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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第15話 凶暴化の条件


 解析棟の会議室には、昼の光がほとんど入らなかった。


 窓はある。だが、外側に遮断結界が張られているせいで、硝子越しの景色は薄い水の底のように歪んで見える。壁には霊力投影用の白い板があり、中央の長机には封印ケース、記録札、地図、端末が乱雑に並べられていた。机の隅には、飲みかけの缶コーヒーが三本。うち二本は更紗のものだ。


 人類は睡眠不足をカフェインでごまかす生き物だが、そろそろ文明として敗北を認めた方がいい。


 陽鞠は会議室の椅子に座り、左手首に巻かれた清浄布を見下ろしていた。


 白い布の下では、まだ熱が残っている。


 玻月に触れられた場所。


 白手袋の指先が、霊力の流れを確かめるように押さえた場所。


 思い出すだけで、皮膚の下がぞわりとする。直接肌に触れられたわけではない。けれど、もっと嫌だった。身体の内側を覗かれたような不快感。自分の霊力が、自分の許可なく測られたような怒り。


 陽鞠は布の上から手首を握った。


 すぐ隣で、朔夜の気配が動く。


「痛むか」


「熱いだけ」


「痛むか」


「……少し」


「正直でよろしい」


「真似しないで」


 陽鞠は小さく言った。


 朔夜の声は静かだったが、怒りはまだ消えていない。むしろ、低いところでずっと燃えている。彼は会議室に入ってからも、陽鞠の左側に立つ位置を選んだ。誰かが手首へ近づいたら、すぐ間に入れるように。


 過保護だ。


 でも今日は、それを責める気にはなれなかった。


 会議室の扉が開いた。


 澄庭かがりが入ってくる。


 いつもの教師用の羽織の上に、協会からの報告書を抱えていた。表情は厳しい。眉間の皺は通常運転より深い。これは大変よくない。かがりの眉間は学園危機度を示す気象計みたいなものだ。今日の予報は荒天である。


 その後ろから、透羽が端末を抱えて続いた。


 透羽は情報整理班に回されることの多い上級生で、戦闘よりも記録、地図、術式ログの照合を得意としている。薄茶色の髪を後ろで緩くまとめ、丸い眼鏡をかけていた。柔らかそうな顔立ちなのに、端末を見る目だけは異様に鋭い。普段はのんびりした声で話すが、データに関しては容赦がない。


 最後に、更紗が入ってきた。


 黒髪はいつもより少し乱れ、青いフレームの眼鏡の奥には濃い隈がある。白衣の袖には霊符の焦げ跡がついていた。寝ていない。間違いなく寝ていない。五時間寝る約束はどこへ行ったのか。人類、約束をカフェインで溶かすな。


「更紗」


 陽鞠が低く呼ぶ。


「何」


「寝た?」


「横になった」


「寝たか聞いてる」


「目を閉じた」


「睡眠じゃない」


「解析者の睡眠」


「そんな分類ない」


 更紗は淡々と椅子に座り、端末を開いた。


 かがりがそれを見て、深く息を吐く。


「若槻。後で仮眠室へ行け」


「解析が終わったら」


「今終わらせる。そのための整理だ」


「了解」


 更紗は素直に頷いた。


 素直だが、信用はできない。眠らない人間の「了解」は、妖の「もう襲わない」と同じくらい信用ならない。たぶん。


 かがりは会議室の扉を閉め、内側の遮断結界を起動した。


 淡い青い膜が壁全体を覆う。


 外の音が遠くなる。


「ここから先は、記録制限をかける。現時点で確定していない内容も含む。断定は避けろ。ただし、可能性は潰すな」


「はい」


 陽鞠と朔夜が同時に返事をした。


 透羽が端末を投影板へ接続する。


 白い板の上に、市内地図が浮かび上がった。


 赤い点がいくつも表示される。


 駅前広場。


 ゲームセンター。


 映画館地下。


 旧商店街跡。


 山裾の神社。


 そして、昨夜の印刷工場跡。


 陽鞠の胸の奥が重くなる。


 どの場所にも、妖が出た。


 どの場所にも、自分たちが向かった。


 それが偶然なら、あまりに出来すぎている。


「まず、発生地点と時系列」


 透羽が静かな声で言った。


「過去十日間で、凶暴化または異常増幅が確認された妖は六件。うち黒い五芒星の印が直接確認されたものは五件。印刷工場跡は印の断片までは確認されていないけれど、霊気の増幅パターンは近い」


 地図上の赤い点が順に光る。


「駅前広場は朝。篠宮さんと綴喜くんが通学中に近い位置にいた。ゲームセンターは放課後デート中。映画館地下は上映後、二人が地下へ降りた直後。旧商店街跡は任務通知を受けて移動。神社も任務通知。印刷工場跡は協会経由の指名に近い応援要請」


 陽鞠は眉を寄せる。


「指名に近い?」


「正式には指名じゃない。でも要請文に『精密結界が可能なS級特待生、および近接戦闘に優れたS級特待生の同行が望ましい』ってある」


 透羽は端末を操作した。


 投影板に協会の要請文が映る。


 確かに、名前は書かれていない。


 だが、条件はほとんど陽鞠と朔夜だった。


 陽鞠の指が、無意識に机の端を掴む。


「それ、私たちのことじゃん」


「ほぼそう」


 透羽は淡々と言った。


「もちろん、他にも該当する退魔師はゼロではない。けど、学園近辺で即応可能なS級特待生となると、篠宮さんと綴喜くんが最有力になる」


 朔夜の声が低くなる。


「誰が要請を出した」


「協会の地域管理課。文面作成者は通常処理になってる。ただ、元の通報データを誰が上げたかは、まだ追えてない」


「追えない?」


「途中で記録が薄い。消されたというより、最初から曖昧な形で上がってる。通報者、現場確認者、一次判定者の情報がばらけている。誰かが故意にそうした可能性はあるけど、協会の事務処理が雑な可能性もある」


 かがりがこめかみを押さえた。


「後者も否定できないのが腹立たしいな」


 透羽は頷く。


「はい。人間の雑さは、悪意と区別がつきにくいです」


「名言みたいに言うな」


 陽鞠は小さく息を吐いた。


 笑えるような言葉なのに、笑えない。


 かがりが投影板を見たまま言う。


「次、術式解析」


 更紗が端末を操作した。


 地図の横に、妖核の投影が並ぶ。


 黒い五芒星の印。


 それぞれ形は微妙に違う。線の太さ、角度、霊力の絡み方。だが、根本の構造は同じだ。


 陽鞠はそれを見るだけで、手首の熱が増した気がした。


「三件目まででわかっていたことを確認する」


 更紗の声は淡々としている。


「妖自体は自然発生。発生後、外部から黒い五芒星の術式が打ち込まれている。印は妖核の霊力循環を歪め、恐怖、飢え、執着、怒りなどを増幅。妖の性質に合わせて調整されていた」


 投影が切り替わる。


「旧商店街跡の魚型妖は、霊毒と再生、声真似が強化されていた。神社の鈴妖は、土地の信仰残滓に印が絡められていた。直接的な攻撃性だけじゃなく、霊力吸収と拘束性が上がっていた」


「印刷工場は?」


 かがりが聞く。


「黒い五芒星の形は残っていない。ただ、穢れの広がり方が似ている。妖を倒した後も建物へ霊気が残り続けるよう、流れが加工されていた。印そのものを隠す実験だった可能性がある」


 実験。


 その言葉に、陽鞠の胸が熱くなる。


 人を襲わせるだけではない。


 妖を壊して、土地に穢れを残し、反応を見る。


 そんなものを試している誰かがいる。


 陽鞠は拳を握った。


「ふざけてる」


 低く言う。


 更紗は頷く。


「ふざけてる。でも、精度は上がってる」


「精度?」


「最初の駅前では、妖の暴走が荒かった。再生も無理やりで、核が歪みすぎていた。ゲームセンター以降は、妖の性質に合わせた調整が増えている。映画館地下は恐怖増幅、旧商店街は霊毒と声真似、神社は信仰残滓への接続、印刷工場は残留霊気。毎回、違う強化が試されてる」


 陽鞠は吐き捨てるように言った。


「本当に実験みたい」


「そう見える」


 更紗は否定しなかった。


「ただし、誰が、何を完成させようとしているかは不明。そこはまだ断定できない」


 朔夜が静かに言う。


「二人の霊力への反応は」


 会議室の空気が少し変わった。


 更紗と透羽が視線を合わせる。


 かがりは机の上で指を組んだ。


「そこが本題だ」


 投影板に、複数の折れ線が表示された。


 霊力反応値。


 現場ごとの妖の活動量。


 陽鞠と朔夜の接近時刻。


 任務開始から妖核破壊までの流れ。


 透羽が説明する。


「各現場の記録を重ねた。凶暴化妖の活動量は、篠宮さんか綴喜くんが現場に近づいた時点で上がっている。特に二人が同時に五十メートル以内へ入った時、反応が跳ねる」


 地図上に円が表示される。


 駅前。


 ゲームセンター。


 映画館地下。


 旧商店街。


 神社。


 どの現場でも、陽鞠と朔夜が近づいた瞬間、赤い波形が上昇していた。


 陽鞠は言葉を失う。


 なんとなく感じていた。


 妖がこちらへ反応していること。


 でも、数字で見せられると違う。


 逃げ場がなくなる。


「五十メートル以内……」


「目安。場所によって誤差はある。地下や神社みたいに霊気が籠もる場所では、もっと早く反応してる」


 透羽が指で波形を示す。


「さらに、二人の霊力が重なる瞬間に、妖核の反応が一段上がることがある。任務前後の接触、指輪の共鳴、結界と刀の連携時。このあたり」


 陽鞠の顔が熱くなった。


「任務前後の接触って」


 朔夜が平然と言う。


「キスか」


「朔夜!」


「事実」


「会議中!」


「任務記録に出てる」


「出さないで!」


 透羽は淡々と端末を見ている。


「接吻そのものが原因かは不明。正確には、二人の霊力が近距離で同調した時の反応。指輪同士の接触、手繋ぎ、結界補助、斬撃補助でも似た波形が出てる」


 陽鞠は額を押さえた。


 かがりが深く息を吐く。


「篠宮、綴喜。お前たちの恋人距離を議題にする日が来るとは思わなかった。教師人生、実に不本意だ」


「すみません……」


「俺は必要だと思います」


「綴喜は少し黙れ」


「はい」


 朔夜は素直に黙った。


 陽鞠は顔が熱いまま、投影板を見る。


 恥ずかしさと、不安が混ざる。


 自分たちが近づいた時、妖が反応する。


 指輪が鳴った時。


 手を繋いだ時。


 結界と刀が重なった時。


 それは二人にとって、戦うための呼吸であり、生きている確認であり、恋人としての距離だった。


 そこに、妖の反応が絡む。


 気持ち悪い。


 自分たちの大切なものが、誰かに勝手に観測されているような気がした。


 更紗が続ける。


「ただし、ここは誤解しないで。二人が原因で妖が生まれているわけじゃない」


 陽鞠は顔を上げる。


 更紗の声は、いつもより少し強かった。


「妖は自然発生してる。外部術式を打ち込んでいる誰かがいる。二人は発生原因じゃない。反応条件、もしくは起動条件の一部として使われている可能性がある」


「使われてる……」


 陽鞠の声が低くなる。


 朔夜の気配も冷える。


 更紗は頷いた。


「凶暴化の条件を整理すると、今のところ三つ」


 投影板に文字が浮かぶ。


 一つ、自然発生した妖核があること。


 二つ、黒い五芒星または近い外部術式が打ち込まれること。


 三つ、強い霊力、特に陽鞠と朔夜の霊力に反応して活動量が上がること。


「三つ目は確定じゃない。でも、可能性は高い」


「私たちが近づくと、起きる?」


 陽鞠が聞く。


 更紗は少し首を横に振る。


「起きる、というより、すでに仕込まれたものが活性化する。近づく前から妖はいる。でも二人の霊力を感知すると、凶暴化が強まる。場合によっては、一般人への攻撃性が跳ねる」


 陽鞠の顔から血の気が引いた。


「じゃあ、私たちが行ったせいで」


「違う」


 朔夜が即座に言った。


 強い声だった。


「それは違う」


「でも」


「仕込んだやつが悪い」


 朔夜の黒い瞳が、真っ直ぐ陽鞠を見る。


「俺たちが近づいて反応するように作ったなら、悪いのは作ったやつだ。お前じゃない」


 陽鞠は唇を噛む。


 更紗も頷いた。


「朔夜の言う通り。反応条件として利用されているだけ。原因と責任を混同しないで」


 透羽も静かに言う。


「むしろ二人が行かなければ、一般人だけが巻き込まれていた可能性もある。現場ごとの被害を見ても、二人の到着後に妖の反応は上がってるけど、同時に避難成功率も大きく上がってる」


 投影板に別の表が出る。


 一般人避難率。


 負傷者数。


 妖核破壊までの時間。


 陽鞠と朔夜が現場にいた時の救助成功率は高い。


 それは事実だった。


 けれど、胸の奥は簡単には納得しない。


 自分たちが呼び水にされているかもしれない。


 その感覚は、気持ち悪かった。


「でも、誘導されてる可能性はあるんですよね」


 陽鞠が言った。


 会議室が静まる。


 かがりが頷いた。


「ある」


 短い答え。


 逃げない答えだった。


 透羽が地図を拡大する。


「発生地点はばらばらに見えるけど、移動経路を重ねると偏りがある。学園から三十分以内。陽鞠さんと朔夜くんが普段行く場所、または任務で向かいやすい場所。駅前、ゲームセンター、映画館、旧商店街、神社、印刷工場。全部、二人が到着可能な範囲にある」


 赤い点が線で結ばれる。


 その線が、学園を中心にゆるい輪のように広がっていた。


「さらに、発生時刻も二人の空き時間と重なりやすい。朝、放課後、休日、任務調整可能な夕方。完全な偶然とは言い切れない」


 朔夜の声が低くなる。


「俺たちを呼んでる」


「可能性はある」


 透羽は慎重に言った。


「ただし、断定はできない。二人がよく動く時間帯に妖の発生が多いだけかもしれない。協会がS級特待生を便利に使っているだけかもしれない。誰かが情報を操作して誘導している可能性もある。どれも残る」


「全部嫌」


 陽鞠が言った。


「同感」


 更紗が淡々と返した。


 かがりは腕を組んだ。


「最悪を想定する。二人を誘導している者がいる。目的は不明。候補はいくつか考えられる」


 投影板に、かがりが手元の端末から項目を送る。


 一つ、二人の霊力反応を観察するため。


 二つ、黒い五芒星の術式を二人にぶつけ、効果を測るため。


 三つ、妖を凶暴化させて、二人を消耗させるため。


 四つ、陽鞠の金眼、朔夜の霊力、二人の連携に何らかの反応を引き出すため。


 陽鞠はその文字を見つめた。


 胸が重い。


 四つ目が、特に嫌だった。


 二人の連携。


 指輪の音。


 結界と刀。


 恋人としての距離。


 それを、誰かが反応条件として見ているかもしれない。


「……気持ち悪い」


 陽鞠は正直に言った。


 朔夜が彼女の右手を取る。


 今度は会議中だからか、指先だけだった。


 それでも十分だった。


「見るなら見せてやる」


 朔夜が低く言う。


「俺たちは、利用されるために一緒にいるんじゃない」


「うん」


「誘導されてるなら、逆に辿る」


「うん」


「お前を測るやつがいるなら、俺が」


「朔夜」


 陽鞠が遮った。


 朔夜を見る。


「斬る、じゃないよ」


「……止める」


「一緒に」


「一緒に止める」


 言い直した朔夜に、陽鞠は小さく頷いた。


 かがりがその様子を見て、少しだけ表情を緩める。


 すぐに教師の顔へ戻った。


「綴喜。怒るなとは言わない。だが、相手が二人の反応を見ている可能性がある以上、感情のまま動くな。篠宮もだ」


「はい」


「はい」


「特に御影堂玻月」


 その名前が出た瞬間、朔夜の気配が鋭くなる。


 陽鞠の左手首も、熱を増した気がした。


 かがりは続ける。


「彼が関わっていると断定はしない。現時点では、凶暴化の術者である証拠もない。だが、黒い五芒星について何かを知っている可能性は高い。篠宮への接触も問題行為として正式に記録する」


「お願いします」


 陽鞠は短く答えた。


 朔夜は黙っている。


 ただ、机の下で拳を握っていた。


 更紗が陽鞠の左手首へ視線を向ける。


「手首の痕、解析結果が出た」


「早い」


「すぐ見た」


「寝て」


「後で」


 更紗は端末を操作した。


 投影板に、陽鞠の左手首の霊力痕が拡大表示される。白手袋の形に残った薄い紫の跡。その周囲に、陽鞠の金色の霊力が焼き切ったような痕跡。


 見るだけで嫌な気分になる。


 朔夜の黒い瞳が冷える。


「玻月の霊力痕はかなり薄い。意図的に触れた痕跡を残さないようにしてる。でも、陽鞠の拒絶結界が弾いた瞬間、手袋越しに少しだけ剥がれた」


「剥がれた?」


「うん。霊力の表面が一枚、削れたみたいな感じ。その下に、かなり古い術式処理の痕がある」


 更紗の声が少し低くなる。


「御影堂玻月の霊力は、普通の退魔師と違う。綺麗に整えられているけど、層が多すぎる。何重にも覆ってある。年齢や経歴に対して、術式処理の古さが合わない」


 かがりの眉が動く。


「それも断定は避けろ」


「わかってる」


 更紗は頷く。


「ただ、彼は何かを隠してる。少なくとも、自分の霊力痕を消す技術が異常に高い」


「強いだけじゃないってことだね」


 透羽が言う。


「記録も変。御影堂玻月の任務履歴、表に出ているものは優秀すぎるくらい優秀。でも空白がある。長い空白じゃなくて、短い空白が点々とある」


「短い空白?」


「任務前後の移動記録、協会への報告時刻、現場入りの経路。そのあたりが少しずつ抜けてる。完全に隠すほどではないけど、追おうとすると霞む」


「わざと?」


「わざとか、そういう扱いを許されているか」


 かがりの顔が険しくなる。


「S級は自由行動の裁量が大きい。記録が曖昧でも通ってしまうことがある」


「自由って便利な穴ですね」


 陽鞠は皮肉を込めて言った。


 かがりは否定しなかった。


「その通りだ。だから、今後は御影堂の動きも記録する。ただし、彼を凶暴化の実行者と決めつけるな」


「わかってます」


 陽鞠は答えた。


 腹は立つ。


 手首の痕も気持ち悪い。


 玻月が何かを隠しているのも確かだと思う。


 けれど、黒い五芒星を仕込んだ人物だと決めつけるには、まだ早い。そこで間違えれば、本当に動いている誰かを見逃すかもしれない。


 それも腹立たしい。


 怒りには、行き場がない。


 朔夜の指が、陽鞠の手に触れる。


 指輪同士がかすかに当たった。


 ちり、と小さく鳴る。


 更紗の端末が、その音に反応したように微かな波形を拾った。


 更紗が目を細める。


「今の」


 陽鞠と朔夜が固まる。


「何」


 朔夜が聞く。


「指輪が触れた時、手首の痕が少し揺れた」


 陽鞠は自分の左手首を見る。


 清浄布の下が、じわりと熱い。


「玻月の痕が?」


「うん。陽鞠と朔夜の霊力が近づくと、黒い五芒星の残滓だけじゃなく、玻月の接触痕も反応する」


 朔夜の表情が消えた。


「どういうことだ」


「まだわからない」


 更紗は慎重に言った。


「玻月が意図的に反応痕を残したのか、陽鞠の霊力が触れられた時に記憶してしまったのか、二人の霊力が特定の痕跡を浮かび上がらせるのか。可能性はいくつかある」


「消せる?」


 朔夜が聞く。


「すぐには消さない方がいい」


 更紗が言うと、朔夜の目が鋭くなった。


 陽鞠が先に口を開く。


「記録するため?」


「うん。今消すと、手がかりも消える。もちろん痛みや侵食が出るならすぐ除去する。でも現時点では、浄化符で封じながら観測した方がいい」


 陽鞠は左手首を見下ろした。


 気持ち悪い。


 消したい。


 今すぐ消したい。


 けれど、これが玻月の何かを追う手がかりになるなら。


 黒い五芒星との関係を探る材料になるなら。


 陽鞠は息を吸った。


「残す」


「陽鞠」


 朔夜の声が低くなる。


 陽鞠は彼を見た。


「嫌だけど、残す。更紗が危険って判断したらすぐ消す。それまでは記録に使って」


「本当に嫌なら」


「嫌だよ」


 陽鞠は正直に言った。


「でも、ただ嫌なだけで終わらせたくない。勝手に触られて、勝手に測られて、嫌な痕だけ残されて、それで終わりなんて絶対嫌。こっちから利用する」


 会議室が静かになる。


 かがりの表情がわずかに変わった。


 更紗は静かに頷いた。


「わかった。侵食監視をつける。少しでも異常が出たら除去」


「うん」


「朔夜も監視対象」


「俺?」


「陽鞠の手首を見るたびに斬りに行きそうだから」


「否定は」


「できないでしょ」


「できない」


 朔夜は低く答えた。


 陽鞠は少しだけ笑ってしまった。


 笑いごとではないのに。


 でも、朔夜があまりにも正直で、少し救われた。


 かがりが咳払いをする。


「整理する。凶暴化妖の条件として、黒い五芒星の術式、自然発生妖、二人の霊力反応が絡んでいる可能性が高い。二人を現場へ誘導している者がいる可能性もある。ただし、実行者、目的、術式の完成形は不明。御影堂玻月は情報を持っている可能性があるが、現時点では立場を断定しない」


 全員が頷いた。


「今後の対応」


 かがりは指を立てる。


「一つ、二人の任務同行は継続。ただし、発生地点に向かう前に更紗と透羽へ位置情報を共有する。二つ、黒い五芒星を確認したら直接触れない。記録札、観測札を優先。三つ、二人の霊力が重なった時の反応を記録する。ただし、任務中以外で不用意に試すな」


 かがりの視線が陽鞠と朔夜へ突き刺さる。


 陽鞠は顔を赤くした。


「試しません!」


 朔夜は少しだけ目を逸らした。


 かがりの声が低くなる。


「綴喜」


「はい」


「試すな」


「はい」


「本当に試すな」


「……はい」


「間があったな」


「気のせいです」


「反省文を増やすぞ」


「試しません」


 即答だった。


 透羽が小さく笑いかけて、すぐ端末へ顔を戻した。


 更紗は真顔で記録している。


 陽鞠は机の下で、朔夜の足を軽く踏んだ。


「本当に試さないでよ」


「わかってる」


「顔」


「試すなら報告してから」


「そういう問題じゃない!」


「冗談」


「今のは信じない」


 朔夜の口元が少しだけ緩む。


 陽鞠は怒った顔をしようとして、失敗した。


 空気が少しだけ和らぐ。


 だが、投影板の赤い点は消えない。


 黒い五芒星の印も。


 凶暴化の条件。


 陽鞠と朔夜の霊力への過剰反応。


 二人を誘導するように起きる事件。


 どれも、会議室の空気の中に重く残っている。


 かがりが最後に言った。


「お前たちは強い。だが、強いから安全というわけではない。むしろ、相手が二人の強さを前提に動いているなら、今までより危険だ」


「はい」


 陽鞠は頷く。


 朔夜も頷いた。


「怖がるなとは言わない。怒るなとも言わない。だが、一人で抱えるな。必ず共有しろ」


 かがりの声は厳しかった。


 でも、そこに心配がある。


 陽鞠はそれをちゃんと聞いた。


「わかりました」


「綴喜」


「はい」


「篠宮の異常に気づいたら、本人が強がっても報告しろ」


「します」


「篠宮」


「はい」


「綴喜が怒りで暴走しそうなら、同じく報告しろ」


「します」


「陽鞠」


「するよ」


「即答だな」


「するよ」


 陽鞠は真顔で繰り返した。


 朔夜は少し不満そうだった。


 当然である。前科が多い。人類、信用は日々の積み重ねでしか得られない。主に失った側の話だ。


 会議が終わる頃には、解析棟の外は夕暮れになっていた。


 更紗はかがりに連行されるように仮眠室へ向かい、透羽は追加の地図データを作るため別室へ消えた。かがりは協会へ連絡を入れると言って、重い足取りで職員室へ戻っていった。


 会議室には、陽鞠と朔夜だけが残った。


 投影板は消えている。


 机の上には、まだ封印ケースと記録札がある。


 陽鞠は椅子に座ったまま、左手首を見ていた。


 清浄布の下の熱は、少し落ち着いている。


 だが、凶暴化の条件という言葉が頭から離れない。


「私たちが、条件にされてるかもしれないんだね」


 ぽつりと呟く。


 朔夜は隣へ来た。


「使われてるだけだ」


「うん」


「原因じゃない」


「うん」


「悪いのは仕込んだやつだ」


「……うん」


 陽鞠は頷く。


 わかっている。


 でも、心が追いつくには時間がいる。


 朔夜は彼女の右手を取った。


 指輪が触れる。


 ちり、と鳴る。


 陽鞠はその音に少しだけびくりとした。


 今まで安心する音だった。


 今も安心する。


 でも、妖がその音に反応しているかもしれないと思うと、一瞬だけ怖くなった。


 朔夜が気づかないわけがなかった。


「嫌か」


 低く聞く。


 陽鞠は首を振った。


「嫌じゃない。怖くなっただけ」


「やめるか」


「やめない」


 陽鞠は、今度は自分から指輪を重ねた。


 ちり、ともう一度音が鳴る。


 小さく、澄んだ音。


「これは、私たちの音でしょ」


「ああ」


「勝手に条件にされたからって、あげない」


 陽鞠ははっきり言った。


「妖が反応しても、誰かが見てても、これは私たちが選んで鳴らしてる音。勝手に使わせない」


 朔夜の黒い瞳が、静かに揺れる。


「強いな」


「強がってるだけ」


「それでも強い」


「朔夜は?」


「怒ってる」


「知ってる」


「でも、陽鞠がそう言うなら、俺も奪わせない」


 朔夜は彼女の手を包み込むように握った。


「結界と刀も、指輪も、任務前のキスも、任務後の確認も。向こうが条件にしたなら、こっちで意味を変える」


「どう変えるの」


「罠を斬るための合図」


 陽鞠は少しだけ笑った。


「朔夜らしい」


「だめか」


「ううん。いいと思う」


 会議室の空気はまだ重い。


 それでも、陽鞠の胸の奥にあった冷たさは少しだけ薄れた。


 二人を誘導する事件。


 凶暴化の条件。


 黒い五芒星。


 御影堂玻月。


 何も解決していない。


 むしろ、状況は悪くなっている。


 だが、ひとつだけ決めた。


 利用されるだけでは終わらない。


 見られているなら、見返す。


 誘導されているなら、辿る。


 条件にされているなら、その条件ごと壊す。


 陽鞠は立ち上がった。


「行こう。更紗が本当に寝たか確認する」


「そこ?」


「大事でしょ」


「大事だな」


「その後、かがり先生に追加で質問して、透羽の地図も見る」


「休めって言われた」


「少しだけ」


「陽鞠」


「……じゃあ、地図見たら休む」


「本当に?」


「本当」


「膝枕?」


「なぜそうなる」


「休むなら」


「朔夜が休みたいだけでしょ」


「半分」


「残り半分は?」


「陽鞠を休ませたい」


「その言い方はずるい」


 陽鞠は呆れながらも、手を離さなかった。


 二人は会議室を出た。


 廊下には夕方の光が差している。


 窓の外の空は橙から紫へ変わり始め、学園の結界塔が淡く光っていた。遠くから、生徒たちの声が聞こえる。いつもの学園の日常。けれど、その下に見えない糸が張られているような感覚があった。


 誰かが見ているかもしれない。


 誰かが誘導しているかもしれない。


 その誰かが、まだどこにいるのかはわからない。


 陽鞠は朔夜の手を握り直した。


 指輪が鳴る。


 ちり。


 その音を怖がらない。


 奪わせない。


 陽鞠はそう心の中で決めて、解析棟の廊下を歩き出した。


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