第13話 神の子と呼ぶな
山裾の古い神社は、昼間でも薄暗かった。
石段の両脇には杉の木が並び、枝葉が空を覆っている。木漏れ日は細く、地面へ落ちる前に湿った空気の中でほどけてしまう。参道の石畳は苔でところどころ緑に染まり、踏むたびに靴底へしっとりした感触が返った。鳥居の朱は色褪せ、しめ縄には新しい紙垂と古い紙垂が混じっている。風が吹くと、白い紙がかすかに揺れた。
鈴の音がした。
拝殿の前に吊るされた鈴ではない。
境内の奥、誰もいないはずの社務所の裏から、ちりん、と細く響いた。澄んだ音なのに、妙に耳障りだった。鳴った瞬間だけ、首筋の産毛が逆立つ。
陽鞠は石段の途中で足を止めた。
背中の弓が、わずかに熱を持つ。腰の日本刀も、鞘の中で静かに霊力を帯びた。右手薬指の指輪が、昼の薄い光を受けて淡く光る。
「いる」
短く言った。
隣で朔夜が黒い瞳を細める。
「奥か」
「社務所の裏。あと、本殿の下にも薄く広がってる」
「二体?」
「一体が広がってる感じ。土地に絡んでる」
「面倒なやつだな」
「神社系はだいたい面倒」
陽鞠はそう言いながら、参道を見上げた。
任務内容は、山裾の古社で起きた異変の調査と祓いだった。
ここ数日、無人の境内で鈴が鳴る。賽銭箱の前に泥の足跡が残る。夜になると、本殿の床下から子どもの声がする。参拝者が急に息苦しさを訴え、石段で転びかける。神職は常駐しておらず、地元の氏子が管理している神社だった。
協会の初期判定では、土地に残った古い信仰の歪みから生まれた下級妖。
だが、最近の流れを考えれば、そのまま受け取るわけにはいかなかった。
黒い五芒星。
凶暴化。
自然発生した妖への外部術式。
御影堂玻月の、笑っていない紫紺の瞳。
陽鞠は小さく息を吐いた。
考えることが多すぎる。
でも、目の前の任務を疎かにする理由にはならない。
「陽鞠」
朔夜が呼ぶ。
「何」
「顔、固い」
「任務中だから」
「それだけか?」
相変わらず、こういうところだけ鋭い。
陽鞠は少しだけ眉を寄せた。
「神社って、ちょっと苦手」
「知ってる」
「言ったっけ」
「前にも似た顔してた」
「見すぎ」
「見るだろ」
「見なくていいところもあるでしょ」
「ない」
即答だった。
陽鞠は呆れたように彼を見上げた。
朔夜は真顔だった。本当に、ないと思っている顔だ。世界のすべてが陽鞠観察対象に分類されているのかもしれない。恋人とは時に、監視カメラより厄介である。
それでも、少しだけ肩の力が抜けた。
石段を上がりきると、境内に数人の退魔師がいた。
その中心に、年配の男が立っている。
灰色の髪を後ろで短く結び、紺の作務衣に退魔師用の羽織を重ねていた。腰には古い短刀。首には数珠。顔には深い皺が刻まれているが、目はまだ鋭い。長く寺社系の現場を見てきた退魔師なのだろう。周囲の若い退魔師たちも、その男の指示を待つようにしていた。
男は陽鞠と朔夜を見ると、少しだけ目を細めた。
「来たか。篠宮陽鞠、綴喜朔夜」
「はい」
陽鞠は軽く頭を下げる。
朔夜も無言で頷いた。
「話は聞いている。学園のS級特待生。若いのに、大したものだ」
年配の退魔師はそう言って、陽鞠を見た。
視線が、金色の瞳で止まる。
陽鞠はその瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
嫌な予感がする。
人が自分の目を見る時の反応には、慣れている。綺麗だと言う者。珍しいと言う者。怖いと言う者。神秘的だと言う者。どれも聞いたことがある。慣れているはずだった。
だが、慣れていることと平気なことは違う。
男は感心したように呟いた。
「金の瞳か。なるほど……まるで神の子のようだな」
空気が止まった。
ほんの一言だった。
悪意はなかったのかもしれない。
褒め言葉のつもりだったのかもしれない。
寺社系の現場で、強い霊力を持ち、金の瞳をした少女を見て、そう口にしただけなのかもしれない。
けれど、その言葉が陽鞠の中へ落ちた瞬間、何かが凍った。
神の子。
その音が、耳の奥で冷たく反響する。
陽鞠の表情が消えた。
金色の瞳から、熱が抜ける。
唇の端にあったわずかな緊張も、怒りも、全部がすっと沈み、代わりに硬い無表情が浮かんだ。背筋が伸びる。指先が冷たくなる。右手薬指の指輪が、いつもより遠いもののように感じた。
「……呼ばないでください」
陽鞠の声は静かだった。
静かすぎる声だった。
年配の退魔師は一瞬、聞き取れなかったように眉を上げる。
「何?」
「神の子って、呼ばないでください」
今度は、はっきり言った。
周囲の退魔師たちが気まずそうに視線を泳がせる。
男は少し驚いた顔をしたあと、苦笑のように口元を動かした。
「いや、褒めたつもりだったのだが。お前ほどの霊力なら、そう言われるのも誇りだろう」
陽鞠の指が、わずかに震えた。
だが、表情は動かない。
冷えた金色の瞳だけが、男を見ている。
「誇りじゃありません」
短く言う。
その声に、朔夜が動いた。
彼は陽鞠の半歩前へ出た。
大きな身体が、年配の退魔師と陽鞠の間に入る。完全に隠すわけではない。だが、その視線を遮るには十分だった。銀髪が風に揺れ、黒い瞳が低く冷える。
「こいつは陽鞠だ」
朔夜の声は、静かだった。
怒鳴ってはいない。
けれど、境内の空気が一段重くなる。
「神の子じゃない。篠宮陽鞠だ」
年配の退魔師の顔色が、少し変わった。
周囲の若い退魔師たちも息を呑む。
朔夜は続けた。
「強い霊力を持ってる。結界が上手い。金の目をしてる。だから何だ。勝手に名前を変えるな」
「綴喜」
男の声が少し硬くなる。
「年長者に向かって、その口の利き方は」
「名前を奪うような呼び方をする相手に、丁寧にする理由がない」
「私は奪ったつもりなど」
「つもりがなくても、こいつが嫌がった」
朔夜は一歩も引かない。
「一度でやめろ」
陽鞠は朔夜の背中を見上げた。
広い背中。
銀髪。
崩れた制服の襟。
左手薬指の指輪。
彼はいつも、こうやって間に入る。
陽鞠が本当に嫌がった時だけ、迷わず。
敵の前でも、大人の退魔師の前でも、S級の前でも、誰の前でも。
そのことに胸が温かくなるのに、同時に、喉の奥が詰まる。
守られたいだけではない。
自分で言えるようになりたい。
もう神の子にはならない。
そう言えるはずなのに、いざ言葉を向けられると、身体の奥が冷えて動かなくなる。
悔しい。
年配の退魔師はしばらく朔夜を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……失言だったようだな」
陽鞠は少しだけ目を伏せた。
「そうですね」
言葉は短い。
男は眉を寄せる。
「悪かった。篠宮」
「はい」
謝罪は受け取った。
だが、気持ちがすぐに戻るわけではない。
人間は謝れば傷が消えると思いがちだ。便利な誤解である。残念ながら、傷はそんなに素直ではない。
朔夜はまだ陽鞠の前に立っている。
陽鞠は彼の袖を軽く引いた。
「朔夜」
「何」
「任務」
朔夜はようやく彼女を見た。
黒い瞳には、まだ怒りが残っている。
「無理するな」
「してない」
「顔が冷えてる」
「任務中だから」
「嘘」
即答だった。
陽鞠は少しだけ困ったように笑う。
「……今は、動ける」
それは強がりだった。
朔夜にもわかっていた。
でも、陽鞠が自分で立とうとしていることも、彼にはわかったのだろう。彼は何か言いたげにしながらも、結局一歩だけ横へ退いた。
完全には離れない。
すぐ隣にいる。
それが、今の陽鞠にはありがたかった。
年配の退魔師が咳払いをした。
「妖の気配は本殿下と社務所裏だ。神域の穢れを避けるため、こちらは拝殿周囲の封鎖をしている。篠宮、お前の結界で一般人が入らないよう参道を塞げるか」
「できます」
陽鞠は答えた。
声は少しだけ平坦だった。
朔夜が横で眉を寄せる。
「俺は」
「綴喜は本殿下を」
「朔夜は私と一緒です」
陽鞠は即座に言った。
年配の退魔師が目を瞬く。
「分断した方が早い」
「今の妖は自然発生に外部術式が絡んでいる可能性があります。核の確認と、凶暴化の有無を見る必要がある。朔夜が前、私が結界。いつもの連携で行きます」
「しかし」
「効率より安全を取ります」
陽鞠の金色の瞳が、冷えたまま男を見る。
「それとも、私の判断では不満ですか」
男は一瞬黙った。
その視線が朔夜へ向く。
朔夜は何も言わなかった。ただ、陽鞠の隣に立っている。その立ち位置だけで答えになっていた。
「……わかった。二人で本殿下へ行け。こちらは周辺を封鎖する」
「ありがとうございます」
陽鞠は軽く頭を下げた。
拝殿へ向かう途中、朔夜が低く言った。
「大丈夫か」
「うん」
「嘘」
「今は、大丈夫にする」
朔夜はそれ以上言わなかった。
代わりに、陽鞠の右手に自分の左手を重ねた。
ほんの一瞬だけ。
指輪同士が触れる。
ちり、と小さな音が鳴った。
それだけで、陽鞠の呼吸が少しだけ戻る。
本殿の下は、暗かった。
古い木組みの隙間から冷たい空気が流れてくる。床下へ続く点検用の低い扉を開けると、湿った土の匂いと、古い木の腐りかけた匂いが混じって押し寄せた。その奥で、また鈴が鳴る。
ちりん。
陽鞠は膝をついて床下を覗き込んだ。
暗がりの奥に、白いものが揺れている。
紙垂。
いや、紙垂に似た何か。
細長い白い布のようなものが、闇の中で揺れていた。そこに、子どもの手のようなものがいくつも絡みついている。小さな指。泥に汚れた爪。足元には、古い鈴がいくつも転がっていた。
妖は、本殿の下に溜まった古い願いと、放置された祭具の霊気から生まれたもののようだった。
声がする。
「ならして」
「ならして」
「きいて」
子どものような声。
けれど、声の奥が濁っている。
陽鞠は弓を外した。
「下級……でも、広がってる」
「黒い印は?」
「まだ見えない」
「入るか」
「うん」
床下は狭い。
朔夜の身長ではかなり動きにくい。だが、彼は文句も言わず身を低くし、刀を抜いた。長い身体を折るようにして、陽鞠の前へ入る。その背中が、木組みの影の中に沈む。
陽鞠は結界を張った。
まず、本殿の柱を守る薄い膜。次に、外へ霊気を漏らさない封鎖結界。さらに、朔夜の足元にだけ、土の上を滑らず動ける足場を作る。狭い場所では、ほんの少しの足場のずれが命取りになる。
妖が揺れた。
白い紙垂のような身体が、床下の闇から伸びる。先端についた小さな手が、朔夜の顔へ向かって伸びた。爪は短い。けれど、触れた場所から霊力を吸う種類だ。
「朔夜、触れないで」
「わかってる」
朔夜は刀を横に寝かせ、紙垂の束を切り払う。
刃が通った場所から、白い布が黒く焦げるように散った。だが、すぐに別の手が伸びる。床下のあちこちに古い鈴があり、その中から妖の手が次々に出てくる。
陽鞠は眉を寄せた。
「本体が鈴に分散してる」
「全部斬るか」
「それだと本殿に響く」
「面倒だな」
「神社系は面倒って言ったでしょ」
「聞いた」
陽鞠は矢を番えた。
狭い床下で矢を射るには、普通なら角度がない。だが、彼女の射線結界なら曲げられる。金色の薄膜を三枚、柱の間に置く。矢はその膜に触れるたび軌道を変え、奥の鈴へ向かう。
「核は?」
朔夜が聞く。
「中央じゃない。右奥の一番古い鈴。黒く錆びてるやつ」
「見えない」
「私が光を入れる」
陽鞠の指先から細い結界光が伸びた。
床下の闇に、金色の線が走る。
右奥に、黒く錆びた鈴があった。
その鈴の内側で、赤黒いものが脈打っている。
黒い五芒星は、まだ見えない。
だが、嫌な気配はある。
陽鞠は矢を放った。
矢は一枚目の結界を蹴り、左へ曲がる。二枚目で低く沈み、三枚目で右奥へ跳ねる。狭い柱の隙間を抜け、黒い鈴の真横をかすめた。
直撃ではない。
陽鞠は、鈴を鳴らした。
矢の霊力が鈴の縁を弾く。
ちりん、と音が鳴った。
その瞬間、床下に広がっていた妖の手が一斉に震えた。
「きいた」
「きいた」
「きいた」
声が重なる。
朔夜が踏み込む。
陽鞠の結界足場が、土の上に一瞬だけ光る。朔夜はそこを蹴り、低い姿勢のまま右奥へ滑り込んだ。刀が短く振られる。長い刃を大きく振れない場所で、彼は手首だけで角度を作った。
刃が黒い鈴を割る。
中から赤黒い核が露出した。
その奥に、黒い五芒星が浮かびかける。
陽鞠の瞳が鋭くなる。
「朔夜、印あり!」
「了解」
だが、妖も反応した。
白い紙垂の束が、朔夜の腕へ絡みつこうとする。小さな手が無数に伸び、刀を持つ手首を狙う。陽鞠は即座に結界を張る。朔夜の腕の周囲に薄い金色の膜を巻き、触れようとした手を弾く。
しかし、一本だけが膜をすり抜けた。
陽鞠の背筋が冷える。
朔夜は避けない。
避ければ核を見失う。
だから、陽鞠が先に動いた。
結界を針のように細く伸ばし、その手だけを床下の木組みに縫い止める。反動が指先に返る。治癒符の下が熱を持った。痛い。だが止めた。
「朔夜!」
朔夜の刀が、核へ入る。
硬い抵抗。
黒い五芒星が一瞬だけ強く光った。
その光に、陽鞠の金色の瞳が反応する。
熱い。
目の奥が、熱い。
神の子。
さっき聞いた言葉が、頭の奥で鈴の音のように鳴る。
神の子のようだ。
違う。
違う。
陽鞠は奥歯を噛んだ。
「私は……」
小さく呟く。
弓を握る手に力が入る。
「私は、篠宮陽鞠だ」
その声と同時に、結界が強く光った。
朔夜の刀の背に、金色の薄膜が重なる。斬撃補助。刃を核の中心へ押し込む道。
朔夜が低く言う。
「そうだ」
刀が押し切る。
妖核が割れた。
鈴の音が、床下いっぱいに響いた。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
けれど、今度は不快ではなかった。
白い紙垂のような身体がほどけ、小さな手が泥の中へ沈む。古い鈴は一つずつ光を失い、ただの錆びた祭具へ戻っていく。床下に溜まっていた冷たい霊気が薄れ、本殿の木組みが静けさを取り戻した。
陽鞠は息を吐いた。
膝が少しだけ震える。
朔夜が床下から戻り、彼女の前に膝をつく。
「陽鞠」
「大丈夫」
「禁止」
「……今は、ほんとに大丈夫。妖は祓えた」
「それとは別」
朔夜は彼女の顔を覗き込んだ。
陽鞠は視線を逸らす。
朔夜は何か言おうとしたが、外から退魔師たちの声が聞こえた。
「祓えたのか?」
「こちらの結界、安定しました!」
任務はまだ完全に終わっていない。
報告、封印、残留霊気の確認が必要だ。
陽鞠は立ち上がった。
「先に終わらせる」
「陽鞠」
「終わったら、話す」
朔夜は少し黙った。
それから頷いた。
「ああ」
その後の作業は、淡々と進んだ。
陽鞠は参道へ一般人が入らないよう結界を張り直し、朔夜は本殿下に残った妖の霊気を霊符で焼いた。年配の退魔師は、先ほどのことを引きずっているのか、陽鞠へ必要以上に声をかけなかった。謝罪のつもりなら、それでよかった。
境内の空気は少しずつ軽くなった。
鈴はもう鳴らない。
紙垂は風に揺れるだけだ。
任務終了の報告を終え、山裾の石段を下りる頃には、夕方が近づいていた。木々の間から差す光は淡い橙色に変わり、参道の苔がしっとりと光っている。鳥の声が遠くで鳴り、どこかの家から夕飯の匂いが流れてきた。
平和な帰り道のはずだった。
陽鞠は、何でもない顔をして歩いた。
強がるのは得意だ。
任務中なら、なおさら。
年配の退魔師に言われたことなど気にしていない。妖も祓った。黒い五芒星の残滓も、更紗へ送るために記録した。神社の穢れも最低限浄化した。問題はない。
問題はない。
そう思おうとした。
けれど、石段の途中で右手が震えた。
ほんの少し。
自分でも気づかないふりができる程度の震え。
だが、朔夜は気づいた。
彼は何も言わず、陽鞠の右手を取った。
包むように握る。
指輪同士が触れた。
ちり、と音が鳴る。
陽鞠は足を止めなかった。
ただ、視線だけを下に向ける。
「震えてない」
先に言った。
朔夜は低く答える。
「震えてる」
「寒いだけ」
「夕方だけど寒くない」
「山だから」
「陽鞠」
「……ちょっとだけ」
認める声は、小さかった。
石段を下りきったところに、小さな空き地があった。古い石灯籠と、苔むした手水鉢。今は誰もいない。朔夜は陽鞠をそこへ連れていき、木陰の中で立ち止まった。
陽鞠はまだ手を握られたままだった。
「嫌だった」
朔夜が言う。
「私も」
「神の子じゃない」
「うん」
「陽鞠だ」
「うん」
「何度でも言う」
陽鞠の喉が詰まった。
何度でも。
その言葉が、思ったより深く届く。
神の子。
昔から、その言葉は嫌いだった。
強すぎる霊力。金色の瞳。結界の才能。大人たちは時々、陽鞠を人間ではないみたいに扱った。すごいね。選ばれた子だね。神様に愛された子みたいだね。そう言われるたび、陽鞠は少しずつ、自分の名前が薄くなっていくような気がした。
篠宮陽鞠。
その名前があるのに。
泣くことも、怒ることも、怖がることもあるのに。
神の子と言われると、全部許されない気がした。
強くて当然。
守って当然。
痛くなくて当然。
怖がらなくて当然。
陽鞠は唇を噛んだ。
「私、まだ嫌なんだ」
「うん」
「もう平気だと思ってた。神の子って言われても、私は私だって言えるって思ってた。でも、言われた瞬間、冷たくなった。手も震えた」
「うん」
「情けない」
「情けなくない」
朔夜はすぐに言った。
「嫌な言葉を嫌だと思うのは、情けなくない」
「でも、任務中だった」
「任務中でも人間だろ」
「……人間」
「陽鞠は陽鞠だ。神の子じゃない。人間で、俺の隣にいる退魔師で、俺の彼女」
最後の言葉で、陽鞠の顔が少し赤くなる。
「今、それ入れる?」
「大事だろ」
「大事だけど」
「俺には大事」
朔夜は握った手に少しだけ力を込めた。
「神の子なら、俺がこうやって手を握るのも変だろ」
「……そうかも」
「でも陽鞠だから握る」
陽鞠は目を伏せた。
手の震えは、まだ少し残っている。
けれど、朔夜の手がそれを包んでいる。
震えごと、否定せずに。
「朔夜」
「何」
「私、神の子じゃない」
「ああ」
「篠宮陽鞠」
「ああ」
「朔夜の隣にいる」
「ずっといろ」
「命令?」
「お願い」
「なら、考える」
「許可だな」
「考えるって言った」
いつものやりとり。
それが出てきたことに、陽鞠は少しだけ救われた。
朔夜もそれに気づいたのか、黒い瞳を少し和らげる。
そして、陽鞠の手を持ち上げた。
手の甲にキスをするのかと思った。
だが、朔夜は違う動きをした。
彼は身を屈め、陽鞠の額へ唇を落とした。
静かなキスだった。
恋人としての甘さもある。
けれど、それ以上に、祈りに近い優しさがあった。
神社の鳥居の外で。
神の子と呼ばれた少女の額に。
朔夜は、神へ捧げるようなものではなく、陽鞠へだけ届くキスをした。
陽鞠の目が、少しだけ潤む。
泣かない。
泣かないけれど、胸の奥が熱い。
「……額?」
小さく聞く。
「今はここ」
「どうして」
「陽鞠の名前がある場所」
「名前は額に書いてない」
「俺には見える」
「適当」
「本気」
朔夜は額から離れ、陽鞠を見る。
「神の子じゃない。陽鞠」
また言った。
何度でも言う、と言った通りに。
陽鞠は唇を引き結んだ。
それから、小さく頷く。
「うん」
「声、小さい」
「陽鞠」
自分の名前を言う。
少しだけ震えた。
でも言えた。
「篠宮陽鞠」
「うん」
朔夜の表情が柔らかくなる。
「俺の好きな陽鞠」
「最後にそういうの足す」
「大事だから」
「……もう」
陽鞠は俯き、朔夜の胸元へ額を軽く押しつけた。
彼の手が背中へ回る。
弓に触れないよう、いつものように位置を避けている。任務後の体温が近い。神社の冷えた空気の中で、朔夜の体温だけがはっきり温かかった。
手の震えは、少しずつ収まっていく。
完全になくなるわけではない。
でも、朔夜の手の中なら、震えていてもいい気がした。
陽鞠はゆっくり顔を上げる。
「帰ろ」
「うん」
「更紗に記録送らなきゃ」
「かがり先生にも報告」
「年配の退魔師さんのことは?」
朔夜の目が冷える。
「報告する」
「大げさにしないで」
「神の子って言った」
「謝ってくれたし」
「でも報告はする。次に誰かに同じことを言わせないために」
陽鞠は少し黙った。
それから頷く。
「……うん」
それは大げさではないのかもしれない。
陽鞠一人のためだけではない。
強い霊力を持つ子どもたちが、勝手に神様みたいなものにされないために。名前を持った人間として見られるために。
朔夜は、そこまで考えているのかもしれない。
いや、考えていないのかもしれない。
単に陽鞠が嫌がったから怒っているだけかもしれない。
どちらでもよかった。
陽鞠にとっては、十分だった。
二人は並んで歩き出した。
山裾の道は、夕方の光で薄く染まっている。神社の鳥居が背後で小さくなり、杉の影が長く伸びる。鈴の音はもう聞こえない。代わりに、二人の足音と、指輪の触れる小さな音だけがあった。
ちり。
ちり。
陽鞠は握られた手を見る。
「朔夜」
「何」
「さっき、かっこよかった」
朔夜の足がわずかに止まりかける。
「年配の退魔師さんに言った時」
「こいつは陽鞠だ、って?」
「うん」
「本当のことだから」
「それでも、嬉しかった」
陽鞠は少し照れたように言った。
朔夜の黒い瞳が柔らかくなる。
「もう一回言う?」
「今はいい」
「神の子じゃない」
「うん」
「陽鞠」
「うん」
「俺の」
「そこは違う」
「違う?」
「……完全には違わないけど、言い方」
「なら俺の陽鞠」
「悪化した!」
陽鞠が顔を赤くして怒る。
朔夜は少しだけ笑った。
その笑い方で、ようやくいつもの帰り道に戻った気がした。
けれど、胸の奥にはまだ少しだけ痛みが残っている。
神の子。
その言葉は、これからもどこかで陽鞠を刺すかもしれない。
でも、そのたびに言い返せばいい。
自分は陽鞠だと。
篠宮陽鞠だと。
そして、どうしても声が震える時は、朔夜が隣で言ってくれる。
こいつは陽鞠だ、と。
陽鞠は朔夜の手を少し強く握った。
指輪が触れる。
ちり、と鳴る。
その音は、名前を呼ばれるよりも小さい。
けれど、今の陽鞠には、確かに自分をここへ繋ぎ止める音だった。




