待ってて」


 狐の鈴が、ちり、と鳴った。


 朔夜が横目で見る。


「名前決まったな」


「今?」


「待ってて、だろ」


「違うから! 妖!」


 妖が天井から落下した。


 狙いは、出口へ走る客の列。その真ん中にいる小さな女の子。手にキャンディの袋を握ったまま、泣いて動けなくなっている。母親が戻ろうとして、他の客に押されている。


 陽鞠の金色の瞳が鋭くなる。


「通さない」


 床から天井へ、細い結界の柱が立ち上がった。


 妖の落下軌道に合わせ、柱はほんの少し斜めに作られている。妖が結界へ激突する。正面から受け止めれば衝撃が周囲へ散る。だから陽鞠は、ぶつけて流した。妖の身体が柱の表面を滑り、落下地点が女の子から半歩ずれる。


 その半歩へ、朔夜の鞘が叩き込まれた。


 妖の腹の口が一つ潰れる。


 黒い霊液と綿が飛び散った。


 臭い。


 焦げた電線と、古いぬいぐるみの中綿と、腐った甘い菓子のような匂いが混じる。陽鞠は顔をしかめながら、女の子の足元へ避難結界を伸ばした。光の線が母親のもとへ道を作る。


「走って!」


 女の子が泣きながら走り出す。


 母親が抱きしめる。


 その光景を確認するより早く、妖が再び鳴いた。


「とれない」


 声が変わった。


「とれない、とれない、とれない、とれない、とれない!」


 店内のクレーンゲームが、一斉に動き出した。


 アームが勝手に下りる。景品が内側から押される。ガラスケースの中のぬいぐるみたちが、まるで呼吸するように膨らんだり縮んだりする。機械の隙間から、黒い霧が漏れた。


 陽鞠は息を呑む。


 妖の霊力が膨れている。


 ただの下級妖ではない。


 朝の妖と同じ、異常な増幅。


 朔夜も気づいたらしく、黒い瞳が冷えた。


「陽鞠」


「うん。これ、ただの自然発生じゃない」


「またか」


「まただよ」


 陽鞠は弓を構えた。


 ゲーム音が歪む。


 明るい店内の光が、どんどん寒くなる。客たちの悲鳴が遠ざかり、退避結界の向こうへ流れていく。店員がカウンターの奥で震えている。朔夜が前に立ち、陽鞠が射線を見る。


 さっきまで、狐のぬいぐるみ一つで笑っていた場所。


 そこが、一瞬で戦場になる。


 陽鞠の右手薬指の指輪が熱を持った。


 朔夜の左手の指輪が、それに応えるように鳴る。


 ちり、と澄んだ音。


 ゲームセンターの壊れた電子音の中で、それだけがやけにはっきり響いた。


「朔夜、核を探す」


「見つけたら斬る」


「まだ抜かないで。人が完全に出てない」


「わかってる」


「本当に?」


「半分くらい」


「残り半分!」


「お前を守る方」


「……今は怒らない」


「あとで?」


「あとで」


「じゃあ、生きて帰る理由が増えたな」


 朔夜が笑った。


 その笑みは、さっきクレーンゲームに勝った時とはまるで違った。冷たく、鋭く、妖を斬るための顔だった。


 陽鞠は弓を引く。


 破魔矢の羽根が、ゲームセンターの風もない空気の中で震えた。彼女の結界が矢の周囲へ薄く重なる。射線を作る。客を避け、機械を避け、妖の動きを読む。


 妖が天井で身体を膨らませた。


 綿の裂け目から、黒い印のようなものが一瞬だけ覗く。


 陽鞠の金色の瞳が、それを捉えた。


「朔夜」


「ああ」


「いる」


「核?」


「たぶん、その奥」


「なら引きずり出す」


 妖が咆哮した。


 濁った鳴き声が、ゲーム音を食い潰す。


「もういっかい、もういっかい、もういっかい、もういっかいィィィ!」


 店内の照明が、すべて黒く瞬いた。


 次の瞬間、陽鞠の矢が放たれた。


 平和な放課後は、そこで終わった。


 白い狐のぬいぐるみの鈴だけが、棚の上で小さく震えていた。


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