第3話 生きてる確認
駅前広場の騒ぎは、少しずつ人間の声を取り戻していた。
救急車のサイレンが近づき、警察車両の赤色灯がビルのガラスにちらちらと反射している。駅員が震える声で乗客を誘導し、若い退魔師たちが割れたドラッグストアの前に簡易結界を張り直していた。ガラス片を踏む音。泣きじゃくる子どもを抱きしめる母親の声。担架を運ぶ救急隊員の短い指示。誰かが落とした鞄から転がったペットボトルが、側溝の手前で止まっている。
陽鞠は、その全部を見ていた。
目で見て、耳で聞いて、鼻で血の匂いを拾っているのに、身体の芯だけが少し遅れているような感覚があった。戦闘中は考える暇などない。結界を張る。弓を引く。妖の動きを読む。逃げ遅れた人を守る。朔夜の刀が通る道を作る。判断を一つでも間違えれば、誰かが死ぬ。
だから、終わったあとに来る。
膝の裏が軽く震えた。
指先が痛い。結界の反動で裂けた皮膚に、乾きかけた血が固まっている。右手薬指の指輪にも血がついていた。銀の輪に埋め込まれた小さな金色の石が、赤く汚れて鈍い光を返している。
陽鞠はそれを親指で拭おうとして、やめた。
血は、自分だけのものではない気がした。
駅前の空気に混じっている鉄錆びた匂いが、肺の奥へ残っている。妖が喉から漏らした濁った鳴き声も、まだ耳の奥に貼りついていた。助けて、と真似た声。あれは人間ではない。わかっている。わかっているのに、聞いた瞬間に胸が冷えた。
人間の声を真似る妖は、嫌いだ。
嫌いで済ませられるほど単純ではないが、とにかく嫌いだった。
「陽鞠」
朔夜の声がした。
低く、近い声だった。
陽鞠は顔を上げる。朔夜はすぐ横に立っていた。銀髪の毛先に、黒い霊液が少しだけ付着している。左肩のブレザーは裂け、応急処置の護符が貼られていた。白いシャツに滲んだ赤は、もう広がっていない。陽鞠が浄化したおかげで霊毒の黒ずみも薄れていた。
それでも、無傷ではない。
その事実に、陽鞠の胸がまた重くなる。
「何」
返事をした声が、自分で思ったより掠れていた。
朔夜の黒い瞳が、少しだけ細くなる。
「顔、怖い」
「朔夜に言われたくない」
「俺はいつも怖い顔だろ」
「自覚あるんだ」
「陽鞠にだけは優しい顔してるつもり」
「つもりなんだ」
「不満?」
「……別に」
陽鞠は視線を逸らした。
不満ではない。むしろ、その逆だから困る。朔夜が自分を見る時だけ、黒い瞳の温度が変わる。そのことに気づくたび、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。任務中なら、どれだけ危険な妖を前にしても身体は勝手に動くのに、こういう瞬間だけ逃げ場がない。
周囲には、まだ人がいる。
救護も報告も終わっていない。
封印袋に入れた妖核の欠片は、陽鞠の制服の内ポケットに重く沈んでいる。黒い五芒星の印。自然発生した下級妖の核には、あるはずのないもの。あれについて、すぐにでも学園へ戻って報告しなければならない。更紗に解析してもらい、かがり先生にも伝える。手順はいくらでも浮かぶ。
なのに、朔夜は陽鞠の手首を取った。
「ちょっと来い」
「え、今?」
「今」
「報告は?」
「若いのが一次報告してる。俺たちはあとでいい」
「あとでいいわけないでしょ」
「お前の手当てが先」
「応急処置なら自分で」
「顔色も悪い」
「それは血の匂いが」
「息も浅い」
「……見すぎ」
「見るだろ」
当然のように言われて、陽鞠は言葉に詰まった。
朔夜はその隙に、彼女の手を引いて歩き出した。人混みを避け、警察車両の影を抜け、駅前広場から横道へ入る。陽鞠は一瞬だけ抵抗しようとしたが、朔夜の手が思ったより冷たくて、結局そのままついていった。
歩道の騒ぎが少しずつ遠ざかる。
ビルとビルの間にある細い路地へ入ると、空気が変わった。表通りのサイレンと人声は壁に遮られ、くぐもった音になる。路地には古い室外機が並び、雨染みの残るコンクリートの壁には、剥がれかけたポスターが貼られていた。朝日が高いビルに遮られ、足元だけが薄暗い。
人気はない。
奥に小さな非常階段があり、その下に古びた自販機が一台立っている。電源が入っているのかいないのか、液晶部分は暗いままだった。地面には吸い殻と乾いた落ち葉が混じっている。表の混乱とは切り離されたような、ひどく静かな場所だった。
朔夜はそこで立ち止まった。
陽鞠の手を離さないまま、壁際へ向き直る。
「手、見せて」
「大したことない」
「大したことないかどうかは俺が見る」
「医者でもないくせに」
「お前専用なら、だいたいわかる」
「変な職業を作らないで」
文句を言いながらも、陽鞠は右手を差し出した。
朔夜はその手を両手で包むように持った。彼の手は大きい。陽鞠の指はその中に収まってしまう。血で汚れた指先を見た瞬間、朔夜の眉間に皺が寄った。
「やっぱり裂けてる」
「結界張ったらよくあるでしょ」
「よくあっていい怪我じゃない」
「朔夜の肩の方が」
「俺の話は今してない」
「私はしてる」
二人の視線がぶつかる。
沈黙。
先に逸らしたのは陽鞠だった。悔しい。けれど、朔夜の顔が本気で怒っていて、同時に本気で心配しているのがわかったから、強く言い返せなかった。
朔夜はポケットから清浄布を取り出した。退魔師用の、霊毒と穢れを拭うための布だ。白い布には薄い銀糸で呪文が縫い込まれている。彼はそれを水で湿らせることもなく、陽鞠の指先へそっと当てた。
「痛かったら言え」
「平気」
「それ禁止」
「朔夜だってさっき言ってた」
「俺は禁止されてない」
「今した」
「横暴」
「どっちが」
布が血を吸う。
乾きかけた血が剥がれる時、細い痛みが走った。陽鞠は眉を寄せたが、声は出さなかった。朔夜はそれでも気づいたらしく、指先への力をさらに弱める。
その仕草が、妙に優しかった。
戦闘中、妖核を斬る時の朔夜は容赦がない。ためらいもなく踏み込み、刃を振り下ろし、骨のような抵抗があろうと押し切る。背の高さも、黒い瞳も、銀髪も、全部が鋭い武器のように見える。
なのに、陽鞠の指を拭く時だけ、彼は壊れ物を扱うような手つきをする。
それが少し腹立たしくて、少し嬉しい。
陽鞠は唇を尖らせた。
「私、そんなに脆くない」
「知ってる」
「じゃあ」
「強いから怪我しないわけじゃない」
朔夜の声は静かだった。
「強いから痛くないわけでもない」
陽鞠は黙った。
その言葉は、思ったより深いところへ刺さった。強い。S級。特待生。最強ペア。金眼。神の子のようだ。言葉はいくらでも投げられる。称賛の形をしているものほど、時々、痛みを許さない鎖になる。
痛いと言えない。
怖いと言えない。
平気でいなければならない。
そんなふうに勝手に思い込む瞬間が、陽鞠にはある。
朔夜はそれを、いつも雑に壊してくる。
雑なのに、妙に的確だから困る。
「……痛かった」
陽鞠は小さく言った。
朔夜の指が止まる。
「指?」
「それも。あと、あの声」
「妖の?」
「助けてって。人間じゃないってわかってる。でも、嫌だった」
「うん」
「腹立つ。あんな声で人を止めようとして。妖にそんな知恵があるのも嫌だし、誰かがそうさせたならもっと嫌」
「黒い印」
「うん」
陽鞠は内ポケットの上から封印袋に触れた。
布越しでも、そこだけ冷たい気がした。
「自然発生した妖のはずだったのに。下級妖なら、もっと早く祓えたはずなのに。あんなに人を襲うなんて、おかしい」
「おかしいな」
「誰かがやったなら、許さない」
「陽鞠」
「何」
「怒るのはいいけど、一人で突っ走るな」
陽鞠は顔を上げた。
朔夜は彼女の指の手当てを終え、清浄布を畳んでいた。肩の傷はまだ痛むはずなのに、自分のことなどどうでもよさそうな顔をしている。
「それ、朔夜が言う?」
「俺も突っ走るから、お前が止めろ」
「自分で止まりなさいよ」
「無理」
「堂々と言わないで」
「だから二人でいる」
朔夜はそう言って、陽鞠の手を持ち上げた。
右手薬指の指輪に残っていた血を、清浄布の端で丁寧に拭う。銀の輪が少しずつ元の光を取り戻し、小さな金色の石が路地の薄暗い光を拾った。
指輪同士が触れた。
ちり、と音が鳴る。
その音を聞いた瞬間、陽鞠の胸の奥に溜まっていた緊張が、ほんの少し緩んだ。
「……朔夜の肩も見せて」
「あとで」
「今」
「先にこっち」
「こっちって何」
問いかけた時には、朔夜の手が陽鞠の頬へ伸びていた。
親指が、彼女の左頬に触れる。
陽鞠はそこで初めて、自分の頬に血がついていることに気づいた。妖の霊液か、誰かの血か、自分の指の血か。わからない。乾ききらない赤が、肌の上で薄く伸びていた。
朔夜は清浄布ではなく、自分の親指でそれを拭った。
ゆっくりと。
頬骨の下から、唇の端に近いところまで。
陽鞠の呼吸が、少し止まる。
「血、ついてる」
「……拭けばいいでしょ」
「拭いてる」
「近い」
「知ってる」
朔夜は拭った親指を見た。
赤い。
ほんの少しだけ、彼の黒い瞳の奥が冷えた。戦闘中に敵を見る時の目ではない。もっと静かで、もっと怖い。陽鞠が傷ついた可能性を考えた時だけ見せる目だった。
「朔夜」
「顔にも怪我?」
「たぶん飛んだだけ」
「本当に?」
「本当」
「痛いところは」
「指。あと少し霊力使いすぎたくらい。大丈夫」
「大丈夫は禁止」
「じゃあ……生きてる」
陽鞠はそう言った。
自分で言って、胸が少し詰まった。
生きている。
当たり前のことなのに、任務後には毎回、確かめないといけない。さっきまで妖の牙が目の前にあった。爪が人の喉を狙っていた。朔夜の肩を突起が掠めた。陽鞠の結界が一枚遅れていたら、誰かが死んでいた。朔夜の刀が一瞬でも止まっていたら、妖核は再生していた。
生きていることは、偶然ではない。
選び取って、掴み取って、それでも危うく残るものだ。
朔夜の手が、陽鞠の顎へ移った。
第1話の朝、昇降口でそうした時よりも、ずっと静かな仕草だった。指先が顎を持ち上げる。陽鞠は抵抗しなかった。路地の空気が狭くなる。表通りのサイレンが遠くなり、互いの呼吸だけが近くなる。
「生きてるな」
朔夜が低く言った。
「見ればわかるでしょ」
「足りない」
「何が」
「確認」
答える前に、唇が重なった。
最初から深かった。
陽鞠の背中が、路地の壁へそっと押し寄せられる。コンクリートの冷たさがブレザー越しに伝わった。逃げ場を塞がれたわけではない。朔夜の腕の中には、いつでも押し返せる余白がある。けれど陽鞠は押し返さなかった。
朔夜の唇は、戦闘直後の熱をまだ持っていた。
血の匂い。焦げた護符の残り香。朝の冷えた空気。すべての中で、彼の体温だけがはっきりしている。陽鞠は反射的に息を吸おうとして、うまく吸えなかった。唇の隙間から、細い吐息が漏れる。
「ん……」
喉の奥で、小さな声が鳴った。
自分の声だと気づいた瞬間、陽鞠の指が朔夜の制服を掴んだ。裂けていない方の胸元。緩いネクタイの端とブレザーの襟をまとめて握る。布が皺になり、彼の身体が少し近づく。
朔夜の手が、陽鞠の腰へ回った。
大きな掌がブレザーの上から腰を支える。逃がさないためではなく、彼女の膝が抜けないように支えるための手だった。だが、触れられた場所から熱が広がる。戦闘で冷えていた身体の芯に、じわじわと温度が戻ってくる。
陽鞠は目を閉じた。
黒い五芒星。
濁った鳴き声。
割れたガラス。
血の匂い。
それらが、少しずつ遠ざかる。
朔夜の呼吸が近い。指輪同士がまた触れる。ちり、という小さな音が、唇の触れる音に混じった。ピアスが揺れ、銀と金の飾りがかすかに鳴る。陽鞠の金髪が頬にかかり、朔夜の指がそれを避ける。
深くなる。
陽鞠の背中が壁に触れ、朔夜の腕が腰を支え、彼の影が彼女を包む。身長差のせいで、朔夜は大きく身を屈めている。それでも苦しそうではない。ただ、陽鞠に合わせるために自然とそうしている。
陽鞠は息を継ごうとして、唇の端から熱い吐息を漏らした。
「……っ、さく、や」
名前を呼ぶと、朔夜の手がわずかに強くなった。
強引ではない。
ただ、そこにいることを確かめるみたいに。
陽鞠の喉が震える。小さな声がまた漏れそうになって、彼女は朔夜のネクタイを強く握った。拒むためではない。むしろ、離れないために掴んでいる。そのことに気づいて、耳まで熱くなった。
やがて、朔夜がゆっくり唇を離した。
近い距離で、二人の呼吸が重なる。
陽鞠は目を開けた。金色の瞳が、ほんの少し潤んでいる。頬は赤い。さっきまで血の匂いの中で妖を祓っていたS級特待生とは思えない顔だ。
朔夜はその顔を見て、低く息を吐いた。
「生きてる」
「……だから、言ったでしょ」
「足りなかった」
「今ので十分でしょ」
「まだ少し」
「は?」
抗議する前に、もう一度唇が重なった。
今度は最初より少しゆっくりだった。
けれど、浅くはない。朔夜は陽鞠の呼吸の戻り方を確かめるように、焦らず、逃がさず、丁寧に口づける。陽鞠は一度だけ彼の胸を押した。ほんの形だけ。押し返す力は入っていなかった。
朔夜は離れない。
陽鞠も、本気では拒まない。
それが余計に悔しい。
「ん、ぅ……」
喉の奥から漏れた声に、朔夜の指が陽鞠の腰で小さく動いた。ブレザー越しなのに、その感触がやけにはっきり伝わる。陽鞠の膝から力が抜けかけると、朔夜がすぐ支えた。まるで最初からそうなるとわかっていたみたいに。
陽鞠は唇が離れた瞬間、息を吸い込んだ。
「長い」
かすれた声で抗議する。
朔夜は額が触れそうな距離で彼女を見下ろした。
「短い」
「どこが」
「まだ震えてる」
「これは朔夜のせい」
「なら俺が止める」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味」
「わざと聞いてるでしょ」
「うん」
「最低」
「好きだよ」
「会話の流れを破壊しないで」
「本当のことだし」
陽鞠は睨んだ。
だが、手はまだ朔夜のネクタイを掴んだままだった。拒むなら離せばいい。離れればいい。路地の出口はすぐそこにある。表通りには退魔師も救急隊もいる。逃げ場はいくらでもある。
けれど、陽鞠は動かなかった。
朔夜の手が腰にあることが、今は必要だった。
血の匂いを忘れるためではない。
妖の声をなかったことにするためでもない。
ただ、戦場から帰ってきた身体に、帰る場所を思い出させるためだった。
陽鞠は小さく息を吐いた。
「……朔夜も、生きてる?」
今度は彼女が聞いた。
朔夜の表情が、ほんの少しだけ変わる。
「ああ」
「肩、痛い?」
「少し」
「さっきより正直」
「怒られるから」
「怒るよ。前に出すぎ」
「お前が狙われた」
「私は結界張ってた」
「張ってても嫌だ」
「私だって、朔夜が怪我するの嫌」
陽鞠はネクタイを掴んだ手を少し緩めた。
そのまま、朔夜の裂けた左肩の近くへ指を伸ばす。護符の端に触れると、彼の身体がわずかに強張った。痛みを隠している。やっぱり、少しではない。
腹が立った。
同時に、怖かった。
「ばか」
「うん」
「ほんとに、ばか」
「うん」
「否定しなさいよ」
「ここで否定したら、もっと怒るだろ」
「わかってるなら怪我しないで」
「それは無理」
「無理って言うな」
「お前を守る時は、無理」
陽鞠は言葉を失った。
路地の奥で、室外機が低く唸っている。表通りのサイレンがまた一つ近づいた。現実は待ってくれない。報告も、解析も、手当ても、山ほど残っている。黒い五芒星の印が何なのかもわからない。
それでも、この数秒だけは、朔夜の言葉が全部を止めた。
陽鞠は俯いた。
「……そういうの、ずるい」
「ずるくていい」
「よくない」
「じゃあ悪い男でいい」
「反省ゼロ」
「お前の隣にいるためなら、反省は選ぶ」
「意味わかんない」
「わかんなくていい」
朔夜の指が、陽鞠の顎に再び触れた。
今度はすぐにキスしなかった。ただ、俯いた顔をそっと上げさせるだけだった。陽鞠は少し迷ってから、自分から爪先立ちになる。
身長差は相変わらず大きすぎる。
だから、朔夜も身を屈めた。
陽鞠は小さく息を吸い、自分から彼の唇に触れた。
短いキスだった。
けれど、朔夜の呼吸が一瞬止まるには十分だった。
陽鞠はすぐに離れ、赤い顔で睨む。
「これで確認終わり」
「短い」
「私が決める」
「横暴」
「うん」
「可愛い」
「今それ言う?」
「今だから」
朔夜が笑った。
朝の昇降口で見せたものより、ずっと静かな笑い方だった。血の匂いも、妖の濁った声も、黒い五芒星の不穏も消えていない。それでも、陽鞠の胸の奥にあった震えは、少しだけ収まっていた。
完全には消えない。
消えてはいけないとも思う。
怖かったこと。痛かったこと。助けられなかったかもしれないもの。間に合わなかった誰か。そういうものを全部なかったことにして笑えるほど、陽鞠は器用ではない。
けれど、抱えたまま立てる。
朔夜の手が腰から離れた。
その代わりに、彼は陽鞠の右手を取った。手当てされた指先を避けるように、そっと握る。指輪同士が触れる。
ちり、と鳴った。
路地の薄暗さの中で、その音だけが澄んでいた。
「戻るぞ」
朔夜が言った。
「うん。報告しないと」
「その前に肩の手当て」
「それは私の台詞」
「じゃあ両方」
「あと、妖核の欠片。更紗に渡す」
「ああ」
「黒い五芒星、普通じゃない」
「わかってる」
「誰かがいる」
陽鞠は内ポケットの上に手を置いた。
封印袋の冷たさはまだ残っている。
「誰かが、妖をああした」
「見つける」
朔夜の声は静かだった。
「斬る?」
「必要なら」
「物騒」
「お前を狙うなら、物騒でいい」
「まだ狙われてるって決まったわけじゃない」
「でも、嫌な感じがしたんだろ」
陽鞠は黙った。
隠しても無駄だった。朔夜は、こういう時だけやけに鋭い。いや、陽鞠に関することだけ異様に見ている。嬉しいより先に、少し怖いくらいだ。見逃されない。強がりも、震えも、気づかないふりも。
陽鞠は観念して頷いた。
「見られてる気がした。妖核を封印した時、一瞬だけ」
「白い気配?」
「……わからない。でも、明るいのに寒かった」
朔夜の黒い瞳が細くなる。
路地の空気が、わずかに重くなった。
だが、彼はそれ以上問い詰めなかった。代わりに、陽鞠の手を軽く引く。
「学園で話す。かがり先生と更紗も入れて」
「うん」
「それまで一人になるな」
「ならないよ」
「トイレも?」
「そこまで?」
「できれば」
「できればじゃない。無理」
「じゃあ入口で待つ」
「本気でやりそうだからやめて」
陽鞠が呆れると、朔夜は少しだけ肩を竦めた。
いつもの調子が戻ってくる。
そのことに、陽鞠は少し安心した。
朔夜の肩は痛む。陽鞠の指も痛い。報告すべき不穏は増えた。駅前の血の匂いは、まだ服にも髪にも残っている。それでも二人は歩き出せる。手を繋いで、表通りへ戻ることができる。
路地の出口に近づくと、朝の光が二人の足元へ伸びてきた。
陽鞠は一度だけ振り返る。
人気のない路地。古びた自販機。室外機の低い唸り。コンクリートの壁。そこに、ほんの少し前まで残っていた戦闘後の震えと、朔夜の体温。
生きている確認。
その言葉の意味が、唇にまだ残っている。
「陽鞠」
「何」
「顔、赤い」
「血の匂いのせい」
「嘘」
「うるさい」
「もう一回する?」
「しない。戻る」
「あとで?」
「……任務報告と手当てが終わったら考える」
「それ、許可だろ」
「考えるって言った」
「可愛い」
「朔夜、黙って」
「はいはい」
朔夜は笑いながらも、手は離さなかった。
二人は表通りへ戻る。
そこには、まだ壊れた朝があった。割れたガラス。血の匂い。忙しく動く救急隊員。泣いている人々。張り直された結界。封鎖線の向こうでざわめく群衆。
陽鞠の表情が、退魔師のものに戻る。
朔夜の黒い瞳も、冷たく前を向く。
けれど、繋いだ手の中だけは違った。
指輪同士が触れて、小さく鳴る。
生きている。
痛みがある。
怖さもある。
怒りもある。
それでも、隣にいる。
陽鞠は息を吸い、血の匂いが残る朝へ踏み出した。
黒い五芒星の印は、制服の内側で冷たいまま沈んでいる。
その冷たさに負けないように、朔夜の手を少しだけ強く握った。




