第15話 凶暴化の条件
解析棟の会議室には、昼の光がほとんど入らなかった。
窓はある。だが、外側に遮断結界が張られているせいで、硝子越しの景色は薄い水の底のように歪んで見える。壁には霊力投影用の白い板があり、中央の長机には封印ケース、記録札、地図、端末が乱雑に並べられていた。机の隅には、飲みかけの缶コーヒーが三本。うち二本は更紗のものだ。
人類は睡眠不足をカフェインでごまかす生き物だが、そろそろ文明として敗北を認めた方がいい。
陽鞠は会議室の椅子に座り、左手首に巻かれた清浄布を見下ろしていた。
白い布の下では、まだ熱が残っている。
玻月に触れられた場所。
白手袋の指先が、霊力の流れを確かめるように押さえた場所。
思い出すだけで、皮膚の下がぞわりとする。直接肌に触れられたわけではない。けれど、もっと嫌だった。身体の内側を覗かれたような不快感。自分の霊力が、自分の許可なく測られたような怒り。
陽鞠は布の上から手首を握った。
すぐ隣で、朔夜の気配が動く。
「痛むか」
「熱いだけ」
「痛むか」
「……少し」
「正直でよろしい」
「真似しないで」
陽鞠は小さく言った。
朔夜の声は静かだったが、怒りはまだ消えていない。むしろ、低いところでずっと燃えている。彼は会議室に入ってからも、陽鞠の左側に立つ位置を選んだ。誰かが手首へ近づいたら、すぐ間に入れるように。
過保護だ。
でも今日は、それを責める気にはなれなかった。
会議室の扉が開いた。
澄庭かがりが入ってくる。
いつもの教師用の羽織の上に、協会からの報告書を抱えていた。表情は厳しい。眉間の皺は通常運転より深い。これは大変よくない。かがりの眉間は学園危機度を示す気象計みたいなものだ。今日の予報は荒天である。
その後ろから、透羽が端末を抱えて続いた。
透羽は情報整理班に回されることの多い上級生で、戦闘よりも記録、地図、術式ログの照合を得意としている。薄茶色の髪を後ろで緩くまとめ、丸い眼鏡をかけていた。柔らかそうな顔立ちなのに、端末を見る目だけは異様に鋭い。普段はのんびりした声で話すが、データに関しては容赦がない。
最後に、更紗が入ってきた。
黒髪はいつもより少し乱れ、青いフレームの眼鏡の奥には濃い隈がある。白衣の袖には霊符の焦げ跡がついていた。寝ていない。間違いなく寝ていない。五時間寝る約束はどこへ行ったのか。人類、約束をカフェインで溶かすな。
「更紗」
陽鞠が低く呼ぶ。
「何」
「寝た?」
「横になった」
「寝たか聞いてる」
「目を閉じた」
「睡眠じゃない」
「解析者の睡眠」
「そんな分類ない」
更紗は淡々と椅子に座り、端末を開いた。
かがりがそれを見て、深く息を吐く。
「若槻。後で仮眠室へ行け」
「解析が終わったら」
「今終わらせる。そのための整理だ」
「了解」
更紗は素直に頷いた。
素直だが、信用はできない。眠らない人間の「了解」は、妖の「もう襲わない」と同じくらい信用ならない。たぶん。
かがりは会議室の扉を閉め、内側の遮断結界を起動した。
淡い青い膜が壁全体を覆う。
外の音が遠くなる。
「ここから先は、記録制限をかける。現時点で確定していない内容も含む。断定は避けろ。ただし、可能性は潰すな」
「はい」
陽鞠と朔夜が同時に返事をした。
透羽が端末を投影板へ接続する。
白い板の上に、市内地図が浮かび上がった。
赤い点がいくつも表示される。
駅前広場。
ゲームセンター。
映画館地下。
旧商店街跡。
山裾の神社。
そして、昨夜の印刷工場跡。
陽鞠の胸の奥が重くなる。
どの場所にも、妖が出た。
どの場所にも、自分たちが向かった。
それが偶然なら、あまりに出来すぎている。
「まず、発生地点と時系列」
透羽が静かな声で言った。
「過去十日間で、凶暴化または異常増幅が確認された妖は六件。うち黒い五芒星の印が直接確認されたものは五件。印刷工場跡は印の断片までは確認されていないけれど、霊気の増幅パターンは近い」
地図上の赤い点が順に光る。
「駅前広場は朝。篠宮さんと綴喜くんが通学中に近い位置にいた。ゲームセンターは放課後デート中。映画館地下は上映後、二人が地下へ降りた直後。旧商店街跡は任務通知を受けて移動。神社も任務通知。印刷工場跡は協会経由の指名に近い応援要請」
陽鞠は眉を寄せる。
「指名に近い?」
「正式には指名じゃない。でも要請文に『精密結界が可能なS級特待生、および近接戦闘に優れたS級特待生の同行が望ましい』ってある」
透羽は端末を操作した。
投影板に協会の要請文が映る。
確かに、名前は書かれていない。
だが、条件はほとんど陽鞠と朔夜だった。
陽鞠の指が、無意識に机の端を掴む。
「それ、私たちのことじゃん」
「ほぼそう」
透羽は淡々と言った。
「もちろん、他にも該当する退魔師はゼロではない。けど、学園近辺で即応可能なS級特待生となると、篠宮さんと綴喜くんが最有力になる」
朔夜の声が低くなる。
「誰が要請を出した」
「協会の地域管理課。文面作成者は通常処理になってる。ただ、元の通報データを誰が上げたかは、まだ追えてない」
「追えない?」
「途中で記録が薄い。消されたというより、最初から曖昧な形で上がってる。通報者、現場確認者、一次判定者の情報がばらけている。誰かが故意にそうした可能性はあるけど、協会の事務処理が雑な可能性もある」
かがりがこめかみを押さえた。
「後者も否定できないのが腹立たしいな」
透羽は頷く。
「はい。人間の雑さは、悪意と区別がつきにくいです」
「名言みたいに言うな」
陽鞠は小さく息を吐いた。
笑えるような言葉なのに、笑えない。
かがりが投影板を見たまま言う。
「次、術式解析」
更紗が端末を操作した。
地図の横に、妖核の投影が並ぶ。
黒い五芒星の印。
それぞれ形は微妙に違う。線の太さ、角度、霊力の絡み方。だが、根本の構造は同じだ。
陽鞠はそれを見るだけで、手首の熱が増した気がした。
「三件目まででわかっていたことを確認する」
更紗の声は淡々としている。
「妖自体は自然発生。発生後、外部から黒い五芒星の術式が打ち込まれている。印は妖核の霊力循環を歪め、恐怖、飢え、執着、怒りなどを増幅。妖の性質に合わせて調整されていた」
投影が切り替わる。
「旧商店街跡の魚型妖は、霊毒と再生、声真似が強化されていた。神社の鈴妖は、土地の信仰残滓に印が絡められていた。直接的な攻撃性だけじゃなく、霊力吸収と拘束性が上がっていた」
「印刷工場は?」
かがりが聞く。
「黒い五芒星の形は残っていない。ただ、穢れの広がり方が似ている。妖を倒した後も建物へ霊気が残り続けるよう、流れが加工されていた。印そのものを隠す実験だった可能性がある」
実験。
その言葉に、陽鞠の胸が熱くなる。
人を襲わせるだけではない。
妖を壊して、土地に穢れを残し、反応を見る。
そんなものを試している誰かがいる。
陽鞠は拳を握った。
「ふざけてる」
低く言う。
更紗は頷く。
「ふざけてる。でも、精度は上がってる」
「精度?」
「最初の駅前では、妖の暴走が荒かった。再生も無理やりで、核が歪みすぎていた。ゲームセンター以降は、妖の性質に合わせた調整が増えている。映画館地下は恐怖増幅、旧商店街は霊毒と声真似、神社は信仰残滓への接続、印刷工場は残留霊気。毎回、違う強化が試されてる」
陽鞠は吐き捨てるように言った。
「本当に実験みたい」
「そう見える」
更紗は否定しなかった。
「ただし、誰が、何を完成させようとしているかは不明。そこはまだ断定できない」
朔夜が静かに言う。
「二人の霊力への反応は」
会議室の空気が少し変わった。
更紗と透羽が視線を合わせる。
かがりは机の上で指を組んだ。
「そこが本題だ」
投影板に、複数の折れ線が表示された。
霊力反応値。
現場ごとの妖の活動量。
陽鞠と朔夜の接近時刻。
任務開始から妖核破壊までの流れ。
透羽が説明する。
「各現場の記録を重ねた。凶暴化妖の活動量は、篠宮さんか綴喜くんが現場に近づいた時点で上がっている。特に二人が同時に五十メートル以内へ入った時、反応が跳ねる」
地図上に円が表示される。
駅前。
ゲームセンター。
映画館地下。
旧商店街。
神社。
どの現場でも、陽鞠と朔夜が近づいた瞬間、赤い波形が上昇していた。
陽鞠は言葉を失う。
なんとなく感じていた。
妖がこちらへ反応していること。
でも、数字で見せられると違う。
逃げ場がなくなる。
「五十メートル以内……」
「目安。場所によって誤差はある。地下や神社みたいに霊気が籠もる場所では、もっと早く反応してる」
透羽が指で波形を示す。
「さらに、二人の霊力が重なる瞬間に、妖核の反応が一段上がることがある。任務前後の接触、指輪の共鳴、結界と刀の連携時。このあたり」
陽鞠の顔が熱くなった。
「任務前後の接触って」
朔夜が平然と言う。
「キスか」
「朔夜!」
「事実」
「会議中!」
「任務記録に出てる」
「出さないで!」
透羽は淡々と端末を見ている。
「接吻そのものが原因かは不明。正確には、二人の霊力が近距離で同調した時の反応。指輪同士の接触、手繋ぎ、結界補助、斬撃補助でも似た波形が出てる」
陽鞠は額を押さえた。
かがりが深く息を吐く。
「篠宮、綴喜。お前たちの恋人距離を議題にする日が来るとは思わなかった。教師人生、実に不本意だ」
「すみません……」
「俺は必要だと思います」
「綴喜は少し黙れ」
「はい」
朔夜は素直に黙った。
陽鞠は顔が熱いまま、投影板を見る。
恥ずかしさと、不安が混ざる。
自分たちが近づいた時、妖が反応する。
指輪が鳴った時。
手を繋いだ時。
結界と刀が重なった時。
それは二人にとって、戦うための呼吸であり、生きている確認であり、恋人としての距離だった。
そこに、妖の反応が絡む。
気持ち悪い。
自分たちの大切なものが、誰かに勝手に観測されているような気がした。
更紗が続ける。
「ただし、ここは誤解しないで。二人が原因で妖が生まれているわけじゃない」
陽鞠は顔を上げる。
更紗の声は、いつもより少し強かった。
「妖は自然発生してる。外部術式を打ち込んでいる誰かがいる。二人は発生原因じゃない。反応条件、もしくは起動条件の一部として使われている可能性がある」
「使われてる……」
陽鞠の声が低くなる。
朔夜の気配も冷える。
更紗は頷いた。
「凶暴化の条件を整理すると、今のところ三つ」
投影板に文字が浮かぶ。
一つ、自然発生した妖核があること。
二つ、黒い五芒星または近い外部術式が打ち込まれること。
三つ、強い霊力、特に陽鞠と朔夜の霊力に反応して活動量が上がること。
「三つ目は確定じゃない。でも、可能性は高い」
「私たちが近づくと、起きる?」
陽鞠が聞く。
更紗は少し首を横に振る。
「起きる、というより、すでに仕込まれたものが活性化する。近づく前から妖はいる。でも二人の霊力を感知すると、凶暴化が強まる。場合によっては、一般人への攻撃性が跳ねる」
陽鞠の顔から血の気が引いた。
「じゃあ、私たちが行ったせいで」
「違う」
朔夜が即座に言った。
強い声だった。
「それは違う」
「でも」
「仕込んだやつが悪い」
朔夜の黒い瞳が、真っ直ぐ陽鞠を見る。
「俺たちが近づいて反応するように作ったなら、悪いのは作ったやつだ。お前じゃない」
陽鞠は唇を噛む。
更紗も頷いた。
「朔夜の言う通り。反応条件として利用されているだけ。原因と責任を混同しないで」
透羽も静かに言う。
「むしろ二人が行かなければ、一般人だけが巻き込まれていた可能性もある。現場ごとの被害を見ても、二人の到着後に妖の反応は上がってるけど、同時に避難成功率も大きく上がってる」
投影板に別の表が出る。
一般人避難率。
負傷者数。
妖核破壊までの時間。
陽鞠と朔夜が現場にいた時の救助成功率は高い。
それは事実だった。
けれど、胸の奥は簡単には納得しない。
自分たちが呼び水にされているかもしれない。
その感覚は、気持ち悪かった。
「でも、誘導されてる可能性はあるんですよね」
陽鞠が言った。
会議室が静まる。
かがりが頷いた。
「ある」
短い答え。
逃げない答えだった。
透羽が地図を拡大する。
「発生地点はばらばらに見えるけど、移動経路を重ねると偏りがある。学園から三十分以内。陽鞠さんと朔夜くんが普段行く場所、または任務で向かいやすい場所。駅前、ゲームセンター、映画館、旧商店街、神社、印刷工場。全部、二人が到着可能な範囲にある」
赤い点が線で結ばれる。
その線が、学園を中心にゆるい輪のように広がっていた。
「さらに、発生時刻も二人の空き時間と重なりやすい。朝、放課後、休日、任務調整可能な夕方。完全な偶然とは言い切れない」
朔夜の声が低くなる。
「俺たちを呼んでる」
「可能性はある」
透羽は慎重に言った。
「ただし、断定はできない。二人がよく動く時間帯に妖の発生が多いだけかもしれない。協会がS級特待生を便利に使っているだけかもしれない。誰かが情報を操作して誘導している可能性もある。どれも残る」
「全部嫌」
陽鞠が言った。
「同感」
更紗が淡々と返した。
かがりは腕を組んだ。
「最悪を想定する。二人を誘導している者がいる。目的は不明。候補はいくつか考えられる」
投影板に、かがりが手元の端末から項目を送る。
一つ、二人の霊力反応を観察するため。
二つ、黒い五芒星の術式を二人にぶつけ、効果を測るため。
三つ、妖を凶暴化させて、二人を消耗させるため。
四つ、陽鞠の金眼、朔夜の霊力、二人の連携に何らかの反応を引き出すため。
陽鞠はその文字を見つめた。
胸が重い。
四つ目が、特に嫌だった。
二人の連携。
指輪の音。
結界と刀。
恋人としての距離。
それを、誰かが反応条件として見ているかもしれない。
「……気持ち悪い」
陽鞠は正直に言った。
朔夜が彼女の右手を取る。
今度は会議中だからか、指先だけだった。
それでも十分だった。
「見るなら見せてやる」
朔夜が低く言う。
「俺たちは、利用されるために一緒にいるんじゃない」
「うん」
「誘導されてるなら、逆に辿る」
「うん」
「お前を測るやつがいるなら、俺が」
「朔夜」
陽鞠が遮った。
朔夜を見る。
「斬る、じゃないよ」
「……止める」
「一緒に」
「一緒に止める」
言い直した朔夜に、陽鞠は小さく頷いた。
かがりがその様子を見て、少しだけ表情を緩める。
すぐに教師の顔へ戻った。
「綴喜。怒るなとは言わない。だが、相手が二人の反応を見ている可能性がある以上、感情のまま動くな。篠宮もだ」
「はい」
「はい」
「特に御影堂玻月」
その名前が出た瞬間、朔夜の気配が鋭くなる。
陽鞠の左手首も、熱を増した気がした。
かがりは続ける。
「彼が関わっていると断定はしない。現時点では、凶暴化の術者である証拠もない。だが、黒い五芒星について何かを知っている可能性は高い。篠宮への接触も問題行為として正式に記録する」
「お願いします」
陽鞠は短く答えた。
朔夜は黙っている。
ただ、机の下で拳を握っていた。
更紗が陽鞠の左手首へ視線を向ける。
「手首の痕、解析結果が出た」
「早い」
「すぐ見た」
「寝て」
「後で」
更紗は端末を操作した。
投影板に、陽鞠の左手首の霊力痕が拡大表示される。白手袋の形に残った薄い紫の跡。その周囲に、陽鞠の金色の霊力が焼き切ったような痕跡。
見るだけで嫌な気分になる。
朔夜の黒い瞳が冷える。
「玻月の霊力痕はかなり薄い。意図的に触れた痕跡を残さないようにしてる。でも、陽鞠の拒絶結界が弾いた瞬間、手袋越しに少しだけ剥がれた」
「剥がれた?」
「うん。霊力の表面が一枚、削れたみたいな感じ。その下に、かなり古い術式処理の痕がある」
更紗の声が少し低くなる。
「御影堂玻月の霊力は、普通の退魔師と違う。綺麗に整えられているけど、層が多すぎる。何重にも覆ってある。年齢や経歴に対して、術式処理の古さが合わない」
かがりの眉が動く。
「それも断定は避けろ」
「わかってる」
更紗は頷く。
「ただ、彼は何かを隠してる。少なくとも、自分の霊力痕を消す技術が異常に高い」
「強いだけじゃないってことだね」
透羽が言う。
「記録も変。御影堂玻月の任務履歴、表に出ているものは優秀すぎるくらい優秀。でも空白がある。長い空白じゃなくて、短い空白が点々とある」
「短い空白?」
「任務前後の移動記録、協会への報告時刻、現場入りの経路。そのあたりが少しずつ抜けてる。完全に隠すほどではないけど、追おうとすると霞む」
「わざと?」
「わざとか、そういう扱いを許されているか」
かがりの顔が険しくなる。
「S級は自由行動の裁量が大きい。記録が曖昧でも通ってしまうことがある」
「自由って便利な穴ですね」
陽鞠は皮肉を込めて言った。
かがりは否定しなかった。
「その通りだ。だから、今後は御影堂の動きも記録する。ただし、彼を凶暴化の実行者と決めつけるな」
「わかってます」
陽鞠は答えた。
腹は立つ。
手首の痕も気持ち悪い。
玻月が何かを隠しているのも確かだと思う。
けれど、黒い五芒星を仕込んだ人物だと決めつけるには、まだ早い。そこで間違えれば、本当に動いている誰かを見逃すかもしれない。
それも腹立たしい。
怒りには、行き場がない。
朔夜の指が、陽鞠の手に触れる。
指輪同士がかすかに当たった。
ちり、と小さく鳴る。
更紗の端末が、その音に反応したように微かな波形を拾った。
更紗が目を細める。
「今の」
陽鞠と朔夜が固まる。
「何」
朔夜が聞く。
「指輪が触れた時、手首の痕が少し揺れた」
陽鞠は自分の左手首を見る。
清浄布の下が、じわりと熱い。
「玻月の痕が?」
「うん。陽鞠と朔夜の霊力が近づくと、黒い五芒星の残滓だけじゃなく、玻月の接触痕も反応する」
朔夜の表情が消えた。
「どういうことだ」
「まだわからない」
更紗は慎重に言った。
「玻月が意図的に反応痕を残したのか、陽鞠の霊力が触れられた時に記憶してしまったのか、二人の霊力が特定の痕跡を浮かび上がらせるのか。可能性はいくつかある」
「消せる?」
朔夜が聞く。
「すぐには消さない方がいい」
更紗が言うと、朔夜の目が鋭くなった。
陽鞠が先に口を開く。
「記録するため?」
「うん。今消すと、手がかりも消える。もちろん痛みや侵食が出るならすぐ除去する。でも現時点では、浄化符で封じながら観測した方がいい」
陽鞠は左手首を見下ろした。
気持ち悪い。
消したい。
今すぐ消したい。
けれど、これが玻月の何かを追う手がかりになるなら。
黒い五芒星との関係を探る材料になるなら。
陽鞠は息を吸った。
「残す」
「陽鞠」
朔夜の声が低くなる。
陽鞠は彼を見た。
「嫌だけど、残す。更紗が危険って判断したらすぐ消す。それまでは記録に使って」
「本当に嫌なら」
「嫌だよ」
陽鞠は正直に言った。
「でも、ただ嫌なだけで終わらせたくない。勝手に触られて、勝手に測られて、嫌な痕だけ残されて、それで終わりなんて絶対嫌。こっちから利用する」
会議室が静かになる。
かがりの表情がわずかに変わった。
更紗は静かに頷いた。
「わかった。侵食監視をつける。少しでも異常が出たら除去」
「うん」
「朔夜も監視対象」
「俺?」
「陽鞠の手首を見るたびに斬りに行きそうだから」
「否定は」
「できないでしょ」
「できない」
朔夜は低く答えた。
陽鞠は少しだけ笑ってしまった。
笑いごとではないのに。
でも、朔夜があまりにも正直で、少し救われた。
かがりが咳払いをする。
「整理する。凶暴化妖の条件として、黒い五芒星の術式、自然発生妖、二人の霊力反応が絡んでいる可能性が高い。二人を現場へ誘導している者がいる可能性もある。ただし、実行者、目的、術式の完成形は不明。御影堂玻月は情報を持っている可能性があるが、現時点では立場を断定しない」
全員が頷いた。
「今後の対応」
かがりは指を立てる。
「一つ、二人の任務同行は継続。ただし、発生地点に向かう前に更紗と透羽へ位置情報を共有する。二つ、黒い五芒星を確認したら直接触れない。記録札、観測札を優先。三つ、二人の霊力が重なった時の反応を記録する。ただし、任務中以外で不用意に試すな」
かがりの視線が陽鞠と朔夜へ突き刺さる。
陽鞠は顔を赤くした。
「試しません!」
朔夜は少しだけ目を逸らした。
かがりの声が低くなる。
「綴喜」
「はい」
「試すな」
「はい」
「本当に試すな」
「……はい」
「間があったな」
「気のせいです」
「反省文を増やすぞ」
「試しません」
即答だった。
透羽が小さく笑いかけて、すぐ端末へ顔を戻した。
更紗は真顔で記録している。
陽鞠は机の下で、朔夜の足を軽く踏んだ。
「本当に試さないでよ」
「わかってる」
「顔」
「試すなら報告してから」
「そういう問題じゃない!」
「冗談」
「今のは信じない」
朔夜の口元が少しだけ緩む。
陽鞠は怒った顔をしようとして、失敗した。
空気が少しだけ和らぐ。
だが、投影板の赤い点は消えない。
黒い五芒星の印も。
凶暴化の条件。
陽鞠と朔夜の霊力への過剰反応。
二人を誘導するように起きる事件。
どれも、会議室の空気の中に重く残っている。
かがりが最後に言った。
「お前たちは強い。だが、強いから安全というわけではない。むしろ、相手が二人の強さを前提に動いているなら、今までより危険だ」
「はい」
陽鞠は頷く。
朔夜も頷いた。
「怖がるなとは言わない。怒るなとも言わない。だが、一人で抱えるな。必ず共有しろ」
かがりの声は厳しかった。
でも、そこに心配がある。
陽鞠はそれをちゃんと聞いた。
「わかりました」
「綴喜」
「はい」
「篠宮の異常に気づいたら、本人が強がっても報告しろ」
「します」
「篠宮」
「はい」
「綴喜が怒りで暴走しそうなら、同じく報告しろ」
「します」
「陽鞠」
「するよ」
「即答だな」
「するよ」
陽鞠は真顔で繰り返した。
朔夜は少し不満そうだった。
当然である。前科が多い。人類、信用は日々の積み重ねでしか得られない。主に失った側の話だ。
会議が終わる頃には、解析棟の外は夕暮れになっていた。
更紗はかがりに連行されるように仮眠室へ向かい、透羽は追加の地図データを作るため別室へ消えた。かがりは協会へ連絡を入れると言って、重い足取りで職員室へ戻っていった。
会議室には、陽鞠と朔夜だけが残った。
投影板は消えている。
机の上には、まだ封印ケースと記録札がある。
陽鞠は椅子に座ったまま、左手首を見ていた。
清浄布の下の熱は、少し落ち着いている。
だが、凶暴化の条件という言葉が頭から離れない。
「私たちが、条件にされてるかもしれないんだね」
ぽつりと呟く。
朔夜は隣へ来た。
「使われてるだけだ」
「うん」
「原因じゃない」
「うん」
「悪いのは仕込んだやつだ」
「……うん」
陽鞠は頷く。
わかっている。
でも、心が追いつくには時間がいる。
朔夜は彼女の右手を取った。
指輪が触れる。
ちり、と鳴る。
陽鞠はその音に少しだけびくりとした。
今まで安心する音だった。
今も安心する。
でも、妖がその音に反応しているかもしれないと思うと、一瞬だけ怖くなった。
朔夜が気づかないわけがなかった。
「嫌か」
低く聞く。
陽鞠は首を振った。
「嫌じゃない。怖くなっただけ」
「やめるか」
「やめない」
陽鞠は、今度は自分から指輪を重ねた。
ちり、ともう一度音が鳴る。
小さく、澄んだ音。
「これは、私たちの音でしょ」
「ああ」
「勝手に条件にされたからって、あげない」
陽鞠ははっきり言った。
「妖が反応しても、誰かが見てても、これは私たちが選んで鳴らしてる音。勝手に使わせない」
朔夜の黒い瞳が、静かに揺れる。
「強いな」
「強がってるだけ」
「それでも強い」
「朔夜は?」
「怒ってる」
「知ってる」
「でも、陽鞠がそう言うなら、俺も奪わせない」
朔夜は彼女の手を包み込むように握った。
「結界と刀も、指輪も、任務前のキスも、任務後の確認も。向こうが条件にしたなら、こっちで意味を変える」
「どう変えるの」
「罠を斬るための合図」
陽鞠は少しだけ笑った。
「朔夜らしい」
「だめか」
「ううん。いいと思う」
会議室の空気はまだ重い。
それでも、陽鞠の胸の奥にあった冷たさは少しだけ薄れた。
二人を誘導する事件。
凶暴化の条件。
黒い五芒星。
御影堂玻月。
何も解決していない。
むしろ、状況は悪くなっている。
だが、ひとつだけ決めた。
利用されるだけでは終わらない。
見られているなら、見返す。
誘導されているなら、辿る。
条件にされているなら、その条件ごと壊す。
陽鞠は立ち上がった。
「行こう。更紗が本当に寝たか確認する」
「そこ?」
「大事でしょ」
「大事だな」
「その後、かがり先生に追加で質問して、透羽の地図も見る」
「休めって言われた」
「少しだけ」
「陽鞠」
「……じゃあ、地図見たら休む」
「本当に?」
「本当」
「膝枕?」
「なぜそうなる」
「休むなら」
「朔夜が休みたいだけでしょ」
「半分」
「残り半分は?」
「陽鞠を休ませたい」
「その言い方はずるい」
陽鞠は呆れながらも、手を離さなかった。
二人は会議室を出た。
廊下には夕方の光が差している。
窓の外の空は橙から紫へ変わり始め、学園の結界塔が淡く光っていた。遠くから、生徒たちの声が聞こえる。いつもの学園の日常。けれど、その下に見えない糸が張られているような感覚があった。
誰かが見ているかもしれない。
誰かが誘導しているかもしれない。
その誰かが、まだどこにいるのかはわからない。
陽鞠は朔夜の手を握り直した。
指輪が鳴る。
ちり。
その音を怖がらない。
奪わせない。
陽鞠はそう心の中で決めて、解析棟の廊下を歩き出した。




