第10話 白手袋のS級
任務通知が鳴ったのは、昼休みが終わる五分前だった。
教室には、弁当箱を片づける音と、午後の授業を嫌がる生徒たちの低い声が漂っていた。窓の外では風が校庭の砂を薄く巻き上げ、実技場の方から霊力のぶつかる鈍い音が聞こえている。退魔学園にとっては、ひどく普通の昼だった。
普通という言葉の中に、妖と刀と結界が混じっている時点で、世間一般の感覚からはだいぶ外れている。だが、ここではそれが日常だった。人間は慣れれば何でも日常にする。恐ろしい適応力である。もう少し別のところに使えばいいのに。
陽鞠は弁当箱を鞄へしまったところで、ポケットの端末が震えるのを感じた。
続けて、澄んだ鈴のような通知音。
教室の空気が一瞬で変わる。
朔夜も隣の席で顔を上げた。
彼は昼休みの半分を机に突っ伏して過ごしていたくせに、任務通知が鳴った瞬間には眠気を消していた。銀髪の襟足が揺れ、切れ長の黒い瞳が端末へ落ちる。ネクタイは相変わらず緩い。制服の崩れ方だけは、任務前でも改善されない。人間の習性とは頑固だ。
陽鞠は端末を確認した。
緊急度、準高。
発生地点は、市内東部の旧商店街跡。
再開発予定地として一部が封鎖されている区域で、廃業した店舗、古いアーケード、使われなくなった地下倉庫が残っている。最近、近隣住民から夜間の異音と、腐った魚のような臭気の通報が複数寄せられていた。今日になって、工事前の点検に入った作業員二名が体調不良を訴え、一名が行方不明。
低級から中級の妖反応。
ただし、霊力反応が短時間で増幅中。
陽鞠の金色の瞳が細くなった。
「また、増幅」
小さく呟く。
朔夜も同じ画面を見ていた。
「旧商店街跡。人は少ないが、迷路みたいな場所だな」
「作業員が残ってるかもしれない」
「急ぐ」
「うん」
陽鞠は立ち上がった。
背中の弓を確認し、腰の日本刀へ手を添える。ブレザーの裾が揺れ、耳元のお揃いのピアスが小さく鳴った。右手薬指の指輪が、昼の光を受けて金色に光る。
教室の生徒たちが一斉にこちらを見た。
「任務?」
「また?」
「篠宮先輩と綴喜先輩、ここ最近ずっと呼ばれてない?」
「凶暴化妖ってやつかな……」
不安混じりの声が落ちる。
陽鞠はそれを聞こえないふりはしなかった。けれど、立ち止まって説明する時間もない。今は現場が先だった。
朔夜が彼女の隣に立つ。
二百センチの影が、陽鞠の横に落ちた。
「行くぞ」
「その前に」
陽鞠が言う。
朔夜の黒い瞳が、ほんの少し柔らかくなる。
「忘れてない」
彼はそう言うと、教室の後ろの扉の陰へ陽鞠を軽く引いた。
「ここで?」
「廊下よりまし」
「教室もどうかと思う」
「任務前」
「それ言えば通ると思ってるでしょ」
「通してるのは陽鞠」
「……言い返しにくいこと言わないで」
陽鞠が小さく睨むより早く、朔夜の指が顎へ触れた。
大きな手が、彼女の顔をそっと上げさせる。強くはない。逃げようと思えば逃げられる力。それでも、陽鞠は逃げない。むしろ、自分から少し顎を上げた。
唇が触れる。
短く、けれど確かに。
陽鞠の指が朔夜のブレザーを掴む。指輪が布に触れ、ちり、と小さく鳴った。朔夜の手は腰には回らない。教室だから、という最低限の配慮はあったらしい。人類の理性、首の皮一枚で生き残る。
唇が離れる。
陽鞠は少しだけ息を乱し、すぐに睨んだ。
「短かった」
「不満?」
「そうじゃなくて」
「あとで長くする」
「任務後でしょ」
「生きて戻るから」
「……うん」
その言葉で、甘さは約束に変わる。
陽鞠は息を整え、教室を出た。
旧商店街跡は、昼間でも薄暗かった。
古いアーケードの骨組みが空を切り、割れた屋根材の隙間から細い光が落ちている。かつて店だった場所にはシャッターが下り、その表面には錆と埃がこびりついていた。看板の文字は色褪せ、何の店だったのかもわからないものが多い。足元には剥がれたタイルと、枯れ葉と、工事用の赤いコーンが倒れている。
空気が重い。
腐った魚の臭い、湿った木材の匂い、古い油の匂い。そこへ妖の霊気が混じり、喉の奥に嫌な粘りを残す。昼の光が差しているのに、建物の影はやけに黒く見えた。
陽鞠は弓を背負ったまま、周囲を見渡した。
「作業員は?」
先に到着していたB級退魔師が、青ざめた顔で答える。
「一人は救助済みです。もう一人が奥の地下倉庫へ逃げ込んだ可能性があります。ただ、妖の反応が強くて、こちらの結界が持ちません」
「妖の形は?」
「魚……いえ、人型にも見えました。壁を這います。声も真似ます」
その言葉に、陽鞠の顔が険しくなる。
人の声を真似る妖。
嫌な種類だ。
朔夜は腰の刀へ手をかけた。
「核は?」
「見えていません。攻撃しても、表面が剥がれるだけで再生します」
「またか」
朔夜の声が冷える。
陽鞠は深く息を吸った。
「朔夜、地下倉庫まで避難経路を作る。作業員がいたら結界で包む。妖の核は見つけてから」
「俺が前」
「出すぎないで」
「五歩まで」
「三歩」
「四歩」
「交渉する場面じゃない」
「じゃあ三歩半」
「半って何」
緊張の中でも、そんなやりとりだけはいつも通りだった。
B級退魔師が呆然と二人を見る。
だが、陽鞠と朔夜はもう前を向いていた。
旧アーケードの奥から、濁った音が響いた。
ずるり。
ずるり。
何か濡れたものが、床を引きずる音。
続けて、低い鳴き声がした。
「さむい」
人間の声に似ていた。
「さむい、くらい、でたい」
陽鞠の背筋に冷たいものが走る。
廃業した魚屋のシャッターが、内側から膨らんだ。
次の瞬間、金属が裂ける。
ぎゃり、と耳障りな音を立ててシャッターが破れ、黒い水のようなものが溢れ出した。その中から、妖が這い出てくる。
人型に近い。
だが、人間ではない。
頭部は潰れた魚のように横へ広がり、口は縦に裂けている。胴体にはぬめった鱗がびっしり生え、腕は四本。肘から先だけが異様に細く、指の間には膜があった。背中には使い古された包丁のような骨片が何本も突き出している。腹部は黒く膨らみ、その奥で赤黒い光が脈打っていた。
下級ではない。
少なくとも、今この瞬間の危険度はA級相当。
陽鞠は右手を開いた。
「避難結界、張る!」
足元に金色の線が走る。
アーケードの割れたタイルの上を、光が細く伸びていく。倒れたコーンを避け、割れたガラス片を押し退け、地下倉庫へ続く階段まで道を作る。周囲にいた作業員と退魔師たちを包むように、薄い壁が立ち上がった。
妖が四本の腕を広げる。
黒い水が飛び散った。
それはただの水ではない。霊毒を含んだ液体だ。触れれば皮膚がただれ、護符を腐らせる。陽鞠は結界を斜めに張り、水滴の軌道を逸らした。壁に当たった黒い水が、じゅ、と音を立てて煙を上げる。
「朔夜、右腕二本!」
「見えてる」
朔夜が踏み込む。
刀が抜かれる音は、ほとんど聞こえなかった。
銀の刃が昼の薄光を拾い、妖の右腕へ走る。一本目の腕が落ちる。黒い霊液が噴き出す。二本目の腕が、背後から朔夜の首を狙った。陽鞠が即座に薄い結界を差し込む。腕の軌道が半歩ずれる。
その半歩で、朔夜の刀が返る。
二本目の腕も斬り落とされた。
だが、落ちた腕は床の黒い水へ沈み、すぐに泡立った。切断面から新しい指が伸びようとしている。
「再生が早い」
陽鞠が眉を寄せる。
「核を見つける」
朔夜が言う。
妖が口を開いた。
「でたい」
その声は、先ほど行方不明になった作業員の声に似ていたのかもしれない。
B級退魔師の一人が反射的に動きかけた。
「待って!」
陽鞠が叫ぶ。
妖の腹が裂けた。
中から、作業員用のヘルメットが転がり出る。血のついたヘルメットだった。それを見た瞬間、退魔師の足が止まる。妖はその隙を狙って、背中の骨片を一斉に飛ばした。
陽鞠は歯を食いしばる。
結界を張る。
薄い膜では間に合わない。
三層、五層、八層。
骨片が金色の結界へ突き刺さり、火花を散らす。一本が膜を二枚貫いた。三枚目で止まる。衝撃が陽鞠の指へ返り、治癒符の下の傷がじくりと痛んだ。
「陽鞠!」
「大丈夫!」
「禁止」
「今は言い直してる暇ない!」
朔夜が妖の懐へ入る。
だが、妖はそこで不自然に後退した。
まるで朔夜の踏み込みを読んでいたように、黒い水へ身体を沈める。刀は表面を裂いたが、核には届かない。床の水たまりが一気に広がり、朔夜の足首を取ろうとした。
「朔夜、下!」
陽鞠が叫び、床に結界を敷いた。
朔夜の足元だけが金色に光る。黒い水が結界に弾かれ、彼の足首へ届く前に左右へ割れた。朔夜はその足場を踏み、後ろへ跳ぶ。
妖が笑った。
魚の口の奥から、人の笑い声のようなものが漏れる。
「でられない」
腹部の赤黒い光が強くなる。
陽鞠の瞳が細くなった。
黒い五芒星の気配。
まただ。
妖が急に膨れた。
鱗の隙間から黒い煙が噴き出し、四本だった腕が六本へ増える。背中の包丁のような骨片が伸び、アーケードの天井を削った。古い看板が落下する。陽鞠は反射的に結界を張り、作業員たちの頭上でそれを受け止めた。
重い。
ただの看板なのに、妖の霊気を含んでいるせいで結界が軋む。
「避難、急いで!」
陽鞠はB級退魔師たちへ叫ぶ。
「金色の線から出ないで! 地下倉庫の入口を封鎖する、作業員がいたら声をかけずに結界ごと引いて!」
「了解!」
退魔師たちが動き出す。
妖がそれを妨げようと壁を這う。
陽鞠が矢を番えた。
破魔矢の羽根が震える。射線結界を三枚、空中に置く。矢はまっすぐでは届かない。アーケードの柱、落ちかけた看板、避難する人の位置。そのすべてを避ける必要がある。
「朔夜、左へ寄せて!」
「ああ」
朔夜が妖へ踏み込む。
真正面から斬るふりをして、わざと刃を浅く入れる。妖が反応して右へ逃げる。そこで陽鞠の結界が壁のように立つ。妖は逃げ道を塞がれ、左へ戻るしかない。
その瞬間、陽鞠の矢が放たれた。
矢は空中で一度曲がり、二度曲がり、三度目で妖の腹部へ向かう。赤黒い光の中心。そこにあるはずの核。
だが、矢が届く寸前だった。
白い何かが、陽鞠の視界を横切った。
手袋。
白い手袋をはめた指先が、空中で陽鞠の矢の軌道に触れる。
触れただけだった。
それなのに、矢の角度がわずかに変わった。
陽鞠の矢は妖の核ではなく、その上の霊気の節を貫いた。
「え?」
陽鞠の声が漏れる。
次の瞬間、黒い長衣の裾が翻った。
誰かが、妖と朔夜の間へ入っていた。
長い濡羽色の髪を低い位置で結び、黒い長衣をまとった男。動きに合わせて裾が水のように揺れる。手には白い手袋。耳元には古い銀の耳飾り。背は高い。百八十を超えている。整った横顔は、笑みを浮かべているようにも見えた。
けれど、目が笑っていなかった。
紫紺の瞳。
深い夜の底に、青と赤を混ぜたような色。
それが、妖を見ていた。
「悪くない射線だ」
男が言った。
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、逆に不気味だった。
「だが、核だけを狙うには少し素直すぎる」
陽鞠は反射的に弓を構え直した。
朔夜も刀を握り直す。
「誰だ」
朔夜の声が低い。
男は振り返らない。
ただ、白手袋の指先を軽く動かした。
その瞬間、陽鞠の矢が貫いた霊気の節から、妖の腹部へ金色の光が走った。いや、陽鞠の霊力ではない。男が矢の軌道をずらし、核そのものではなく、核を守る術式の継ぎ目を射抜かせたのだ。
妖の腹が、内側から開く。
赤黒い核が露出した。
その奥に、黒い五芒星が一瞬だけ浮かぶ。
陽鞠の目が見開かれる。
「朔夜!」
叫ぶより早く、男が動いた。
速い。
朔夜も速い。陽鞠は誰より知っている。妖の懐に入る速度、刀を振るう角度、足場の悪い場所での踏み込み。何度も見てきた。
だが、目の前の男の動きは、違った。
無駄がない。
速さを誇示しない。力で押さない。妖の攻撃が来る場所へ先にいない。相手の動きが始まる前に、終わりの位置へ立っているような動きだった。
妖の六本の腕が男へ襲いかかる。
男は白手袋の指先で、一番近い腕の角度をほんの少しずらした。
それだけで、一本目の腕が二本目の腕に絡む。
二本目が三本目の進路を塞ぐ。
三本目を避けようとした妖の胴体が、露出した核をさらに開いた。
男の左手から、霊符が三枚滑り出る。
投げたように見えなかった。
ただ、指の間から紙が離れた。
霊符は空中で青白く燃え、妖の腕、背中、腹部へ同時に貼りついた。貼りついた瞬間、黒い水が凍るように動きを止める。
妖が叫んだ。
「でたい、でたい、でたい、でたい!」
「騒がしい」
男は淡く言った。
右手が腰の刀へ触れる。
抜刀の音はしなかった。
ただ、黒い長衣の裾が揺れた次の瞬間、妖の腹部の核に細い線が走っていた。
男はもう刀を鞘へ戻している。
核が割れた。
遅れて、音が来る。
ばきん、と硬いものが砕ける音。
黒い五芒星の印が、核の断面で一瞬だけ強く光った。それを男は白手袋の指先でつまむように触れた。
触れた、ように見えた。
実際には、直接触れていない。
指先と印の間に、極薄の結界が挟まれている。
陽鞠の結界より荒い。
けれど、強度と角度が異様に正確だった。
男が指を捻る。
黒い五芒星が、核の中で軋んだ。
印が逃げようとするように黒い線を伸ばす。男はその線を、今度は霊糸で絡め取った。細い銀色の糸が空中に走り、印の残滓を縫い止める。
妖の身体が崩れ始めた。
黒い水が床へ落ち、鱗が灰へ変わる。六本の腕がほどけ、背中の骨片が砂のように砕けた。最後に、縦に裂けた口から濁った息が漏れる。
「で……た……」
それだけを残して、妖は消えた。
陽鞠の矢が、まだ空中の射線結界に残る霊光を散らしていた。
朔夜の刀は、抜かれたまま止まっている。
B級退魔師たちは、何が起きたのか理解できずに固まっていた。
陽鞠は、ゆっくり弓を下ろした。
悔しい。
まず、そう思った。
助かった。
それも事実だ。
妖の核を露出させ、印の残滓まで絡め取った。作業員たちへの被害も防げた。結果だけ見れば、完璧だった。文句をつける筋合いはない。
それでも、腹が立つ。
自分の矢の軌道を勝手に変えられた。
朔夜が斬るはずだった核を横から割られた。
そして何より、男はそれを当然のようにやった。
陽鞠は金色の瞳を細める。
「……人の任務に、急に割り込まないでもらえます?」
男がようやく振り返った。
整った顔だった。
肌は白く、唇には薄い笑みが浮かんでいる。だが、紫紺の瞳だけが笑っていない。そこには、余裕と観察と、何か底の見えないものがある。
男は白手袋の指先についた黒い霊気を、薄い護符で拭った。
仕草は優雅だった。
腹立たしいくらいに。
「割り込んだつもりはない」
男は言った。
「終わらせただけだ」
「それを割り込みって言うんです」
「そうか。では言い方を変えよう。君たちの手間を省いた」
「余計なお世話」
陽鞠は即座に返した。
B級退魔師が青ざめる。
「し、篠宮さん、その方は」
「知ってるんですか?」
「御影堂玻月さんです。協会所属のS級退魔師です」
陽鞠は一瞬だけ眉を動かした。
御影堂玻月。
S級。
名前だけは聞いたことがある。
凶悪な妖を単独で封じた。古い封印地の崩壊を一人で止めた。協会内でも行動履歴に空白が多い。扱える術の幅が広すぎる。そんな噂だけが先に回ってくる男。
目の前に立っているのが、その御影堂玻月。
陽鞠は改めて彼を見た。
黒い長衣は、現代の服とも和装ともつかない不思議な形をしている。裾は長いが動きを邪魔していない。白手袋は指先まで皺ひとつなく、古い銀の耳飾りが片耳でかすかに揺れる。濡羽色の長髪は低く結ばれ、紫紺の瞳がこちらを見ていた。
笑っている。
けれど、笑っていない。
陽鞠はその目が嫌いだと思った。
人を見る目ではない。
何かを測る目だ。
朔夜が陽鞠の半歩前へ出た。
刀はまだ鞘へ戻していない。
「S級なら、先に名乗れ」
声が冷たい。
玻月は朔夜へ視線を移した。
その瞬間、空気が少しだけ変わった。
玻月の目が、朔夜を上から下まで観察する。銀髪。黒い瞳。二百センチの長身。崩れた制服。左手薬指の指輪。手にした刀。足運び。霊力の気配。
ほんの数秒。
だが、朔夜の黒い瞳がさらに冷えた。
見られている。
ただ視線を向けられているのではない。刃の角度、呼吸、重心、霊力の流れまで、すべてを読まれている感覚。朔夜は刀を握る指にわずかに力を入れた。
玻月は薄く笑った。
「綴喜朔夜。刀筋は悪くない。だが、直線的だ」
「頼んでない」
「頼まれてはいないな」
「なら黙れ」
B級退魔師がさらに青ざめる。
陽鞠は朔夜の袖を軽く引いた。
「朔夜」
「こいつ、嫌いだ」
「早い」
「お前の矢を勝手に曲げた」
「それは私も腹立ってる」
「なら斬っていいか」
「だめ」
陽鞠は小声で即答した。
朔夜は不満そうだった。
玻月はそのやりとりを、興味深そうに見ていた。
「なるほど。噂通り、ずいぶん距離が近い」
「関係あります?」
陽鞠の声が少し硬くなる。
「あるかもしれない」
「何に」
「さあ」
玻月は肩をすくめる。
その曖昧さが、また腹立たしかった。
陽鞠は彼の白手袋を見た。
「今の妖核。黒い五芒星の印、見ましたよね」
「見た」
「何か知ってるんですか」
「知っていることと、言うべきことは違う」
「嫌味な言い方」
「よく言われる」
「直す気は?」
「必要を感じない」
陽鞠は顔をしかめた。
やっぱり嫌味な退魔師だ。
手柄を横からさらい、こちらの矢を勝手に使い、質問にはまともに答えない。しかも強い。強い嫌味な男ほど面倒なものはない。弱ければ無視できるが、強いと無視できない。世の中はどうしてこういう迷惑な仕様を生むのか。
朔夜は玻月から視線を離さない。
彼の中で警戒の度合いが上がっているのが、陽鞠にはわかった。朔夜が本気で警戒している。あの短い戦闘を見ただけで、それだけの判断をしている。
玻月は通常のS級ではない。
そう感じるほど、彼の動きは異常だった。
刀だけではない。
霊符。
結界。
霊糸。
術式の継ぎ目を読む目。
妖の腕同士を絡ませる誘導。
陽鞠の矢の軌道を、指先だけで変えた技量。
どれも、ただ霊力が強いだけではできない。
経験と技術の積み重ね。
しかも、本人は手を抜いている。
そのことが、朔夜にはわかってしまった。
玻月が刀を抜いた時間は、ほとんど一瞬だった。だが、その一瞬で妖核を割り、黒い五芒星の残滓まで絡め取った。朔夜が正面から斬りかかって、どこまで届くか。
おそらく、届かない。
少なくとも今は。
朔夜の黒い瞳が、さらに冷たくなる。
陽鞠は小さく息を吸った。
悔しい。
強さを見せつけられたことより、朔夜がそれを理解していることが悔しかった。彼が自分より強い相手を警戒している。それが当然の判断だとしても、胸の奥がざらつく。
玻月はそんな二人の空気を楽しむように、ほんのわずかに目を細めた。
その視線が、ふいに陽鞠へ向く。
正確には、陽鞠の目へ。
金色の瞳。
玻月の紫紺の瞳が、それを捉えた瞬間、彼の表情が少しだけ変わった。
笑みは残っている。
だが、目の奥が深くなる。
観察から、興味へ。
陽鞠はその変化に気づき、背筋が冷えた。
「君が、篠宮陽鞠」
玻月が言った。
「そうですけど」
「金色の目か」
その言い方が、嫌だった。
綺麗だとか珍しいとか、そういう軽いものではない。もっと奥を見るような言葉だった。目の色ではなく、その内側にあるものを覗こうとしているような声。
陽鞠は無意識に一歩引きかけた。
朔夜が前に出る。
完全に陽鞠を隠す位置ではない。
けれど、玻月の視線と陽鞠の間に自分の身体を置いた。
「見るな」
低い声だった。
玻月は朔夜を見る。
「恋人を見られるのは嫌か」
「その目が嫌だ」
「ずいぶん正直だ」
「お前も正直にしろ。何を見てる」
玻月は答えなかった。
代わりに、陽鞠の横へわずかに視線をずらす。朔夜越しでも、彼が陽鞠の金眼を見ようとしているのがわかった。
「強い霊力だ。だが、それだけではない」
玻月が呟く。
陽鞠の指が、弓を握り直した。
「何が言いたいんですか」
「まだ何も」
「じゃあ黙ってください」
「気が強い」
「嫌味な人にはそうなります」
玻月は薄く笑った。
目は笑っていない。
「君の結界は、矢より面白い。さっきの射線も悪くなかった。あの妖の術式の継ぎ目を、ほぼ捉えていた」
「勝手に曲げたくせに」
「曲げなければ核を守る膜に弾かれていた」
「自分で修正できました」
「そうかもしれない」
「そうです」
陽鞠は睨んだ。
玻月はそれを受け流す。
その余裕がまた腹立たしい。
「君の金眼は、術式の揺らぎをよく拾う」
「私の目を勝手に分析しないで」
「分析ではない。感想だ」
「もっと嫌です」
朔夜が刀を鞘へ戻さないまま、一歩踏み出した。
空気が張り詰める。
B級退魔師たちが慌てて周囲を見る。誰か止めるべきなのか、止めたら自分が死ぬのではないか。そんな顔だった。気持ちはわかる。S級同士の不穏な対面など、一般退魔師にとっては雷雲を素手で押し返すようなものだ。普通に無理である。
玻月は朔夜の刀を見た。
「抜くか?」
「必要なら」
「今の君では、私には届かない」
静かな言葉だった。
挑発のようで、ただの事実のようでもあった。
朔夜の黒い瞳が冷え切る。
「試すか」
「朔夜」
陽鞠が低く呼んだ。
その声で、朔夜の動きが止まる。
彼は玻月を睨んだままだが、踏み込まなかった。陽鞠の声だけで踏みとどまる。その事実を、玻月が見逃さなかった。
「なるほど」
また、その言い方。
陽鞠は苛立った。
「何がなるほどなんですか」
「君たちは、噂より興味深い」
「私たちは見世物じゃありません」
「そうだな。今は」
今は。
その言葉が妙に引っかかった。
陽鞠の背中に、薄い寒気が走る。
玻月は黒い五芒星の残滓を封じた小さな護符を、白手袋の指で挟んでいた。彼はそれを懐へしまおうとする。
「待って」
陽鞠が止めた。
「それ、持っていくつもりですか」
「私が回収した」
「任務の証拠です。更紗に解析してもらう」
「協会にも解析班はある」
「信用しろって?」
「信用しなくてもいい」
玻月は淡々と言った。
「ただ、今の君たちが持つには危険だ」
「勝手に決めないで」
「すでに反応していただろう」
陽鞠の息が止まる。
朔夜の瞳も鋭くなる。
「何を知ってる」
朔夜が言う。
玻月は一瞬だけ、黒い五芒星を封じた護符を見た。
「この印は、強い霊力に反応する。特に、君たちのような歪に濃い霊力には」
「歪?」
陽鞠の声が低くなる。
玻月の目が、また陽鞠の金眼へ向いた。
「言葉を選んだつもりだ」
「最悪の選び方ですね」
「そうか」
「そうです」
陽鞠は一歩前へ出た。
朔夜が止めようとするより先に、彼女は玻月を睨み上げる。
身長差は大きい。
玻月も百八十八センチある。陽鞠からすれば、見上げる相手だ。
だが、彼女の金色の瞳は引かなかった。
「私の霊力が何だろうと、朔夜の霊力が何だろうと、勝手に決めつけないで。分析したいなら、まず説明してください。何を知っていて、何を隠しているのか」
玻月は黙って陽鞠を見る。
紫紺の瞳の奥に、かすかな光が動いた。
興味。
さらに深い興味。
陽鞠はその目が、本当に嫌だった。
朔夜の手が、彼女の腰の後ろへ回る。
引き寄せるのではない。
すぐ動けるよう支える手。
それを感じて、陽鞠の呼吸が少し整う。
玻月はゆっくり微笑んだ。
「いい目だ」
陽鞠の眉が跳ねる。
「褒めてませんよね」
「褒めている」
「だったらもっと嫌です」
「君の金色は、よく燃える」
その言葉の意味はわからなかった。
けれど、陽鞠の胸の奥に嫌なざらつきだけが残る。
朔夜の手に力が入った。
「それ以上、陽鞠を見るな」
玻月は朔夜を見た。
「君は随分と、彼女を隠したがる」
「お前の目が気に入らないだけだ」
「そうか。なら、覚えておく」
「覚えなくていい」
「それは無理だ」
玻月は軽く手を振った。
白手袋が昼の薄い光を拾う。
その瞬間、周囲に張られていた妖の残滓が、細い糸のように彼の指先へ集まった。陽鞠が見落としていたわけではない。残っているのはわかっていた。だが、あまりにも自然に、あまりにも簡単に回収された。
封印術。
浄化術。
霊糸操作。
同時にやっている。
陽鞠は唇を引き結んだ。
強い。
腹立たしいほど強い。
玻月は最後に、アーケードの奥へ視線を向けた。
「行方不明の作業員なら、地下倉庫の一番奥だ。まだ生きている。入口左の壁に、妖の残した粘液がある。触れると霊毒が回るから、結界越しに引け」
B級退魔師がはっとする。
「確認します!」
退魔師たちが走り出す。
陽鞠は玻月を見た。
「知ってたなら、先に言ってください」
「今言った」
「遅い」
「死ぬほどではない」
「そういう問題じゃない!」
「では、次から努力しよう」
「絶対する気ない言い方」
玻月は薄く笑った。
「篠宮陽鞠」
名前を呼ばれて、陽鞠は顔を強張らせた。
朔夜の気配がさらに冷える。
玻月は二人の反応を気にした様子もなく、静かに言った。
「その金眼、大事にするといい」
「あなたに言われる筋合いはありません」
「そうだな」
玻月は背を向けた。
黒い長衣の裾が揺れる。
「また会うだろう」
「会いたくないです」
「それは君が決めることではない」
最後まで嫌な言い方だった。
玻月はアーケードの薄暗がりへ歩いていく。足音はほとんどしない。黒い長衣が影に溶け、濡羽色の髪と白手袋だけが一瞬残る。それから、彼の気配はふっと消えた。
転移ではない。
隠形術でもない。
ただ、気配の切り方が異様に上手い。
陽鞠はしばらく、その消えた場所を睨んでいた。
「……何なの、あの人」
低く呟く。
朔夜はまだ刀を抜いたままだった。
彼の黒い瞳は、玻月が消えた暗がりを見据えている。
「強い」
短い言葉だった。
悔しさも、警戒も、苛立ちも、その一語に全部入っていた。
陽鞠は朔夜を見る。
「朔夜より?」
聞いてから、少し後悔した。
けれど、朔夜は誤魔化さなかった。
「今のままなら、正面からは無理だ」
正直な答えだった。
陽鞠の胸がきゅっと詰まる。
朔夜がそれを認めるほどの相手。
御影堂玻月。
S級退魔師。
白手袋の、笑っていない目の男。
「でも」
朔夜が言った。
「お前に変な目を向けるなら、いつか斬る」
「斬らないで」
「必要なら」
「必要にならないようにする」
「陽鞠」
「何」
「一人であいつに近づくな」
朔夜の声は、冗談の欠片もなかった。
陽鞠は頷く。
「朔夜も。勝手に斬りかからないで」
「努力する」
「それ信用できない」
「なら、お前が止めろ」
「止める」
陽鞠は朔夜の左手を取った。
指輪同士が触れる。
ちり、と音が鳴る。
その音で、ようやく朔夜が刀を鞘へ戻した。
アーケードの奥では、B級退魔師たちが作業員を救助したらしい声が聞こえている。命はある。よかった。だが、胸のざらつきは消えなかった。
妖は祓われた。
黒い五芒星の残滓は回収された。
作業員も助かった。
結果だけなら、よかったと言える。
でも、陽鞠は納得していない。
自分の矢を勝手に使われた。
手柄を横から奪われた。
嫌味な言葉を残された。
そして、何より。
あの紫紺の瞳が、陽鞠の金眼を見た時の色。
興味。
観察。
執着の始まりのような、嫌な光。
陽鞠は自分の目元へ指を触れた。
「金眼、大事にしろって……何なの」
「気にするな」
「気になるでしょ」
「気にしても、あいつの言葉で揺れるな」
朔夜の手が、陽鞠の顎に触れかけた。
だが、ここは任務先だ。
周囲に退魔師も作業員もいる。
朔夜は珍しく、その手を途中で止めた。
陽鞠はそれに気づき、少しだけ目を瞬いた。
「今、止めた」
「場所を選べって言われてる」
「かがり先生の教育、効いてる」
「少し」
「えらい」
「ご褒美は?」
「任務後、学園に戻ってから」
「許可だな」
「考えるって言う前に決めないで」
いつものやりとり。
けれど、今日は少しだけ重い。
陽鞠は朔夜の手を握り直し、玻月が消えたアーケードの影をもう一度見た。
そこにはもう誰もいない。
だが、白手袋の指先が自分の矢の軌道に触れた感覚が、まだ目に残っている。紫紺の瞳が金眼を見た時の冷たい興味も。
陽鞠は奥歯を噛んだ。
御影堂玻月。
あの男は、何かを知っている。
黒い五芒星のことも。
凶暴化妖のことも。
もしかすると、自分たちの霊力のことも。
だが、今は追えない。
作業員の救助、現場封鎖、かがりへの報告、更紗への連絡。やるべきことはいくつもある。怒りに任せて追いかければ、あの男の掌の上に乗るだけだ。
それも腹立たしい。
陽鞠は息を吸った。
「朔夜」
「何」
「次に会ったら、絶対こっちから質問する」
「ああ」
「逃げられても、追う」
「一人では追うな」
「わかってる」
「俺も行く」
「うん」
二人の指輪が、もう一度触れた。
古いアーケードの暗がりの中で、小さな音が鳴る。
ちり。
黒い五芒星。
白手袋のS級。
紫紺の瞳。
笑っていない目。
陽鞠はそのすべてを胸に刻み、救助作業の方へ歩き出した。
甘いデートの続きのようにはいかない。
学園生活の延長とも言えない。
ここから先、何かが確実に変わる。
その予感だけが、古い商店街跡の湿った空気の中に、黒い水の匂いのように残っていた。




