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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第12話 放課後の一夜


 任務が終わった頃には、空は完全に夜へ沈んでいた。


 旧市街の外れにある封鎖区域で発生した妖は、単体ならそれほど強いものではなかった。少なくとも、陽鞠と朔夜の二人が正面から対処すれば、核を斬ること自体は難しくない相手だった。


 問題は、その後だった。


 妖が潜んでいたのは、取り壊し予定の古い印刷工場だった。床にはインクの染みが残り、錆びた機械が暗がりに並び、天井からはところどころ断熱材が垂れていた。そこへ妖の霊気が染み込んでいたせいで、建物そのものが薄く穢れていた。妖核を砕いた後も、壁の隙間や古い配管の奥から黒い霊気が滲み出し、結界を張って塞いでも別の場所から漏れる。


 結局、陽鞠は工場全体へ浄化結界を張ることになった。


 これが、地味にきつかった。


 派手な戦闘なら、まだ身体の熱で押し切れる。妖の爪を避け、朔夜の刀の射線を作り、核を狙う。痛くても、怖くても、次の動きがある限り前へ進める。


 だが、浄化結界は違う。


 広い建物の構造を読み、霊気の流れを追い、漏れを塞ぎ、一般人があとから入っても危険が残らないよう整える。薄い膜を何十枚も重ね、古い配線の隙間に細い結界糸を通し、床下に沈んだ穢れを少しずつ引き上げる。集中力をじわじわ削られる作業だった。


 人類、退魔師に戦闘だけでなく清掃業務まで押しつけるのをやめた方がいい。いや、必要なのはわかる。わかるが、わかることと腹立つことは両立する。


「陽鞠、そこまででいい」


 朔夜の声が、夜の工場跡に落ちた。


 陽鞠は床に膝をつき、右手を配管へ向けていた。指先から伸びた金色の結界糸が、壁の奥へ入り込んでいる。汗が首筋を伝い、金髪の毛先が頬に貼りついていた。制服のブレザーはすでに脱いで、近くの木箱の上に置いてある。白いシャツの袖口は汚れ、右手薬指の指輪は霊力を流しすぎて熱を持っていた。


「まだ奥に残ってる」


「明日の浄化班で取れる」


「ここ、残したら朝までに広がる」


「広がらないように俺が封じる」


「朔夜の結界、隙間が」


「歪むのは知ってる」


 朔夜は少し不機嫌そうに言った。


 それでも、彼は陽鞠の隣にしゃがみ込むと、自分の左手を床へ当てた。黒銀色の霊力がゆっくり広がる。厚く、強い結界。いつもなら形がやや歪むそれを、今日は陽鞠に教わった通り、三つの層へ分けている。


 中央で封じる層。


 外へ漏れる霊気を押さえる層。


 陽鞠の金色の結界糸を通すための細い逃げ道。


 まだ不格好だ。


 けれど、前よりずっといい。


 陽鞠は疲れているのに、少し笑ってしまった。


「上手くなってる」


「陽鞠が教えたから」


「すごいすごい」


「雑に褒めるな」


「ちゃんと褒めてる」


「ならあとでご褒美」


「任務中」


「あとでって言った」


 朔夜の声は真面目だった。


 真面目な顔で何を言っているのか。妖よりよほど面倒だ。


 陽鞠は息を吐き、結界糸をさらに奥へ伸ばした。配管の奥で黒い霊気が絡みつく。ぬめった感触が指先へ返る。嫌な感覚だった。まるで冷たい虫が皮膚の内側を這うような、不快な霊気。


 その瞬間、朔夜の結界が外側から支えた。


 黒銀の層が、陽鞠の金色の糸を守る。


 陽鞠は目を細める。


「そのまま」


「わかってる」


「少しだけ右、いや、上。そこ逃がして」


「こうか」


「そう」


 二人の霊力が、壁の奥で重なった。


 金と黒銀。


 細い糸と厚い壁。


 精密な結界と、力強い封じ。


 形は違うのに、呼吸は合っていた。


 やがて、配管の奥に残っていた黒い霊気が小さく震え、金色の膜に包まれて消えた。床の染みが薄くなり、工場跡の空気が少しだけ軽くなる。完全ではない。だが、朝まで広がることはない。


 陽鞠は糸を引き戻した。


 指先がじんじん痛む。


 肩の力が抜け、身体が前へ傾いた。


 朔夜がすぐに支える。


「陽鞠」


「終わった」


「お前が倒れたら終わってない」


「倒れてない」


「倒れる一歩前」


「一歩あるなら平気」


「禁止」


「……ちょっと疲れた」


「正直でよろしい」


「真似しないで」


 陽鞠は朔夜の腕に支えられながら立ち上がった。


 時計はもう夜十時を過ぎている。学園へ戻ってからさらに報告と簡易検査を受けるとなると、寮へ戻るには遅すぎる。そもそも二人の制服は霊気と埃で汚れていたし、陽鞠の指先も再処置が必要だった。


 同行していた協会職員が、端末を見ながら言った。


「今夜は学園の退魔師用宿泊棟を使ってください。澄庭先生からも許可が出ています。明日の朝、再検査と報告書提出です」


 陽鞠は少しだけ目を瞬いた。


「宿泊棟?」


「任務明けの退魔師用です。二名分、部屋を取ってあります」


「二名分」


 朔夜が低く呟いた。


 陽鞠は嫌な予感がして彼を見た。


「朔夜」


「何も言ってない」


「顔が言ってる」


「部屋が別だなと思っただけ」


「当然でしょ」


「当然か」


「当然です」


 陽鞠はきっぱり言った。


 その時は。


 その時は、確かにそう言った。


 退魔師用宿泊棟は、学園の敷地の北側にあった。


 任務明けの退魔師や、夜間警備に入る上級生、協会から派遣された職員が使う建物だ。外観は簡素で、灰色の壁に小さな窓が並んでいる。入口には強めの防護結界が張られ、内部に妖の霊気を持ち込まないよう浄化陣が敷かれていた。


 陽鞠と朔夜は入口で検査を受け、靴底と武器の外側についた霊気を落とした。


 背中の弓を外した瞬間、陽鞠はようやく肩が軽くなった気がした。腰の日本刀も専用の布で拭い、簡易封印をかけてから持ち込む。朔夜も刀を手入れし、刃についた黒い霊気を慎重に落としていた。


 宿泊棟の廊下は静かだった。


 寮とは違う。


 生徒の話し声も、誰かが笑う声もほとんどない。任務帰りの者が休む場所だからか、全体に空気が落ち着いている。壁際の灯りは暖色で、足音がやわらかく吸い込まれた。


 陽鞠は渡された部屋番号を見た。


「二〇三」


 朔夜が自分の札を見る。


「二〇四」


「隣だね」


「壁一枚」


「それ以上近づかない」


「まだ何も言ってない」


「言う前に止めた」


「陽鞠が疲れてるから、今日は我慢するつもりだった」


 陽鞠は少し驚いて朔夜を見上げた。


 朔夜は何でもない顔をしている。


 けれど、黒い瞳は少し柔らかかった。


 陽鞠はほんの少しだけ目を逸らす。


「……なら、えらい」


「ご褒美は?」


「やっぱりえらくない」


「まだ言っただけ」


「言うだけで減点」


「厳しい」


 そんなやりとりをして、それぞれの部屋へ入った。


 部屋は小さかった。


 ベッドが一つ、机が一つ、簡易シャワーと洗面台。壁には武器を立てかけるための固定具があり、窓には防護札が貼られている。任務明けに眠るための、最低限の部屋だった。飾り気はない。人類の休息施設は、もう少し休ませる気を見せた方がいい。


 陽鞠は荷物を置き、弓をベッド脇の固定具へかけた。


 日本刀はその下に置く。


 ベッド脇に並ぶ弓と刀。


 それだけで、この部屋がただの宿泊室ではないとわかる。眠る場所の隣に武器があることに違和感がない自分が、少しだけ変だと思った。でも、すぐに考えるのをやめた。今さらだ。


 シャワーを浴びると、霊気と埃はかなり落ちた。


 けれど、問題が一つあった。


 替えの服がない。


 任務が長引く予定ではなかったため、陽鞠は宿泊用の着替えを持っていなかった。宿泊棟の備品として簡易浴衣のようなものはあったが、サイズが妙に大きく、肩がずり落ちそうだった。しかも生地が薄い。落ち着かない。


 陽鞠は洗面台の前で、濡れた髪をタオルで拭きながら眉を寄せた。


 その時、部屋の端末が鳴った。


 朔夜からだった。


『着替え、あるか』


 短い文面。


 陽鞠は少し悩んでから返信する。


『ない。備品の浴衣はあるけど大きい』


 すぐに返事が来た。


『シャツ貸す』


 陽鞠は端末を見つめた。


 数秒。


 顔が熱くなる。


『いい』


『備品よりまし』


『朔夜のも大きいでしょ』


『俺の匂いするから安心』


 陽鞠は端末を握りしめた。


 なんて返せばいいのか。


 人間はなぜ文字だけで顔を赤くできるのか。不便すぎる。脳と顔の接続を一度見直してほしい。


『変なこと言わないで』


『本当のこと』


『いらない』


『廊下に置く』


『ちょっと』


 返事を打ち終える前に、ドアの外で小さな物音がした。


 陽鞠はしばらく固まったあと、そっとドアを開けた。


 廊下には誰もいない。


 ドアの前の小さな籠に、畳まれた白いシャツが置かれていた。清潔な洗濯済みのシャツ。朔夜が予備として持っていたものだろう。上には短いメモが載っている。


『寒かったら着ろ』


 陽鞠はそれを見て、唇を少し尖らせた。


「……ずるい」


 変なことを言うくせに、こういうところは優しい。


 陽鞠は籠を部屋へ入れ、しばらくシャツを見つめた。


 結局、着た。


 朔夜のシャツは、当然ながら大きすぎた。


 肩の位置がまったく合わない。袖は手の甲どころか指先まで隠れ、裾は太ももの半分近くまで落ちる。ボタンを留めると、布が身体の周りに余った。白いシャツに包まれているだけなのに、やけに落ち着かない。


 そして、悔しいことに少し安心した。


 朔夜の匂いがした。


 洗剤の匂いと、わずかな霊符の匂いと、彼自身の体温を思い出すような匂い。任務後の緊張でまだ固かった肩から、力が抜ける。


 陽鞠は鏡の前で、袖を持ち上げてみた。


 長い。


 完全に長い。


 自分の手が半分以上消えている。


「大きすぎ……」


 呟いた声は、誰にも聞かれないはずだった。


 しかし、壁の向こうから端末が鳴る。


『似合ってる?』


 陽鞠はぎょっとした。


『見てないでしょ』


『想像した』


『しないで』


『可愛い』


『まだ見てない』


『絶対可愛い』


 陽鞠はベッドに腰を下ろし、端末を枕へ投げた。


 顔が熱い。


 もう寝よう。


 そう思った。


 思っただけだった。


 眠れる気がしなかった。


 任務の疲れはある。身体は重い。指先も少し痛い。それなのに、頭だけが妙に冴えていた。工場跡の黒い霊気。壁の奥に絡んだ不快な感触。最近続く凶暴化妖。黒い五芒星。御影堂玻月の紫紺の瞳。


 そして、隣の部屋に朔夜がいるという事実。


 壁一枚。


 近い。


 近すぎる。


 陽鞠はベッドに座ったまま、耳元のピアスを外した。


 月と矢羽根の飾りが、手のひらで小さく揺れる。任務中も、デート中も、授業中も揺れていたお揃いのピアス。外すと、耳元が少し軽くなる。同じようにネックレス、ブレスレット、アンクレットも外し、机の上の小さなトレーへ並べた。


 最後に、右手薬指の指輪へ触れる。


 少し迷った。


 普段は外さない。


 けれど、治癒符を貼り直すために、今夜だけ外す必要があった。


 陽鞠はそっと指輪を抜いた。


 指から離れた瞬間、ほんの少し心細くなる。


 馬鹿みたいだ。


 ただの指輪ではない。朔夜とお揃いの指輪だ。任務中、何度も音を鳴らし、霊力に反応し、生きている確認のたびに触れ合ったもの。


 陽鞠はそれを、トレーの中央に置いた。


 銀の輪と金色の石。


 ピアスの隣に、静かに収まる。


 その時、ドアが控えめにノックされた。


 陽鞠は肩を跳ねさせた。


「誰」


 聞くまでもないが、一応聞いた。


「俺」


 朔夜の声。


 低く、近い。


 陽鞠は慌ててシャツの裾を押さえた。


「何?」


「指、手当てする」


「自分でできる」


「知ってる。でも俺がする」


「もう寝るところ」


「指輪、外しただろ」


 陽鞠は机のトレーを見た。


 なぜわかる。


 いや、壁一枚向こうで霊力の感覚が切れたのだろう。お揃いの指輪に薄く通っていた霊力の響きが止まった。それに気づいたに違いない。恋人の監視能力が高すぎる。もはや防犯システムである。


「……ちょっと待って」


 陽鞠は渋々ドアへ向かった。


 少しだけ開ける。


 隙間の向こうに、朔夜が立っていた。


 彼もシャワーを浴びた後らしく、銀髪が少し濡れている。いつもの制服ではなく、黒い薄手の部屋着を着ていた。襟元はゆるく開き、首筋にはまだ水滴が残っている。耳元のピアスは外されていて、いつもより少しだけ素の顔に見えた。


 陽鞠は思わず目を逸らした。


「……手当てだけ」


「うん」


「本当に?」


「努力する」


「信用できない返事」


 それでも、陽鞠はドアを開けた。


 朔夜が部屋へ入る。


 彼の視線が一瞬、陽鞠に落ちた。


 朔夜のシャツを着た陽鞠へ。


 長すぎる袖。


 細い脚。


 濡れて乾ききらない金髪。


 外されたピアスで少し軽くなった耳元。


 陽鞠はその視線を感じて、顔を赤くした。


「見ないで」


「無理」


「努力」


「無理」


「即答」


「可愛い」


「言うと思った」


「想像より可愛い」


「帰って」


「手当て」


 朔夜は何とか真面目な顔を作って、机の前に座るよう促した。


 陽鞠は警戒しながらも、椅子へ座った。


 机の上には、外したアクセサリーが並んでいる。月と矢羽根のピアス。ネックレス。ブレスレット。アンクレット。右手薬指から外した指輪。


 朔夜は自分の左手を見た。


 彼の指輪は、まだついている。


「外して」


 陽鞠が言った。


 朔夜は少し目を瞬く。


「俺も?」


「寝る時、治癒札貼り直すんでしょ。手、さっき結界で少し焼けてた」


「見てたのか」


「見るでしょ」


「嬉しい」


「喜ばない。外して」


 朔夜は素直に左手薬指の指輪を外した。


 そして、陽鞠の指輪の隣へ置いた。


 二つの指輪が、トレーの上に並ぶ。


 銀の輪。


 金色の石と、黒い石。


 普段はそれぞれの指にあるものが、今は同じ場所に並んでいる。外されたピアスと、ネックレスと、ブレスレットのそばで、二つの指輪だけが妙に静かに光っていた。


 陽鞠はそれを見つめた。


 胸の奥が、少しだけ不思議な感じになる。


 裸の指が、心細い。


 でも、隣に朔夜の指輪がある。


 朔夜もそれを見ていた。


「並んでる」


「うん」


「変な感じ」


「そう?」


「指にないと落ち着かない」


「私も」


 陽鞠は小さく言った。


 朔夜の表情が、少し柔らかくなる。


「明日の朝、すぐつける」


「うん」


「忘れるなよ」


「忘れないよ」


「俺がつける」


「自分でつけられる」


「俺がつけたい」


 陽鞠は顔を赤くした。


「……朝、寝坊しなかったらね」


「寝坊しない」


 この時の朔夜の声は、妙に自信があった。


 翌朝、その自信がどれほど役に立たなかったかは、今の二人はまだ知らない。人間は未来を知らないから堂々とできる。実に便利で、実に愚かだ。


 朔夜は救急箱から治癒符と清浄布を取り出した。


 陽鞠の右手を取る。


 指輪を外した薬指が、少し赤くなっていた。結界を何度も張ったせいで、指先の裂け目もまた開きかけている。朔夜は眉を寄せた。


「やっぱり痛そう」


「ちょっとだけ」


「ちょっとでこれか」


「今日は長かったから」


「明日は休め」


「報告と検査がある」


「それ以外」


「うん」


 朔夜の手つきは丁寧だった。


 清浄布で指先の血を拭い、古い治癒符を剥がし、新しい符を貼る。大きな手に包まれていると、自分の指がさらに小さく見えた。陽鞠は長すぎるシャツの袖が邪魔になり、左手で少しだけ捲る。


 朔夜の視線がそこへ落ちる。


「朔夜」


「何」


「手当て」


「してる」


「見すぎ」


「無理」


「だから見ないで」


「可愛いから無理」


「もう」


 陽鞠はそっぽを向いた。


 顔が熱い。


 窓の外には夜が広がっている。部屋の灯りは柔らかく、ベッド脇には弓と刀が静かに置かれている。机の上には外されたアクセサリーと、並んだ指輪。自分は朔夜の大きすぎるシャツを着ていて、彼はその指を手当てしている。


 任務明け。


 宿泊棟。


 壁一枚だったはずの距離。


 それが今は、手のひら一つ分もない。


 朔夜は治癒符を貼り終えると、陽鞠の指先へそっと息を吹きかけた。


「何してるの」


「痛いの飛ばしてる」


「子ども扱い?」


「恋人扱い」


「どんな分類」


「俺の」


「……もう」


 陽鞠は反論しようとして、やめた。


 朔夜の親指が、彼女の手の甲をゆっくり撫でる。指輪がない分、触れ方が直接的に感じられた。いつも指輪越しに聞こえる、ちり、という音がない。その静けさが、かえって落ち着かない。


 陽鞠は机の上の指輪を見た。


「音がしないね」


 ぽつりと言う。


 朔夜も指輪を見る。


「ああ」


「いつも鳴るのに」


「ないと変だな」


「うん」


 沈黙が落ちる。


 嫌な沈黙ではない。


 けれど、少し濃い。


 朔夜の指が陽鞠の手から離れず、陽鞠も引かなかった。外されたピアスが机の上で小さく光る。ベッド脇の弓と刀は、いつでも手を伸ばせる場所にある。戦うためのものがそばにあるのに、今この部屋はひどく静かだった。


 朔夜が、低く呼ぶ。


「陽鞠」


「何」


「眠れる?」


「……わからない」


 正直に答えた。


 疲れている。


 でも、眠れるかは別だった。


 工場跡の黒い霊気。黒い五芒星。御影堂玻月の白手袋。任務が長引いた夜の冷たさ。全部が、身体の奥に薄く残っている。


 朔夜は立ち上がらなかった。


「そばにいる」


「部屋、隣でしょ」


「壁越しでもいいなら」


「……ここにいる気でしょ」


「嫌なら戻る」


 陽鞠は少し黙った。


 朔夜は、本当に戻る。


 陽鞠が嫌だと言えば、すぐに。そういう男だと知っている。だから、選ぶのは陽鞠だった。


 彼女は長すぎる袖を握った。


「……少しだけ」


 小さく言う。


「眠くなるまで」


「うん」


「変なことしない」


「キスは?」


「それを聞く時点で変」


「じゃあ、しない?」


 陽鞠は朔夜を見た。


 濡れた銀髪。


 外したピアスで、いつもより静かな耳元。


 黒い瞳。


 昼間、玻月を睨んでいた時とは違う、柔らかい目。


 陽鞠は目を逸らした。


「……少しなら」


 朔夜の表情が変わる。


「少し」


 陽鞠は念を押した。


「長くしない」


「努力する」


「それ一番信用できない」


「今日は努力する」


「本当に?」


「陽鞠が疲れてるから」


 そう言われると、怒りにくい。


 ずるい。


 朔夜は陽鞠の椅子の前に片膝をつき、彼女の顔を見上げる形になった。普段は陽鞠が見上げることばかりなのに、今は少しだけ逆だ。そのことに、陽鞠の心臓がまた変な音を立てる。


 朔夜の手が、彼女の頬へ触れた。


 いつもより少し冷たい指先。


 それでも、触れられた場所から熱が広がる。


 陽鞠は目を閉じた。


 唇が重なる。


 最初は、本当に短かった。


 任務前の確認よりも、任務後の深いものよりも、ずっと静かだった。疲れた身体を起こさないように、夜を壊さないように触れるキス。陽鞠の息が小さく揺れる。喉の奥で、かすかな声が鳴りそうになって、彼女は袖の中で指を握った。


 朔夜が一度離れる。


 近い距離で囁いた。


「眠れそう?」


「……逆に目が覚めた」


「ごめん」


「嘘。ちょっと嬉しそう」


「ばれた」


「最低」


「もう一回?」


「反省してない」


「してる」


「顔がしてない」


 陽鞠は小さく笑った。


 朔夜も少し笑う。


 その笑みが近くて、陽鞠は自分から少しだけ身を屈めた。


 今度は、自分から触れた。


 朔夜の呼吸が一瞬止まる。


 それがわかって、陽鞠は少しだけ満足した。いつも自分ばかり揺らされているのは不公平だ。恋人関係にも報復権くらい必要である。たぶん違う。違うが、今はそういうことにしておきたい。


 朔夜の手が、陽鞠の腰へ回った。


 椅子から抱き上げるような力ではない。


 ただ支える手。


 陽鞠は抵抗しなかった。長すぎる袖が揺れ、外したピアスのない耳元に朔夜の髪が触れる。彼のシャツの布が、身体の動きに合わせて少しずれる。陽鞠は慌てて裾を押さえようとしたが、朔夜はそれ以上近づかなかった。


 代わりに、額を彼女の額へ触れさせる。


「陽鞠」


「何」


「泊まってるの、ずるい」


「何が」


「帰らなくていいと思うと、離れたくなくなる」


「……部屋は別」


「知ってる」


「戻る?」


「戻りたくない」


 正直すぎた。


 陽鞠の胸が詰まる。


「でも、戻る?」


 朔夜が聞いた。


 選ばせる声だった。


 陽鞠は答えられず、机の上の指輪を見た。


 並んだ二つの指輪。


 外されたピアス。


 ベッド脇の弓と刀。


 この部屋にあるものすべてが、戦いと日常と恋人の境目を曖昧にしていた。


「……少しだけ、ベッドに座る?」


 陽鞠は自分で言って、顔を赤くした。


「寝るわけじゃなくて」


「うん」


「話すだけ」


「うん」


「キスも、少しだけ」


「うん」


「その返事、絶対わかってない」


「わかってる」


 朔夜は立ち上がり、陽鞠の手を取った。


 指輪のない手。


 少し心細いけれど、温かい。


 二人はベッドの端に並んで座った。ベッド脇には、陽鞠の弓と日本刀、そして朔夜が部屋から持ってきた刀が立てかけられている。三つの武器が、眠る場所のすぐそばに静かに並んでいた。


 不穏なはずなのに、安心する。


 戦う準備があるからではない。


 二人でいるからだ。


 陽鞠は膝の上で長い袖をいじった。


「シャツ、大きい」


「可愛い」


「感想がそればっかり」


「ほかに?」


「大きすぎるとか、袖が邪魔そうとか」


「袖に隠れてる手が可愛い」


「結局それ」


「陽鞠が俺のシャツ着てる」


「……貸したの朔夜でしょ」


「貸した。想像した。実物が勝った」


「勝ち負けじゃない」


 陽鞠は顔を伏せる。


 朔夜がその横顔を見て、少しだけ声を落とした。


「嫌じゃない?」


「……嫌じゃない」


「ならよかった」


 朔夜はゆっくり手を伸ばし、陽鞠の髪に触れた。


 濡れて乾きかけの金髪を指で梳く。陽鞠は少しだけ目を閉じた。疲れが、ようやく身体に沈んできている。朔夜の指の動きが優しくて、眠気と別の熱が同時に胸に広がった。


「今日、怖かった?」


 朔夜が聞いた。


「妖?」


「任務全部」


「……怖いというか、気持ち悪かった。壁の中に霊気が残ってる感じ。黒い五芒星とは違ったけど、何か繋がってる気がして」


「うん」


「朔夜は?」


「陽鞠が無理してたのが嫌だった」


「任務だから」


「任務でも嫌だ」


「またそれ」


「何度でも言う」


 陽鞠は少しだけ笑った。


「私も、朔夜が無理するの嫌」


「知ってる」


「なら減らして」


「努力する」


「約束」


「約束する」


 朔夜は陽鞠の手を握った。


 指輪はない。


 だから、ちり、という音はしない。


 代わりに、指同士が直接触れる。指輪がない分、肌の温度がはっきりわかる。陽鞠はそれが少し恥ずかしくて、少しだけ指を曲げた。


「音、しないね」


 また言ってしまう。


 朔夜は彼女の手を持ち上げ、薬指の付け根へそっと唇を落とした。


 指輪があるはずの場所。


 陽鞠の息が止まる。


「朔夜」


「ここにある」


「今は外してる」


「でも、俺のだろ」


 陽鞠の顔が一気に赤くなった。


「……言い方」


「嫌?」


「嫌じゃないけど」


「じゃあ、何」


「心臓に悪い」


「生きてる確認になる」


「便利に使いすぎ」


 朔夜は少し笑い、もう一度薬指に触れた。


 陽鞠はそれ以上文句を言えなくなった。


 唇が重なる。


 今度は少し長かった。


 陽鞠の身体が、朔夜の方へ傾く。朔夜の腕が腰を支え、長すぎるシャツの裾がベッドの上でふわりと揺れた。耳元にはピアスがない。首元にもネックレスがない。いつも身につけているものを外しているせいか、触れられるたびにいつもより敏感に感じる。


 朔夜は乱暴にしなかった。


 けれど、甘さは濃かった。


 唇が離れても、すぐにまた触れる。頬、額、指先。陽鞠の喉から小さな声が漏れそうになるたび、彼は一度止まって彼女の顔を見る。嫌ではないか。疲れていないか。眠いか。口にはしないが、黒い瞳が聞いている。


 陽鞠は答える代わりに、朔夜の部屋着の襟を掴んだ。


 それだけで、朔夜には伝わったらしい。


 彼は陽鞠をそっと抱き寄せた。


 ベッド脇に置かれた弓と刀が、灯りの中で静かに影を落としている。机の上のトレーには、外されたピアスと、並んだ指輪。窓の外には夜。宿泊棟の廊下は静かで、遠くで誰かの足音が一度響いたきり、何も聞こえなくなった。


「陽鞠」


 朔夜が低く呼ぶ。


「何」


「眠くなったら言え」


「うん」


「嫌なことも」


「うん」


「止めるから」


「……わかってる」


 陽鞠は目を伏せた。


 その優しさが、胸の奥を熱くする。


 彼の嫉妬も、独占欲も、甘さも重い。けれど、最後のところで絶対に陽鞠の意思を奪わない。そのことを知っているから、彼女はここにいる。


 陽鞠は小さく息を吸った。


「朔夜」


「何」


「今日は、少しだけ……そばにいて」


 声は小さかった。


 けれど、部屋の静けさの中では十分だった。


 朔夜の黒い瞳が、深く揺れる。


「少しだけじゃ足りない」


「……明日、叱られる」


「叱られるのは慣れてる」


「慣れないで」


「努力する」


「嘘」


「うん」


 陽鞠は笑った。


 それから、自分から朔夜の唇に触れた。


 その先の言葉は、もう必要なかった。


 部屋の灯りが、少しずつ落とされる。


 ベッド脇の弓と刀が、暗がりの中で静かに並ぶ。机の上では、外されたピアスが微かな光を返し、二つの指輪が寄り添うように置かれていた。音はしない。ちり、と鳴ることもない。


 けれど、二人の間には、確かに同じ響きが残っていた。


 夜は深く、静かだった。


 任務の匂いも、黒い霊気の感触も、少しずつ遠のいていく。


 残ったのは、借りたシャツの大きすぎる袖と、触れ合う体温と、眠りに沈む前に交わされた短い約束だけだった。


 翌朝。


 陽鞠は、誰かがドアを叩く音で目を覚ました。


 最初、それが現実の音だとわからなかった。


 意識は重く、身体は温かい。宿泊棟のベッドは決して広くないはずなのに、なぜか妙に安心する。頬に触れている布は、自分のものではない。大きすぎる白いシャツ。袖は相変わらず手の甲を隠していて、ボタンは少しだけずれていた。


 隣で、朔夜が寝ていた。


 銀髪が枕に散っている。


 普段の近寄りがたい雰囲気はかなり薄れ、寝顔だけは妙に年相応だった。長い睫毛が影を落とし、呼吸は静かだ。片腕が陽鞠の腰のあたりに回っている。抱き潰すような力ではない。ただ、眠っている間もそこにいることを確かめるような触れ方。


 陽鞠は数秒、それを見つめた。


 それから、完全に目が覚めた。


「……え」


 昨日、眠くなったら言えと言われた。


 言った。


 そばにいてとも言った。


 その後、朔夜が戻った記憶がない。


 灯りを落として、話して、キスをして、眠くなって。


 そこから先は、輪郭だけが残っている。


 温かかった。


 優しかった。


 濃くて、静かで、少し恥ずかしい。


 でも、嫌な記憶はひとつもない。


 陽鞠は顔を真っ赤にした。


 その瞬間、ドアがもう一度叩かれた。


「篠宮。綴喜。起きているな」


 かがりの声だった。


 陽鞠の血の気が引いた。


 いや、顔は赤いままだったので、血の気が引いたのか上ったのかもうわからない。人類の循環器系、忙しすぎる。


「朔夜!」


 陽鞠は小声で叫び、隣の朔夜を揺さぶった。


「起きて!」


 朔夜は薄く目を開けた。


 黒い瞳が、寝起きで少しぼんやりしている。


「……陽鞠」


「おはようじゃない!」


「おはよう」


「違う! 先生!」


 朔夜の目が、そこでようやく少し覚めた。


 ドアの向こうで、かがりの声がまた響く。


「返事をしろ。再検査の時間を二十分過ぎている」


 二十分。


 寝坊。


 陽鞠は頭を抱えた。


「寝坊した……!」


「したな」


「したなじゃない!」


「よく寝てた」


「朔夜も寝てた!」


「陽鞠が寝たから」


「私のせいにしないで!」


 陽鞠は慌てて起き上がろうとした。


 しかし、朔夜のシャツの袖が手に絡まり、布団に引っかかる。さらに机の上には外したアクセサリーと指輪。自分の服は椅子の背にかかっている。状況があまりに状況だった。


 朔夜はのんびり起き上がる。


 陽鞠は彼を睨んだ。


「早く戻って!」


「今さら?」


「今さらでも!」


「先生にはばれてると思う」


「言わないで!」


 ドアの向こうで、かがりが深いため息をついた。


 聞こえた。


 とても聞こえた。


「二人とも、五分で身支度を整えろ。廊下で待っている」


 声が冷たい。


 完全に怒っている。


 陽鞠は小さく呻いた。


「終わった……」


「終わってない」


「反省文?」


「たぶん」


「朔夜のせい」


「俺?」


「戻らなかった」


「陽鞠がそばにいてって言った」


「それを今言うな!」


 陽鞠は枕を掴んで投げようとして、やめた。


 時間がない。


 慌ててベッドを降り、机の上の指輪を取る。自分の右手薬指に戻そうとしたが、手が少し震えてうまく入らない。焦りと恥ずかしさと寝起きのせいだ。


 朔夜が横から手を伸ばした。


「貸して」


「自分で」


「昨日言った。俺がつける」


 陽鞠は一瞬だけ黙る。


 この状況で。


 かがりが廊下で待っているこの状況で。


 それでも、朔夜の声は妙に静かだった。


 陽鞠は小さく指輪を渡した。


 朔夜は彼女の右手を取り、薬指へそっと指輪を戻した。


 銀の輪が、いつもの場所に収まる。


 金色の石が朝の光を拾った。


 ちり、とは鳴らない。


 でも、戻ってきた感覚があった。


 陽鞠は少しだけ息を吐く。


 次に、朔夜は自分の左手薬指へ指輪を戻した。二人の指輪が近づき、今度こそ小さく触れる。


 ちり。


 朝の部屋に、澄んだ音が響いた。


 陽鞠はその音に、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。


 朔夜が笑う。


「おはよう」


「……おはよう」


「寝坊したな」


「そこは言わないで」


 二人は大急ぎで身支度をした。


 外したピアスをつけ、ネックレスとブレスレットを戻し、陽鞠は自分の服へ着替えた。朔夜のシャツは丁寧に畳んで返そうとしたが、朔夜はそれを受け取らず、なぜか少し満足そうな顔をした。


「洗って返す」


 陽鞠が言う。


「そのままでいい」


「よくない」


「また貸す」


「予定を立てないで」


「次は寝坊しない」


「説得力ゼロ」


 五分後。


 二人は廊下に出た。


 かがりが立っていた。


 腕を組み、眉間に深い皺を刻み、完全に教師の顔をしている。廊下の暖色の灯りがあっても、怒りの温度は下がらないらしい。教育現場とは灼熱である。


「篠宮」


「はい」


「綴喜」


「はい」


「再検査の時間を二十分過ぎた」


「すみません」


「すみません」


 二人は同時に頭を下げた。


 かがりの視線が、二人の指輪、少し乱れた髪、陽鞠の赤い顔、朔夜の妙に落ち着いた表情を順に見た。


 長い沈黙。


 陽鞠は床を見つめた。


 朔夜は堂々としていた。


 その堂々さを分けてほしいような、やっぱりいらないような。人類、恥じらいを失うと強いが、何か大事なものも失う気がする。


 かがりは深く息を吸った。


「任務明けで疲れていたことは考慮する」


「はい」


「長時間の浄化作業で消耗していたことも理解している」


「はい」


「だが」


 陽鞠と朔夜の背筋が伸びる。


「宿泊棟で寝坊するな」


「はい……」


「しかも二人同時にだ」


「はい……」


「部屋は別に取ったはずだが?」


 陽鞠の顔が一気に赤くなる。


 朔夜は何か言おうとした。


 陽鞠が即座に彼の袖を掴んだ。


 言うな。


 絶対に言うな。


 目でそう訴える。


 朔夜は少しだけ残念そうに口を閉じた。何を言うつもりだったのか。聞かなくてよかった。命拾いである。主に陽鞠の社会的な命が。


 かがりは再びため息をついた。


「事情は聞かない」


「ありがとうございます……」


「だが、再検査後に反省文だ」


「やっぱり……」


「篠宮は二枚。綴喜は三枚」


「俺の方が多い」


「当然だ」


「理由は?」


「聞きたいのか?」


「いえ」


 朔夜はすぐ黙った。


 学習している。


 遅いが、している。


 かがりは二人を連れて検査室へ向かいながら言った。


「それと、任務明けに心身を落ち着かせること自体は悪くない。お前たちは特に、互いの存在が安定剤になっている面がある」


 陽鞠は少しだけ顔を上げた。


 かがりの声は、叱っている時より少し柔らかい。


「だが、休むなら休め。寝坊して検査を飛ばすな。消耗を見逃せば、次の任務で死ぬ」


 その言葉に、陽鞠は表情を改めた。


「はい」


 朔夜も頷く。


「すみませんでした」


「わかればいい。わかっているなら、次から守れ」


「はい」


 かがりはそこで、ちらりと陽鞠を見た。


「篠宮、指は?」


「少し痛いです。でも、昨日よりは」


「検査で見る。綴喜」


「はい」


「お前も手を出せ。結界の焼けがある」


「はい」


「隠したら反省文を増やす」


「出します」


 陽鞠は少しだけ笑いそうになった。


 朔夜が横目で見る。


「笑ったな」


「笑ってない」


「口元」


「筋肉の誤作動」


「またそれ」


 かがりの声が前から飛んだ。


「廊下でいちゃつくな」


「いちゃついてません!」


「会話の距離が近い」


「昨日よりは遠いです」


 朔夜が言った。


 陽鞠は即座に彼の足を軽く踏んだ。


「余計なこと言わない!」


 かがりの足が止まりかけた。


 だが、彼女は何も聞かなかったことにしたらしい。その背中から、教師としての諦めと、担任としての胃痛がにじんでいた。


 朝の宿泊棟の廊下に、二人の足音が並ぶ。


 陽鞠の右手薬指には、指輪が戻っている。


 朔夜の左手にも。


 歩くたび、二つの指輪が時々触れて、小さく鳴る。


 ちり。


 ちり。


 昨夜、机の上に並んでいた時には鳴らなかった音。


 それが戻ってきたことに、陽鞠は少しだけ安心していた。


 任務は続く。


 黒い五芒星の不穏も、御影堂玻月の嫌な視線も、消えたわけではない。むしろ、これからもっと濃くなるのだろう。戦いも、解析も、報告も、反省文も、全部待っている。


 それでも、昨夜の静けさは確かにあった。


 外されたピアス。


 並んだ指輪。


 ベッド脇の刀と弓。


 大きすぎる白いシャツ。


 暗がりの中で交わした約束。


 陽鞠は隣を歩く朔夜を見上げた。


 朔夜も彼女を見ていた。


「何」


 陽鞠が小声で聞く。


「眠そう」


「朔夜もね」


「もう一回寝たい」


「反省文が終わったら」


「膝枕?」


「調子に乗らない」


「じゃあ手の甲」


「それも乗ってる」


「考える?」


 陽鞠は少しだけ唇を尖らせた。


 それから、小さく笑う。


「……検査と反省文が終わったら、考える」


 朔夜の口元が緩む。


「許可だな」


「考えるって言った」


 いつものやりとり。


 昨夜を越えて、朝に戻ってきた声。


 かがりの背中が、また深いため息をついた。


 陽鞠は慌てて口を閉じたが、朔夜の手は離さなかった。


 指輪が、もう一度鳴る。


 ちり。


 それは、眠れなかった夜と、寝坊した朝と、これからまた戦場へ向かう二人を繋ぐ、ささやかな音だった。


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