第14話 玻月の手袋
神社任務の報告は、思ったより長引いた。
妖そのものは祓えた。社殿下に残っていた霊気も、陽鞠の浄化結界と朔夜の霊符で最低限封じた。現地の年配退魔師からの追加報告もあり、任務としては完了扱いでいい。そう、任務としては。
問題は、黒い五芒星の残滓だった。
社殿下の黒い鈴の核に、一瞬だけ浮かんだ印。完全に残っていたわけではない。朔夜が核を割った瞬間、印は霊気ごと砕け散った。だが、陽鞠はその直前に結界で霊力の流れを読み取り、更紗へ送るための記録札に焼きつけていた。
さらに、年配の退魔師が陽鞠を「神の子」と呼んだ件も、朔夜がしっかり報告した。
陽鞠としては、そこまで大事にしなくてもいいと思った。
思っただけだった。
朔夜は容赦がなかった。
かがりに事実を淡々と伝えた。言葉を足しすぎることも、感情で大げさにすることもなく、ただ、陽鞠が嫌がった呼称を現場で使われたこと、その後本人が拒絶したこと、今後同様の表現を避けるよう協会側へ共有すべきことを報告した。
感情的に怒鳴るより、むしろ怖かった。
こういう時の朔夜は本当に面倒くさい。いい意味でも悪い意味でも面倒くさい。人間の愛情は時々、事務処理能力を伴って殴ってくる。厄介である。
かがりは報告を聞き終えると、深く息を吐いた。
「その件はこちらから協会へ伝えておく。篠宮」
「はい」
「嫌な呼び方をされた時は、今後も拒否していい。任務中でもだ」
陽鞠は少しだけ目を伏せた。
「……はい」
「お前は神でも供物でも象徴でもない。退魔師だ。学生だ。篠宮陽鞠だ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
陽鞠は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
朔夜は隣で何も言わない。
でも、手がそっと陽鞠の手に触れた。
指輪同士が鳴る。
ちり、と小さく。
かがりはその音に気づいたのか気づかなかったのか、書類を閉じた。
「それと、黒い五芒星の記録札は更紗に回せ。解析結果が出るまでは、二人とも印に直接触れるな。特に綴喜」
「はい」
「篠宮もだ」
「はい」
「お前たちは、最近その印に反応されすぎている。無茶をすれば、こちらの情報まで向こうへ流れる可能性がある」
陽鞠は眉を寄せた。
「向こう、ですか」
「術式の先がまだ見えない以上、そう呼ぶしかない」
かがりの声は硬かった。
「誰が、何のために、どこから見ているのか。何も断定できない。だからこそ、不用意に触れるな」
「わかりました」
陽鞠は頷いた。
けれど、胸の奥には消えない苛立ちがある。
黒い五芒星。
自然発生した妖に外部から凶暴性を与え、人を襲わせる印。
その印が、自分たちの霊力に反応しているかもしれない。
御影堂玻月も、何かを知っているようだった。
白手袋の指先で妖核の残滓を扱い、平然と持ち去った男。陽鞠の金眼を見て、興味を持った男。君の金色はよく燃える、と嫌な言葉を残した男。
思い出すだけで、首筋がざらつく。
「篠宮」
かがりの声で、陽鞠は我に返った。
「顔が険しい」
「すみません」
「謝るところではない。疲れているなら休め」
「大丈夫です」
「禁止」
朔夜が隣で言った。
陽鞠はむっとして彼を見る。
「朔夜、先生と同時に言わないで」
「癖」
「嫌な癖」
かがりは額を押さえた。
「綴喜と意見が一致するのは癪だが、今回は同意だ。今日は解析棟へ記録札を届けたら、そのまま休め。寄り道するな」
「はい」
「はい」
二人は同時に返事をした。
その返事を聞いたかがりの目は、まったく信用していなかった。
妥当である。
退魔学園の廊下は、夕方の光を受けて少し橙色に染まっていた。
授業はほとんど終わり、教室からは部活へ向かう生徒の声や、任務準備で走る上級生の足音が聞こえている。窓の外では、実技場の結界塔が夕陽を反射して淡く光っていた。
陽鞠は更紗へ渡す記録札を封印ケースに入れ、胸の前で抱えていた。
朔夜は隣を歩いている。
いつもなら手を繋いでいる距離だが、今は陽鞠がケースを持っているので、指先だけが時々触れる。そのたびに朔夜が少し不満そうな顔をするので、陽鞠は内心で少し笑った。
「朔夜」
「何」
「顔」
「何」
「手、繋げなくて不満って顔してる」
「不満だ」
「正直」
「隠す必要あるか」
「あるような、ないような」
「ケース持つ」
「だめ。更紗に直接渡す」
「じゃあ、片手」
「封印ケースを落としたら先生に怒られる」
「俺が受ける」
「怒られるのを?」
「ケースを」
「怒られるのも受けて」
「それは嫌だ」
「正直」
陽鞠は小さく笑った。
笑えたことに、自分で少し驚く。
神社で言われた言葉は、まだ胸の奥に冷たく残っている。けれど、かがりに言われたこと、朔夜が何度も名前を呼んでくれたこと、そのどちらもちゃんと温度として残っていた。
自分は神の子ではない。
篠宮陽鞠だ。
そう言い聞かせる。
その時、廊下の先で空気が変わった。
夕方の光が一瞬、細く揺れる。
足音はしなかった。
だが、気配があった。
薄く、冷たく、よく磨かれた刃のような気配。
朔夜が即座に足を止めた。
黒い瞳が鋭くなる。
陽鞠もケースを抱える手に力を入れた。
廊下の曲がり角から、黒い長衣の裾が現れた。
御影堂玻月だった。
濡羽色の長い髪を低く結び、片耳には古い銀の耳飾り。黒い長衣は夕方の廊下の影に溶けるようで、白手袋だけがやけに浮いて見えた。紫紺の瞳は、いつものように薄い笑みの奥で笑っていない。
陽鞠の背筋が冷える。
朔夜が半歩前へ出た。
「何の用だ」
挨拶も何もなかった。
玻月は気にした様子もなく、薄く笑った。
「相変わらず、噛みつきそうな目をしている」
「用件を言え」
「君にではない」
玻月の視線が、朔夜の横を抜けて陽鞠へ向かう。
金色の瞳へ。
陽鞠は眉を寄せた。
「私にも、あなたに用はありません」
「そう言うな。神社の記録札を持っているのだろう」
陽鞠は封印ケースを抱え直した。
「更紗に渡します」
「解析科の若槻か。優秀だが、印の古層まではまだ追えまい」
「あなたに渡す気はありません」
「それは残念だ」
言葉の割に、玻月の声はまったく残念そうではない。
腹立たしい。
この男は、いつもそうだ。相手の感情を揺らす言葉を選びながら、自分だけ一段外にいるような顔をする。叩いても手応えがなさそうで、実際に叩けばこちらの手首だけ痛くなりそうな男。最悪の類いである。
朔夜の手が、腰の刀へ近づいた。
「近づくな」
「まだ何もしていない」
「する前に言ってる」
「過保護だな」
「お前相手なら足りないくらいだ」
玻月の紫紺の瞳が、わずかに細くなる。
「いい反応だ」
「観察するな」
朔夜の声が低くなる。
陽鞠は朔夜の袖を軽く引いた。
「朔夜」
「下がってろ」
「嫌」
「陽鞠」
「私に用があるんでしょ。私が聞く」
朔夜は不満そうに彼女を見る。
陽鞠は視線を返した。
隠されるだけは嫌だ。
守られることは嬉しい。怖い時に前へ出てくれることも、何度も救われている。けれど、玻月に見られているのが自分なら、自分の声で拒まなければならない。
陽鞠は朔夜の半歩隣へ出た。
玻月を見る。
「何ですか」
玻月の目が、興味深そうに光る。
「神社の妖に触れたな」
「祓いました」
「触れたのは核か、印か」
「答える必要がありますか」
「ある」
「誰に対して?」
「君自身に」
陽鞠は眉を寄せた。
玻月は一歩近づく。
朔夜の気配が鋭くなる。
白手袋の指先が、夕方の光の中で静かに動いた。
「寺社系の古い妖に、黒い五芒星が打ち込まれていた。あれは、通常の凶暴化とは少し違う。土地の信仰残滓に絡めて、核の奥へ沈められている」
「……やっぱり知ってるんですね」
「少しは」
「なら説明してください」
「説明の前に、確かめたい」
その言葉を聞いた瞬間、陽鞠は嫌な予感を覚えた。
次の瞬間だった。
玻月の白手袋の手が伸びた。
速い。
見えていた。
けれど、距離の詰め方が妙だった。踏み込んだように見えないのに、彼の指先は陽鞠の手元へ届いていた。朔夜が反応するよりわずかに早く、白手袋の指が陽鞠の左手首を取る。
冷たい。
手袋越しなのに、ひどく冷たかった。
肌に直接触れられたわけではない。布一枚隔てている。それなのに、そこから霊力の流れを覗かれるような不快感が走った。手首の内側。脈の上。結界を張る時に霊力が通る細い道。その流れを、白手袋の指先が正確に捉えている。
陽鞠の呼吸が止まる。
玻月の紫紺の瞳が、陽鞠の金眼を見た。
「やはり、神社の印に触れたか。霊力の表層に残っている」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、吐き気がするほど嫌だった。
「離して」
陽鞠の声は低かった。
「一瞬でいい」
「離せって言ってる」
「動くな。流れを見るだけだ」
白手袋の親指が、手首の内側をわずかに押さえる。
その瞬間、陽鞠の中で何かが弾けた。
勝手に見るな。
勝手に測るな。
勝手に触れるな。
自分の霊力を、目を、手首を、誰かのもののように扱うな。
陽鞠の金色の瞳が燃える。
「触るな!」
彼女の手首から、金色の結界が爆ぜた。
薄膜ではない。
防御でもない。
拒絶そのものの結界。
手首を中心に、鋭い光が花弁のように開き、次の瞬間、刃のような破片となって弾ける。空気が破裂する音がした。廊下の窓硝子がびり、と震え、壁に貼られた浄化札が一枚剥がれかける。
玻月の白手袋が、陽鞠の手首から離れた。
ただ離れただけではない。
弾き飛ばされた。
白手袋の指先に、金色の光の傷が走る。手袋の布が一筋裂け、下の肌は見えないまま、霊力だけが薄く焦げた。
陽鞠は即座に後ろへ跳んだ。
封印ケースを落とさないよう抱え直しながら、右手で弓へ触れる。
心臓が速い。
怒りで。
嫌悪で。
不快感で。
手首に残った感触が、虫のように這っている。
気持ち悪い。
陽鞠は手首を強く握った。
「二度と触らないで」
声は震えていなかった。
むしろ、冷たかった。
玻月は自分の白手袋を見た。
裂けた指先。
金色の結界に焼かれた跡。
それを見て、彼は笑った。
薄く。
静かに。
まるで、予想外の美しい反応を見つけたように。
「いい」
玻月が言った。
「その拒絶は悪くない」
その言葉で、朔夜が動いた。
彼は完全に陽鞠の前へ出た。
腰の刀へ手をかける。
鯉口がわずかに切られ、銀の刃の気配が廊下に満ちる。黒い瞳は冷え切っていた。怒りが燃えているのに、声だけは低く静かだった。
「次に触れたら、斬る」
空気が止まる。
廊下の向こうで、通りかかった生徒が足を止め、すぐに青ざめて引き返した。賢明である。S級二人と白手袋の面倒な男の対峙など、一般生徒が見物するには命が軽すぎる。
玻月は朔夜を見た。
紫紺の瞳に、わずかな愉快そうな色が浮かぶ。
「抜く前に、私の喉へ届くと思うか」
「届かせる」
「今の君では、まだ無理だ」
「試すか」
「朔夜!」
陽鞠が叫ぶ。
朔夜の指は刀から離れない。
だが、抜かない。
陽鞠の声で止まっている。
玻月はその様子を見て、また薄く笑った。
「本当に、君は彼女の声で止まる」
「黙れ」
「美点だ。弱点でもある」
「黙れって言った」
朔夜の霊力が廊下の床を這う。
黒銀色の圧が広がり、足元の影が濃くなった。壁の浄化札が震える。陽鞠はその気配に、背中が冷えるのを感じた。
朔夜が本気で怒っている。
けれど、ここで抜かせてはいけない。
玻月は強い。
それに、今ここで斬りかかれば、相手の思う通りになる。玻月は余裕を崩していない。陽鞠が結界を爆ぜさせても、白手袋が裂けても、あの男は楽しんでいるようにすら見える。
それが余計に腹立たしい。
陽鞠は朔夜の背中へ手を伸ばした。
服を掴む。
「朔夜、抜かないで」
「触られた」
「わかってる」
「お前が嫌がった」
「わかってる!」
陽鞠の声が少し強くなる。
朔夜がわずかに息を止めた。
陽鞠は続ける。
「だから、私が弾いた。自分で拒んだ。朔夜が斬らなくても、私は黙って触らせない」
その言葉に、朔夜の手の力がわずかに緩む。
陽鞠は朔夜の隣へ出た。
まだ手首には嫌な感触が残っている。白手袋の冷たさが、皮膚の下に染み込んだようで不快だった。それでも、下がらない。
玻月を見る。
「あなたに確かめられる筋合いはありません」
「必要があった」
「私が許可してません」
「許可を取れば、見せたか?」
「内容によります」
「では、次は内容を話そう」
「次があると思わないでください」
陽鞠の金色の瞳が、鋭く光る。
玻月はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「その目で睨むと、ますます似る」
「何に」
「まだ言うべきではないものに」
「またそれ」
陽鞠の怒りが増す。
「知ってるなら言ってください。言えないなら、私を勝手に測らないで」
「君は、自分の霊力がどう流れているか把握しているか」
「しています」
「表層だけだ」
「勝手に決めないで」
「神社の印は、君の内側で一度跳ね返された。普通なら、あの古層の印に触れた時点で霊力を濁される。だが、君は濁されず、逆に印の一部を焼いた」
陽鞠は息を止めた。
かがりにも更紗にも、そこまで詳しくは話していない。
朔夜が核を割った時、陽鞠の結界が印に触れた。確かに、黒い五芒星の一部が金色の結界光で焼けるように揺らいだ。だが、それは記録札を見なければわからないはずだ。
玻月はどうして知っている。
陽鞠の眉が寄る。
「記録札、見たんですか」
「見ていない」
「じゃあ、どうして」
「残っている」
玻月の視線が、陽鞠の手首へ落ちる。
さっき触れた場所。
陽鞠は反射的に手首を隠した。
朔夜の気配がまた冷える。
玻月は薄く笑う。
「霊力の流れに、印を焼いた跡がある。君自身は気づいていないようだが」
「だからって、触っていい理由にならない」
「そうだな」
あっさり認めた。
陽鞠は逆に腹が立った。
「反省してませんよね」
「していない」
「最低」
「よく言われる」
「直す気は?」
「必要を感じない」
前にも聞いたような会話だった。
まったく進歩がない。
この男に生活指導の教師を三人ほどつけたい。いや、三人では足りないかもしれない。人間社会の敗北である。
玻月は裂けた白手袋を見つめ、指を軽く曲げた。
「篠宮陽鞠」
「名前を呼ばないでください」
「では、金眼の退魔師」
「もっと嫌です」
「困ったな」
「困ってる顔じゃないです」
玻月の口元には、薄い笑みがある。
目は笑っていない。
その目が、陽鞠の金眼と、隠した手首と、朔夜の刀へ順に向いた。
「君は拒む力が強い。自分の輪郭を守ろうとする。だから、印に侵されにくいのかもしれない」
「私を実験みたいに言わないで」
「実験ではない。観察だ」
「同じくらい嫌です」
「なら、覚えておこう」
「覚えなくていいです」
朔夜が一歩前へ出る。
「話は終わりだ。消えろ」
「ここは学園の廊下だ。君のものではない」
「陽鞠に触れた時点で、俺の中では敵だ」
玻月の紫紺の瞳が、少しだけ深くなる。
「敵、か」
「違うと言うなら、次は触れるな」
「それは難しい」
その瞬間、朔夜の刀が少しだけ抜かれた。
銀の刃が一寸、鞘から覗く。
陽鞠が即座に結界を張った。
朔夜の足元へ、金色の膜。
踏み込みを止めるためではない。
踏み込んだ時、暴発しないよう支えるための結界。
それに気づいて、朔夜の黒い瞳が一瞬だけ陽鞠へ向いた。
陽鞠は首を振る。
「だめ」
「陽鞠」
「今はだめ」
朔夜は歯を食いしばった。
だが、刀はそれ以上抜かれなかった。
玻月は二人を見て、かすかに笑う。
「いい連携だ。怒りの中でも、互いの癖をよく知っている」
「黙れ」
朔夜が低く言う。
玻月は気にしない。
「だが、綴喜朔夜。君は彼女を守る時、少し視野が狭くなる」
「お前に言われる筋合いはない」
「ないな。だが、事実だ」
「その事実を利用する気ですか」
陽鞠が言った。
玻月の視線が彼女へ戻る。
「どうかな」
「否定しないんですね」
「嘘は好まない」
「都合の悪いことは隠すくせに」
「隠すことと、嘘をつくことは違う」
「最低の理屈」
「これもよく言われる」
陽鞠は本気で殴りたいと思った。
弓ではなく拳で。
もちろんしない。しないが、思うくらいは自由だ。人類には内心の暴力まで取り締まる法律はまだない。たぶん。あったら終わりである。
玻月は懐から新しい白手袋を取り出した。
裂けた手袋を、ゆっくり外す。
陽鞠は思わず目を逸らしそうになった。
それは裸の手を見たくなかったからではない。
彼の仕草そのものが嫌だった。
落ち着きすぎている。
陽鞠に弾かれたことも、朔夜に斬ると言われたことも、まるで些細な出来事のように扱っている。白手袋を外し、新しいものへ替える。その間、視線も声も乱れない。
余裕。
その余裕が、ひどく不快だった。
玻月は新しい手袋をはめると、指先を軽く整えた。
「今日はこれでいい」
「何が」
「君の拒絶を見られた」
「勝手に満足しないでください」
「満足ではない。確認だ」
「だから、それが嫌だって言ってるんです」
陽鞠は冷たい声で言った。
「次に同じことをしたら、結界で済ませません」
玻月の目が少しだけ細くなる。
「何をする?」
「その手ごと縫い止めます」
「できるか?」
「できます」
陽鞠は即答した。
その声に迷いはなかった。
実際、できるかどうかはわからない。
玻月の技量は異常だ。陽鞠の結界を読まれる可能性もある。真正面から止められるかは未知だ。
それでも、できると言った。
拒む意思を示すために。
玻月は、少しだけ楽しそうに見えた。
楽しそうに見えたことが、さらに嫌だった。
「覚えておこう」
「覚えなくていいって言いました」
「覚えておく価値がある」
玻月は背を向けた。
黒い長衣の裾が揺れる。
朔夜の手は、まだ刀にかかっている。
玻月は去り際に、少しだけ顔を横へ向けた。
「篠宮陽鞠。神社の印に触れた場所は、今夜熱を持つ。痛むようなら、冷やすな。浄化符を一枚、手首の内側へ貼れ」
陽鞠は眉を寄せる。
「どうして助言するんですか」
「壊れられると困る」
その言葉に、廊下の空気が凍った。
朔夜の刀が、また少し抜ける。
玻月は振り返らない。
「では、また」
「会いたくないです」
「それは君が決めることではない」
前にも聞いた言葉。
言い終えると同時に、玻月の気配が薄くなった。
廊下の夕陽の中に、黒い長衣が溶けるように遠ざかっていく。足音はほとんど聞こえない。角を曲がる直前、白手袋の指先だけが一瞬光った。
それから、彼は消えた。
隠形術ではない。
ただ、気配の切り方が異様に上手い。
廊下に残ったのは、陽鞠の乱れた呼吸と、朔夜の黒銀色の霊力の名残と、剥がれかけた浄化札だけだった。
陽鞠は手首を握ったまま立っていた。
白手袋に触れられた場所が、まだ冷たい。
その冷たさの下で、じわりと熱が広がり始めている。
「陽鞠」
朔夜の声。
低く、震えるほど怒っているのに、陽鞠へ向ける時だけは優しい。
「手、見せろ」
陽鞠は少し迷った。
だが、隠しても無駄だ。
ゆっくり左手を出す。
手首の内側に、白手袋の指が触れた形が薄く残っていた。
赤い痕ではない。
霊力の跡。
玻月の指先が、陽鞠の霊力の流れに触れた場所が、薄く紫がかった影のように残っている。それが、陽鞠の金色の霊力に弾かれて、周囲が小さく焦げたようになっていた。
朔夜の顔から表情が消えた。
「殺す」
「だめ」
「陽鞠」
「だめ」
「触った」
「私が弾いた」
「跡が残ってる」
「消す。更紗に見せる。先生にも報告する」
「その前に斬る」
「だめって言ってるでしょ!」
陽鞠の声が廊下に響いた。
朔夜が動きを止める。
陽鞠は息を吸った。
「私だって腹立ってる。気持ち悪い。今すぐ手首ごと洗いたいくらい嫌。でも、朔夜が今追いかけて斬りかかったら、あの人の思う通りになる」
朔夜は黙っている。
陽鞠は続けた。
「それに、あの人は強い。腹立つけど強い。今ここで感情だけで動いたら危ない」
「わかってる」
朔夜の声は低い。
「わかってるけど、許せない」
「私も許してない」
陽鞠は朔夜を見る。
「許してないから、ちゃんと記録する。ちゃんと報告する。次に同じことをされた時、言い逃れできないようにする。感情で斬るより、その方が確実に追い詰められる」
朔夜の黒い瞳が、少しだけ揺れた。
彼は怒っている。
でも、陽鞠の言葉を聞いている。
陽鞠はそれを信じて、手首を握ったまま言った。
「朔夜。私のために怒ってくれるのは嬉しい。でも、私の代わりに全部決めないで」
その言葉で、朔夜の表情が変わる。
痛いところを突かれた顔だった。
陽鞠は少しだけ声を柔らかくする。
「私は、自分で拒める。自分で弾ける。自分で怒れる。だから、隣にいて。前に立つだけじゃなくて、隣にいて」
朔夜は長く息を吐いた。
刀から、ようやく手を離す。
鞘の中で刃の気配が静まった。
「……わかった」
「本当に?」
「本当に」
「追いかけない?」
「今は」
「今は?」
「陽鞠が止めるから」
「止める」
「なら、追わない」
陽鞠はやっと少しだけ息を吐いた。
その途端、手首の熱がはっきりしてくる。
「痛むか」
朔夜がすぐに聞く。
「痛いというか、熱い。中を触られた感じが残ってて気持ち悪い」
正直に言った。
朔夜の顔がまた険しくなる。
陽鞠は慌てて付け足した。
「斬りに行かない」
「行かない」
「顔が行きそう」
「行きたい」
「正直」
「でも行かない」
「えらい」
「ご褒美は?」
「今それ言う?」
「怒りを逸らしてる」
「自分で言うんだ」
少しだけ、空気が緩んだ。
ほんの少し。
それでも必要だった。
陽鞠は封印ケースを抱え直す。
「更紗のところへ行こう。この手首も見せる」
「かがり先生にも」
「うん」
「俺も行く」
「当たり前でしょ」
陽鞠はそう言って歩き出しかけた。
しかし、朔夜が彼女の前に立つ。
「待て」
「何」
朔夜は自分のポケットから清浄布を取り出した。
霊符で浄化済みの白い布。
それを、陽鞠の左手首にそっと巻いた。
触れ方は、玻月とはまったく違った。
見ようとする手ではない。
測ろうとする手ではない。
陽鞠が嫌だと言えば、すぐ離れる手。
その違いだけで、胸の奥にあった不快感が少しだけ薄れる。
「きつくないか」
「うん」
「痛い?」
「少し。でも大丈夫」
「禁止」
「……少し熱い。気持ち悪い。でも、朔夜が巻いてくれたら、まし」
朔夜の表情が少しだけ揺れた。
「まし?」
「うん」
「なら、もっと」
「え」
朔夜は陽鞠の手首を取らなかった。
代わりに、清浄布の上から、ほんの少しだけ唇を触れさせた。
キスというより、熱を確かめるような触れ方だった。
陽鞠の息が止まる。
「朔夜」
「上書き」
「……手首に?」
「嫌な感触、残ってるだろ」
「うん」
「俺のに変える」
「言い方」
「嫌?」
陽鞠は一瞬だけ黙った。
玻月に触れられた時の不快感が、まだ消えない。
けれど、清浄布越しの朔夜の唇は、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ呼吸が戻る。
「嫌じゃない」
小さく答える。
朔夜はもう一度だけ、同じ場所へ唇を落とした。
短く。
静かに。
今度は陽鞠の意思を確かめた上で。
そのことが、何より大きかった。
「……ありがとう」
陽鞠が呟く。
朔夜は顔を上げる。
「まだ怒ってる」
「知ってる」
「でも、今は更紗」
「うん」
「その後、先生」
「うん」
「その後、玻月への対策」
「うん」
「その後、もう一回上書き」
「最後だけおかしい」
「必要」
「検討」
「許可だな」
「検討って言った」
朔夜の口元が少しだけ緩む。
陽鞠も、ほんの少しだけ笑った。
手首の熱はまだある。
白手袋の感触も、完全には消えていない。
御影堂玻月は去った。
余裕を崩さず、何かを確かめ、また会うと言い残して。
彼が何を知っているのか、何を見ているのか、まだわからない。
だが、ひとつだけはっきりした。
玻月は陽鞠をただの退魔師として見ていない。
金眼。
霊力の流れ。
黒い五芒星を焼いた跡。
彼はそこに、何かを見ている。
そして、そのためなら陽鞠の許可なく踏み込む。
陽鞠は清浄布を巻かれた左手首を見下ろした。
怒りは消えない。
嫌悪も消えない。
でも、震えてはいなかった。
「朔夜」
「何」
「次にあの人が近づいたら、私が先に結界を張る」
「ああ」
「朔夜は、刀を抜く前に一回私を見る」
「一回?」
「一回」
「それで止まれるかは」
「約束」
朔夜は少し黙った。
それから頷いた。
「約束する」
「よし」
「でも、触ったら」
「私が弾く」
「それでも触ったら」
「その時は、一緒に止める」
朔夜の黒い瞳が、陽鞠を見た。
「一緒に?」
「うん。一緒に」
陽鞠ははっきり言った。
「私を勝手に測らせない。朔夜を勝手に怒らせて利用させない。二人で止める」
朔夜の表情から、少しだけ張り詰めたものが抜けた。
「ああ」
二人は並んで歩き出した。
解析棟へ向かう廊下は、夕方の光で長い影が伸びている。剥がれかけた浄化札が、後ろの壁でまだ小さく揺れていた。白手袋の男が消えた角には、もう何の気配もない。
それでも、陽鞠は忘れない。
冷たい手袋。
霊力の流れを覗かれる不快感。
玻月の笑っていない目。
いい、と言った声。
そのすべてが、彼がただの協力者ではないことを告げていた。
指輪同士が触れる。
ちり、と鳴る。
今度は、陽鞠の右手と朔夜の左手。
触れることを選んだ音。
勝手に奪われた接触ではない。
自分たちで選んで繋いだ音だった。
陽鞠はその音を聞きながら、清浄布の巻かれた左手首を軽く握った。
白手袋の痕は、必ず消す。
けれど、その前に記録する。
忘れないために。
次に拒むために。
そして、御影堂玻月が何を見ようとしているのか、こちらから見返すために。




