第11話 銀髪の嫉妬
退魔学園へ戻る道中、朔夜はほとんど喋らなかった。
いつも口数が多い方ではない。陽鞠にだけはやたら甘いことを平然と言うが、基本的には無駄な言葉を好まない男だ。それでも、今日の沈黙はいつものものと違っていた。
黒い。
重い。
隣を歩いているだけで、空気が少し冷えるような沈黙だった。
陽鞠はちらりと朔夜を見上げた。
銀髪の襟足が風に揺れている。切れ長の黒い瞳は前を向いたまま。制服のネクタイは緩く、ブレザーの襟も少し崩れている。任務後なので、袖口には古い商店街跡の埃がついていた。頬にも薄く黒い霊気の煤が残っている。
刀は鞘に収まっていた。
けれど、収まっているだけだった。
朔夜の内側では、まだ刃が抜かれたままのように見える。
「朔夜」
陽鞠が呼ぶ。
「何」
返事はすぐに返ってきた。
声は低い。怒っている。本人が隠す気もないくらい、はっきり怒っている。
「怒ってる?」
「怒ってる」
「正直」
「隠す必要あるか」
「ないけど、理由は?」
朔夜はそこで黙った。
やっぱり、と陽鞠は思う。
理由ならわかっていた。
御影堂玻月。
白手袋のS級。
黒い長衣、濡羽色の長髪、紫紺の瞳。薄く笑っているのに、目だけは笑っていなかった男。陽鞠の矢の軌道を白手袋の指先だけで変え、妖の術式の継ぎ目を射抜かせ、核を一瞬で斬った男。
あの男が陽鞠の金眼を見た。
見た、というより、覗こうとした。
朔夜はそれが気に入らなかったのだ。
陽鞠だって気に入らなかった。あの視線は、綺麗なものを見る目ではない。興味深い道具を見る目でもあり、古い封印を前にした研究者のような目でもあった。人を見るには、冷たすぎる。
だが、朔夜の苛立ちはそれだけではない。
玻月が強すぎた。
そのことも、朔夜の中で鋭い棘になっている。
陽鞠は、彼の横顔を見つめた。
「玻月さんのこと?」
名前を出した瞬間、朔夜の眉がわずかに動いた。
わかりやすい。
当たりだった。
「さん付けしなくていい」
朔夜が低く言った。
「え、そこ?」
「そこも」
「一応、協会所属のS級退魔師で、年上っぽいし」
「嫌だ」
「子どもみたいな言い方」
「嫌なものは嫌だ」
朔夜は前を向いたまま答える。
陽鞠は少しだけ呆れた。
けれど、完全には笑えない。
さっきの玻月を思い出す。
陽鞠の金眼を見た時の、あの紫紺の瞳。興味が深くなる瞬間。気味の悪い静けさ。君の金色はよく燃える、と言った声。
思い出すだけで、首の後ろが冷える。
朔夜はそれに気づいたらしい。
繋いでいた手に、少しだけ力が入った。
「ほら」
「何が」
「お前も嫌な顔してる」
「してるよ。私だって嫌だった」
「なら、近づくな」
「でも、黒い五芒星のことを何か知ってるかもしれない」
「だから嫌なんだろ」
朔夜の声がさらに低くなる。
「あいつは何か知ってる。なのに言わない。お前の目を見た。俺のことも見た。こっちの霊力のことまで、わかったような言い方をした」
「うん」
「それで強い」
「……うん」
「気に入らない」
その一言には、色々なものが混じっていた。
嫉妬。
警戒。
苛立ち。
悔しさ。
陽鞠を見られたくないという、かなり率直な独占欲。
そして、玻月の強さを認めざるを得なかった冷静さ。
朔夜はそういうところで嘘をつかない。自分より強い可能性がある相手を、くだらない意地で軽く見る男ではない。だからこそ、余計に怖いのだろう。怒りながらも、見誤っていない。
陽鞠は握られた手を見た。
朔夜の左手薬指に指輪がある。
自分の右手薬指の指輪と触れ合い、歩くたびに小さく音を立てる。
ちり。
ちり。
その音だけが、沈黙の中でやけに澄んでいた。
「朔夜」
「何」
「私は、朔夜の隣にいるよ」
朔夜の足が少しだけ遅くなる。
陽鞠は続けた。
「あの人が何を見てたのか知らない。何を知ってるのかもわからない。でも、私が誰の隣にいるかは、私が決める」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。
だが、引っ込めない。
朔夜が怒っている理由が、自分を見られたことなら。自分の霊力や金眼を測られたことなら。彼が不安に近いものを感じているなら。
言葉にしておきたかった。
朔夜はしばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「ずるい」
「何が」
「そう言えば俺が落ち着くと思ってる」
「思ってる」
「実際、少し落ち着いた」
「ならいいじゃん」
「でも足りない」
その言い方に、陽鞠は嫌な予感を覚えた。
いや、嫌というほどではない。
ただ、面倒な予感だった。
退魔学園の校門をくぐった時、すでに午後の授業は始まっていた。校舎の窓には静かな光が反射し、廊下から教師の声がかすかに聞こえる。実技場の方では、霊力訓練の音が遠く鳴っていた。
かがりへの報告は先に端末で済ませていた。
詳細な書面報告は後でいいと言われている。怪我人の救助も現地の退魔師に引き継いだ。妖核の残滓は玻月が持っていったため、提出すべき証拠は現場記録と陽鞠たちの証言だけになった。
それもまた腹立たしい。
証拠まで横取りされたようなものだ。
陽鞠がそんなことを考えた瞬間、朔夜が手を引いた。
「こっち」
「え、職員室はそっちじゃないよ」
「後で」
「後でって」
朔夜は返事をせず、校舎の端の階段へ向かった。
旧校舎と新校舎を繋ぐ渡り廊下の脇にある階段だ。普段、あまり使う生徒はいない。階段下には掃除用具入れと、古い掲示板があり、その裏に半ば隠れるようなスペースがある。昼間でも少し薄暗く、人目につきにくい。
陽鞠は足を止めた。
「朔夜」
「何」
「ここ、人来ないけど」
「だから来た」
「正直すぎる」
「隠す必要あるか」
「あるよ。たぶん。社会的には」
「今、社会に用はない」
「退魔師としてだいぶ危険な台詞」
陽鞠が呆れた声を出すより早く、朔夜は彼女を階段裏へ連れていった。
薄暗い空間だった。
上階へ続く階段の裏側に、斜めの影が落ちている。壁には古い掲示物の跡が残り、床には掃除の時に残った細かな埃が光っていた。窓がないので、廊下の明かりだけが差し込む。遠くの教室から聞こえる授業の声も、ここでは少しくぐもっていた。
学園の中なのに、少しだけ外界から切り離された場所。
朔夜はそこで立ち止まり、陽鞠の手を離さなかった。
「朔夜」
「陽鞠」
呼び返す声が低い。
その声で、陽鞠の胸が小さく鳴った。
さっきまで彼が抱えていた怒りが、まだ空気の中に残っている。玻月への警戒。陽鞠を見られた苛立ち。自分の力が届かないかもしれない相手への焦り。全部が、朔夜の黒い瞳の奥で静かに燃えていた。
陽鞠は少しだけ首を傾げる。
「嫉妬?」
からかうように言った。
軽くするつもりだった。
朔夜が少しでも笑えば、それでいいと思った。いつものように「可愛い」と返して、空気が少し緩めばいいと。
だが、朔夜は笑わなかった。
否定もしなかった。
「ああ」
短く認めた。
陽鞠は一瞬、言葉を失う。
冗談を投げたはずなのに、真っ直ぐ返ってきた。しかも、逃げ道がないほど正直に。
「……否定しないんだ」
「する理由がない」
「普通、少しはごまかさない?」
「ごまかしたら、お前は気づく」
「それはそうだけど」
「それに、嫉妬してる」
朔夜の手が、陽鞠の腰へ回った。
ブレザー越しに、大きな掌の感触が伝わる。逃がさないための力ではない。けれど、確かに引き寄せる力だった。陽鞠の身体が一歩分、朔夜へ近づく。
身長差のせいで、彼を見上げる形になる。
薄暗い階段裏で、朔夜の銀髪だけが淡く浮かんで見えた。黒い瞳は、陽鞠だけを見ている。そこには怒りがある。甘さもある。面倒な独占欲もある。全部が隠されずに、彼の目にあった。
陽鞠の喉が、少し鳴る。
「朔夜」
「嫌だった」
彼は低く言った。
「あいつが、お前を見るのが」
「……うん」
「金眼を見るのも、霊力を見るのも、何か知ってるみたいに言うのも」
「うん」
「お前の矢に勝手に触ったのも」
「そこ、まだ怒ってるんだ」
「怒ってる」
「私も怒ってるけど」
「俺の方が怒ってる」
「張り合うところじゃない」
陽鞠はそう言ったが、声は少し柔らかかった。
朔夜がここまで素直に怒りを見せるのは、珍しくないようで珍しい。彼は陽鞠に関することになると、極端にわかりやすい。けれど、ただの嫉妬だけで終わらせられるほど、玻月は軽い相手ではなかった。
だから陽鞠も、逃げずにその怒りを受け止める。
「私も嫌だったよ」
陽鞠は言った。
「あの人の目。見られてるっていうより、測られてるみたいで。私の目なのに、勝手に何か見つけたみたいな顔して」
朔夜の手に力が入る。
「次に同じ目で見たら、隠す」
「どうやって」
「俺の後ろ」
「それだと私、前見えない」
「見なくていい」
「よくない。私も戦う」
「わかってる」
「わかってない顔」
「わかってる。でも、嫌なものは嫌だ」
子どもみたいな言い方だった。
だが、その言葉の奥にあるものは子どもではなかった。朔夜は玻月の強さを理解している。だからこそ、陽鞠を遠ざけたい。彼女が戦うことを否定したいわけではない。ただ、あの目から守りたい。
陽鞠は少しだけ息を吐いた。
「私は隠されるだけは嫌」
「うん」
「でも、朔夜の隣にはいる」
「うん」
「だから、勝手に一人で斬りかからない」
「努力する」
「またそれ」
「……約束する」
その言葉に、陽鞠は顔を上げた。
朔夜の表情は真剣だった。
約束。
彼がその言葉を軽く使わないことを、陽鞠は知っている。
「私も約束する。一人で玻月さんには近づかない」
「さん付け」
「そこは今いいでしょ」
「よくない」
「朔夜」
「玻月」
「呼び捨て」
「俺はそう呼ぶ」
「じゃあ、私も……御影堂さん」
「遠くなった」
「これでどう?」
「まだ嫌だが、さっきよりまし」
「どれだけ嫌なの」
「かなり」
陽鞠は少し笑った。
やっと笑えた。
けれど、朔夜の表情はまだ緩みきらない。
腰に回った手が、陽鞠をもう少し引き寄せる。彼の体温が近くなる。任務後の土埃と、刀の霊気と、朔夜自身の匂いがした。安心する匂いだった。悔しいくらいに。
陽鞠は彼のブレザーの前を掴んだ。
「まだ足りない?」
「足りない」
「何が」
「確認」
「さっき任務前にしたでしょ」
「任務後はまだ」
「報告前」
「今」
「場所を選んでるつもり?」
「選んだ」
「階段裏って選び方どうなの」
「人が来ない」
「そういう意味じゃなくて」
「陽鞠」
低く名前を呼ばれる。
それだけで、言葉が止まる。
本当にずるい。
朔夜は顎に触れた。
任務前の合図のように。任務後の生存確認のように。けれど、今はそれだけではない。嫉妬していると認めた男の、少しだけ乱れた甘さがあった。
陽鞠は抵抗しなかった。
金色の瞳が、わずかに揺れる。
「……長くしないで」
「無理」
「最初から諦めないで」
「今は無理」
「朔夜」
「嫌ならやめる」
その声だけは、真面目だった。
いつもそうだ。
近い。甘い。時々、どうしようもなく強引そうに見える。けれど、最後の線は必ず陽鞠に預ける。敵のように奪わない。玻月のように勝手に覗かない。朔夜は陽鞠が選ぶ余白を、どれだけ嫉妬していても残す。
だから、陽鞠は小さく息を吐いた。
そして、彼のネクタイを掴んだ。
「……嫌じゃない」
朔夜の黒い瞳が、わずかに揺れる。
「でも、報告はちゃんと行くから」
「行く」
「キスしたら少し落ち着く?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「落ち着かせる」
「自分で言うことじゃない」
陽鞠が最後まで言う前に、唇が重なった。
深かった。
最初から。
陽鞠の背中が、階段裏の壁へそっと寄せられる。壁は冷たく、朔夜の体温は熱い。その差に、陽鞠の肩が小さく震えた。朔夜の手が腰を支える。もう片方の手は顎から頬へ移り、彼女の金髪を指先で避けた。
唇の隙間から、陽鞠の吐息が漏れる。
「ん……」
喉の奥で、小さな声が鳴った。
その声に、自分で少し驚く。陽鞠は慌てて朔夜のブレザーを強く掴んだ。止めるためではない。離れないために。そう気づいて、耳まで熱くなる。
朔夜は逃がさない。
けれど、押し潰さない。
深く、丁寧に、確かめるように口づける。嫉妬の熱があるのに、触れ方は乱暴ではなかった。むしろ、普段より慎重だった。玻月の視線が残した不快感を上書きするように、陽鞠が嫌だったものを消していくように。
腰に回った手が、少しだけ強くなる。
陽鞠の身体が朔夜へ近づく。
指輪同士が触れた。
ちり、と音が鳴る。
階段裏の薄暗がりに、その音が小さく響いた。
陽鞠は目を閉じる。
御影堂玻月の紫紺の瞳が、脳裏に浮かびかける。
金眼を見た、あの冷たい興味。
だが、すぐに消える。
代わりにあるのは、朔夜の唇と、体温と、腰を支える手。銀髪が頬に触れる感触。近すぎる呼吸。彼がここにいるという、はっきりした現実。
唇が一度離れる。
陽鞠は息を吸った。
しかし、朔夜は完全には離れない。額が触れそうな距離で彼女を見る。黒い瞳の奥には、まだ燃えるものがある。
「……長い」
陽鞠はかすれた声で言った。
抗議の形をしているが、手はまだ朔夜のブレザーを掴んでいる。
朔夜は低く答える。
「足りない」
「嫉妬、重い」
「否定しない」
「そこは少しくらい否定して」
「重い」
「自覚してる」
「陽鞠だから」
「理由にしないで」
「理由だろ」
また唇が重なる。
今度は少しだけ角度が変わった。
陽鞠は小さく息を詰める。朔夜の指が腰のあたりでゆっくり動き、ブレザー越しに温度が伝わった。強く抱き寄せられる。けれど、苦しくはない。むしろ、戦闘後にまだ少し震えていた身体が、そこでようやく落ち着いていく。
朔夜も怒っている。
陽鞠も怒っている。
玻月への警戒は消えない。
黒い五芒星の不穏も、消えない。
それでも、今この瞬間だけは、互いの体温を確かめることで立っていられる。
陽鞠は朔夜のネクタイを掴んだまま、少しだけ自分から応えた。
ほんの少し。
けれど朔夜には十分すぎた。
彼の呼吸が一瞬乱れる。
腰の手が、さらに彼女を支える。
陽鞠の喉から、また小さな声が漏れた。
「……っ、朔夜」
名前を呼ぶと、朔夜はようやく唇を離した。
近い距離。
二人の息が重なる。
陽鞠は顔を赤くして、彼を睨んだ。
「ほんとに長い」
「まだ短い」
「その基準、壊れてる」
「嫉妬してるから」
「開き直った」
「うん」
「面倒くさい」
「知ってる」
「でも」
陽鞠はそこで言葉を切った。
朔夜が見下ろす。
「でも?」
「……嫌じゃない」
小さな声だった。
言った瞬間、陽鞠は自分の顔がさらに熱くなるのを感じた。
朔夜の表情が、はっきり柔らかくなる。
「可愛い」
「言うと思った」
「言うだろ」
「今は言わなくていい」
「今だから言う」
「もう」
陽鞠は額を朔夜の胸に軽く押しつけた。
逃げるような、隠れるような動きだった。
朔夜の手が、彼女の背中へ回る。
弓に触れないように、器用に位置を避けている。その手つきに、陽鞠は少しだけ笑いそうになった。嫉妬で不機嫌なくせに、こういうところだけ細かい。
「朔夜」
「何」
「玻月さんのこと、怖い?」
胸に顔を寄せたまま聞いた。
朔夜はすぐには答えなかった。
少し間があった。
その沈黙で、陽鞠は答えを半分知る。
「怖いとは違う」
朔夜が言う。
「じゃあ?」
「嫌な相手だと思う」
「強いから?」
「強い。それもある」
「うん」
「でも、それだけじゃない。あいつ、戦いながら全部見てた。妖の動きも、お前の矢も、俺の刀も、黒い印も。見て、利用して、隠してる」
「隠してる」
「何か知ってるのに、全部言わない」
「うん」
「そして、お前に興味を持った」
最後の声が低くなる。
また嫉妬の温度が混じった。
陽鞠は顔を上げる。
「私が金眼だから?」
「それだけじゃない気がする」
「朔夜もそう思う?」
「ああ」
朔夜の黒い瞳が、階段裏の影を映していた。
「あの目は、目の色だけを見てる目じゃなかった」
「……私も、そう思った」
「だから嫌だ」
朔夜は陽鞠の腰を抱いたまま、少しだけ目を伏せる。
「あいつが何を見てるのか、わからない。黒い五芒星と関係あるのかもわからない。でも、お前を何かの材料みたいに見るなら、許さない」
陽鞠の胸が、静かに熱くなった。
嬉しい、だけではない。
守られたいだけでもない。
自分も朔夜を守りたいと思う。
彼が玻月の強さに警戒しているなら、その隣で一緒に立ちたい。後ろに隠されるのではなく、隣に並びたい。
陽鞠は朔夜の胸元から手を離し、彼の左手を取った。
指輪が光る。
「私も許さない」
「陽鞠」
「朔夜を変なふうに見るのも、許さない」
朔夜が少し目を見開いた。
「俺?」
「そうだよ。玻月さん、朔夜のことも見てた。刀筋は直線的だとか、今の君では届かないとか。何様って感じ」
「実際、強い」
「それでも腹立つ」
「陽鞠」
「私の彼氏に、勝手に値踏みしないでほしい」
言い切ってから、陽鞠は自分で固まった。
彼氏。
別に間違っていない。
最初から恋人だ。
任務前にキスするし、任務後に生きている確認もする。デートもする。屋上で膝枕もする。今も階段裏で抱きしめられている。今さら恥ずかしがる要素など、人類の一般倫理を除けば特にない。いや、一般倫理が結構大きいのだが。
朔夜はゆっくり笑った。
「もう一回言って」
「言わない」
「俺の何?」
「言わない」
「陽鞠」
「絶対言わない」
「可愛い」
「朔夜、調子に乗らない」
「無理」
朔夜の額が陽鞠の額へ軽く触れる。
近い。
またキスされると思った。
けれど、朔夜はすぐにはしなかった。
ただ、その距離で静かに言う。
「陽鞠の彼氏でよかった」
陽鞠の金色の瞳が揺れた。
「……今、そういうの禁止」
「なぜ」
「顔がもたない」
「可愛いからいい」
「よくない」
陽鞠は顔を伏せようとしたが、朔夜の手が顎に触れて止めた。
「見せて」
「嫌」
「俺だけ」
「……ずるい」
「嫉妬してるから」
「それ便利に使わないで」
「今日だけ」
「今日だけ?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
陽鞠は小さく笑った。
さっきより、少しだけ空気が緩んでいた。
だが、完全に甘いだけでは終わらない。
階段裏の薄暗さが、古い商店街跡の暗がりと少し重なる。玻月が消えたアーケードの影。白手袋。紫紺の瞳。黒い五芒星の残滓を、極薄の結界越しにつまんだ指先。
あの男は、また現れる。
そう思った。
根拠はない。
けれど、陽鞠にも朔夜にもわかっていた。
御影堂玻月は、通りすがりの親切なS級退魔師ではない。
何かを知っている。
何かを見ている。
そして、陽鞠の金眼へ興味を持った。
「朔夜」
「何」
「次に会ったら、ちゃんと聞く。黒い五芒星のことも、私の目を見て何を思ったのかも」
「一人では聞くな」
「うん。朔夜と一緒に」
「俺が先に怒ったら?」
「止める」
「止まらなかったら?」
「結界で止める」
「それは見たい」
「見たいじゃない。止まって」
「努力する」
「約束」
「……約束する」
陽鞠は頷いた。
そして、自分から朔夜の胸元を引いた。
ほんの短いキスをする。
朔夜の目が少し見開かれる。
陽鞠はすぐに離れて、赤い顔のまま言った。
「これで落ち着いて」
「逆効果」
「え」
「もっと欲しくなった」
「最低」
「正直」
「そこは嘘ついて」
「無理」
朔夜がまた身を屈めようとした、その時だった。
階段の上から、足音が聞こえた。
二人は同時に動きを止める。
誰かが降りてくる。
教師ではない。生徒の足音だ。数人。会話しながら近づいてくる。
陽鞠は慌てて朔夜の胸を押した。
「離れて」
「嫌だ」
「人来る!」
「階段裏は見えにくい」
「そういう問題じゃない!」
朔夜は名残惜しそうに手を離した。
陽鞠はジャケットと髪を整え、何事もなかったような顔を作ろうとした。頬が赤いので、まったく何事もなかった顔ではない。人類の表情筋は不便だ。隠したい時ほど仕事をしない。
朔夜は平然としている。
腹立たしいくらい平然としている。
階段を降りてきた下級生たちは、階段裏から出てきた二人を見て固まった。
「あっ」
「篠宮先輩と綴喜先輩……」
「え、今、そこから」
陽鞠は精一杯、普通の声で言った。
「任務報告前の確認」
自分で言ってから、何の説明にもなっていないと思った。
朔夜は横で頷く。
「大事な確認」
「朔夜は黙って」
下級生たちは、何かを察した顔で目を逸らした。
察しなくていい。人類、こういう時だけ察しが良すぎる。
陽鞠は早足で階段裏を出た。
朔夜はその隣に並ぶ。自然に手を繋ごうとしたので、陽鞠は一瞬だけ迷い、結局繋いだ。どうせ見られている。今さら手を離したところで、手遅れというものだ。人生には諦めも必要である。
指輪同士が触れた。
ちり、と鳴る。
下級生たちがさらに目を逸らした。
陽鞠は顔を赤くしたまま、廊下を歩く。
「朔夜」
「何」
「かがり先生に言われたら、朔夜が説明して」
「嫉妬したので階段裏に連れていきました」
「絶対やめて」
「事実」
「事実を全部言えばいいってものじゃない」
「じゃあ、任務後の精神安定」
「それも何か嫌」
「生きてる確認」
「いつものやつだけど、今日は違う意味に聞こえる」
「恋人確認」
「もっとだめ!」
朔夜は少しだけ笑った。
笑っている。
ようやく。
陽鞠はそれを見て、内心で少しだけ安心した。怒りが消えたわけではない。嫉妬も、警戒も、玻月への不穏も残っている。それでも、朔夜の表情からあの黒い硬さが少しだけ抜けていた。
なら、階段裏に連れていかれた意味も、少しはあったのかもしれない。
あったことにしておこう。
人類は自分に都合のいい解釈で心を守る生き物だ。今日くらいは許されたい。
職員室へ向かう廊下の途中、窓の外に夕方の光が差し始めていた。
校庭では見習いの生徒たちが結界練習をしている。遠くから、かがりの叱る声が聞こえた気がした。日常は続いている。怒りも不穏も、そこに混じりながら続いていく。
陽鞠は立ち止まり、窓の外を見た。
朔夜も隣で止まる。
「どうした」
「ううん。ちょっとだけ」
「玻月?」
「うん」
正直に答える。
「また会うよね」
「会う」
「嫌だな」
「俺も」
「でも、会わないと聞けない」
「聞く前に斬らないよう努力する」
「本当に努力して」
「陽鞠が止めるなら」
「止める」
陽鞠は朔夜の手を握り直した。
「私たちは、二人で動く。あの人が何を見ていても、勝手に決めさせない」
「ああ」
「私の金眼も、朔夜の霊力も、あの人のものじゃない」
「もちろん」
「黒い五芒星のことも、絶対に突き止める」
「一緒に」
「うん。一緒に」
その言葉を交わすと、胸の奥にあった不穏が少しだけ形を変えた。
怖さではなく、覚悟へ。
玻月の目は嫌だ。
彼の強さも、知っていることを隠す態度も、陽鞠の金眼への興味も、全部気に入らない。
でも、怯えて後ろへ下がるつもりはない。
朔夜の嫉妬に隠れて、安心しているだけでもいられない。
隣に立つ。
それが、自分で選んだ場所だから。
朔夜が、ふいに陽鞠の手の甲へ唇を落とした。
廊下で。
しかも職員室へ向かう途中で。
陽鞠は目を見開く。
「朔夜!」
「確認」
「階段裏で散々したでしょ!」
「これは別」
「何が」
「約束の確認」
朔夜は顔を上げる。
黒い瞳は、少しだけ落ち着いていた。
「一緒にいる約束」
陽鞠は言葉に詰まった。
怒ろうと思ったのに、怒りにくくなった。卑怯だ。恋人の言葉は時々、退魔師の結界より厄介に逃げ道を塞いでくる。
陽鞠は顔を赤くしながら、小さく言った。
「……それなら、まあ」
「許可?」
「今回だけ」
「次も理由を作る」
「作らないで」
朔夜は低く笑う。
その声を聞きながら、陽鞠は職員室の扉へ向かった。
中では、かがりが待っているだろう。
報告すべきことは多い。
御影堂玻月の出現。
妖の異常な凶暴化。
黒い五芒星の残滓を玻月が回収したこと。
彼が陽鞠の金眼に興味を示したこと。
朔夜が警戒していること。
階段裏のことは、もちろん報告しない。
絶対にしない。
人類には墓まで持っていくべき情報がある。これがそれだ。たぶん。
職員室の扉の前で、陽鞠は一度だけ朔夜を見上げた。
「落ち着いた?」
朔夜は少し考えてから答えた。
「少し」
「少し?」
「まだ嫉妬してる」
「正直すぎる」
「あいつに会ったら、またする」
「階段裏?」
「場所は選ぶ」
「そこじゃなくて、嫉妬を抑えて」
「努力する」
陽鞠は呆れた。
けれど、手は離さなかった。
指輪同士が触れて、また小さく鳴る。
ちり。
銀髪の嫉妬は、まだ消えていない。
白手袋のS級が残した不穏も、黒い五芒星の冷たさも、校舎の明るさの中に薄く混じっている。
それでも、陽鞠は朔夜の隣にいた。
そして、朔夜も彼女の隣にいる。
それだけは、今のところ誰にも奪わせる気はなかった。




