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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第13話 神の子と呼ぶな

山裾の古い神社は、昼間でも薄暗かった。


 石段の両脇には杉の木が並び、枝葉が空を覆っている。木漏れ日は細く、地面へ落ちる前に湿った空気の中でほどけてしまう。参道の石畳は苔でところどころ緑に染まり、踏むたびに靴底へしっとりした感触が返った。鳥居の朱は色褪せ、しめ縄には新しい紙垂と古い紙垂が混じっている。風が吹くと、白い紙がかすかに揺れた。


 鈴の音がした。


 拝殿の前に吊るされた鈴ではない。


 境内の奥、誰もいないはずの社務所の裏から、ちりん、と細く響いた。澄んだ音なのに、妙に耳障りだった。鳴った瞬間だけ、首筋の産毛が逆立つ。


 陽鞠は石段の途中で足を止めた。


 背中の弓が、わずかに熱を持つ。腰の日本刀も、鞘の中で静かに霊力を帯びた。右手薬指の指輪が、昼の薄い光を受けて淡く光る。


「いる」


 短く言った。


 隣で朔夜が黒い瞳を細める。


「奥か」


「社務所の裏。あと、本殿の下にも薄く広がってる」


「二体?」


「一体が広がってる感じ。土地に絡んでる」


「面倒なやつだな」


「神社系はだいたい面倒」


 陽鞠はそう言いながら、参道を見上げた。


 任務内容は、山裾の古社で起きた異変の調査と祓いだった。


 ここ数日、無人の境内で鈴が鳴る。賽銭箱の前に泥の足跡が残る。夜になると、本殿の床下から子どもの声がする。参拝者が急に息苦しさを訴え、石段で転びかける。神職は常駐しておらず、地元の氏子が管理している神社だった。


 協会の初期判定では、土地に残った古い信仰の歪みから生まれた下級妖。


 だが、最近の流れを考えれば、そのまま受け取るわけにはいかなかった。


 黒い五芒星。


 凶暴化。


 自然発生した妖への外部術式。


 御影堂玻月の、笑っていない紫紺の瞳。


 陽鞠は小さく息を吐いた。


 考えることが多すぎる。


 でも、目の前の任務を疎かにする理由にはならない。


「陽鞠」


 朔夜が呼ぶ。


「何」


「顔、固い」


「任務中だから」


「それだけか?」


 相変わらず、こういうところだけ鋭い。


 陽鞠は少しだけ眉を寄せた。


「神社って、ちょっと苦手」


「知ってる」


「言ったっけ」


「前にも似た顔してた」


「見すぎ」


「見るだろ」


「見なくていいところもあるでしょ」


「ない」


 即答だった。


 陽鞠は呆れたように彼を見上げた。


 朔夜は真顔だった。本当に、ないと思っている顔だ。世界のすべてが陽鞠観察対象に分類されているのかもしれない。恋人とは時に、監視カメラより厄介である。


 それでも、少しだけ肩の力が抜けた。


 石段を上がりきると、境内に数人の退魔師がいた。


 その中心に、年配の男が立っている。


 灰色の髪を後ろで短く結び、紺の作務衣に退魔師用の羽織を重ねていた。腰には古い短刀。首には数珠。顔には深い皺が刻まれているが、目はまだ鋭い。長く寺社系の現場を見てきた退魔師なのだろう。周囲の若い退魔師たちも、その男の指示を待つようにしていた。


 男は陽鞠と朔夜を見ると、少しだけ目を細めた。


「来たか。篠宮陽鞠、綴喜朔夜」


「はい」


 陽鞠は軽く頭を下げる。


 朔夜も無言で頷いた。


「話は聞いている。学園のS級特待生。若いのに、大したものだ」


 年配の退魔師はそう言って、陽鞠を見た。


 視線が、金色の瞳で止まる。


 陽鞠はその瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。


 嫌な予感がする。


 人が自分の目を見る時の反応には、慣れている。綺麗だと言う者。珍しいと言う者。怖いと言う者。神秘的だと言う者。どれも聞いたことがある。慣れているはずだった。


 だが、慣れていることと平気なことは違う。


 男は感心したように呟いた。


「金の瞳か。なるほど……まるで神の子のようだな」


 空気が止まった。


 ほんの一言だった。


 悪意はなかったのかもしれない。


 褒め言葉のつもりだったのかもしれない。


 寺社系の現場で、強い霊力を持ち、金の瞳をした少女を見て、そう口にしただけなのかもしれない。


 けれど、その言葉が陽鞠の中へ落ちた瞬間、何かが凍った。


 神の子。


 その音が、耳の奥で冷たく反響する。


 陽鞠の表情が消えた。


 金色の瞳から、熱が抜ける。


 唇の端にあったわずかな緊張も、怒りも、全部がすっと沈み、代わりに硬い無表情が浮かんだ。背筋が伸びる。指先が冷たくなる。右手薬指の指輪が、いつもより遠いもののように感じた。


「……呼ばないでください」


 陽鞠の声は静かだった。


 静かすぎる声だった。


 年配の退魔師は一瞬、聞き取れなかったように眉を上げる。


「何?」


「神の子って、呼ばないでください」


 今度は、はっきり言った。


 周囲の退魔師たちが気まずそうに視線を泳がせる。


 男は少し驚いた顔をしたあと、苦笑のように口元を動かした。


「いや、褒めたつもりだったのだが。お前ほどの霊力なら、そう言われるのも誇りだろう」


 陽鞠の指が、わずかに震えた。


 だが、表情は動かない。


 冷えた金色の瞳だけが、男を見ている。


「誇りじゃありません」


 短く言う。


 その声に、朔夜が動いた。


 彼は陽鞠の半歩前へ出た。


 大きな身体が、年配の退魔師と陽鞠の間に入る。完全に隠すわけではない。だが、その視線を遮るには十分だった。銀髪が風に揺れ、黒い瞳が低く冷える。


「こいつは陽鞠だ」


 朔夜の声は、静かだった。


 怒鳴ってはいない。


 けれど、境内の空気が一段重くなる。


「神の子じゃない。篠宮陽鞠だ」


 年配の退魔師の顔色が、少し変わった。


 周囲の若い退魔師たちも息を呑む。


 朔夜は続けた。


「強い霊力を持ってる。結界が上手い。金の目をしてる。だから何だ。勝手に名前を変えるな」


「綴喜」


 男の声が少し硬くなる。


「年長者に向かって、その口の利き方は」


「名前を奪うような呼び方をする相手に、丁寧にする理由がない」


「私は奪ったつもりなど」


「つもりがなくても、こいつが嫌がった」


 朔夜は一歩も引かない。


「一度でやめろ」


 陽鞠は朔夜の背中を見上げた。


 広い背中。


 銀髪。


 崩れた制服の襟。


 左手薬指の指輪。


 彼はいつも、こうやって間に入る。


 陽鞠が本当に嫌がった時だけ、迷わず。


 敵の前でも、大人の退魔師の前でも、S級の前でも、誰の前でも。


 そのことに胸が温かくなるのに、同時に、喉の奥が詰まる。


 守られたいだけではない。


 自分で言えるようになりたい。


 もう神の子にはならない。


 そう言えるはずなのに、いざ言葉を向けられると、身体の奥が冷えて動かなくなる。


 悔しい。


 年配の退魔師はしばらく朔夜を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……失言だったようだな」


 陽鞠は少しだけ目を伏せた。


「そうですね」


 言葉は短い。


 男は眉を寄せる。


「悪かった。篠宮」


「はい」


 謝罪は受け取った。


 だが、気持ちがすぐに戻るわけではない。


 人間は謝れば傷が消えると思いがちだ。便利な誤解である。残念ながら、傷はそんなに素直ではない。


 朔夜はまだ陽鞠の前に立っている。


 陽鞠は彼の袖を軽く引いた。


「朔夜」


「何」


「任務」


 朔夜はようやく彼女を見た。


 黒い瞳には、まだ怒りが残っている。


「無理するな」


「してない」


「顔が冷えてる」


「任務中だから」


「嘘」


 即答だった。


 陽鞠は少しだけ困ったように笑う。


「……今は、動ける」


 それは強がりだった。


 朔夜にもわかっていた。


 でも、陽鞠が自分で立とうとしていることも、彼にはわかったのだろう。彼は何か言いたげにしながらも、結局一歩だけ横へ退いた。


 完全には離れない。


 すぐ隣にいる。


 それが、今の陽鞠にはありがたかった。


 年配の退魔師が咳払いをした。


「妖の気配は本殿下と社務所裏だ。神域の穢れを避けるため、こちらは拝殿周囲の封鎖をしている。篠宮、お前の結界で一般人が入らないよう参道を塞げるか」


「できます」


 陽鞠は答えた。


 声は少しだけ平坦だった。


 朔夜が横で眉を寄せる。


「俺は」


「綴喜は本殿下を」


「朔夜は私と一緒です」


 陽鞠は即座に言った。


 年配の退魔師が目を瞬く。


「分断した方が早い」


「今の妖は自然発生に外部術式が絡んでいる可能性があります。核の確認と、凶暴化の有無を見る必要がある。朔夜が前、私が結界。いつもの連携で行きます」


「しかし」


「効率より安全を取ります」


 陽鞠の金色の瞳が、冷えたまま男を見る。


「それとも、私の判断では不満ですか」


 男は一瞬黙った。


 その視線が朔夜へ向く。


 朔夜は何も言わなかった。ただ、陽鞠の隣に立っている。その立ち位置だけで答えになっていた。


「……わかった。二人で本殿下へ行け。こちらは周辺を封鎖する」


「ありがとうございます」


 陽鞠は軽く頭を下げた。


 拝殿へ向かう途中、朔夜が低く言った。


「大丈夫か」


「うん」


「嘘」


「今は、大丈夫にする」


 朔夜はそれ以上言わなかった。


 代わりに、陽鞠の右手に自分の左手を重ねた。


 ほんの一瞬だけ。


 指輪同士が触れる。


 ちり、と小さな音が鳴った。


 それだけで、陽鞠の呼吸が少しだけ戻る。


 本殿の下は、暗かった。


 古い木組みの隙間から冷たい空気が流れてくる。床下へ続く点検用の低い扉を開けると、湿った土の匂いと、古い木の腐りかけた匂いが混じって押し寄せた。その奥で、また鈴が鳴る。


 ちりん。


 陽鞠は膝をついて床下を覗き込んだ。


 暗がりの奥に、白いものが揺れている。


 紙垂。


 いや、紙垂に似た何か。


 細長い白い布のようなものが、闇の中で揺れていた。そこに、子どもの手のようなものがいくつも絡みついている。小さな指。泥に汚れた爪。足元には、古い鈴がいくつも転がっていた。


 妖は、本殿の下に溜まった古い願いと、放置された祭具の霊気から生まれたもののようだった。


 声がする。


「ならして」


「ならして」


「きいて」


 子どものような声。


 けれど、声の奥が濁っている。


 陽鞠は弓を外した。


「下級……でも、広がってる」


「黒い印は?」


「まだ見えない」


「入るか」


「うん」


 床下は狭い。


 朔夜の身長ではかなり動きにくい。だが、彼は文句も言わず身を低くし、刀を抜いた。長い身体を折るようにして、陽鞠の前へ入る。その背中が、木組みの影の中に沈む。


 陽鞠は結界を張った。


 まず、本殿の柱を守る薄い膜。次に、外へ霊気を漏らさない封鎖結界。さらに、朔夜の足元にだけ、土の上を滑らず動ける足場を作る。狭い場所では、ほんの少しの足場のずれが命取りになる。


 妖が揺れた。


 白い紙垂のような身体が、床下の闇から伸びる。先端についた小さな手が、朔夜の顔へ向かって伸びた。爪は短い。けれど、触れた場所から霊力を吸う種類だ。


「朔夜、触れないで」


「わかってる」


 朔夜は刀を横に寝かせ、紙垂の束を切り払う。


 刃が通った場所から、白い布が黒く焦げるように散った。だが、すぐに別の手が伸びる。床下のあちこちに古い鈴があり、その中から妖の手が次々に出てくる。


 陽鞠は眉を寄せた。


「本体が鈴に分散してる」


「全部斬るか」


「それだと本殿に響く」


「面倒だな」


「神社系は面倒って言ったでしょ」


「聞いた」


 陽鞠は矢を番えた。


 狭い床下で矢を射るには、普通なら角度がない。だが、彼女の射線結界なら曲げられる。金色の薄膜を三枚、柱の間に置く。矢はその膜に触れるたび軌道を変え、奥の鈴へ向かう。


「核は?」


 朔夜が聞く。


「中央じゃない。右奥の一番古い鈴。黒く錆びてるやつ」


「見えない」


「私が光を入れる」


 陽鞠の指先から細い結界光が伸びた。


 床下の闇に、金色の線が走る。


 右奥に、黒く錆びた鈴があった。


 その鈴の内側で、赤黒いものが脈打っている。


 黒い五芒星は、まだ見えない。


 だが、嫌な気配はある。


 陽鞠は矢を放った。


 矢は一枚目の結界を蹴り、左へ曲がる。二枚目で低く沈み、三枚目で右奥へ跳ねる。狭い柱の隙間を抜け、黒い鈴の真横をかすめた。


 直撃ではない。


 陽鞠は、鈴を鳴らした。


 矢の霊力が鈴の縁を弾く。


 ちりん、と音が鳴った。


 その瞬間、床下に広がっていた妖の手が一斉に震えた。


「きいた」


「きいた」


「きいた」


 声が重なる。


 朔夜が踏み込む。


 陽鞠の結界足場が、土の上に一瞬だけ光る。朔夜はそこを蹴り、低い姿勢のまま右奥へ滑り込んだ。刀が短く振られる。長い刃を大きく振れない場所で、彼は手首だけで角度を作った。


 刃が黒い鈴を割る。


 中から赤黒い核が露出した。


 その奥に、黒い五芒星が浮かびかける。


 陽鞠の瞳が鋭くなる。


「朔夜、印あり!」


「了解」


 だが、妖も反応した。


 白い紙垂の束が、朔夜の腕へ絡みつこうとする。小さな手が無数に伸び、刀を持つ手首を狙う。陽鞠は即座に結界を張る。朔夜の腕の周囲に薄い金色の膜を巻き、触れようとした手を弾く。


 しかし、一本だけが膜をすり抜けた。


 陽鞠の背筋が冷える。


 朔夜は避けない。


 避ければ核を見失う。


 だから、陽鞠が先に動いた。


 結界を針のように細く伸ばし、その手だけを床下の木組みに縫い止める。反動が指先に返る。治癒符の下が熱を持った。痛い。だが止めた。


「朔夜!」


 朔夜の刀が、核へ入る。


 硬い抵抗。


 黒い五芒星が一瞬だけ強く光った。


 その光に、陽鞠の金色の瞳が反応する。


 熱い。


 目の奥が、熱い。


 神の子。


 さっき聞いた言葉が、頭の奥で鈴の音のように鳴る。


 神の子のようだ。


 違う。


 違う。


 陽鞠は奥歯を噛んだ。


「私は……」


 小さく呟く。


 弓を握る手に力が入る。


「私は、篠宮陽鞠だ」


 その声と同時に、結界が強く光った。


 朔夜の刀の背に、金色の薄膜が重なる。斬撃補助。刃を核の中心へ押し込む道。


 朔夜が低く言う。


「そうだ」


 刀が押し切る。


 妖核が割れた。


 鈴の音が、床下いっぱいに響いた。


 ちりん。


 ちりん。


 ちりん。


 けれど、今度は不快ではなかった。


 白い紙垂のような身体がほどけ、小さな手が泥の中へ沈む。古い鈴は一つずつ光を失い、ただの錆びた祭具へ戻っていく。床下に溜まっていた冷たい霊気が薄れ、本殿の木組みが静けさを取り戻した。


 陽鞠は息を吐いた。


 膝が少しだけ震える。


 朔夜が床下から戻り、彼女の前に膝をつく。


「陽鞠」


「大丈夫」


「禁止」


「……今は、ほんとに大丈夫。妖は祓えた」


「それとは別」


 朔夜は彼女の顔を覗き込んだ。


 陽鞠は視線を逸らす。


 朔夜は何か言おうとしたが、外から退魔師たちの声が聞こえた。


「祓えたのか?」


「こちらの結界、安定しました!」


 任務はまだ完全に終わっていない。


 報告、封印、残留霊気の確認が必要だ。


 陽鞠は立ち上がった。


「先に終わらせる」


「陽鞠」


「終わったら、話す」


 朔夜は少し黙った。


 それから頷いた。


「ああ」


 その後の作業は、淡々と進んだ。


 陽鞠は参道へ一般人が入らないよう結界を張り直し、朔夜は本殿下に残った妖の霊気を霊符で焼いた。年配の退魔師は、先ほどのことを引きずっているのか、陽鞠へ必要以上に声をかけなかった。謝罪のつもりなら、それでよかった。


 境内の空気は少しずつ軽くなった。


 鈴はもう鳴らない。


 紙垂は風に揺れるだけだ。


 任務終了の報告を終え、山裾の石段を下りる頃には、夕方が近づいていた。木々の間から差す光は淡い橙色に変わり、参道の苔がしっとりと光っている。鳥の声が遠くで鳴り、どこかの家から夕飯の匂いが流れてきた。


 平和な帰り道のはずだった。


 陽鞠は、何でもない顔をして歩いた。


 強がるのは得意だ。


 任務中なら、なおさら。


 年配の退魔師に言われたことなど気にしていない。妖も祓った。黒い五芒星の残滓も、更紗へ送るために記録した。神社の穢れも最低限浄化した。問題はない。


 問題はない。


 そう思おうとした。


 けれど、石段の途中で右手が震えた。


 ほんの少し。


 自分でも気づかないふりができる程度の震え。


 だが、朔夜は気づいた。


 彼は何も言わず、陽鞠の右手を取った。


 包むように握る。


 指輪同士が触れた。


 ちり、と音が鳴る。


 陽鞠は足を止めなかった。


 ただ、視線だけを下に向ける。


「震えてない」


 先に言った。


 朔夜は低く答える。


「震えてる」


「寒いだけ」


「夕方だけど寒くない」


「山だから」


「陽鞠」


「……ちょっとだけ」


 認める声は、小さかった。


 石段を下りきったところに、小さな空き地があった。古い石灯籠と、苔むした手水鉢。今は誰もいない。朔夜は陽鞠をそこへ連れていき、木陰の中で立ち止まった。


 陽鞠はまだ手を握られたままだった。


「嫌だった」


 朔夜が言う。


「私も」


「神の子じゃない」


「うん」


「陽鞠だ」


「うん」


「何度でも言う」


 陽鞠の喉が詰まった。


 何度でも。


 その言葉が、思ったより深く届く。


 神の子。


 昔から、その言葉は嫌いだった。


 強すぎる霊力。金色の瞳。結界の才能。大人たちは時々、陽鞠を人間ではないみたいに扱った。すごいね。選ばれた子だね。神様に愛された子みたいだね。そう言われるたび、陽鞠は少しずつ、自分の名前が薄くなっていくような気がした。


 篠宮陽鞠。


 その名前があるのに。


 泣くことも、怒ることも、怖がることもあるのに。


 神の子と言われると、全部許されない気がした。


 強くて当然。


 守って当然。


 痛くなくて当然。


 怖がらなくて当然。


 陽鞠は唇を噛んだ。


「私、まだ嫌なんだ」


「うん」


「もう平気だと思ってた。神の子って言われても、私は私だって言えるって思ってた。でも、言われた瞬間、冷たくなった。手も震えた」


「うん」


「情けない」


「情けなくない」


 朔夜はすぐに言った。


「嫌な言葉を嫌だと思うのは、情けなくない」


「でも、任務中だった」


「任務中でも人間だろ」


「……人間」


「陽鞠は陽鞠だ。神の子じゃない。人間で、俺の隣にいる退魔師で、俺の彼女」


 最後の言葉で、陽鞠の顔が少し赤くなる。


「今、それ入れる?」


「大事だろ」


「大事だけど」


「俺には大事」


 朔夜は握った手に少しだけ力を込めた。


「神の子なら、俺がこうやって手を握るのも変だろ」


「……そうかも」


「でも陽鞠だから握る」


 陽鞠は目を伏せた。


 手の震えは、まだ少し残っている。


 けれど、朔夜の手がそれを包んでいる。


 震えごと、否定せずに。


「朔夜」


「何」


「私、神の子じゃない」


「ああ」


「篠宮陽鞠」


「ああ」


「朔夜の隣にいる」


「ずっといろ」


「命令?」


「お願い」


「なら、考える」


「許可だな」


「考えるって言った」


 いつものやりとり。


 それが出てきたことに、陽鞠は少しだけ救われた。


 朔夜もそれに気づいたのか、黒い瞳を少し和らげる。


 そして、陽鞠の手を持ち上げた。


 手の甲にキスをするのかと思った。


 だが、朔夜は違う動きをした。


 彼は身を屈め、陽鞠の額へ唇を落とした。


 静かなキスだった。


 恋人としての甘さもある。


 けれど、それ以上に、祈りに近い優しさがあった。


 神社の鳥居の外で。


 神の子と呼ばれた少女の額に。


 朔夜は、神へ捧げるようなものではなく、陽鞠へだけ届くキスをした。


 陽鞠の目が、少しだけ潤む。


 泣かない。


 泣かないけれど、胸の奥が熱い。


「……額?」


 小さく聞く。


「今はここ」


「どうして」


「陽鞠の名前がある場所」


「名前は額に書いてない」


「俺には見える」


「適当」


「本気」


 朔夜は額から離れ、陽鞠を見る。


「神の子じゃない。陽鞠」


 また言った。


 何度でも言う、と言った通りに。


 陽鞠は唇を引き結んだ。


 それから、小さく頷く。


「うん」


「声、小さい」


「陽鞠」


 自分の名前を言う。


 少しだけ震えた。


 でも言えた。


「篠宮陽鞠」


「うん」


 朔夜の表情が柔らかくなる。


「俺の好きな陽鞠」


「最後にそういうの足す」


「大事だから」


「……もう」


 陽鞠は俯き、朔夜の胸元へ額を軽く押しつけた。


 彼の手が背中へ回る。


 弓に触れないよう、いつものように位置を避けている。任務後の体温が近い。神社の冷えた空気の中で、朔夜の体温だけがはっきり温かかった。


 手の震えは、少しずつ収まっていく。


 完全になくなるわけではない。


 でも、朔夜の手の中なら、震えていてもいい気がした。


 陽鞠はゆっくり顔を上げる。


「帰ろ」


「うん」


「更紗に記録送らなきゃ」


「かがり先生にも報告」


「年配の退魔師さんのことは?」


 朔夜の目が冷える。


「報告する」


「大げさにしないで」


「神の子って言った」


「謝ってくれたし」


「でも報告はする。次に誰かに同じことを言わせないために」


 陽鞠は少し黙った。


 それから頷く。


「……うん」


 それは大げさではないのかもしれない。


 陽鞠一人のためだけではない。


 強い霊力を持つ子どもたちが、勝手に神様みたいなものにされないために。名前を持った人間として見られるために。


 朔夜は、そこまで考えているのかもしれない。


 いや、考えていないのかもしれない。


 単に陽鞠が嫌がったから怒っているだけかもしれない。


 どちらでもよかった。


 陽鞠にとっては、十分だった。


 二人は並んで歩き出した。


 山裾の道は、夕方の光で薄く染まっている。神社の鳥居が背後で小さくなり、杉の影が長く伸びる。鈴の音はもう聞こえない。代わりに、二人の足音と、指輪の触れる小さな音だけがあった。


 ちり。


 ちり。


 陽鞠は握られた手を見る。


「朔夜」


「何」


「さっき、かっこよかった」


 朔夜の足がわずかに止まりかける。


「年配の退魔師さんに言った時」


「こいつは陽鞠だ、って?」


「うん」


「本当のことだから」


「それでも、嬉しかった」


 陽鞠は少し照れたように言った。


 朔夜の黒い瞳が柔らかくなる。


「もう一回言う?」


「今はいい」


「神の子じゃない」


「うん」


「陽鞠」


「うん」


「俺の」


「そこは違う」


「違う?」


「……完全には違わないけど、言い方」


「なら俺の陽鞠」


「悪化した!」


 陽鞠が顔を赤くして怒る。


 朔夜は少しだけ笑った。


 その笑い方で、ようやくいつもの帰り道に戻った気がした。


 けれど、胸の奥にはまだ少しだけ痛みが残っている。


 神の子。


 その言葉は、これからもどこかで陽鞠を刺すかもしれない。


 でも、そのたびに言い返せばいい。


 自分は陽鞠だと。


 篠宮陽鞠だと。


 そして、どうしても声が震える時は、朔夜が隣で言ってくれる。


 こいつは陽鞠だ、と。


 陽鞠は朔夜の手を少し強く握った。


 指輪が触れる。


 ちり、と鳴る。


 その音は、名前を呼ばれるよりも小さい。


 けれど、今の陽鞠には、確かに自分をここへ繋ぎ止める音だった。

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