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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第14話 玻月の手袋


 神社任務の報告は、思ったより長引いた。


 妖そのものは祓えた。社殿下に残っていた霊気も、陽鞠の浄化結界と朔夜の霊符で最低限封じた。現地の年配退魔師からの追加報告もあり、任務としては完了扱いでいい。そう、任務としては。


 問題は、黒い五芒星の残滓だった。


 社殿下の黒い鈴の核に、一瞬だけ浮かんだ印。完全に残っていたわけではない。朔夜が核を割った瞬間、印は霊気ごと砕け散った。だが、陽鞠はその直前に結界で霊力の流れを読み取り、更紗へ送るための記録札に焼きつけていた。


 さらに、年配の退魔師が陽鞠を「神の子」と呼んだ件も、朔夜がしっかり報告した。


 陽鞠としては、そこまで大事にしなくてもいいと思った。


 思っただけだった。


 朔夜は容赦がなかった。


 かがりに事実を淡々と伝えた。言葉を足しすぎることも、感情で大げさにすることもなく、ただ、陽鞠が嫌がった呼称を現場で使われたこと、その後本人が拒絶したこと、今後同様の表現を避けるよう協会側へ共有すべきことを報告した。


 感情的に怒鳴るより、むしろ怖かった。


 こういう時の朔夜は本当に面倒くさい。いい意味でも悪い意味でも面倒くさい。人間の愛情は時々、事務処理能力を伴って殴ってくる。厄介である。


 かがりは報告を聞き終えると、深く息を吐いた。


「その件はこちらから協会へ伝えておく。篠宮」


「はい」


「嫌な呼び方をされた時は、今後も拒否していい。任務中でもだ」


 陽鞠は少しだけ目を伏せた。


「……はい」


「お前は神でも供物でも象徴でもない。退魔師だ。学生だ。篠宮陽鞠だ」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 陽鞠は小さく頷いた。


「ありがとうございます」


 朔夜は隣で何も言わない。


 でも、手がそっと陽鞠の手に触れた。


 指輪同士が鳴る。


 ちり、と小さく。


 かがりはその音に気づいたのか気づかなかったのか、書類を閉じた。


「それと、黒い五芒星の記録札は更紗に回せ。解析結果が出るまでは、二人とも印に直接触れるな。特に綴喜」


「はい」


「篠宮もだ」


「はい」


「お前たちは、最近その印に反応されすぎている。無茶をすれば、こちらの情報まで向こうへ流れる可能性がある」


 陽鞠は眉を寄せた。


「向こう、ですか」


「術式の先がまだ見えない以上、そう呼ぶしかない」


 かがりの声は硬かった。


「誰が、何のために、どこから見ているのか。何も断定できない。だからこそ、不用意に触れるな」


「わかりました」


 陽鞠は頷いた。


 けれど、胸の奥には消えない苛立ちがある。


 黒い五芒星。


 自然発生した妖に外部から凶暴性を与え、人を襲わせる印。


 その印が、自分たちの霊力に反応しているかもしれない。


 御影堂玻月も、何かを知っているようだった。


 白手袋の指先で妖核の残滓を扱い、平然と持ち去った男。陽鞠の金眼を見て、興味を持った男。君の金色はよく燃える、と嫌な言葉を残した男。


 思い出すだけで、首筋がざらつく。


「篠宮」


 かがりの声で、陽鞠は我に返った。


「顔が険しい」


「すみません」


「謝るところではない。疲れているなら休め」


「大丈夫です」


「禁止」


 朔夜が隣で言った。


 陽鞠はむっとして彼を見る。


「朔夜、先生と同時に言わないで」


「癖」


「嫌な癖」


 かがりは額を押さえた。


「綴喜と意見が一致するのは癪だが、今回は同意だ。今日は解析棟へ記録札を届けたら、そのまま休め。寄り道するな」


「はい」


「はい」


 二人は同時に返事をした。


 その返事を聞いたかがりの目は、まったく信用していなかった。


 妥当である。


 退魔学園の廊下は、夕方の光を受けて少し橙色に染まっていた。


 授業はほとんど終わり、教室からは部活へ向かう生徒の声や、任務準備で走る上級生の足音が聞こえている。窓の外では、実技場の結界塔が夕陽を反射して淡く光っていた。


 陽鞠は更紗へ渡す記録札を封印ケースに入れ、胸の前で抱えていた。


 朔夜は隣を歩いている。


 いつもなら手を繋いでいる距離だが、今は陽鞠がケースを持っているので、指先だけが時々触れる。そのたびに朔夜が少し不満そうな顔をするので、陽鞠は内心で少し笑った。


「朔夜」


「何」


「顔」


「何」


「手、繋げなくて不満って顔してる」


「不満だ」


「正直」


「隠す必要あるか」


「あるような、ないような」


「ケース持つ」


「だめ。更紗に直接渡す」


「じゃあ、片手」


「封印ケースを落としたら先生に怒られる」


「俺が受ける」


「怒られるのを?」


「ケースを」


「怒られるのも受けて」


「それは嫌だ」


「正直」


 陽鞠は小さく笑った。


 笑えたことに、自分で少し驚く。


 神社で言われた言葉は、まだ胸の奥に冷たく残っている。けれど、かがりに言われたこと、朔夜が何度も名前を呼んでくれたこと、そのどちらもちゃんと温度として残っていた。


 自分は神の子ではない。


 篠宮陽鞠だ。


 そう言い聞かせる。


 その時、廊下の先で空気が変わった。


 夕方の光が一瞬、細く揺れる。


 足音はしなかった。


 だが、気配があった。


 薄く、冷たく、よく磨かれた刃のような気配。


 朔夜が即座に足を止めた。


 黒い瞳が鋭くなる。


 陽鞠もケースを抱える手に力を入れた。


 廊下の曲がり角から、黒い長衣の裾が現れた。


 御影堂玻月だった。


 濡羽色の長い髪を低く結び、片耳には古い銀の耳飾り。黒い長衣は夕方の廊下の影に溶けるようで、白手袋だけがやけに浮いて見えた。紫紺の瞳は、いつものように薄い笑みの奥で笑っていない。


 陽鞠の背筋が冷える。


 朔夜が半歩前へ出た。


「何の用だ」


 挨拶も何もなかった。


 玻月は気にした様子もなく、薄く笑った。


「相変わらず、噛みつきそうな目をしている」


「用件を言え」


「君にではない」


 玻月の視線が、朔夜の横を抜けて陽鞠へ向かう。


 金色の瞳へ。


 陽鞠は眉を寄せた。


「私にも、あなたに用はありません」


「そう言うな。神社の記録札を持っているのだろう」


 陽鞠は封印ケースを抱え直した。


「更紗に渡します」


「解析科の若槻か。優秀だが、印の古層まではまだ追えまい」


「あなたに渡す気はありません」


「それは残念だ」


 言葉の割に、玻月の声はまったく残念そうではない。


 腹立たしい。


 この男は、いつもそうだ。相手の感情を揺らす言葉を選びながら、自分だけ一段外にいるような顔をする。叩いても手応えがなさそうで、実際に叩けばこちらの手首だけ痛くなりそうな男。最悪の類いである。


 朔夜の手が、腰の刀へ近づいた。


「近づくな」


「まだ何もしていない」


「する前に言ってる」


「過保護だな」


「お前相手なら足りないくらいだ」


 玻月の紫紺の瞳が、わずかに細くなる。


「いい反応だ」


「観察するな」


 朔夜の声が低くなる。


 陽鞠は朔夜の袖を軽く引いた。


「朔夜」


「下がってろ」


「嫌」


「陽鞠」


「私に用があるんでしょ。私が聞く」


 朔夜は不満そうに彼女を見る。


 陽鞠は視線を返した。


 隠されるだけは嫌だ。


 守られることは嬉しい。怖い時に前へ出てくれることも、何度も救われている。けれど、玻月に見られているのが自分なら、自分の声で拒まなければならない。


 陽鞠は朔夜の半歩隣へ出た。


 玻月を見る。


「何ですか」


 玻月の目が、興味深そうに光る。


「神社の妖に触れたな」


「祓いました」


「触れたのは核か、印か」


「答える必要がありますか」


「ある」


「誰に対して?」


「君自身に」


 陽鞠は眉を寄せた。


 玻月は一歩近づく。


 朔夜の気配が鋭くなる。


 白手袋の指先が、夕方の光の中で静かに動いた。


「寺社系の古い妖に、黒い五芒星が打ち込まれていた。あれは、通常の凶暴化とは少し違う。土地の信仰残滓に絡めて、核の奥へ沈められている」


「……やっぱり知ってるんですね」


「少しは」


「なら説明してください」


「説明の前に、確かめたい」


 その言葉を聞いた瞬間、陽鞠は嫌な予感を覚えた。


 次の瞬間だった。


 玻月の白手袋の手が伸びた。


 速い。


 見えていた。


 けれど、距離の詰め方が妙だった。踏み込んだように見えないのに、彼の指先は陽鞠の手元へ届いていた。朔夜が反応するよりわずかに早く、白手袋の指が陽鞠の左手首を取る。


 冷たい。


 手袋越しなのに、ひどく冷たかった。


 肌に直接触れられたわけではない。布一枚隔てている。それなのに、そこから霊力の流れを覗かれるような不快感が走った。手首の内側。脈の上。結界を張る時に霊力が通る細い道。その流れを、白手袋の指先が正確に捉えている。


 陽鞠の呼吸が止まる。


 玻月の紫紺の瞳が、陽鞠の金眼を見た。


「やはり、神社の印に触れたか。霊力の表層に残っている」


 声は穏やかだった。


 穏やかすぎて、吐き気がするほど嫌だった。


「離して」


 陽鞠の声は低かった。


「一瞬でいい」


「離せって言ってる」


「動くな。流れを見るだけだ」


 白手袋の親指が、手首の内側をわずかに押さえる。


 その瞬間、陽鞠の中で何かが弾けた。


 勝手に見るな。


 勝手に測るな。


 勝手に触れるな。


 自分の霊力を、目を、手首を、誰かのもののように扱うな。


 陽鞠の金色の瞳が燃える。


「触るな!」


 彼女の手首から、金色の結界が爆ぜた。


 薄膜ではない。


 防御でもない。


 拒絶そのものの結界。


 手首を中心に、鋭い光が花弁のように開き、次の瞬間、刃のような破片となって弾ける。空気が破裂する音がした。廊下の窓硝子がびり、と震え、壁に貼られた浄化札が一枚剥がれかける。


 玻月の白手袋が、陽鞠の手首から離れた。


 ただ離れただけではない。


 弾き飛ばされた。


 白手袋の指先に、金色の光の傷が走る。手袋の布が一筋裂け、下の肌は見えないまま、霊力だけが薄く焦げた。


 陽鞠は即座に後ろへ跳んだ。


 封印ケースを落とさないよう抱え直しながら、右手で弓へ触れる。


 心臓が速い。


 怒りで。


 嫌悪で。


 不快感で。


 手首に残った感触が、虫のように這っている。


 気持ち悪い。


 陽鞠は手首を強く握った。


「二度と触らないで」


 声は震えていなかった。


 むしろ、冷たかった。


 玻月は自分の白手袋を見た。


 裂けた指先。


 金色の結界に焼かれた跡。


 それを見て、彼は笑った。


 薄く。


 静かに。


 まるで、予想外の美しい反応を見つけたように。


「いい」


 玻月が言った。


「その拒絶は悪くない」


 その言葉で、朔夜が動いた。


 彼は完全に陽鞠の前へ出た。


 腰の刀へ手をかける。


 鯉口がわずかに切られ、銀の刃の気配が廊下に満ちる。黒い瞳は冷え切っていた。怒りが燃えているのに、声だけは低く静かだった。


「次に触れたら、斬る」


 空気が止まる。


 廊下の向こうで、通りかかった生徒が足を止め、すぐに青ざめて引き返した。賢明である。S級二人と白手袋の面倒な男の対峙など、一般生徒が見物するには命が軽すぎる。


 玻月は朔夜を見た。


 紫紺の瞳に、わずかな愉快そうな色が浮かぶ。


「抜く前に、私の喉へ届くと思うか」


「届かせる」


「今の君では、まだ無理だ」


「試すか」


「朔夜!」


 陽鞠が叫ぶ。


 朔夜の指は刀から離れない。


 だが、抜かない。


 陽鞠の声で止まっている。


 玻月はその様子を見て、また薄く笑った。


「本当に、君は彼女の声で止まる」


「黙れ」


「美点だ。弱点でもある」


「黙れって言った」


 朔夜の霊力が廊下の床を這う。


 黒銀色の圧が広がり、足元の影が濃くなった。壁の浄化札が震える。陽鞠はその気配に、背中が冷えるのを感じた。


 朔夜が本気で怒っている。


 けれど、ここで抜かせてはいけない。


 玻月は強い。


 それに、今ここで斬りかかれば、相手の思う通りになる。玻月は余裕を崩していない。陽鞠が結界を爆ぜさせても、白手袋が裂けても、あの男は楽しんでいるようにすら見える。


 それが余計に腹立たしい。


 陽鞠は朔夜の背中へ手を伸ばした。


 服を掴む。


「朔夜、抜かないで」


「触られた」


「わかってる」


「お前が嫌がった」


「わかってる!」


 陽鞠の声が少し強くなる。


 朔夜がわずかに息を止めた。


 陽鞠は続ける。


「だから、私が弾いた。自分で拒んだ。朔夜が斬らなくても、私は黙って触らせない」


 その言葉に、朔夜の手の力がわずかに緩む。


 陽鞠は朔夜の隣へ出た。


 まだ手首には嫌な感触が残っている。白手袋の冷たさが、皮膚の下に染み込んだようで不快だった。それでも、下がらない。


 玻月を見る。


「あなたに確かめられる筋合いはありません」


「必要があった」


「私が許可してません」


「許可を取れば、見せたか?」


「内容によります」


「では、次は内容を話そう」


「次があると思わないでください」


 陽鞠の金色の瞳が、鋭く光る。


 玻月はそれを見て、少しだけ目を細めた。


「その目で睨むと、ますます似る」


「何に」


「まだ言うべきではないものに」


「またそれ」


 陽鞠の怒りが増す。


「知ってるなら言ってください。言えないなら、私を勝手に測らないで」


「君は、自分の霊力がどう流れているか把握しているか」


「しています」


「表層だけだ」


「勝手に決めないで」


「神社の印は、君の内側で一度跳ね返された。普通なら、あの古層の印に触れた時点で霊力を濁される。だが、君は濁されず、逆に印の一部を焼いた」


 陽鞠は息を止めた。


 かがりにも更紗にも、そこまで詳しくは話していない。


 朔夜が核を割った時、陽鞠の結界が印に触れた。確かに、黒い五芒星の一部が金色の結界光で焼けるように揺らいだ。だが、それは記録札を見なければわからないはずだ。


 玻月はどうして知っている。


 陽鞠の眉が寄る。


「記録札、見たんですか」


「見ていない」


「じゃあ、どうして」


「残っている」


 玻月の視線が、陽鞠の手首へ落ちる。


 さっき触れた場所。


 陽鞠は反射的に手首を隠した。


 朔夜の気配がまた冷える。


 玻月は薄く笑う。


「霊力の流れに、印を焼いた跡がある。君自身は気づいていないようだが」


「だからって、触っていい理由にならない」


「そうだな」


 あっさり認めた。


 陽鞠は逆に腹が立った。


「反省してませんよね」


「していない」


「最低」


「よく言われる」


「直す気は?」


「必要を感じない」


 前にも聞いたような会話だった。


 まったく進歩がない。


 この男に生活指導の教師を三人ほどつけたい。いや、三人では足りないかもしれない。人間社会の敗北である。


 玻月は裂けた白手袋を見つめ、指を軽く曲げた。


「篠宮陽鞠」


「名前を呼ばないでください」


「では、金眼の退魔師」


「もっと嫌です」


「困ったな」


「困ってる顔じゃないです」


 玻月の口元には、薄い笑みがある。


 目は笑っていない。


 その目が、陽鞠の金眼と、隠した手首と、朔夜の刀へ順に向いた。


「君は拒む力が強い。自分の輪郭を守ろうとする。だから、印に侵されにくいのかもしれない」


「私を実験みたいに言わないで」


「実験ではない。観察だ」


「同じくらい嫌です」


「なら、覚えておこう」


「覚えなくていいです」


 朔夜が一歩前へ出る。


「話は終わりだ。消えろ」


「ここは学園の廊下だ。君のものではない」


「陽鞠に触れた時点で、俺の中では敵だ」


 玻月の紫紺の瞳が、少しだけ深くなる。


「敵、か」


「違うと言うなら、次は触れるな」


「それは難しい」


 その瞬間、朔夜の刀が少しだけ抜かれた。


 銀の刃が一寸、鞘から覗く。


 陽鞠が即座に結界を張った。


 朔夜の足元へ、金色の膜。


 踏み込みを止めるためではない。


 踏み込んだ時、暴発しないよう支えるための結界。


 それに気づいて、朔夜の黒い瞳が一瞬だけ陽鞠へ向いた。


 陽鞠は首を振る。


「だめ」


「陽鞠」


「今はだめ」


 朔夜は歯を食いしばった。


 だが、刀はそれ以上抜かれなかった。


 玻月は二人を見て、かすかに笑う。


「いい連携だ。怒りの中でも、互いの癖をよく知っている」


「黙れ」


 朔夜が低く言う。


 玻月は気にしない。


「だが、綴喜朔夜。君は彼女を守る時、少し視野が狭くなる」


「お前に言われる筋合いはない」


「ないな。だが、事実だ」


「その事実を利用する気ですか」


 陽鞠が言った。


 玻月の視線が彼女へ戻る。


「どうかな」


「否定しないんですね」


「嘘は好まない」


「都合の悪いことは隠すくせに」


「隠すことと、嘘をつくことは違う」


「最低の理屈」


「これもよく言われる」


 陽鞠は本気で殴りたいと思った。


 弓ではなく拳で。


 もちろんしない。しないが、思うくらいは自由だ。人類には内心の暴力まで取り締まる法律はまだない。たぶん。あったら終わりである。


 玻月は懐から新しい白手袋を取り出した。


 裂けた手袋を、ゆっくり外す。


 陽鞠は思わず目を逸らしそうになった。


 それは裸の手を見たくなかったからではない。


 彼の仕草そのものが嫌だった。


 落ち着きすぎている。


 陽鞠に弾かれたことも、朔夜に斬ると言われたことも、まるで些細な出来事のように扱っている。白手袋を外し、新しいものへ替える。その間、視線も声も乱れない。


 余裕。


 その余裕が、ひどく不快だった。


 玻月は新しい手袋をはめると、指先を軽く整えた。


「今日はこれでいい」


「何が」


「君の拒絶を見られた」


「勝手に満足しないでください」


「満足ではない。確認だ」


「だから、それが嫌だって言ってるんです」


 陽鞠は冷たい声で言った。


「次に同じことをしたら、結界で済ませません」


 玻月の目が少しだけ細くなる。


「何をする?」


「その手ごと縫い止めます」


「できるか?」


「できます」


 陽鞠は即答した。


 その声に迷いはなかった。


 実際、できるかどうかはわからない。


 玻月の技量は異常だ。陽鞠の結界を読まれる可能性もある。真正面から止められるかは未知だ。


 それでも、できると言った。


 拒む意思を示すために。


 玻月は、少しだけ楽しそうに見えた。


 楽しそうに見えたことが、さらに嫌だった。


「覚えておこう」


「覚えなくていいって言いました」


「覚えておく価値がある」


 玻月は背を向けた。


 黒い長衣の裾が揺れる。


 朔夜の手は、まだ刀にかかっている。


 玻月は去り際に、少しだけ顔を横へ向けた。


「篠宮陽鞠。神社の印に触れた場所は、今夜熱を持つ。痛むようなら、冷やすな。浄化符を一枚、手首の内側へ貼れ」


 陽鞠は眉を寄せる。


「どうして助言するんですか」


「壊れられると困る」


 その言葉に、廊下の空気が凍った。


 朔夜の刀が、また少し抜ける。


 玻月は振り返らない。


「では、また」


「会いたくないです」


「それは君が決めることではない」


 前にも聞いた言葉。


 言い終えると同時に、玻月の気配が薄くなった。


 廊下の夕陽の中に、黒い長衣が溶けるように遠ざかっていく。足音はほとんど聞こえない。角を曲がる直前、白手袋の指先だけが一瞬光った。


 それから、彼は消えた。


 隠形術ではない。


 ただ、気配の切り方が異様に上手い。


 廊下に残ったのは、陽鞠の乱れた呼吸と、朔夜の黒銀色の霊力の名残と、剥がれかけた浄化札だけだった。


 陽鞠は手首を握ったまま立っていた。


 白手袋に触れられた場所が、まだ冷たい。


 その冷たさの下で、じわりと熱が広がり始めている。


「陽鞠」


 朔夜の声。


 低く、震えるほど怒っているのに、陽鞠へ向ける時だけは優しい。


「手、見せろ」


 陽鞠は少し迷った。


 だが、隠しても無駄だ。


 ゆっくり左手を出す。


 手首の内側に、白手袋の指が触れた形が薄く残っていた。


 赤い痕ではない。


 霊力の跡。


 玻月の指先が、陽鞠の霊力の流れに触れた場所が、薄く紫がかった影のように残っている。それが、陽鞠の金色の霊力に弾かれて、周囲が小さく焦げたようになっていた。


 朔夜の顔から表情が消えた。


「殺す」


「だめ」


「陽鞠」


「だめ」


「触った」


「私が弾いた」


「跡が残ってる」


「消す。更紗に見せる。先生にも報告する」


「その前に斬る」


「だめって言ってるでしょ!」


 陽鞠の声が廊下に響いた。


 朔夜が動きを止める。


 陽鞠は息を吸った。


「私だって腹立ってる。気持ち悪い。今すぐ手首ごと洗いたいくらい嫌。でも、朔夜が今追いかけて斬りかかったら、あの人の思う通りになる」


 朔夜は黙っている。


 陽鞠は続けた。


「それに、あの人は強い。腹立つけど強い。今ここで感情だけで動いたら危ない」


「わかってる」


 朔夜の声は低い。


「わかってるけど、許せない」


「私も許してない」


 陽鞠は朔夜を見る。


「許してないから、ちゃんと記録する。ちゃんと報告する。次に同じことをされた時、言い逃れできないようにする。感情で斬るより、その方が確実に追い詰められる」


 朔夜の黒い瞳が、少しだけ揺れた。


 彼は怒っている。


 でも、陽鞠の言葉を聞いている。


 陽鞠はそれを信じて、手首を握ったまま言った。


「朔夜。私のために怒ってくれるのは嬉しい。でも、私の代わりに全部決めないで」


 その言葉で、朔夜の表情が変わる。


 痛いところを突かれた顔だった。


 陽鞠は少しだけ声を柔らかくする。


「私は、自分で拒める。自分で弾ける。自分で怒れる。だから、隣にいて。前に立つだけじゃなくて、隣にいて」


 朔夜は長く息を吐いた。


 刀から、ようやく手を離す。


 鞘の中で刃の気配が静まった。


「……わかった」


「本当に?」


「本当に」


「追いかけない?」


「今は」


「今は?」


「陽鞠が止めるから」


「止める」


「なら、追わない」


 陽鞠はやっと少しだけ息を吐いた。


 その途端、手首の熱がはっきりしてくる。


「痛むか」


 朔夜がすぐに聞く。


「痛いというか、熱い。中を触られた感じが残ってて気持ち悪い」


 正直に言った。


 朔夜の顔がまた険しくなる。


 陽鞠は慌てて付け足した。


「斬りに行かない」


「行かない」


「顔が行きそう」


「行きたい」


「正直」


「でも行かない」


「えらい」


「ご褒美は?」


「今それ言う?」


「怒りを逸らしてる」


「自分で言うんだ」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 ほんの少し。


 それでも必要だった。


 陽鞠は封印ケースを抱え直す。


「更紗のところへ行こう。この手首も見せる」


「かがり先生にも」


「うん」


「俺も行く」


「当たり前でしょ」


 陽鞠はそう言って歩き出しかけた。


 しかし、朔夜が彼女の前に立つ。


「待て」


「何」


 朔夜は自分のポケットから清浄布を取り出した。


 霊符で浄化済みの白い布。


 それを、陽鞠の左手首にそっと巻いた。


 触れ方は、玻月とはまったく違った。


 見ようとする手ではない。


 測ろうとする手ではない。


 陽鞠が嫌だと言えば、すぐ離れる手。


 その違いだけで、胸の奥にあった不快感が少しだけ薄れる。


「きつくないか」


「うん」


「痛い?」


「少し。でも大丈夫」


「禁止」


「……少し熱い。気持ち悪い。でも、朔夜が巻いてくれたら、まし」


 朔夜の表情が少しだけ揺れた。


「まし?」


「うん」


「なら、もっと」


「え」


 朔夜は陽鞠の手首を取らなかった。


 代わりに、清浄布の上から、ほんの少しだけ唇を触れさせた。


 キスというより、熱を確かめるような触れ方だった。


 陽鞠の息が止まる。


「朔夜」


「上書き」


「……手首に?」


「嫌な感触、残ってるだろ」


「うん」


「俺のに変える」


「言い方」


「嫌?」


 陽鞠は一瞬だけ黙った。


 玻月に触れられた時の不快感が、まだ消えない。


 けれど、清浄布越しの朔夜の唇は、嫌ではなかった。


 むしろ、少しだけ呼吸が戻る。


「嫌じゃない」


 小さく答える。


 朔夜はもう一度だけ、同じ場所へ唇を落とした。


 短く。


 静かに。


 今度は陽鞠の意思を確かめた上で。


 そのことが、何より大きかった。


「……ありがとう」


 陽鞠が呟く。


 朔夜は顔を上げる。


「まだ怒ってる」


「知ってる」


「でも、今は更紗」


「うん」


「その後、先生」


「うん」


「その後、玻月への対策」


「うん」


「その後、もう一回上書き」


「最後だけおかしい」


「必要」


「検討」


「許可だな」


「検討って言った」


 朔夜の口元が少しだけ緩む。


 陽鞠も、ほんの少しだけ笑った。


 手首の熱はまだある。


 白手袋の感触も、完全には消えていない。


 御影堂玻月は去った。


 余裕を崩さず、何かを確かめ、また会うと言い残して。


 彼が何を知っているのか、何を見ているのか、まだわからない。


 だが、ひとつだけはっきりした。


 玻月は陽鞠をただの退魔師として見ていない。


 金眼。


 霊力の流れ。


 黒い五芒星を焼いた跡。


 彼はそこに、何かを見ている。


 そして、そのためなら陽鞠の許可なく踏み込む。


 陽鞠は清浄布を巻かれた左手首を見下ろした。


 怒りは消えない。


 嫌悪も消えない。


 でも、震えてはいなかった。


「朔夜」


「何」


「次にあの人が近づいたら、私が先に結界を張る」


「ああ」


「朔夜は、刀を抜く前に一回私を見る」


「一回?」


「一回」


「それで止まれるかは」


「約束」


 朔夜は少し黙った。


 それから頷いた。


「約束する」


「よし」


「でも、触ったら」


「私が弾く」


「それでも触ったら」


「その時は、一緒に止める」


 朔夜の黒い瞳が、陽鞠を見た。


「一緒に?」


「うん。一緒に」


 陽鞠ははっきり言った。


「私を勝手に測らせない。朔夜を勝手に怒らせて利用させない。二人で止める」


 朔夜の表情から、少しだけ張り詰めたものが抜けた。


「ああ」


 二人は並んで歩き出した。


 解析棟へ向かう廊下は、夕方の光で長い影が伸びている。剥がれかけた浄化札が、後ろの壁でまだ小さく揺れていた。白手袋の男が消えた角には、もう何の気配もない。


 それでも、陽鞠は忘れない。


 冷たい手袋。


 霊力の流れを覗かれる不快感。


 玻月の笑っていない目。


 いい、と言った声。


 そのすべてが、彼がただの協力者ではないことを告げていた。


 指輪同士が触れる。


 ちり、と鳴る。


 今度は、陽鞠の右手と朔夜の左手。


 触れることを選んだ音。


 勝手に奪われた接触ではない。


 自分たちで選んで繋いだ音だった。


 陽鞠はその音を聞きながら、清浄布の巻かれた左手首を軽く握った。


 白手袋の痕は、必ず消す。


 けれど、その前に記録する。


 忘れないために。


 次に拒むために。


 そして、御影堂玻月が何を見ようとしているのか、こちらから見返すために。


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