表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/20

第9話 黒い五芒星


 退魔学園の解析棟は、校舎の裏手にある。


 学園と聞いて想像するような教室や廊下とは、少し空気が違っていた。白い外壁。無機質な自動扉。立ち入り許可を確認する術式盤。窓には外から内部が見えないよう薄い結界膜が張られ、入口脇には浄化鈴が三つ吊るされている。風が吹いても鳴らない。穢れに反応した時だけ、澄んだ音を立てる。


 生徒の多くは、この棟へ近づきたがらない。


 理由は簡単だ。


 妖核、霊毒、呪詛痕、封印具、壊れた護符、時にはまだ鳴いている妖の一部まで運び込まれる場所だからである。つまり、学生生活の爽やかさとは別方向に全力疾走している建物だ。人間はどうして学校の敷地内にこんなものを建てたのか。必要だからだ。必要なものほど気分が沈む。世の中の設計は本当に雑だ。


 陽鞠は解析棟の自動扉の前で、軽く息を吐いた。


 制服のブレザーはきちんと着ている。背中の弓も、腰の日本刀もいつも通り。けれど、右手は無意識に内ポケットのあたりへ触れていた。そこにはもう封印袋はない。映画館地下で回収した妖核の欠片は、すでに解析室へ提出済みだ。


 それでも、あの冷たさがまだ残っている気がした。


 黒い五芒星。


 駅前広場で見つけた印。


 ゲームセンターの妖核に沈んでいた印。


 映画館地下の影妖の腹で、一瞬だけ光った印。


 三件。


 偶然と言うには、あまりにも揃いすぎている。


「陽鞠」


 隣から朔夜が呼んだ。


 低く静かな声だった。


 陽鞠は顔を上げる。


 朔夜は解析棟の扉を見ていた。銀髪のウルフカットが朝の光を受けて淡く光っている。切れ長の黒い瞳はいつもより冷たい。制服のネクタイは緩く、襟元も少し崩れているが、今日はからかうような軽さが少なかった。


 左手薬指の指輪が、かすかに光る。


「大丈夫か」


「何が」


「顔」


「そんなに変?」


「怒ってる」


 陽鞠は黙った。


 図星だった。


 胸の奥に、ずっと熱いものがある。駅前の血の匂い。ゲームセンターの子どもの悲鳴。地下通路で恐怖に固まっていた観客たち。あれがただの自然発生した妖なら、まだわかる。妖は人の恐怖や土地の歪みから生まれる。危険でも、悪意があるとは限らない。


 けれど、誰かが外から凶暴性を与えたのなら。


 あれは、誰かが人を襲わせたのと同じだ。


 下級妖を、一般人を襲うほど変質させた。


 逃げられない場所に放った。


 恐怖を餌にした。


 陽鞠は奥歯を噛んだ。


「怒ってるよ」


 正直に言った。


「そりゃ、怒るでしょ」


「うん」


「自然に生まれた妖が迷ってるだけなら、祓うしかなくても、まだ……まだ、そういうものだって思える。でも、誰かがわざと凶暴にしたなら違う」


 陽鞠の金色の瞳が、鋭く光る。


「あの人たちが泣いたのも、怪我したのも、怖がったのも、誰かがそうなるようにしたってことでしょ。そんなの、許せない」


 朔夜は黙って聞いていた。


 彼の手が、陽鞠の右手へ伸びる。


 指先が触れた。


 陽鞠は一瞬だけ視線を落とし、それから自分から彼の手を握った。指輪同士が触れる。


 ちり、と小さな音が鳴る。


 その音で、怒りが消えるわけではない。


 けれど、暴れそうになる熱が、少しだけ形を取り戻す。


「突っ走るなよ」


 朔夜が言った。


「わかってる」


「本当に?」


「朔夜に言われたくない」


「俺は突っ走る」


「自白しないで」


「だから、お前が止める」


「私も怒ってる時は?」


「俺が止める」


「止まるの?」


「たぶん」


「信用できない」


「でも、隣にはいる」


 陽鞠は小さく息を吐いた。


「……そこは信用してる」


 朔夜の黒い瞳が少しだけ和らいだ。


「ならいい」


「よくはない。朔夜も暴走しないで」


「陽鞠を狙われたら無理」


「まだ狙われてるって決まってない」


「三回続いてる」


「偶然かもしれない」


「陽鞠はそう思ってない顔をしてる」


 また図星だった。


 陽鞠は眉を寄せる。


「……嫌な感じはしてる」


「俺も」


 朔夜の声が低くなる。


 その言い方に、陽鞠は胸の奥が少し冷えた。朔夜がただの心配でそう言っているのではないとわかったからだ。彼は、何かを見ている。まだ形にならない違和感を、黒い瞳の奥で捉えている。


「印を見た時から?」


「最初から少し」


「駅前の?」


「ああ」


 朔夜は解析棟の扉へ視線を戻した。


「あの印、妖核を縛ってる感じがした。ただ凶暴にするだけじゃない。壊れないように、再生するように、でも自分では止まれないようにしてる」


「止まれないように……」


「妖を道具にしてる」


 低い言葉だった。


 陽鞠の指に力が入る。


 妖は危険だ。


 人を襲うこともある。


 祓わなければならない時もある。


 けれど、道具ではない。


 人の恐怖や土地の歪みから生まれた存在を、さらに歪めて人へ向ける。それは妖に対しても、人に対しても、あまりに悪辣だった。


 自動扉が開いた。


 白い廊下から、消毒液と霊符の焦げた匂いが流れてくる。


 陽鞠と朔夜は手を繋いだまま、中へ入った。


 解析棟の廊下は静かだった。


 床は磨かれた白い石材で、歩くたびに靴音が硬く響く。壁には部屋番号と術式遮断の印が刻まれ、一定間隔で小さな浄化札が貼られている。奥へ進むほど空気は冷たくなり、耳の奥が少し圧迫される。強い封印結界の内側へ入っていく時の感覚だ。


 突き当たりの解析室の前で、二人は足を止めた。


 扉の上にある札が淡く光る。


 内部に危険物あり。


 文字で書かれているわけではないが、退魔師ならそう読める符号だった。もう少し親切に表示してくれてもよさそうなものだが、退魔師業界はなぜか雰囲気で察しろ文化が根強い。滅びてほしい。いや、滅びると困る。面倒だ。


 陽鞠がノックする前に、内側から声がした。


「入っていいよ。待ってた」


 澄んだ、少し眠たげな声。


 陽鞠は扉を開けた。


 解析室は、白と青の光に満ちていた。


 中央には大きな作業台があり、その上に三つの封印ケースが並んでいる。周囲には霊力測定器、呪詛痕解析盤、結界投影装置、古い巻物を読み取るための透明台などが置かれていた。壁一面の棚には封印瓶が並び、中には黒い霊液、砕けた妖骨、焦げた札、薄く発光する糸状のものまで入っている。


 どれも触りたくない。


 特に発光する糸状のもの。絶対にろくでもない。人間の勘はこういう時だけ頼りになる。


 作業台の向こうに、少女が座っていた。


 若槻更紗。


 退魔学園の解析科に所属する生徒で、陽鞠たちと同じ十八歳。実戦よりも解析、封印、術式分解を得意としている。肩口で切り揃えた黒髪に、青いフレームの眼鏡。制服の上から白衣を羽織り、手には薄い手袋をしている。目の下には少しだけ隈があった。寝ていない顔だ。


「更紗、寝た?」


 陽鞠が聞く。


「二時間」


「寝てないじゃん」


「横になったから実質寝た」


「人類は横になっただけで睡眠を名乗らない方がいい」


「解析者には許される」


「許されない」


 更紗は淡々と答えながら、手元の端末を操作した。


 封印ケースの一つが青く光り、内部の妖核欠片が投影装置へ映し出される。空中に、黒い水晶のような破片が拡大表示された。ひび割れた内側に、黒い五芒星の印が沈んでいる。


 陽鞠の表情が硬くなる。


 朔夜の黒い瞳も細くなった。


「結論から言う」


 更紗は眼鏡の位置を直した。


「三件とも、自然発生した妖であることは間違いない」


 陽鞠は眉を寄せる。


「自然発生?」


「発生源の霊気そのものは自然。駅前の妖は、古い路地裏と人の恐怖の残滓。ゲームセンターの妖は、機械の裏に溜まった執着と苛立ち。映画館地下の影妖は、暗闇と恐怖の反響。そこまでは普通」


「普通の範囲なら、あんなに凶暴化しない」


「そう」


 更紗は端末を叩く。


 次に、三つの妖核欠片が同時に投影された。


 駅前の妖核。


 ゲームセンターの妖核。


 映画館地下の妖核。


 形も色も、霊力の濃度も違う。だが、その中心には共通して黒い五芒星が沈んでいた。


「問題はここ。三件とも、妖核の内側に外部術式が食い込んでる。自然発生した核の成長後に、外から印を打ち込まれている」


 陽鞠の声が低くなる。


「後から?」


「うん。生まれる前から仕込まれていたわけじゃない。妖が発生して、核が形成された後に、誰かが術式を上書きしてる」


 更紗は五芒星の投影を拡大した。


 黒い線が、核の中へ根のように入り込んでいる。


「この印は、ただの目印じゃない。妖核の中に入って、霊力の流れを無理やり変えてる。通常なら外へ漏れて消えるはずの恐怖や怒りを、核の中で循環させてる。だから、低級妖でも異常に膨れる」


「凶暴性を付与してるってこと?」


 陽鞠が聞く。


 更紗は頷いた。


「正確には、妖が本来持っている反応を増幅して、攻撃性だけを突出させてる。飢え、恐怖、執着、怒り。そういうものを外部術式で煽って、人間を襲う方向へ固定してる」


「固定……」


「逃げたり、消えたり、弱まったりする選択肢を潰してる。核が割れるまで止まれない。しかも、駅前の妖みたいに自己再生まで促してた。自然の妖には不自然すぎる」


 陽鞠の胸の奥で、怒りが熱を増す。


 止まれない。


 核が割れるまで。


 人を襲うように。


 それは、妖を暴れさせるだけではない。


 妖自身を壊している。


「ひどい」


 陽鞠は低く言った。


 更紗が彼女を見る。


 陽鞠の金色の瞳は、怒りで強く光っていた。


「人を襲わせるために、妖をこんなふうに変えたってことでしょ。下級なら、本来はもっと早く祓えた。あんなに人を怖がらせる前に止められたかもしれない。なのに、わざわざ凶暴にして、止まれなくして、再生までさせて……何のために?」


 最後の声は、誰に向けたものでもなかった。


 更紗はすぐに答えなかった。


 解析室の機械音だけが、小さく響く。


 朔夜が、投影された黒い五芒星へ近づいた。


「この印、術者は追えるか」


「難しい」


 更紗は端末を操作する。


「痕跡が削られてる。術式そのものはかなり古い形式を混ぜてるけど、使い方は現代式。複数の流派が混ざってる。わざと特徴をぼかしてる感じ」


「誰にでもできる?」


「できない」


 更紗は即答した。


「これは相当な技術がいる。妖核が形成された後に、外から印を打ち込んで、核を壊さず、霊力の循環だけを歪める。普通なら妖がその場で崩壊する。少なくとも、B級やA級の術者が見よう見まねでできるものじゃない」


「S級級の技術?」


「少なくとも、その近辺。もしくは、術式に特化した専門家」


 S級。


 その言葉が解析室に落ちた瞬間、空気が少し重くなった。


 陽鞠は無意識に朔夜を見る。


 朔夜も、彼女を見ていた。


 S級は現在五人。


 測定不能の霊力を持ち、自由行動を許された存在。


 その中には、まだ陽鞠たちが深く関わっていない者もいる。


 だが、ここで誰かの名前を出すには早すぎる。


 更紗もそれをわかっているのか、慎重に言葉を選んだ。


「ただし、S級本人とは限らない。古い術式を扱える退魔師、協会外の術者、妖具を使った可能性もある。術者の霊力痕は意図的に薄められてるから、まだ断定できない」


「断定はしない」


 陽鞠は言った。


 怒っていても、それだけはわかっていた。


 怒りに任せて誰かを決めつければ、相手の思う通りになるかもしれない。相手がどこかで見ているなら、こちらが焦るのを待っている可能性もある。


 それでも、腹立たしさは消えなかった。


「でも、誰かがやったのは確かなんだよね」


 更紗は頷く。


「少なくとも、自然現象ではない」


 その一言で、陽鞠の中の何かがさらに熱くなる。


 自然発生した妖ではない。


 正しくは、自然発生した妖に、誰かが手を加えた。


 人を襲うように。


 恐怖を広げるように。


 退魔師を呼び寄せるように。


 陽鞠は拳を握った。


「ふざけないで」


 声は低かった。


 大きく叫んだわけではないのに、解析室の空気が震えた。作業台の上の封印ケースが微かに鳴る。壁の浄化札が一枚、陽鞠の霊力に反応して淡く光った。


 更紗が少し目を見開く。


 朔夜がすぐに陽鞠の肩へ手を置いた。


「陽鞠」


「わかってる。壊さない」


「壊す気だった?」


「ちょっと」


「解析室はやめろ」


「わかってるって」


 陽鞠は深呼吸した。


 けれど、怒りは消えない。


 消す気もなかった。


「あの駅前にいた人たち、普通に朝を過ごしてただけだった。ゲームセンターの子どもも、映画館の観客も、ただ遊びに来てただけだった。妖が自然に出たなら、私たちが祓う。でも、誰かがわざと凶暴にしたなら、それはもう妖の問題だけじゃない」


「うん」


 更紗の声も静かだった。


「これは、事件だよ」


 その言葉に、陽鞠は頷いた。


 事件。


 たしかにそうだ。


 妖の発生ではなく、妖を利用した事件。


 誰かの意思がある。


 誰かの手がある。


 誰かの目的がある。


 その目的が何なのか、まだ見えない。


「もう一つ」


 更紗が言った。


 陽鞠と朔夜が顔を上げる。


 更紗は三つの投影を重ねた。妖核の形が半透明になり、黒い五芒星だけが浮き上がる。三つの印は、完全には同じではなかった。線の太さ、角度、霊力の流れが少しずつ違う。


「印の構造に、微妙な差がある」


「差?」


 陽鞠が聞く。


「駅前の妖は、再生と食人衝動が強い。ゲームセンターの妖は、執着と物体支配が強い。映画館地下の妖は、恐怖増幅と影への拡散が強い。つまり、同じ印をただ押しただけじゃなくて、妖の性質に合わせて調整されてる」


「それって」


 陽鞠の声が詰まる。


 朔夜が代わりに言った。


「術者は、妖の性質を見てから弄ってる」


 更紗は頷いた。


「たぶん。発生した妖を見つけて、その特性に合わせて凶暴化させてる。行き当たりばったりじゃない。観察して、調整してる」


 解析室の温度が下がった気がした。


 観察。


 調整。


 その言葉が気持ち悪かった。


 人や妖を実験材料のように扱っている。


 陽鞠は唇を噛む。


「じゃあ、どこかで見てる可能性がある」


「ある」


 更紗は端末を操作し、地図を投影した。


 駅前広場。


 ゲームセンター。


 映画館地下。


 三つの発生地点が赤く光る。


「距離は近すぎない。でも、すべて学園から移動可能な範囲で、陽鞠と朔夜が出向いた場所と重なってる。任務通知で呼ばれたものもあるし、偶然居合わせたものもある。ここが嫌なところ」


「偶然に見せられる」


 朔夜が言った。


「そう」


 更紗は眼鏡の奥で目を細めた。


「狙いが一般人なのか、退魔師なのか、二人なのか、まだわからない。現段階で決めつけるのは危ない。でも、少なくとも印は三件共通。外部術式も同系統。無関係とは考えにくい」


 陽鞠は地図を見つめた。


 三つの赤い点。


 街の中で、まるで見えない糸に結ばれているようだった。


「次も出ると思う?」


「出る」


 更紗はためらわなかった。


「しかも、たぶん規模が上がる。印の調整が少しずつ安定してる。駅前の時より、ゲームセンターの方が物体支配が巧妙だった。映画館地下の影妖は、恐怖増幅と逃走経路の封鎖がかなり厄介だった。術者が試してるなら、次はもっと面倒になる」


「試してる……」


 陽鞠の怒りが、また熱を持つ。


「人を襲わせて、妖を壊して、試してる?」


「可能性の話」


「それでも腹立つ」


「うん。腹立つのは正しい」


 更紗の声は淡々としているが、冷たくはなかった。


 彼女も怒っているのだと、陽鞠にはわかった。ただ、更紗の怒りは陽鞠と違って、表面に炎として出ない。氷のように静かに固まる。


 朔夜は、ずっと黒い五芒星を見ていた。


 陽鞠は彼の横顔に気づく。


「朔夜?」


「……嫌な感じがする」


 彼は低く言った。


 その声が、普段よりさらに落ちている。


 陽鞠の胸がざわついた。


「印が?」


「ああ」


「具体的には?」


 更紗がすぐに聞く。


 朔夜は投影された五芒星へ目を向けたまま、ゆっくり言った。


「この印、妖を縛ってるだけじゃない気がする」


「ほかに何が?」


「呼んでる」


 解析室が静まった。


 陽鞠の指先が冷える。


「呼んでる?」


「妖を凶暴にして、人を襲わせる。退魔師を呼ぶ。そこまではわかる。でも、それだけじゃない。印そのものが、何かに向かって反応してる感じがある」


「何かって?」


「わからない」


 朔夜は眉を寄せた。


 苛立っているというより、自分でも掴みきれない感覚に気持ち悪さを覚えている顔だった。


「駅前でも、ゲームセンターでも、映画館でも、核を斬る直前に一瞬だけ印が強く鳴った。音じゃない。霊力の振動みたいなもの。あれが、こっちを見てるような感じがした」


 陽鞠は思い出した。


 封印袋を閉じた時に、黒い印が脈打った感覚。


 明るい場所なのに、肌の奥が寒くなるような気配。


 誰かに見られているような感覚。


「私も」


 陽鞠は小さく言った。


「映画館地下でも感じた。封印した時、印が一回だけ脈打った。駅前でも同じ。誰かに見られてるみたいだった」


 更紗はすぐに端末へ入力した。


「二人とも共通して感知してるなら、ただの錯覚じゃない可能性が高い。印に感知系か、反応系が組み込まれてるかもしれない」


「反応系?」


「特定の霊力に反応する術式。たとえば、印を壊した相手、近づいた退魔師、一定以上の霊力を持つ者を記録する」


 更紗はそこで一度、言葉を切った。


 陽鞠と朔夜を見る。


「あるいは、陽鞠と朔夜の霊力に反応している」


 その言葉は、重かった。


 陽鞠は思わず息を止める。


 朔夜の手が、彼女の手を取った。


 指輪が触れる。


 ちり、と音が鳴る。


 解析室の冷たい空気の中で、その音だけが生き物のように響いた。


「私たちに?」


 陽鞠が聞く。


 更紗は慎重に頷いた。


「まだ仮説。断定はしない。でも、凶暴化妖が二人の霊力に異常反応しているのは現場報告にも出ている。印がそこに関わっている可能性はある」


「私と朔夜を狙ってるってこと?」


「狙っている、までは言えない。二人を観察しているのかもしれないし、二人が来ることで術式が完成するのかもしれないし、単に強い霊力に反応しているだけかもしれない」


「全部嫌」


「うん。全部嫌」


 更紗は真顔で同意した。


 陽鞠は少しだけ笑いそうになった。


 笑える状況ではないのに。


 でも、更紗の淡々とした「全部嫌」があまりにも正直で、少しだけ肩の力が抜けた。


 朔夜は笑わなかった。


 彼の黒い瞳は、印を見つめたままだった。


 陽鞠はその横顔を見て、不安になる。


「朔夜」


「何」


「嫌な予感って、それだけ?」


「……わからない」


「隠してない?」


「隠してない」


「本当に?」


 朔夜は少しだけ黙った。


 それだけで、陽鞠の眉が寄る。


「朔夜」


「言葉にすると、変になる」


「変でもいい」


「この印、見てると腹の底が冷える」


 朔夜の声は静かだった。


「妖の術式を見てる感じじゃない。もっと古くて、深い。俺の霊力の奥を、何かが引っかくみたいな感じがする」


 陽鞠の背筋に冷たいものが走った。


 朔夜の霊力。


 あの時、ゲームセンターでも、駅前でも、妖が彼に反応した瞬間があった。妖が従いかけるような、不気味な気配。まだ誰も口にしていない。朔夜自身も、深く掘り下げようとしていない。


 でも、何かがある。


 黒い五芒星は、そこにも触れようとしているのかもしれない。


 陽鞠は朔夜の手を強く握った。


「朔夜は朔夜だよ」


 唐突な言葉だった。


 更紗が一瞬だけ目を瞬く。


 朔夜も、陽鞠を見る。


 陽鞠は真っ直ぐに彼を見上げた。


「印が何に反応してても、妖が何を呼んでても、朔夜は朔夜。私の隣にいる朔夜」


 朔夜の黒い瞳が、わずかに揺れる。


 それから、彼は少しだけ息を吐いた。


「お前、時々ずるい」


「何が」


「そういうこと言う」


「朔夜だっていつも言うでしょ」


「俺はいい」


「ずるい」


 陽鞠は軽く睨んだ。


 朔夜は彼女の手を持ち上げ、指輪の近くにそっと唇を落とした。


 解析室の中。


 更紗の目の前。


 危険物の封印ケースが並ぶ作業台の横。


 まったく、場所という概念をどこに捨ててきたのか。


 陽鞠の顔が一気に赤くなる。


「朔夜!」


「手の甲」


「場所!」


「解析室」


「わかってるならやめて!」


 更紗は端末を見たまま、淡々と言った。


「私は何も見てない」


「更紗!」


「記録にも残さない」


「そういう問題じゃない!」


「でも、陽鞠の霊力は落ち着いた」


 更紗がさらっと言う。


 陽鞠は言葉に詰まった。


 確かに、怒りで揺れていた霊力が少し安定している。手の甲に残る温度が、冷えた指先を現実へ戻していた。悔しい。完全に朔夜の思う壺だ。壺というか、もはや彼の手の中だ。いや、その表現も腹立たしい。


 朔夜は何食わぬ顔で陽鞠の隣に立っている。


 更紗は作業台の上の封印ケースへ視線を戻した。


「続けるよ」


「はい……」


 陽鞠は顔を赤くしたまま頷いた。


 更紗は三つのケースを指した。


「現時点で確定していること。一つ、三件の妖は自然発生。二つ、発生後に外部から黒い五芒星の術式を打ち込まれている。三つ、その術式は妖の性質に合わせて調整され、凶暴性、再生、支配、恐怖増幅などを強化している。四つ、術者の痕跡は意図的に薄められている。五つ、印は陽鞠と朔夜の霊力に反応している可能性がある」


 陽鞠は一つずつ頭に入れる。


 自然発生。


 外部術式。


 凶暴化。


 黒い五芒星。


 反応。


 どれも嫌な言葉だった。


 更紗は最後に、封印ケースの一つへ手をかざした。


「まだわからないこと。誰がやったのか。何のためか。なぜこの三地点なのか。二人を狙っているのか。印が何に向かって反応しているのか」


「わからないことだらけ」


 陽鞠が言う。


「でも、何もわからなかった昨日よりは進んでる」


 更紗は淡々と返した。


「証拠はある。共通点もある。次に同じ印が出たら、もう少し深く追える可能性がある」


「次が出る前に止めたい」


「私もそう思う。でも、相手が術式痕を消してる以上、次の痕跡を待つしかない部分もある」


「待ってる間に、また人が襲われるかもしれない」


「だから警戒範囲を広げる」


 更紗は地図を拡大した。


「三件の発生地点と、二人の移動履歴、学園からの任務通知範囲、過去一か月の低級妖発生記録を重ねる。かがり先生にも共有する。発生予測が少しでも出たら、先に結界班を回す」


「私たちは?」


「動くなと言っても動くでしょ」


「うん」


「でしょうね」


 更紗は少しだけため息をついた。


「だから、動くなら連絡を切らないで。任務通知がなくても、妙な気配を感じたら私に送って。印に近づく前に、観測札を投げる。最低限、術式反応を拾いたい」


「わかった」


 陽鞠は頷いた。


 朔夜も静かに頷く。


「それと、朔夜」


「何」


「印を見て嫌な感じがするなら、無理に近づきすぎないで」


「核を斬るには近づく」


「斬るなとは言ってない。触れる前に一拍置いて。陽鞠の結界越しに斬れるなら、その方がいい」


 朔夜は少し考えた。


「できるか?」


 陽鞠を見る。


 陽鞠はすぐに答えた。


「やる」


「即答」


「朔夜を変な印に触らせるくらいなら、私が射線作る」


「お前の指に負担が」


「朔夜が結界練習するなら、私も負担減らせる」


「昨日の補習、ここに繋がるのか」


「人生、無駄な補習はないね」


「いや、反省文は無駄だった」


「それは朔夜が授業中にキスしようとするからでしょ」


「少しだけ」


「反省して」


 更紗が端末を止めた。


「授業中に?」


 陽鞠は固まった。


 朔夜は何でもない顔をしている。


「結界が少し上手くなったので」


「朔夜、説明しなくていい!」


 更紗は眼鏡を押し上げた。


「なるほど。かがり先生の胃薬が減るわけだ」


「減ってるの?」


「たぶん」


「先生に悪いことしたかな……」


「少しは思うんだ」


「少しだけ」


 更紗が呆れたように息を吐く。


 その空気で、解析室の緊張が少しだけ緩んだ。


 けれど、封印ケースの中の黒い五芒星は消えない。


 三つの欠片は静かに沈んでいる。


 まるで、こちらが見ているのを待っているように。


 陽鞠はその印を見つめた。


 怒りはまだ胸にある。


 だが、さっきよりも形がある。


 ただ燃えるのではなく、前へ進むための熱になっている。


「更紗」


「何」


「この印、絶対追って」


「そのつもり」


「私も、次に見つけたら壊すだけじゃなくて、術式の流れを見る」


「危険だよ」


「わかってる。でも、誰かがこれを使って人を襲わせてるなら、止めたい」


「止めるだけ?」


 更紗が聞いた。


 陽鞠は金色の瞳を細める。


「捕まえる」


 声は静かだった。


「誰かはまだわからない。何のためかもわからない。でも、見つける。妖を道具にして、人を怖がらせて、朔夜まで気持ち悪い反応させるような印を使ってるなら、絶対に見つける」


 朔夜が隣で少しだけ笑った。


「俺も入ってるんだ」


「当たり前でしょ」


「嬉しい」


「嬉しがるところ?」


「陽鞠が怒る理由に俺がいる」


「本当にもう、何でも嬉しがる」


「お前関係なら」


 陽鞠は呆れたように目を逸らした。


 けれど、手は離さなかった。


 更紗は二人を見て、少しだけ肩をすくめる。


「仲がいいのは結構だけど、印の前で霊力を混ぜすぎないで。反応が変わる」


「え」


「今、二人の指輪が触れるたびに、ケース内の反応が微妙に揺れてる」


 陽鞠と朔夜は同時に封印ケースを見た。


 三つの黒い五芒星が、ほんのかすかに脈打っている。


 陽鞠の背中に冷たいものが走った。


 朔夜の表情も消える。


「今のは」


 陽鞠が呟く。


 更紗はすぐに記録を取り始めた。


「やっぱり反応してる。二人の霊力が近づくと、印の残滓が揺れる」


「私たちの霊力に?」


「少なくとも、二人が同時に近くにいる状態に反応してる」


 解析室の空気が、再び重くなる。


 陽鞠は朔夜の手を離そうとした。


 しかし、朔夜が離さなかった。


「朔夜」


「離した方がいいのはわかってる」


「じゃあ」


「でも、今離したら嫌な感じがする」


 朔夜の黒い瞳は、封印ケースを見ていた。


「印が、それを待ってるみたいだ」


 陽鞠の喉が乾く。


 更紗も表情を引き締めた。


「わかった。無理に離さないで。そのまま、少しずつ霊力を落として。私が記録する」


「うん」


 陽鞠は深く息を吸った。


 朔夜と手を繋いだまま、霊力を静かに落としていく。金色の光を胸の奥へ沈めるように。朔夜も同じように、黒銀の霊力を抑えた。指輪の光が弱くなる。


 封印ケース内の五芒星の脈動も、少しずつ弱まった。


 更紗が記録を保存する。


「……取れた」


 静かな声だった。


「今の反応、重要かもしれない」


「どういう意味?」


 陽鞠が聞く。


「まだわからない。でも、印は二人を別々に見ているだけじゃない。二人が一緒にいる状態にも反応してる可能性がある」


 陽鞠は朔夜を見る。


 朔夜も彼女を見ている。


 二人でいることに反応する印。


 それは、ただ狙われているよりも、もっと嫌な響きだった。


 朔夜の手が、陽鞠の手を包み直す。


「陽鞠」


「何」


「一人になるな」


「朔夜も」


「ならない」


「約束」


「ああ」


 指輪同士が、また静かに触れた。


 今度は音を立てないように。


 それでも、二人には触れていることがわかった。


 更紗は端末を閉じ、封印ケースの上に追加の遮断札を貼った。


「今日はここまで。これ以上は印を刺激するかもしれない。解析は私が続ける。二人はかがり先生に報告して、念のため霊力検査を受けて」


「わかった」


「更紗は寝て」


「無理」


「寝て」


「解析がある」


「横になるだけで寝たって言うの禁止」


「厳しい」


「厳しくする。更紗まで倒れたら困る」


 更紗は少しだけ目を細めた。


「陽鞠に心配されるとは」


「心配するよ」


「じゃあ三時間寝る」


「六時間」


「四時間」


「五時間」


「交渉が発生してる」


 朔夜が低く呟く。


 陽鞠は更紗を睨んだ。


「五時間」


「……わかった。五時間」


「絶対」


「絶対」


 更紗は頷いた。


 本当に寝るかどうかは怪しい。だが、約束はした。少なくとも陽鞠はあとで確認するつもりだった。人類、友人の睡眠時間まで監視しなければならない。妖より生活習慣の方が手強い時もある。


 解析室を出る前に、陽鞠はもう一度だけ封印ケースを見た。


 黒い五芒星は、遮断札の向こうで静かに沈んでいる。


 何も語らない。


 けれど、ただの印には見えなかった。


 何かを待っている。


 何かを呼んでいる。


 そして、こちらを見ている。


 そんな気配が、確かにあった。


 廊下へ出ると、解析室より少し温かい空気が流れてきた。


 陽鞠は思わず息を吐く。


 朔夜が隣に立つ。


「大丈夫か」


「大丈夫って言ったら怒る?」


「禁止」


「じゃあ……怒ってるし、気持ち悪いし、怖い。でも、止まらない」


「うん」


「朔夜は?」


「嫌な感じがする。あの印、俺の奥を見てくる」


「奥?」


「うまく言えない」


「そっか」


 陽鞠は少し考えてから、朔夜の手を握り直した。


「じゃあ、私も見る」


「何を」


「朔夜の奥」


 言ってから、陽鞠は自分で顔を赤くした。


「変な意味じゃなくて!」


 朔夜の口元が少しだけ緩む。


「変な意味でもいいけど」


「よくない!」


「陽鞠ならいい」


「今は真面目な話!」


「俺は真面目」


「絶対違う」


 陽鞠は怒ったように言いながらも、手は離さなかった。


 朔夜の黒い瞳が、少しだけ柔らかくなる。


 彼は陽鞠の指輪へ目を落とした。


「お前が隣にいるなら、変な印に何を見られても平気だ」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶん禁止」


「じゃあ、平気にする」


「無理しないで」


「無理はする」


「そこはしないって言って」


「お前のためなら無理する」


「またそういうことを」


 陽鞠は呆れた。


 呆れて、少しだけ笑った。


 怒りも、恐怖も、不快感も、消えたわけではない。黒い五芒星の印は、これからも胸の奥に冷たい棘のように残るだろう。外部から妖を壊し、人を襲わせ、二人の霊力に反応する印。


 まだ何も断定できない。


 誰がやったのかも、何を狙っているのかも、わからない。


 だが、進む方向は決まった。


 見つける。


 止める。


 誰かの悪意で、人や妖がこれ以上壊される前に。


 解析棟の廊下を歩きながら、陽鞠は窓の外を見た。


 学園の敷地には、いつも通りの昼の光が落ちている。実技場からは生徒たちの声が聞こえ、校庭の端では見習いたちが結界の基礎練習をしていた。何も知らないように、日常は続いている。


 だからこそ、守らなければならない。


 陽鞠は朔夜の手を強く握った。


 指輪が触れる。


 今度は小さく、けれど確かに音が鳴った。


 ちり。


 その音に、黒い五芒星の冷たさがほんの少しだけ遠のいた気がした。


「朔夜」


「何」


「かがり先生に報告したら、屋上行こ」


「休む?」


「うん。少しだけ」


「膝枕?」


「調子に乗らない」


「じゃあ手の甲」


「何が」


「キス」


「報告のあと」


「許可だな」


「……考えるって言う前に決めないで」


 朔夜が笑った。


 陽鞠も、少しだけ笑った。


 不穏は消えない。


 黒い印は、まだ静かに脈打っている。


 けれど、二人は手を離さなかった。


 それだけは、今のところ、どんな術式にも譲るつもりはなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ