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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第8話 映画館の暗がり


 映画館の暗がりは、退魔師にとって少し厄介だ。


 暗い場所そのものが怖いわけではない。夜の廃墟も、雨の神社も、地下道も、陽鞠は任務で何度も歩いている。暗闇の中で妖の気配を読むことにも慣れていた。むしろ、視界に頼りすぎない分、霊力の流れや音の違和感には敏感になる。


 けれど、映画館の暗闇は違う。


 人が多い。


 逃げ道が狭い。


 悲鳴が、演出なのか本物なのか一瞬わからない。


 そして何より、隣に朔夜がいる。


 これが一番厄介だった。妖よりも、ある意味では厄介だった。もちろん口に出せば朔夜が調子に乗るので、陽鞠は絶対に言わない。


 休日の夕方、駅ビルの上階にある映画館は人で賑わっていた。


 自動券売機の前には列ができ、ポップコーン売り場からは塩とバターの匂いが濃く流れている。ロビーの壁には上映中の映画のポスターが並び、グッズ売り場ではアクリルキーホルダーやパンフレットを選ぶ人々が楽しそうに話していた。スクリーンへ向かう通路には足音が重なり、スタッフの案内声が柔らかく響く。


 陽鞠はポップコーンのカウンター前で、真剣な顔をしていた。


「塩かキャラメルか」


 大問題だった。


 退魔師としての判断なら早い。妖の核を読む。結界の角度を決める。逃げ道を作る。だが、映画館で塩とキャラメルのどちらを選ぶかとなると、人間の脳は急に役に立たなくなる。まったく、平和は判断力を鈍らせる。


 隣に立つ朔夜は、黒い薄手のジャケットに白いシャツ、細身の黒いパンツという服装だった。休日でも背が高すぎて目立つ。銀髪のウルフカットは映画館の照明を受けて淡く光り、切れ長の黒い瞳はポップコーンのメニューではなく陽鞠を見ていた。


「両方」


 朔夜が言う。


「またそうやって雑に解決しようとする」


「二つ買えば迷わない」


「食べきれなかったら?」


「俺が食べる」


「朔夜、映画中にずっと食べてそう」


「陽鞠が手を伸ばすたびに渡す」


「映画を観て」


「観る」


「本当に?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「陽鞠」


「映画を観て」


 陽鞠は呆れた声を出したが、頬は少し赤かった。


 今日の陽鞠は、白いブラウスに黒のジャンパースカート、上から短めのジャケットを羽織っている。背中にはいつもの弓。腰の日本刀は目立たないよう黒いケースに収めてある。私服に武器という組み合わせもだいぶおかしいが、街の人々は映画のコスプレか何かだと思っているのか、ちらちら見るだけだった。


 耳元のピアスが揺れる。


 月と矢羽根の飾り。朔夜とお揃いのアクセサリー。


 右手薬指には指輪がある。銀の輪に金色の石。朔夜の左手薬指にも、対になる指輪が光っていた。


「陽鞠」


「何」


「キャラメル、顔についても拭く」


「何でつく前提なの」


「クレープの時ついてた」


「思い出さなくていい」


「可愛かった」


「言わなくていい」


「今日もつけて」


「つけない」


 陽鞠は即答した。


 結局、ポップコーンはハーフにした。塩とキャラメルが半分ずつ入った大きなカップを朔夜が持ち、陽鞠は飲み物を二つ持った。席へ向かう通路は薄暗く、壁の足元に小さな誘導灯が並んでいる。スクリーンへ近づくにつれて、外のざわめきは遠くなった。


 シアターの中に入ると、空気が変わった。


 広い暗がり。


 段差のついた座席。


 スクリーンの前にはまだ予告映像が流れていて、青白い光が観客の顔を断続的に照らしている。人々の話し声は小さく、ポップコーンの紙カップが擦れる音や、座席の背もたれが動く音がかすかに聞こえた。


 陽鞠は指定席へ向かった。


 中央より少し後ろの、見やすい席だった。


 朔夜が通路側へ座り、陽鞠がその隣に座る。座席に沈むと、周囲の暗さが一段深くなった。スクリーンの光が陽鞠の金髪に反射し、金色の瞳に青白い影を落とす。


「寒くない?」


 朔夜が聞く。


「平気」


「禁止」


「映画館の空調くらいで?」


「陽鞠が言うと全部怪しい」


「もう信用がない」


「心配がある」


「その返し、便利に使いすぎ」


 朔夜はそう言いながら、自分のジャケットの袖を少し引いた。


 陽鞠の肩にかけるつもりだと気づき、彼女は慌てて首を振る。


「大丈夫。寒くなったら言う」


「本当に?」


「本当」


「言わなかったら?」


「朔夜が気づくでしょ」


「気づく」


「じゃあいいじゃん」


「いいのか?」


「いいの」


 陽鞠は飲み物をホルダーに置き、ポップコーンを一粒摘まんだ。


 キャラメルだった。


 口に入れると、甘くて少し硬い砂糖の膜が砕ける。映画館のポップコーンは、どうしてこうも特別な味がするのだろう。家で食べればただの菓子なのに、暗い座席と大きなスクリーンがあるだけで妙に楽しい。人類は雰囲気に弱すぎる。まあ、悪くない弱さだ。


 予告が終わり、館内の照明がさらに落ちた。


 本編が始まる。


 今回選んだ映画は、いわゆるホラー映画だった。


 陽鞠が自分から選んだ。朔夜は最初、恋愛ものでもアクションでも何でもいいと言ったが、陽鞠が予告映像に映った古い屋敷の雰囲気を気に入り、これにしたのだ。退魔師が休日にホラー映画を観る。冷静に考えると仕事の延長に近い。人類、どうして休みにまで似たような恐怖を摂取するのか。脳が贅沢に壊れている。


 映画の中では、古い洋館に招かれた大学生たちが、夜ごと聞こえる足音を調べ始めていた。


 スクリーンの光が、陽鞠の横顔を照らす。


 彼女は意外と真剣に観ていた。金色の瞳がスクリーンを追い、時々ポップコーンへ手を伸ばす。朔夜は映画を観ているのか、陽鞠を見ているのか、微妙なところだった。少なくとも、陽鞠がキャラメル味を取った回数と塩味を取った回数くらいは把握していそうである。怖い。恋人の観察力は時に妖の探知より恐ろしい。


 映画の中で、主人公が暗い廊下を歩く。


 古い床板が軋む。


 画面の端に、白い影のようなものが映る。


 館内の空気が固まる。


 陽鞠も、ほんの少しだけ肩を揺らした。


 悲鳴を上げるほどではない。目を逸らすほどでもない。ただ、指先が一瞬だけ止まった。ポップコーンへ伸ばしかけた右手が、空中で小さく固まる。


 朔夜が気づかないわけがなかった。


 彼の左手が、そっと陽鞠の右手を取った。


 指先を包むように握る。


 陽鞠はスクリーンを見たまま、小さく呟いた。


「びっくりしただけ」


「うん」


「怖くない」


「うん」


「絶対信じてないでしょ」


「可愛いと思ってる」


「最悪」


 小声で言い合う。


 周囲に聞こえないくらいの声だった。


 朔夜は陽鞠の手を離さなかった。大きな手の中に、彼女の細い指が収まる。指輪同士が触れ、ちり、と小さく鳴った。映画の中で雷鳴が轟いたので、その音は誰にも聞こえなかった。


 陽鞠だけには聞こえた。


 その音で、少しだけ呼吸が落ち着く。


 映画の中では、暗い廊下の先から誰かの泣き声が聞こえていた。


 陽鞠は無意識に眉を寄せる。


 泣き声。


 助けて、と真似た妖の声を思い出しかけた。


 朝の駅前。割れたガラス。濁った鳴き声。ゲームセンターで繰り返された、もう一回、という声。ホラー映画の作り物の音と、現実の妖の声が一瞬だけ重なって、陽鞠の胸の奥が冷えた。


 朔夜の手が、少しだけ強くなる。


 強引ではない。


 ただ、ここにいると伝える力だった。


 陽鞠は横目で朔夜を見る。


 暗がりの中で、彼の黒い瞳がこちらを見ていた。スクリーンの光が一瞬だけ銀髪を照らし、次の瞬間にはまた暗闇に沈む。陽鞠が何かを言う前に、朔夜は彼女の手を持ち上げた。


 陽鞠の右手の甲へ、朔夜が唇を落とす。


 ほんの短いキスだった。


 手の甲に触れた温度が、指先までじわりと広がる。陽鞠の肩から力が抜けた。映画の中の悲鳴も、館内の低い音響も、少し遠くなる。


「……映画中」


 陽鞠が小声で抗議する。


「静かにした」


「そういう問題じゃない」


「落ち着いた?」


「……少し」


「ならよかった」


 朔夜は何でもない顔で手を繋ぎ直した。


 陽鞠はスクリーンへ視線を戻したが、頬は暗がりでもわかるくらい赤かった。


 それからしばらく、二人は黙って映画を観た。


 暗い洋館。閉ざされた地下室。壁の向こうから聞こえる爪音。鏡に映る知らない顔。作り物だとわかっているのに、音響と暗さのせいで心臓が少し速くなる。陽鞠はもう肩を揺らさなかったが、朔夜の手は最後まで離さなかった。


 映画が終わる頃、館内にはエンディングの音楽が流れていた。


 照明がゆっくり明るくなる。


 観客たちが息を吐くようにざわめき始めた。隣同士で感想を言い合う声。怖かった、と笑う声。泣きそうだった、と友人の腕を叩く声。足元を照らしながら出口へ向かう人々。さっきまでスクリーンの中に閉じ込められていた恐怖が、急にただの娯楽へ戻っていく。


 陽鞠も大きく息を吐いた。


「面白かった」


「怖かった?」


「面白かった」


「怖かった?」


「しつこい」


「手、ずっと握ってた」


「朔夜が離さなかった」


「陽鞠も離さなかった」


「……ポップコーン持ってたから」


「途中から空だった」


「気づかなくていい」


 朔夜が低く笑った。


 陽鞠は顔を赤くしながら、空になったポップコーンのカップを持って立ち上がる。足元に落とし物がないか確認し、通路へ出た。観客の流れに乗って、出口へ向かう。


 シアターを出ると、ロビーは明るかった。


 映画を観終えた人々の顔は興奮で少し赤く、グッズ売り場にはパンフレットを買う列ができている。陽鞠はその横を通り過ぎ、エスカレーターの方へ向かった。


 駅ビルの映画館は、地下の商業フロアへも繋がっている。


 上映後の人の流れは上下に分かれた。上階のカフェへ行く人。エレベーターへ向かう人。地下の飲食街へ降りる人。陽鞠と朔夜は、地下の出口から駅へ抜けるつもりだった。


 エスカレーターを降りる。


 一階、地下への踊り場。


 そこで、陽鞠は足を止めた。


 空気が重い。


 映画館の冷房とは違う冷たさが、階段の下から上がってくる。湿っていて、古い。地下に溜まった排水の匂いと、人混みの熱と、何か焦げたような臭いが混じっている。


 朔夜もすぐに気づいた。


「陽鞠」


「いる」


 短く答える。


 さっきまでの映画の余韻が、一瞬で消えた。


 地下の通路から、人のざわめきが上がってくる。最初は普通の混雑に聞こえた。だが、その中に、明らかに違う音が混じっている。


 悲鳴。


 何かが倒れる音。


 そして、濁った低い鳴き声。


 映画の中で聞いた作り物の怪物の声ではない。


 現実の妖の声だった。


「……最悪」


 陽鞠は呟いた。


「映画のあとに本物は、趣味が悪い」


「妖に演出意識があるのかもな」


「いらない才能」


 二人は人の流れに逆らって、地下へ走った。


 階段を駆け下りると、地下商業フロアの照明が不自然に明滅していた。天井の蛍光灯が白く点滅し、壁際の案内板がちらちらとノイズを走らせている。飲食店のシャッターは半分閉まり、通路には買い物客や映画帰りの観客が混乱して立ち尽くしていた。


 地下通路の奥、コインロッカーの前に黒い影があった。


 大きさは人間の子どもほど。


 しかし、形が定まっていない。映画館のスクリーンから流れ落ちた黒い影のように、輪郭がゆらゆら揺れている。身体には破れたフィルムのような帯が絡み、そこにいくつもの白い顔が映っていた。泣く顔。笑う顔。叫ぶ顔。どれもぼやけていて、本物の顔ではない。


 地下に溜まった恐怖。


 暗闇への想像。


 作り物の恐怖を見た後の心臓の高鳴り。


 そういうものが、どこかに溜まって形になった下級妖のはずだった。


 だが、今のそれは明らかにおかしい。


 影の腹部が赤黒く脈打っている。


 周囲の照明が消えるたび、その中心で黒い印のようなものが一瞬浮かぶ。


 陽鞠の金色の瞳が細くなった。


「また凶暴化してる」


 妖が観客の一人へ飛びかかった。


 若い女性が悲鳴を上げる。手に持っていたパンフレットが床へ散った。妖の影が彼女の顔を包み込もうと伸びる。恐怖を食う妖だ。直接肉を裂くのではなく、相手の恐怖を増幅して意識を飲み込む類い。


 陽鞠は右手を上げた。


「退がって!」


 金色の結界が、女性と妖の間に差し込まれる。


 薄い膜が一枚。


 妖の影がそこへ触れた瞬間、じゅ、と焦げるような音がした。普通の結界なら、影に絡み取られて溶ける。陽鞠の結界は、影の霊力だけを弾き、人間には触れないよう選別されていた。


 女性が尻もちをつく。


 朔夜がその前へ踏み込んだ。


 刀を抜く。


 暗い地下通路に、銀の刃が走った。


 照明が落ちる。


 一瞬、視界が黒くなる。


 次の瞬間、朔夜の刀だけが白く光った。彼が刃に流した霊力が、暗闇を裂く細い月光のように浮かび上がる。影の妖が天井へ逃げようと伸びる。朔夜は低く踏み込み、下から斬り上げた。


 刃が影の端を裂く。


 黒い煙が散った。


 妖は形を崩しながら、通路の天井へ張りついた。


「速い」


 朔夜が低く言う。


「影だから形を変える。核を見ないと斬っても散るだけ」


 陽鞠は周囲を見た。


 観客が多い。地下通路は狭い。逃げ道は二方向あるが、片方は妖の影が伸びて塞ぎかけている。照明が明滅しているせいで、恐怖が増す。人が怯えれば怯えるほど、妖の力が膨れる。


 最悪の場所だった。


 つまり、いつものことだった。


 陽鞠は歯を食いしばる。


「避難経路、作る」


「俺が引きつける」


「無茶しすぎないで」


「暗い方がやりやすい」


「それ、妖みたいな台詞」


「俺は陽鞠の彼氏」


「今それ言う?」


「重要だろ」


「重要だけど今じゃない!」


 陽鞠は叫びながら結界を広げた。


 床に金色の線が走る。地下通路のタイルの上を、光が滑るように伸びた。出口へ向かう安全な経路を示す線だ。さらに、その左右に薄い壁が立ち上がる。一般人だけを通し、妖の影だけを弾く選別結界。


「金色の線に沿って走って! 立ち止まらないで! スマホを向けない! 前だけ見て!」


 何人かの観客が動き出す。


 だが、映画の恐怖が残っているせいか、足がすくんでいる者も多い。暗闇の中で本物の妖を見た人間は、簡単には動けない。映画館の悲鳴は安全だから出せる。本物の恐怖は、喉を塞ぐ。


 陽鞠は結界の圧を少し変えた。


 人を押すのではなく、背中を支えるように。倒れそうな足元に透明な足場を作り、転びかけた子どもの膝をそっと受ける。落ちた荷物を拾おうとした男性の手前に小さな壁を出し、前へ進ませる。


 背中の弓を外す暇はない。


 今は結界が先。


 妖が天井から鳴いた。


「こわい」


 濁った声だった。


「こわい、こわい、こわい、こわい」


 通路のスピーカーからも同じ声が流れる。


 人々が悲鳴を上げる。


 照明が消えた。


 完全な暗闇。


 その中で、陽鞠の結界だけが金色に光った。


 薄い膜が幾重にも重なり、地下通路を細い光で区切っていく。避難経路は足元の星座のように伸び、壁際には逃げ遅れた人を包む半球状の結界が浮かぶ。妖の影が伸びるたび、金色の膜に触れて黒い煙を上げた。


 朔夜の刀が、暗闇を裂いた。


 彼は光を頼りにしていなかった。


 陽鞠の結界が作るわずかな反射。妖の霊力が濃くなる瞬間。天井を這う影が通路の空気を押す感覚。それらを読んで踏み込む。銀の刃が低く走り、床を這っていた影の触手を断つ。


 切断された影が、映画フィルムのように床へ落ちた。


 そこに映っていた白い顔が、口を開けて消える。


「朔夜、右上!」


 陽鞠が叫ぶ。


「見えてる」


 朔夜は返事と同時に跳んだ。


 壁を蹴り、天井近くまで身体を上げる。二百センチの長身が暗闇の中でしなり、刀が横へ走った。妖の本体があった場所を斬る。だが、刃は中心を捉えきれない。影は薄く広がり、通路の壁一面へ逃げた。


 朔夜が着地する。


 膝を軽く曲げ、衝撃を逃がす。


「散るな」


「恐怖を集めて形を戻してる。観客を早く出さないと」


「核は」


「まだ見えない。照明が落ちる瞬間だけ、腹部に反応が出る」


「なら消させるか」


「照明を?」


「全部」


「それ、一般人がさらに怖がる」


「陽鞠の結界で照らせるだろ」


 陽鞠は一瞬だけ考えた。


 危険だ。


 けれど、今の明滅状態は妖に有利すぎる。人間の目を惑わせ、影を増やし、恐怖を煽る。完全な暗闇にしてしまえば、陽鞠の結界光と朔夜の刀光だけが基準になる。恐怖は増えるが、誘導はしやすい。


「三秒だけ完全消灯。私が避難結界を光らせる。その間に核を見る」


「三秒あれば斬れる」


「まだ核の位置わかってない」


「お前が見る」


「信頼が重い」


「いつものことだろ」


「そうだけど!」


 陽鞠は左手を上げた。


 地下通路の天井へ、細い結界糸を伸ばす。照明に絡みついた妖の霊力だけを断つ。完全に壊すのではない。三秒だけ、光を落とす。


「全員、金色の線から出ないで!」


 陽鞠の声が通路に響く。


 次の瞬間、照明がすべて消えた。


 暗闇。


 悲鳴。


 だが同時に、陽鞠の結界が強く光った。


 足元の誘導線が金色に輝き、避難結界が柔らかい灯りとなって人々を包む。暗闇の中に、いくつもの小さな光の道が浮かび上がった。映画館のスクリーンよりも静かで、星よりも近い光。


 妖の姿が露わになる。


 黒い影の中心。


 腹部に、赤黒い核。


 その奥に、黒い五芒星の印が浮かんでいた。


 陽鞠の瞳がそれを捉える。


「朔夜、中央じゃない! 核の下、五芒星が支えてる!」


「場所」


「床から二メートル、コインロッカー側、影の裂け目!」


「了解」


 朔夜が走った。


 一秒目。


 彼は床を蹴り、影の触手を避ける。陽鞠が結界で足元に一瞬だけ足場を作る。朔夜はそこを踏み、さらに跳ぶ。


 二秒目。


 妖が腹部を閉じようと影を集める。陽鞠が細い結界を針のように打ち込み、裂け目をこじ開ける。指先に痛みが走る。だが閉じさせない。


 三秒目。


 朔夜の刀が届く。


 銀の刃が、金色の結界光を反射して白く燃えた。


「割れろ」


 刃が妖核へ入る。


 硬い抵抗。


 映画館の音響のような低い震動が、通路全体に走った。妖が叫ぶ。悲鳴とも笑い声ともつかない音が、暗闇の中で膨れ上がる。


「こわい、こわい、こわい、こわい、こわいィィィ!」


「うるさい」


 朔夜が低く言った。


 刀を押し込む。


 陽鞠が結界を重ねる。


 刃の背に、金色の薄膜が添えられた。射線補助ではなく、斬撃補助。朔夜の力を邪魔せず、核の中心へ押し込むための道。


 指輪同士が離れているのに、同時に鳴った。


 ちり、と澄んだ音。


 妖核が割れた。


 ぱきん、ではなく、ばきり、と重い音だった。


 黒い五芒星の印が一瞬だけ強く光る。


 それから、核ごと砕け散った。


 影の妖が崩れる。


 壁に映っていた白い顔が、一つずつ消えた。フィルムの帯のような身体が灰になり、床へ落ちる前に霧散する。地下通路に溜まっていた冷たい空気が、ゆっくり薄れていった。


 照明が戻る。


 白い蛍光灯の光が、現実を照らした。


 床に座り込んだ観客。泣いている子ども。抱き合うカップル。出口へ走る人々。倒れた看板。散らばったパンフレット。焦げたような臭い。


 陽鞠は結界を維持したまま、周囲を確認した。


「怪我人は?」


「転倒が数人。妖に直接触れたのは一人だけ」


 朔夜が答える。


 彼は刀を振り、刃についた黒い霧を払った。銀髪の先が乱れている。頬に薄い黒い跡がついていたが、傷ではない。霊気の煤だ。


 陽鞠はほっと息を吐いた。


 その瞬間、膝から少し力が抜けかける。


 朔夜がすぐに支えた。


「陽鞠」


「平気」


「禁止」


「……ちょっと、結界多かった」


「指」


「少し痛い」


「正直でよろしい」


「真似しないで」


 陽鞠は苦笑しながら、妖が消えた場所へ近づいた。


 床には、黒い灰が薄く残っている。


 その中心に、小さな破片があった。


 妖核の欠片。


 陽鞠は封印袋を取り出し、結界で包みながら慎重に拾う。欠片の奥には、また黒い五芒星の残滓が沈んでいた。駅前。ゲームセンター。そして今度は映画館の地下。


 自然発生した妖。


 けれど、自然ではない凶暴化。


 陽鞠の胸の奥が冷える。


「三回目」


 朔夜が隣で言った。


「うん」


「狙われてるな」


「私たちが行く場所に出てるだけかも」


「偶然にしては続きすぎだ」


「……わかってる」


 陽鞠は封印袋を閉じた。


 袋の中で、黒い印の残滓が一度だけ脈打つ。


 その瞬間、映画館で見た白い影の演出が頭をよぎった。


 作り物の恐怖。


 本物の妖。


 そして、その奥にいるかもしれない誰かの気配。


 陽鞠は指輪に触れた。


 朔夜の手が、上から重なる。


「陽鞠」


「何」


「映画、怖かった?」


「今聞く?」


「今だから」


 陽鞠は少しだけ目を細めた。


 地下通路ではまだ救護と避難誘導が続いている。退魔師協会への連絡も必要だ。かがり先生への報告も待っている。黒い五芒星の解析もまた増える。休日デートの余韻など、ほとんど妖に食われたようなものだった。


 けれど、手の甲に残るキスの感触だけは、まだ消えていなかった。


「映画より、現実の方が怖い」


 陽鞠は正直に言った。


 朔夜の黒い瞳が、静かに彼女を見る。


「でも、朔夜が手を握ってくれたから平気だった」


 言ってから、陽鞠はしまったと思った。


 朔夜の表情が、明らかに柔らかくなる。


「可愛い」


「言うと思った」


「言うだろ」


「今のなし」


「無理」


「忘れて」


「無理」


「任務後でしょ。真面目にして」


「生きてる確認がまだ」


「ここではしない」


「手の甲なら?」


 陽鞠は一瞬だけ迷った。


 その迷いを、朔夜は見逃さない。


 彼は陽鞠の右手を取り、結界の反動で少し熱を持った指先を避けて、手の甲に唇を落とした。


 上映中と同じ場所。


 けれど、今度は暗い座席ではなく、妖の残骸が消えた地下通路だった。


 陽鞠の金色の瞳が揺れる。


 朔夜が顔を上げる。


「生きてる」


「……うん」


「帰ったら、ちゃんと手当て」


「朔夜も煤落として」


「キスの後で?」


「手当ての後で」


「考える?」


「……考える」


「許可だな」


「考えるって言った」


 二人の指輪が触れる。


 ちり、と小さな音が鳴った。


 地下通路の白い照明の下で、その音だけは映画館の暗がりよりもはっきり聞こえた。


 陽鞠は封印袋を握り、前を向く。


 甘いポップコーンの匂いは、もうほとんど残っていない。


 代わりに、焦げた霊気と黒い灰の臭いがある。


 それでも、手の甲に残った温度が、まだ彼女を現実につなぎ止めていた。


 作り物の恐怖は、スクリーンの中で終わる。


 本物の恐怖は、終わらせるために斬らなければならない。


 陽鞠は息を吸い、朔夜と並んで地下通路を歩き出した。


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