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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第2話 自然発生した妖


 商業区の駅前に着いた瞬間、陽鞠は息を止めた。


 血の匂いがした。


 鉄錆びた、ぬるく、鼻の奥へ貼りつくような匂いだった。朝の街にあるべき匂いではない。焼きたてのパン、コンビニのホットスナック、排気ガス、濡れたアスファルト、通勤客の香水。そういう人間の生活の匂いを、乱暴に塗り潰すほど濃い血の匂いが、駅前広場に満ちていた。


 改札から流れ出てきた人々は、もう秩序を失っていた。


 スーツ姿の男が鞄を放り出して走っている。制服姿の女子高生が泣きながら友人の腕を引いている。ベビーカーを押した女性が、割れたガラス片を避けようとして転びかけ、近くにいた老人が彼女を支えた。誰かの悲鳴。誰かの怒鳴り声。スマートフォンを構えたまま固まっている若者。逃げろと言われても、どこへ逃げればいいのかわからない人間たち。


 駅前のドラッグストアのガラスが、内側から粉々に砕けていた。


 透明な破片が歩道に散り、朝日を受けてきらきら光っている。その綺麗さが、かえって気持ち悪かった。ガラス片の間には赤いものが点々と落ちている。倒れた自転車。潰れたペットボトル。引き裂かれた買い物袋。散らばった卵の黄身と血が混じり、歩道の溝へ流れていた。


「陽鞠」


 隣で朔夜の声が低くなる。


「わかってる」


 陽鞠は背中の弓へ手を伸ばした。


 指先が弓身に触れた瞬間、空気がわずかに震える。黒塗りの弓に走る金の文様が、彼女の霊力に応えて淡く光った。腰の日本刀はまだ抜かない。まずは状況を見る。一般人が多すぎる。下手に斬り込めば、妖より先に人間を巻き込む。


 まったく、人間社会は朝から密集しすぎだ。妖にとっては食べ放題会場で、退魔師にとっては最悪の足場。誰が考えたんだ、駅前という構造。


 陽鞠は舌打ちを飲み込んだ。


「避難結界、張る。朔夜、前に出すぎないで」


「妖の位置が見えたら出る」


「だから前に出すぎないでって言ってるの」


「見えたらな」


「聞く気ある?」


「ある。半分くらい」


「残り半分どこ行ったの」


「妖核斬る方」


 返事としては最悪だったが、相棒としてはいつも通りだった。


 陽鞠は深く息を吸った。


 右手薬指の指輪が熱を持つ。銀の輪に埋め込まれた小さな金色の石が、彼女の霊力を受けて淡く光った。指先を広げる。目に見えない糸を弾くように、人差し指と中指を軽く振る。


「開け」


 短く告げると、駅前広場に薄い光の膜が走った。


 一枚ではない。


 まず、逃げ惑う人々の足元に、淡い金色の線が引かれる。線は割れたガラスを避け、倒れた看板を迂回し、最短の避難経路を描いた。次に、その線に沿って半透明の壁が立ち上がる。壁は人間の身体を押し退けない。触れれば柔らかく進行方向を促すだけだ。だが、妖の霊力や飛来物には硬く反発する。


 さらに上から、薄膜のような結界が何層も重なった。


 駅の出入口。横断歩道。バスロータリー。ドラッグストアの割れた入口。陽鞠の視線が走るたび、結界が精密に組み上がっていく。人だけを通し、妖の霊力だけを弾く選別結界。血で滑りやすい路面の上に足場を補助する結界。落下しかけた看板を支える結界。割れたガラスの破片を壁際へ寄せる結界。


 霊力は派手に爆ぜない。


 ただ、必要な場所へ、必要な薄さで、必要な角度で届く。


 それが篠宮陽鞠の結界だった。


「こちらへ走って!」


 陽鞠は声を張った。


「金色の線から出ないで! 壁に触れても大丈夫、進行方向へ押されるだけです! 押さないで、転ばないで、子どもと怪我人を先に!」


 泣いていた女子高生が顔を上げる。


 ベビーカーの女性が、結界の光に一瞬怯えた。だが、後ろから濁った鳴き声が響いた瞬間、彼女は歯を食いしばって金色の線へ踏み込んだ。結界は彼女とベビーカーを包み、割れたガラス片の上を滑るように安全地帯へ誘導する。


「すご……」


 誰かが呟いた。


 陽鞠は聞いていなかった。


 視線は、割れたドラッグストアの奥を見ている。


 棚が倒れていた。


 風邪薬、包帯、栄養ドリンク、化粧品、洗剤。生活のために並べられていたものが、まるで獣の巣の中身のように床へ散らばっている。蛍光灯が一本切れ、残った灯りがちらちら瞬いた。店内の奥から、何かを噛み砕く湿った音が聞こえた。


 ぐちゃり。


 ごり。


 ぐじゅ、ぐじゅ。


 陽鞠の喉が硬くなる。


 朔夜が一歩前へ出た。


 腰の刀へ手をかける。彼の黒い瞳から、朝の気だるさが消えていた。銀髪の毛先が霊力に揺れる。左手の指輪が、陽鞠のものとは違う暗い光を宿した。


「下級妖じゃないの」


「反応だけなら下級だった」


 陽鞠は弓を構えながら答えた。


「でも、今は違う」


「A級相当?」


「少なくとも、見習いやE級で囲んだら全滅する」


「朝から嫌な答え」


「現実ってだいたい嫌な答えでできてる」


 店内の奥で、何かが動いた。


 最初に見えたのは、腕だった。


 細すぎる腕。人間の子どものように短く、しかし関節が一つ多い。肘が逆方向に曲がり、指は六本ある。その指先に黒く濡れた爪が生えていた。次に、潰れた顔が棚の影から覗く。口は耳まで裂け、歯は不揃いな釘のように並んでいた。


 妖は、ゆっくりと店の奥から這い出てきた。


 本来なら、路地裏の暗がりに溜まった恐怖や、放置された供え物にまとわりついた霊気から生まれる程度の下級妖だろう。形も小さい。体高は大型犬ほど。霊力の芯も浅い。まともなC級退魔師なら一人で祓えるはずの存在だった。


 だが、目の前のそれは違った。


 背中から、骨のような突起が何本も飛び出している。腹部は異様に膨れ、皮膚の下で何かが脈打っていた。胴体には人間の声帯を無理やり貼りつけたような裂け目があり、そこから濁った鳴き声が漏れている。


「ォ、あ……が……ぁあ」


 鳴き声は、泣き声に似ていた。


 けれど人間ではない。


 喉の奥で泥を煮詰めたような音。壊れた笛を無理やり吹いているような音。聞いているだけで胃の底が重くなる。


「たす、け……」


 妖の腹の裂け目が、人の言葉に似た音を漏らした。


 近くにいた男性が足を止めかける。


「止まらないで!」


 陽鞠が叫んだ。


 同時に、妖が跳ねた。


 小さい身体からは想像できない速度だった。割れたガラスの上を四肢で蹴り、地面すれすれに走る。爪がアスファルトを削り、火花が散った。狙いは、足を止めかけた男性の喉。


 陽鞠は弓を引くには角度が悪いと判断した。


 指輪を鳴らす。


 ちり、と小さな音。


 男の前に、斜めの結界が一枚だけ出現する。


 妖の爪が結界へ当たった。正面から受け止めるのではない。薄い結界は刃物のように斜めに置かれ、妖の突進の角度だけをずらした。爪が滑り、妖の身体が半歩横へ流れる。


 その半歩へ、朔夜が入った。


 速い。


 背の高い身体が、影のように低く沈む。長い脚が地面を蹴り、黒い鞘から刀が抜かれた。刃が朝日を拾うより早く、下から上へ跳ね上がる。妖の顎を狙った斬撃だった。


 だが、妖は首を捻った。


 ありえない角度で頭部だけが回転し、朔夜の刃を避ける。刃は顎を掠め、黒い霊液が飛んだ。腐った薬品のような臭いが空気に散る。


「速いな」


 朔夜が低く言う。


「褒めてる場合?」


「面倒って言ってる」


 妖が着地と同時に、背中の骨突起を震わせた。


 突起の先から黒い霊液が飛び散る。霊液は針のように細く伸び、逃げ遅れた人々へ向かった。陽鞠は歯を食いしばる。


「通さない」


 左手を開く。


 空中に複数の小さな結界が展開した。丸く、薄く、透明な盾。だが一枚一枚の角度が違う。霊液の針が結界へ当たるたび、金属を擦るような甲高い音が鳴った。受け止められた針はその場で黒く焼け、煙となって消える。


 陽鞠の指先がわずかに裂けた。


 結界の反動だ。


 血が一筋、白い指を伝う。それでも彼女は視線を逸らさない。


「朔夜、腹の膨らみ。核じゃない。囮」


「じゃあ本命は」


「喉。いや、違う。背中の突起の根元に二つ、あと尻尾の付け根に一つ」


「三つか」


「下級妖のくせに、贅沢すぎる」


「斬りがいはある」


「楽しそうにしない」


 陽鞠は弓を引いた。


 破魔矢の羽根が、霊力を受けて震える。金色の瞳が妖の動きを追った。妖は朔夜へ飛びかかるふりをして、突然方向を変えた。狙いは避難結界の外側で転んだ少年だった。小学生くらいだ。膝を擦りむき、恐怖で動けなくなっている。


 陽鞠の胸が冷える。


 妖の口が裂けた。


「おか、あ……さん」


 少年がびくりとした。


「聞くな!」


 陽鞠の矢が放たれた。


 矢はまっすぐ飛ばなかった。空中で一度、二度、見えない壁を蹴るように軌道を変える。射線結界だ。陽鞠が張った薄い結界に矢が触れ、そのたびに角度を補正される。人混みを避け、結界の隙間を通り、妖の進路へ先回りした。


 妖が口を開く。


 矢を噛み砕こうとしたのだ。


 その直前、朔夜が横から踏み込んだ。


「遅い」


 刀の峰で妖の頭部を叩き落とす。鈍い音がした。骨ではない何かが潰れる感触が、空気ごしに伝わる。妖の身体が地面へ沈み、その頭上を陽鞠の矢が通過する。


 矢は背中の突起の根元へ突き刺さった。


 一つ目の妖核が割れる。


 ぱきん、と薄い硝子を砕いたような音。


 直後、妖が絶叫した。


「ぎゃ、あああああああああああッ!」


 濁った声が駅前広場を震わせた。


 避難中の人々が耳を塞ぐ。陽鞠は即座に音を遮る結界を重ねた。悲鳴を完全に消すのではなく、人の精神に食い込む低い振動だけを削る。荒い。重い。だが、これで一般人が足を止めることはない。


 妖は自分の腹へ爪を突き立てた。


 陽鞠の目が見開かれる。


「朔夜、離れて!」


 妖は自分の腹肉を引き裂き、中から黒い塊を引きずり出した。それを自分で噛み砕く。ぐちゃり、と湿った音がした。次の瞬間、割れたはずの背中の核が、肉の下で再生しようと蠢き始める。


「自分を食って再生してる」


 朔夜が舌打ちした。


「趣味悪いな」


「妖に美意識求めないで」


「求めてない。腹立つだけ」


 妖の身体が膨れた。


 大型犬ほどだった身体が、みしみしと音を立てて伸びる。関節が増え、背中の突起がさらに長くなる。眼球のない顔の裂け目から、黒い煙が漏れた。煙が触れた霊符が、避難誘導に来ていた若い退魔師の手元で黒く腐る。


「霊符が腐った!」


「下がって!」


 陽鞠は叫び、若い退魔師の前に補助結界を張った。


 妖が壁を蹴った。


 ドラッグストアの外壁を垂直に走る。爪がタイルを抉り、白い粉が落ちた。そこから信号機へ飛び移り、さらに空中で身体を捻る。狙いは、上から陽鞠の頭を噛み砕くこと。


 陽鞠は逃げなかった。


 弓を引くには近すぎる。


 なら、近距離用の結界を張る。


 右手の指を二本立て、頭上へ斜めに払う。


 金色の薄膜が、彼女の頭上に三層重なった。一層目は妖の牙を滑らせる角度。二層目は落下の勢いを受け流す弾性。三層目は朔夜の霊力だけを通す補助結界。


 妖の牙が一層目に触れた。


 ぎぃん、と嫌な音が鳴る。


 結界が軋む。陽鞠の膝に重さが落ちた。小柄な身体がわずかに沈む。それでも彼女は結界を崩さない。二層目が妖の勢いを斜め後方へ流し、三層目がわずかに開く。


 その隙間から、朔夜の刀が入った。


 彼は陽鞠の背後から踏み込み、彼女の肩すれすれを刃で抜いた。普通なら危険すぎる軌道だ。だが、陽鞠は瞬きもしない。朔夜の刃がどこを通るか、わかっている。


 刀が妖の背中を裂いた。


 二つ目の妖核が露出する。黒く濁った水晶のような塊。中心で赤黒い光が脈打っていた。


「陽鞠」


「見えてる!」


 陽鞠は弓を捨てるように肩へ戻し、腰の日本刀へ手をかけた。


 抜刀。


 小柄な身体が半回転する。短いスカートが翻り、ブレザーの裾が風を切る。金髪の毛先が頬に張りついた。刀身に金色の霊力が薄くまとわりつく。朔夜が斬って開いた背中の裂け目へ、陽鞠の刃が横から差し込まれた。


 硬い。


 妖核に刃が当たった瞬間、骨を斬るような抵抗が手首に返った。


 陽鞠の指が痺れる。


「っ……!」


 妖が身体を捻り、背中の突起で陽鞠を突き刺そうとする。


 朔夜が間に入った。


 突起が彼の左肩を掠める。ブレザーが裂け、白いシャツに赤が滲んだ。陽鞠の金色の瞳が鋭くなる。


「朔夜!」


「浅い」


「浅くても怪我は怪我!」


「あとで怒られる」


「今も怒ってる!」


「じゃあ早く終わらせる」


 朔夜は痛みを無視して踏み込んだ。


 妖の尻尾が足元から跳ね上がる。先端に三つ目の核がある。陽鞠が見抜いた最後の本命。妖はそれを隠しながら、尻尾を鞭のようにしならせて朔夜の首を狙った。


 陽鞠が左手を伸ばす。


「止まれ」


 命令ではない。


 結界の指定だった。


 尻尾の周囲だけ、空気が固まる。完全には止まらない。勢いが強すぎる。結界の薄膜が一枚、二枚と食い破られる。結界片が金の破片のように散り、陽鞠の指先から血が飛んだ。


 それでも、ほんの一瞬だけ速度が落ちた。


 朔夜には、それで足りる。


 彼の黒い瞳が、冷たく細まった。


 刀を逆手に持ち替え、身体を沈める。尻尾の下をくぐるように一歩入る。長い腕がしなり、刃が下から跳ね上がった。尻尾の付け根を狙うのではない。核そのものを、角度を合わせて断つ。


 刃が妖核に触れた瞬間、嫌な感触が走った。


 硬いものを斬った感触と、熟れた果実を潰した感触が同時に来る。朔夜の手首に衝撃が返る。だが、彼は刀を止めない。奥歯を噛み、霊力を刃へ流し込む。


「割れろ」


 黒い核が砕けた。


 三つ目。


 妖の身体が大きく跳ねる。


 だが、まだ終わらない。背中の再生しかけた核が、ぶくぶくと泡立つ。腹部が裂け、そこから何本もの小さな腕が伸びた。それぞれが周囲の人間へ向かって伸びようとする。避難結界に爪がかかり、ぎちぎちと噛み砕く音がした。


 陽鞠は息を吸う。


 肺が焼けるようだった。結界を張りすぎている。指先が痛い。視界の端が少し白む。だが、ここで結界を緩めれば、人が死ぬ。


「朔夜、私が止める。背中、完全に割って」


「霊力、足りるか」


「足りさせる」


「無茶」


「朔夜に言われたくない」


「それはそう」


 陽鞠は日本刀を鞘へ戻し、両手を広げた。


 右手薬指の指輪が強く鳴る。


 ちりん、ではなく、きん、と硬い音。


 駅前広場全体に、金色の線が走った。避難結界が一瞬だけ形を変える。一般人を包んでいた壁の外側に、さらに細い糸のような結界が張り巡らされる。それは妖の小さな腕一本一本に絡みつき、爪の角度を逸らし、動きを縫い止めた。


 妖が咆哮する。


「ァ、あああああ、たす、け、たすけて、たすけて、たすけてェェェ!」


 人の声を真似た悲鳴が広場へ響く。


 陽鞠の結界が震える。声に反応した人々の恐怖を餌に、妖の霊力が膨れようとしていた。恐怖が妖を強くする。理屈としては知っている。だが、目の前で一般人の顔が青ざめていくのを見ると、知識だけでは足りない。


 陽鞠は叫んだ。


「それ、人間じゃない! 声を聞かないで! 走って!」


 自分の声にも霊力を乗せる。


 命令ではなく、背中を押すための声。選別結界を通して、人間の耳にだけまっすぐ届くよう調整する。人々がはっと顔を上げ、再び走り出した。


 妖の小腕が結界を引き裂こうとする。


 陽鞠の指先がさらに裂けた。


 血が指輪へ伝い、金色の石を濡らす。


 その瞬間、朔夜が跳んだ。


 彼は妖の真正面からは行かない。陽鞠の結界が作った死角、妖の小腕が届かない半歩の隙間へ身体を滑り込ませる。足裏で割れたガラスを踏み、破片が靴底に食い込んだ。だが速度は落ちない。


 背中の再生核が、泡立ちながら閉じようとしている。


 朔夜は左肩の痛みを無視し、両手で刀を握った。


 陽鞠が、最後の補助結界を張る。


 朔夜の刀身の周囲にだけ、薄い金色の膜がまとわりついた。刃の軌道を補正し、妖核へ最短で届かせる射線。弓だけではない。陽鞠は、朔夜の刀にさえ道を作る。


 二人の指輪が、離れているのに同時に鳴った。


「朔夜!」


「見えてる」


 刀が振り下ろされた。


 刃は妖の背中の肉を裂き、再生しかけていた核へ真っ直ぐ入る。黒い霊液が噴き出し、朔夜の頬と制服を汚した。刃が核の中心へ届く。硬い抵抗。朔夜の腕が一瞬止まる。


 妖が笑ったような声を出した。


「ひ、ひ、ひ……」


 陽鞠の金色の瞳が燃える。


「押し切って!」


 彼女は補助結界をさらに重ねた。


 朔夜の刀の背に、見えない手が添えられる。陽鞠の霊力が刃を押した。朔夜自身の霊力がそれに重なる。銀と金が混じり、刀身が一瞬だけ白く光った。


 核が割れる。


 今度は、砕けるなどという優しい音ではなかった。


 ばきん、と骨を折るような音が広場へ響いた。


 妖の身体が硬直する。


 伸びていた小腕が、糸の切れたように落ちた。背中の突起が一本ずつ崩れ、黒い砂になって散っていく。裂けた口から、最後に濁った息が漏れた。


「ォ……あ……」


 それはもう、人の言葉には聞こえなかった。


 朔夜が刀を引き抜く。


 妖の身体は内側から崩れた。肉のように見えていたものが黒い灰となり、アスファルトの上へ薄く積もる。血の匂いに混じって、焦げた護符と腐った水のような臭いが残った。


 広場に、急に音が戻った。


 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。泣き声。誰かが名前を呼ぶ声。駅員の誘導。若い退魔師が無線に報告する声。足元でガラス片がきしむ音。陽鞠の荒い呼吸。


 彼女は膝をつきかけた。


 すぐに朔夜の腕が支える。


「陽鞠」


「平気」


「指」


「切れただけ」


「平気じゃないだろ」


「朔夜こそ肩」


「浅い」


「それ二回目。信用度ゼロ」


 陽鞠は顔を上げた。


 朔夜の左肩には、ブレザーの裂け目から赤が滲んでいる。深くはない。だが、突起が掠めた場所の周囲が黒く変色していた。妖の霊毒だ。放置すれば熱を持つ。


 陽鞠は眉を寄せ、すぐに指先で小さな浄化結界を作った。


 朔夜の傷口の上に、薄い金色の膜が重なる。黒い変色がじゅ、と音を立てて薄くなった。焦げたような臭いが上がる。


「痛い?」


「少し」


「少しじゃない顔」


「お前の指の方が痛そう」


「話そらさない」


「そらしてない。心配してる」


「私も心配してる」


 二人は一瞬、睨み合った。


 血と霊液とガラス片の散った駅前で、何をしているのか。だが、互いの無事を確認しないと次の呼吸に進めないのだから仕方ない。人間の恋人というものは、時々、妖より厄介な儀式を持っている。


 陽鞠は朔夜の傷の浄化を終えると、ようやく周囲を見た。


 避難結界の中にいた人々は、ほとんどが安全地帯へ誘導されている。怪我人はいるが、妖に直接食われた者は見える範囲にはいない。若い退魔師たちが救護へ走り、駅員が震える手で乗客を外へ誘導していた。


 陽鞠は細く息を吐いた。


「よかった」


「全部は守れてない」


 朔夜の声は低い。


 ドラッグストアの奥には、血溜まりがある。彼らが到着する前に襲われた人間がいた。救急隊がまだ確認していない。命があるかどうかもわからない。


 陽鞠は唇を噛んだ。


「それでも、今ここで生きてる人は守った」


「……ああ」


「次は、もっと早く来る」


「次がある前提なのが腹立つな」


「あるでしょ。あの妖、普通じゃない」


 陽鞠は朔夜の腕から離れ、崩れた妖の灰へ近づいた。


 地面に積もった黒い灰は、風に飛ばされず、ひどく重たそうに沈んでいる。下級妖なら、核を割れば霊気に戻って消える。これほど粘るような残骸は残らない。


 陽鞠はしゃがみ込み、弓の先で灰を払った。


 灰の下に、割れた妖核の欠片があった。


 黒い水晶のような破片。その中心に、何かが刻まれている。


「朔夜」


 陽鞠の声が変わった。


 朔夜がすぐ隣に膝をつく。


 二人は同時に、それを見た。


 妖核の内側に、黒い五芒星の印が浮かんでいた。


 ただ描かれているのではない。核の奥に沈み込み、まるで妖そのものを内側から縫い止めていたように見える。五つの角から細い黒線が伸び、割れた核の断面へ根のように食い込んでいた。


 陽鞠の背筋に、冷たいものが走る。


「自然発生じゃ、ない」


 小さく呟いた。


 朔夜の黒い瞳が、印を見つめたまま細くなる。


「誰かが、いじったな」


「凶暴化させたってこと?」


「たぶん」


「下級妖を、ここまで?」


 陽鞠は割れたガラスの散った駅前を見た。


 逃げ惑う人々。血の跡。泣く子ども。震える手で電話をかける女性。裂けた朔夜の制服。自分の指先から落ちる血。


 胸の奥で、怒りが静かに燃えた。


 妖は自然に生まれる。


 人の恐怖から。土地の歪みから。古い信仰の残骸から。そこに悪意があるとは限らない。ただ生まれ、ただ飢え、ただ迷うものもいる。本来なら、祓えば終わるはずの下級妖だった。


 だが、これは違う。


 誰かが、凶暴にした。


 誰かが、人を襲わせた。


 誰かが、下級妖をこんな化け物に変えて、朝の街へ放った。


 陽鞠は拳を握った。裂けた指先が痛む。指輪に血が触れ、金色の石が鈍く光った。


「許さない」


 声は低かった。


 朔夜が隣で立ち上がる。


 彼は血のついた刀を振り、黒い霊液を地面へ払った。刃に朝日が戻る。銀髪の影が揺れ、黒い瞳には冷たい殺意に似た光が宿っていた。


「次に同じ印を見つけたら、術の流れを追う」


「更紗に解析してもらう。かがり先生にも報告」


「その前に手当て」


「朔夜もね」


「俺は浅い」


「三回目。次言ったら結界で黙らせる」


「それは困る」


「困りなさい」


 陽鞠は妖核の欠片を専用の封印袋へ入れた。


 袋の口を閉じた瞬間、中で黒い五芒星が一度だけ脈打った気がした。


 気のせいではない。


 陽鞠は、その感覚を知っている。


 誰かに見られている時の、肌の奥が冷えるような感覚。


 彼女は思わず周囲を見回した。


 駅前のビル。割れた窓。歩道橋。信号機。人混み。救急隊。退魔師。どこにも、それらしい姿はない。けれど、何かの気配だけが、朝の光の端に白く残っている。


「陽鞠?」


 朔夜が呼ぶ。


 陽鞠はゆっくり首を振った。


「……なんでもない」


「なんでもない顔じゃない」


「じゃあ、あとで話す」


「今じゃなくて?」


「今は、怪我人と報告が先」


 朔夜は少し黙り、それから陽鞠の血のついた右手を取った。


 指輪同士が触れる。


 ちり、と小さな音が鳴った。


 その音だけが、血の匂いの中でやけに澄んで聞こえた。


「あとで絶対聞く」


「わかってる」


「手当て終わったら」


「わかってるってば」


「それから」


「何」


「生きてる確認」


 陽鞠は一瞬だけ目を瞬いた。


 それから、ほんの少しだけ頬を赤くする。


 血とガラスと黒い灰の中で言う台詞ではない。だが、朔夜は本気だった。任務後に無事を確かめることを、彼は絶対に後回しにしない。


 陽鞠は呆れたように息を吐いた。


「……場所を選んで」


「努力する」


「それ、朝も聞いた」


「じゃあ、善処する」


「もっと信用できない」


 それでも、陽鞠は手を離さなかった。


 黒い五芒星の封印袋が、彼女の制服のポケットの中で重く沈んでいる。


 朝の任務は終わった。


 けれど、終わった気がしなかった。


 下級妖のはずだったもの。


 自然発生したはずだったもの。


 その核に刻まれていた、黒い印。


 陽鞠は金色の瞳を細め、駅前の空を見上げた。


 ビルの隙間から差す朝日は明るい。


 それなのに、光の届かない場所で、何かが静かに笑っている気がした。


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