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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第16話 雨の任務


 雨は、昼過ぎから降り続いていた。


 細い雨ではない。空全体が濡れた布になって、街の上へ押しつけられているような雨だった。道路の端には薄い水の流れができ、側溝の金網が絶えず低い音を立てている。車が通るたび、水しぶきが白く跳ね、古い住宅街の塀には黒い雨筋が何本も垂れていた。


 陽鞠は傘を差していなかった。


 背中の弓に、簡易防水の結界をかけている。腰の日本刀にも、鞘の上から水除けの薄膜を張った。けれど、自分自身までは守っていない。雨で濡れた制服の袖が手首に張りつき、ブレザーの肩が重くなっていた。金髪の毛先は湿って頬に触れ、耳元のピアスから小さな雫が落ちる。


 冷たい。


 でも、動けないほどではない。


 隣を歩く朔夜も同じだった。


 銀髪のウルフカットは雨を吸って少し重くなり、襟足が首筋に張りついている。制服の黒いブレザーは濡れて色を深め、緩いネクタイも胸元に落ちていた。二百センチの身体は雨の中でも目立つ。片手は刀へ近く、もう片方の手は陽鞠が滑らないよう、時々すぐ横へ伸びてくる。


「傘、差せばよかった」


 陽鞠は小さく言った。


「今さらだな」


「言ってみただけ」


「俺の上着を」


「いらない。朔夜も濡れてる」


「陽鞠よりはまし」


「身長で雨量変わらないでしょ」


「お前の方が小さいから、水たまりが近い」


「その理屈、腹立つ」


 陽鞠は少しだけ睨んだ。


 朔夜は真顔で彼女を見下ろしている。冗談なのか本気なのか、時々わからない。たぶん両方だ。人類の会話は曖昧でできている。


 任務地点は、住宅街の奥にある廃屋だった。


 元は古い民家だったらしい。二階建てで、瓦屋根の一部が崩れ、雨樋は途中で折れている。庭には雑草が伸び放題で、濡れた葉が暗く光っていた。門柱は傾き、表札は外されている。玄関前には水たまりができ、雨粒がその表面を絶え間なく叩いていた。


 近隣住民からの通報は三日前から。


 無人のはずの廃屋で、夜ごと壁を叩く音がする。


 天井裏を何かが這う。


 雨の日だけ、二階の窓に濡れた手形が増える。


 今朝になって、解体業者が下見に入ったところ、作業員の一人が廊下で転倒し、足首を捻挫した。本人は「天井から何かが落ちてきた」と言っている。同行した作業員も、家の中で子どもの笑い声のような音を聞いたらしい。


 協会の初期判定は、低級から中級の湿気系妖。


 雨、廃屋、古い木材、残留した生活の匂い。


 妖が生まれる条件としては、わかりやすい。


 わかりやすいが、最近はそれだけで済ませられない。


 陽鞠は玄関前で足を止めた。


 濡れた門の内側へ、一歩入る。


 空気が変わった。


 外よりも冷たい。


 雨の冷たさではない。長く閉ざされた家の内側で、湿気と埃と古い木が混ざって腐りかけたような冷えだった。喉の奥に、かすかな黴の味がする。床下から、じっとりした霊気が滲んでいた。


「いる」


 陽鞠は言った。


 朔夜が玄関の壊れた戸を見た。


「中か」


「壁にも、天井にも。家全体に薄く広がってる」


「また面倒なやつか」


「最近、面倒じゃなかったことあった?」


「ないな」


「悲しい確認」


 陽鞠は右手を上げた。


 玄関口に、小さな金色の結界を張る。外へ妖が逃げないよう封鎖し、同時に一般人が入らないようにする。雨粒が結界へ触れるたび、淡い光が水面のように揺れた。


 朔夜は戸を少し持ち上げ、力を入れて横へずらす。


 ぎい、と湿った木が鳴った。


 玄関の中は暗い。


 畳の匂い、古い靴箱の黴、雨漏りした天井板の湿り気。土間には濁った水が溜まり、そこへ天井から落ちる雨水が、ぽた、ぽた、と間隔を置いて音を立てていた。


 陽鞠は一歩入る。


 床板が、みし、と鳴った。


「滑る」


 朔夜が言う。


「わかってる」


 陽鞠は足元へ薄い結界を張った。


 靴裏に沿うような小さな膜。滑り止めと、床板が抜けた時の一瞬の足場を兼ねる。自分の分を張ったあと、朔夜の足元にも同じものを置いた。


 朔夜が少しだけ眉を上げる。


「俺にも?」


「ここで朔夜が滑ったら床が抜ける」


「俺の心配じゃなくて床か」


「両方」


「順番」


「床と朔夜」


「陽鞠」


「朔夜と床」


「よし」


「よしじゃない」


 小声のやりとりが、濡れた廃屋の中に消える。


 玄関の奥は、廊下につながっていた。右手に和室、左手に台所、奥に階段。廊下の板は雨漏りで黒ずみ、壁紙は剥がれている。柱には何かが這ったような濡れた筋が残っていた。床には小さな泥の手形がいくつもついている。


 子どもの手のようにも見える。


 だが、人間のものではない。


 指が一本多い。


 陽鞠はそれを見て、眉を寄せた。


「壁を這ってる」


「跡が新しい」


「今も近くにいる」


 天井の奥から、かさり、と音がした。


 雨音に混じって、何かが木の裏側を擦る音。


 かさかさ。


 ずる。


 かさり。


 朔夜が刀へ手をかける。


 陽鞠は弓を背中から外した。


 雨で濡れた指が、弓の握りへ触れる。霊力を流すと、水滴が細かく震え、弓全体が薄く金色に光った。矢筒から破魔矢を一本抜く。羽根も湿っていたが、霊力を通せば問題ない。


 廊下の奥で、子どもの笑い声がした。


「ふふ」


 高い声。


 すぐに雨音へ紛れる。


 朔夜が低く言う。


「誘ってるな」


「行くしかないけどね」


「俺が前」


「足元、見て」


「陽鞠も」


「うん」


 二人は廊下を進んだ。


 床板は一歩ごとに鳴る。湿った木の匂いが濃くなり、壁から冷たい水が染み出している。天井の染みは黒く広がり、まるで何かの顔のように見えた。そこから、ぽた、と水が落ちる。


 陽鞠の頬を冷たい雫がかすめた。


 次の瞬間。


 天井の染みが剥がれた。


 いや、落ちてきた。


 黒く濡れた塊が、天井から真下へ落下する。人の形に近い。だが、手足が長すぎる。背中には腐った畳の繊維のようなものがまとわりつき、顔の代わりに濡れた木目がある。口の位置だけが横に裂け、そこから雨水のような黒い液体が滴っていた。


「朔夜、上!」


「見えてる」


 朔夜が抜刀する。


 銀の刃が薄暗い廊下で光る。


 だが、妖の落下速度が速い。しかも廊下は狭く、大きく避ければ壁にぶつかる。陽鞠は右手を開いた。


 結界を張る。


 真下から受けるのではない。


 斜めに。


 妖の落下軌道へ、薄い金色の膜を傾けて差し込む。妖の身体が結界に触れた瞬間、ずるりと横へ滑った。重さと勢いを殺さず、方向だけをずらす。妖は朔夜の頭上ではなく、廊下の壁へ叩きつけられた。


 壁板が割れる。


 黒い水が飛び散る。


 朔夜が踏み込んだ。


 滑る床を、陽鞠の足場結界が受け止める。銀の刀が横へ走り、妖の肩から胴を裂いた。湿った木を断つような鈍い感触が返る。妖の身体が二つに分かれかける。


 だが、切断面から黒い泥のようなものが伸び、すぐに繋がった。


「核じゃない」


 朔夜が言う。


「本体、壁の中」


 陽鞠は壁へ視線を走らせた。


 廊下の壁紙の裏で、何かが動いている。雨で濡れた木材の隙間を、細長い影が這っていた。さっき落ちてきた妖は、身体の一部にすぎない。


 壁を這う音が増える。


 右。


 左。


 天井。


 床下。


 家のあちこちで、何かが動き出した。


 朔夜が陽鞠の前に出る。


「囲まれた」


「うん」


「どこが核だ」


「まだ見えない。家全体に散ってる。でも、反応が一番濃いのは奥の和室」


「進む」


「朔夜、天井から来る」


 言った瞬間、二体目が落ちてきた。


 今度は一体ではない。


 天井板の隙間から、濡れた腕が何本も垂れ下がり、その中の一つが形を持って落ちる。黒い水を撒き散らしながら、朔夜の背後を狙う。


 陽鞠は矢を放った。


 狭い廊下。


 まっすぐでは届かない。


 彼女は空中に小さな射線結界を三枚置く。矢は一枚目で角度を変え、二枚目で落下する妖の横へ回り込み、三枚目で上へ跳ねる。矢尻が妖の首に当たり、破魔の光が炸裂した。


 妖の頭部が吹き飛ぶ。


 黒い水が雨のように散った。


 それが床へ落ちる前に、陽鞠は半球状の結界を広げて受け止める。床へ染み込ませないためだ。黒い水は結界の内側でじゅう、と音を立て、煙になって消える。


「水も毒?」


 朔夜が聞く。


「霊毒まではない。でも床に染みると動きやすくなる」


「なら散らすなってことか」


「そう」


「面倒だな」


「知ってる」


 廊下の奥の和室から、また笑い声がした。


「ぬれた」


「ぬれた」


「さむい」


「こっち」


 襖が、内側からゆっくり開いた。


 部屋の中は暗い。


 畳は黒く濡れ、天井から雨水がいくつも落ちている。床の間には古い掛け軸がかかっていたが、水を吸って半分剥がれていた。中央には、崩れた座卓。その下に、黒い水たまりがある。


 陽鞠の金色の瞳が細くなる。


「あそこ」


 水たまりの奥。


 畳の下に、赤黒い核の気配。


 そして、微かな黒い五芒星の残滓。


 朔夜も察した。


「またか」


「完全な印じゃない。でも近い」


「罠か」


「わからない。でも近づくと反応する」


 その言葉が終わる前に、和室の壁が動いた。


 壁一面に、濡れた手形が浮かび上がる。


 小さな手。


 長すぎる指。


 逆向きの爪。


 それらが一斉に床へ向かって這い出した。壁を抜け、畳へ落ち、黒い水たまりへ集まる。水たまりが盛り上がり、妖の本体が形を作り始めた。


 細長い身体。


 雨漏りの水を吸った畳と腐った木材を混ぜたような肌。


 背中には屋根板の破片が刺さり、腹部には濡れた鈴のような空洞があった。その奥で、赤黒い核が鼓動する。黒い五芒星は、核の表面に完全には浮かんでいない。だが、線の一部が根のように絡みついている。


 未完成。


 あるいは、隠している。


 陽鞠は息を呑んだ。


 妖が、陽鞠と朔夜を見た。


 顔はないのに、見られたとわかった。


 腹部の核が脈打つ。


 次の瞬間、妖の霊力が跳ね上がった。


 雨音が強くなる。


 屋根を叩く音が、まるで無数の爪音のように聞こえた。


「反応した」


 陽鞠が言う。


「俺たちに?」


「たぶん」


「気分悪いな」


「同感」


 妖が壁を蹴った。


 身体が低く沈み、畳の上を滑るように走る。濡れた床を味方にしている。普通の足運びでは滑る場所を、妖は水の上を這うように移動した。長い腕が左右に開き、朔夜の足を絡め取ろうと伸びる。


 朔夜は前へ出る。


 だが、床が滑る。


 一瞬、靴底がずれた。


 陽鞠が即座に足場結界を張る。


 朔夜の右足の下に、金色の小さな膜が生まれた。彼はそれを踏み、体勢を戻す。そのまま刀を下へ振る。妖の腕が一本落ちる。


 落ちた腕は畳の水へ沈み、また壁へ這い戻ろうとした。


「陽鞠、床」


「封じる」


 陽鞠は左手を広げた。


 和室の畳全体に、薄い格子状の結界を敷く。水そのものを消すのではない。妖の身体が水を通して移動する経路だけを塞ぐ。畳の目に沿って金色の線が走り、黒い水の流れが一瞬止まった。


 妖が天井へ逃げる。


 濡れた身体が、まるで重力を無視するように柱を這い上がった。天井に張りつき、逆さまのまま口を開く。黒い水が滴る。


「落ちる!」


 陽鞠が叫ぶ。


 妖が天井から落下した。


 今度は朔夜ではなく、陽鞠を狙って。


 冷たい影が頭上に広がる。


 陽鞠は後ろへ跳ばない。


 足元は滑る。下がれば廊下へ追い込まれる。だから、結界で受け流す。


 右手を上へ。


 三枚の斜め結界。


 一枚目で落下角度を変える。


 二枚目で重さを分散する。


 三枚目で軌道を朔夜の前へ流す。


 妖の身体が、金色の膜を滑るように逸れた。落下の勢いは残ったまま、朔夜の刀の射線へ入る。


 朔夜は待っていた。


 濡れた銀髪の下で、黒い瞳が鋭く光る。


 刀が上から下へ走った。


 妖の胴体が割れる。


 しかし核は、またずれた。


 身体の内側で核が移動している。斬撃に合わせて、水を通って位置を変えたのだ。


「逃げるな」


 朔夜の声が低くなる。


「核が水の中を動いてる」


 陽鞠は目を凝らした。


 金色の瞳で、霊力の流れを見る。


 畳の水、壁の湿り、天井の雨漏り。そのすべてが妖の通路になっている。核は固定されていない。赤黒い光は、腹部にあるようで、次の瞬間には壁の中へ移る。だから斬っても届かない。


 陽鞠は息を吸う。


「朔夜、三秒止める」


「足りる」


「全部の水路を閉じる。反動来るから、外したら怒る」


「外さない」


「信じてる」


「知ってる」


 短いやりとり。


 それだけでいい。


 陽鞠は両手を開いた。


 右手には弓。


 左手は水に濡れた空気へ向ける。


 結界を張る。


 和室の床、壁、天井。


 雨漏りの水筋。


 畳の隙間。


 柱の割れ目。


 全部へ、金色の薄膜を差し込む。


 水の流れを止めるのではない。


 妖の霊力だけを選別して、通路から剥がす。


 精密すぎる作業だった。


 雨水と妖の霊気は混ざっている。強く弾けば家全体の水分が暴れ、床が抜けるかもしれない。弱ければ核が逃げる。陽鞠は目を細め、一本一本、霊力の糸をほどくように結界を走らせた。


 指先が痛む。


 左手首の清浄布の下も熱を持つ。


 玻月に触れられた痕が、雨の冷たさの中でじくりと疼いた。


 気持ち悪い。


 でも、今は止まらない。


「一秒!」


 陽鞠が叫ぶ。


 妖が暴れた。


 壁に張りついた手形が一斉に浮かび上がり、陽鞠の結界を内側から叩く。雨音が激しくなる。天井板が軋み、黒い水が畳の上で跳ねた。


 朔夜が前へ出る。


 足場は陽鞠が作る。


 滑る床の上に、一歩ごとに金色の膜が生まれる。朔夜はそれを疑わず踏む。踏んだ瞬間にはもう次の足場がある。彼の刀のために、陽鞠が道を作る。


「二秒!」


 核が動きを止めた。


 壁、床、天井への通路を塞がれ、赤黒い光が妖の腹部へ戻る。黒い五芒星の残滓が、核の表面で一瞬だけ浮かび上がった。


 陽鞠の瞳がそれを捉える。


「朔夜、腹部中央じゃない! 左下、畳の水と繋がってる根!」


「見えた」


 朔夜が低く答える。


 妖が最後の抵抗で天井から黒い水を落とす。


 刃の上に落ちれば軌道が鈍る。


 陽鞠は結界を一枚、刀の背に沿わせた。


 薄く。


 邪魔しないように。


 水だけを弾き、刃の霊力を通す膜。


「三秒!」


 朔夜の刀が入った。


 銀の刃が、金色の膜をまとい、雨の廃屋の暗がりを切り裂く。妖の腹部を斜めに断ち、赤黒い核へ届く。硬い抵抗があった。黒い五芒星の残滓が核を守ろうと根を伸ばす。


 陽鞠はその根を結界で挟んだ。


 切るのではない。


 動きを止める。


「今!」


 朔夜が踏み込む。


 刀をさらに押し込む。


 核が割れた。


 重い音がした。


 ばきり、と湿った木の奥で何かが裂けるような音。


 黒い五芒星の残滓が一瞬だけ光り、すぐに霧散した。妖の身体が崩れる。畳に染み込んでいた黒い水が透明に近づき、壁の手形が一つずつ消えた。天井から落ちる雨水だけが、ぽた、ぽた、と残る。


 陽鞠は結界を解除した。


 途端に膝が揺れる。


 朔夜がすぐに支えた。


「陽鞠」


「平気」


「禁止」


「……ちょっと、指と手首が痛い」


「正直でよろしい」


「真似しないで」


 陽鞠は息を整えた。


 雨音が戻ってくる。


 さっきまで妖の声や壁を這う音に混じっていた雨が、今はただ屋根を叩いているだけだった。廃屋の中の冷たさも、少しだけ軽くなっている。


 朔夜は刀を振り、刃についた黒い水を払った。


 銀の刃に雨の光が反射する。


 陽鞠は和室を見回した。


 畳は濡れている。


 壁紙は剥がれ、天井板はひどく傷んでいる。だが、妖の気配はもうない。黒い五芒星の残滓も、完全に消えている。記録札には、直前の反応を焼きつけてある。更紗に渡せば、何か拾えるかもしれない。


「終わったね」


「ああ」


「雨、まだ止まない」


「濡れたな」


「今さら」


 陽鞠は自分の制服を見下ろした。


 ブレザーもスカートも濡れて重い。髪からは水滴が落ち、首筋を伝ってシャツの襟へ入った。冷たくて、思わず肩が震える。


 朔夜の視線がそこへ落ちる。


「寒い?」


「ちょっと」


「上着」


「朔夜も濡れてる」


「でも着ろ」


「濡れてる上着を?」


「俺の方が体温高い」


「理屈が雑」


「温める」


「ここ廃屋」


「人はいない」


「そういう問題じゃなくて」


 陽鞠が言い返そうとした時、外で雷が鳴った。


 遠くではない。


 屋根を震わせるような音だった。


 陽鞠は反射的に肩を跳ねさせる。


 朔夜がすぐに彼女の背へ手を回した。


「雷?」


「びっくりしただけ」


「うん」


「怖くない」


「うん」


「信じてないでしょ」


「可愛いと思ってる」


「最悪」


 いつものやりとりなのに、声は少し小さかった。


 雨の廃屋の奥。


 妖を祓った直後。


 濡れた制服。


 冷たい空気。


 朔夜の手の温度。


 全部が、妙に近かった。


 朔夜は陽鞠の肩を支えたまま、和室の奥にある小さな納戸の方へ視線を向ける。


「奥で少し休む。廊下はまだ滑る」


「報告が先」


「端末で送れる」


「現場確認」


「もうした。記録札もある。陽鞠の手首が先」


 朔夜は譲らなかった。


 陽鞠は少しだけ迷い、結局頷いた。


 納戸は狭かった。


 古い布団袋と、壊れた衣装箱が隅に置かれている。窓はない。天井からの雨漏りも少ない。床は湿っているが、和室よりはましだった。朔夜が先に入って足元を確かめ、陽鞠を呼ぶ。


 陽鞠は中へ入ると、壁際に背を預けた。


 濡れた制服が肌に張りついて気持ち悪い。雨で冷えた身体が、ようやく疲れを思い出したように重くなってきた。左手首の清浄布の下は、妖の核を止めた時の反動で熱を持っている。


 朔夜は陽鞠の左手を取った。


「見せろ」


「うん」


 今日は抵抗しなかった。


 清浄布を少しずらす。


 手首の痕は昨日より薄い。けれど、戦闘で結界を酷使したせいか、周囲が赤く熱を持っていた。朔夜の眉が寄る。


「悪化してる」


「少しだけ」


「禁止」


「……熱い。でも動く」


「休ませる」


「報告したらね」


「今」


 朔夜は新しい浄化符を取り出し、手首へ貼った。


 触れ方は丁寧だった。


 玻月の白手袋とは違う。


 測るためではなく、守るための手。


 陽鞠はその違いに、少しだけ息を吐いた。


「まだ気持ち悪い?」


 朔夜が聞く。


「手袋のこと?」


「ああ」


「……少し。でも、前よりまし」


「上書きするか」


「ここで?」


「ここで」


「任務後だけど、廃屋だけど、雨だけど」


「生きてる確認」


「便利な言葉」


「本当のこと」


 朔夜は陽鞠の手首へ視線を落とした。


 だが、そこへ口づける前に、一度彼女を見た。


「嫌ならしない」


 その確認がある。


 だから、陽鞠は小さく首を振った。


「……嫌じゃない」


 朔夜は清浄布の上から、そっと手首に唇を触れさせた。


 短い。


 静かなキス。


 雨音の中に、陽鞠の呼吸だけが少し混じる。


 熱を持っていた手首が、少し落ち着いた気がした。


 朔夜は顔を上げる。


「まし?」


「うん」


「なら、もう一回」


「調子に乗らない」


「必要」


「一回で十分」


「足りない」


「朔夜がでしょ」


「そう」


「正直」


 陽鞠は少し笑った。


 雨音が強くなる。


 廃屋の奥の狭い納戸で、二人の濡れた制服から冷たい水が床へ落ちた。ぽた、ぽた、と雨漏りとは違う音がする。外ではまだ雷が遠く鳴っている。


 朔夜の銀髪から水滴が落ち、頬を伝った。


 陽鞠は無意識に手を伸ばし、その水滴を指で拭った。


 朔夜が目を細める。


「陽鞠」


「濡れてたから」


「お前も」


「知ってる」


 朔夜の指が、陽鞠の濡れた金髪を頬から避けた。


 その指が耳元をかすめ、ピアスが小さく揺れる。いつもの音とは違う、水を含んだ重い揺れだった。陽鞠は少しだけ身じろぎする。


「寒い?」


「少し」


 今度は正直に答えた。


 朔夜は自分の濡れた上着を脱ごうとした。


 陽鞠が止める。


「だから、濡れてるって」


「なら、こっち」


 朔夜は上着ではなく、自分の腕で陽鞠を引き寄せた。


 強くはない。


 逃げられる。


 でも、陽鞠は逃げなかった。


 濡れた制服越しでも、朔夜の体温はわかった。冷たい空気の中で、その温度だけがはっきりしている。陽鞠の額が朔夜の胸元に触れそうになり、彼女は少しだけ顔を上げた。


 黒い瞳が近い。


 雨音が、外の世界を遠くする。


「……朔夜」


「何」


「任務後の確認、まだだったね」


 言ってから、陽鞠は少し顔を赤くした。


 自分から言った。


 朔夜の表情が、はっきり変わる。


「陽鞠から言った」


「聞き間違い」


「無理」


「忘れて」


「無理」


「じゃあ、短く」


「努力する」


「その返事、嫌な予感しかしない」


 朔夜は低く笑った。


 それから、顎に触れた。


 濡れた指先が少し冷たい。けれど、その奥に体温がある。陽鞠は目を閉じた。


 唇が重なる。


 雨の匂いがした。


 湿った木の匂い、濡れた制服の冷たさ、妖を斬った後の霊気の薄い焦げた匂い。その全部の奥に、朔夜の温度がある。冷えていた身体が、唇から少しずつ戻されていくようだった。


 最初は静かだった。


 まるで雨音に紛れるように、確かめるだけのキス。


 けれど、少しずつ深くなる。


 陽鞠の指が、朔夜の濡れた制服を掴む。布が冷たく重い。掴んだ指先から水が滲んだ。朔夜の手が彼女の腰へ回る。濡れたブレザー越しに支えられ、陽鞠は壁と朔夜の間で小さく息を漏らした。


「ん……」


 雨音に消えそうな声。


 でも、朔夜には聞こえた。


 唇が一度離れる。


 近い距離で、彼が低く言う。


「生きてる」


「……うん」


「寒い」


「うん」


「でも、生きてる」


「うん」


 陽鞠は朔夜のネクタイを掴んだ。


 濡れて、少し冷たいネクタイ。


 それを引く。


「もう一回だけ」


 小さく言った。


 朔夜の黒い瞳が揺れる。


「一回?」


「一回」


「長さは?」


「聞かないで」


「じゃあ、俺が決める」


「短く」


「努力する」


「絶対長い」


 言い終える前に、また唇が重なった。


 今度は、さっきより深かった。


 雨音が強くなる。


 廃屋のどこかで、まだ水が落ちている。ぽた、ぽた、ぽた。壊れた家の音。任務の後に残る静けさ。遠くで雷が低く鳴り、和室の畳が湿った匂いを立てる。


 陽鞠は目を閉じたまま、朔夜の制服を掴む手に力を込めた。


 濡れている。


 寒い。


 疲れている。


 でも、怖くはなかった。


 妖はもういない。


 黒い五芒星の残滓は記録した。


 雨はまだ降っている。


 そして、朔夜がいる。


 それだけで、廃屋の奥の冷たい空気が、少しだけ別のものに変わった。


 唇が離れた時、陽鞠は息を整えるのに少し時間がかかった。


 朔夜も、すぐには離れない。


 額が触れそうな距離で、二人は雨音を聞いていた。


「……長い」


 陽鞠がかすれた声で言う。


「短い方」


「嘘」


「俺の中では」


「基準がおかしい」


「陽鞠だから」


「理由になってない」


「なる」


 朔夜は陽鞠の額へ、短くキスをした。


 さっきとは違う、優しいものだった。


「帰るぞ。濡れたままだと風邪引く」


「急にまとも」


「陽鞠が寒そう」


「朔夜も寒いでしょ」


「お前よりはまし」


「またそれ」


「本当」


 陽鞠は少し笑った。


 朔夜は手を離さず、納戸から和室へ出る前に足元を確認した。まだ床は滑る。陽鞠は小さな結界を二人の足元へ張り直す。金色の膜が、濡れた床の上に淡く光った。


 廃屋の中は、さっきより静かだった。


 雨音だけがある。


 壁を這う音も、天井から落ちる気配もない。


 玄関へ戻る途中、陽鞠は一度だけ振り返った。


 暗い和室。


 濡れた畳。


 天井の染み。


 妖の気配は消えている。


 けれど、あの黒い五芒星に似た残滓が、胸の奥に小さな棘を残していた。


「更紗、また寝ないね」


 陽鞠が呟く。


「寝かせる」


「どうやって」


「かがり先生に報告」


「最強」


「人類最終兵器だな」


「先生に怒られるよ」


 朔夜が低く笑う。


 玄関へ出ると、外の雨がまた二人を濡らした。


 冷たい。


 だが、さっきより平気だった。


 陽鞠は右手を上げ、玄関口の封鎖結界を解除する。外へ漏れる霊気はもうない。雨粒が金色の膜の名残を叩き、光が細かく散った。


 朔夜が手を差し出す。


「滑る」


「わかってる」


「手」


「……うん」


 陽鞠はその手を取った。


 指輪同士が触れる。


 ちり、と雨音の中で小さく鳴る。


 凶暴化妖がその音に反応するかもしれない。


 誰かがその音を見ているかもしれない。


 それでも、陽鞠は手を離さなかった。


 雨の廃屋を出て、二人は濡れた庭を歩く。


 水たまりに足を取られないよう、朔夜が少し先を歩き、陽鞠が結界で足元を支える。結界と刀。金と銀。濡れた制服。冷たい空気。任務後の唇の熱。


 雨はまだ止まない。


 けれど、二人は並んでいた。


 それだけは、どんな雨音にも消されなかった。


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