第17話 私は私だ
白い光の中に、矢があった。
それは、ただ一本の矢だった。
けれど、空を裂く音がした。
耳元で風が爆ぜる。弓弦が鳴る。指先が熱い。腕の筋が張り詰め、肩から背中へ霊力が流れていく。眩しすぎる白い光の中で、矢だけが金色の尾を引いて飛んだ。
どこへ向かっているのか、陽鞠にはわからなかった。
いや、わかっていたのかもしれない。
夢の中の自分は、迷っていなかった。弓を構え、息を止め、狙いを定めていた。自分よりずっと遠く、ずっと深い場所を射抜こうとしていた。白い光の向こうに、黒い影がある。人の形にも、妖の形にも見えない。けれど、それが倒れなければ誰かが死ぬと、夢の中の自分は知っていた。
手が震えている。
でも、放たなければならない。
矢が飛ぶ。
白い光が、さらに強くなる。
眩しい。
眩しすぎて、世界の輪郭が消える。
次の瞬間、口の中に血の味が広がった。
鉄の味。
苦くて、熱くて、喉の奥へ落ちていく味。
陽鞠は息をしようとした。けれど、胸がうまく動かない。肺の奥が焼けるように痛い。足元には水がある。いや、水ではない。血だ。白い光に照らされて、赤いものが黒く見える。
誰かが倒れている。
顔は見えない。
手だけが見える。
長い指。
血で濡れた指。
その手が、陽鞠の方へ伸びかけて、届かないまま落ちる。
心臓が、嫌な音を立てた。
失う。
そう思った。
誰を、とはわからない。
けれど、失う。
もう二度と戻らない。
名前を呼ぼうとしても、声が出ない。喉から漏れるのは、かすれた息だけだった。白い光が視界を焼く。矢はもう戻らない。放ったものは戻らない。選んだことは、なかったことにできない。
誰かが泣いている。
誰かが怒鳴っている。
誰かが、笑っている。
白い光の中で、黒いものが揺れた。
その奥に、細い線が見えた。
黒い五つの線。
星のような形。
けれど、すぐに白い光に飲まれて消える。
手が冷たい。
心臓だけが熱い。
血の味が消えない。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
失いたくない。
もう、誰も。
「っ……!」
陽鞠は息を呑んで目を覚ました。
天井があった。
白い天井。
退魔学園の寮の自室の天井だ。
薄い朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を淡く照らしている。机の上には教科書と、昨日の任務報告の控え。椅子の背には乾かした制服のブレザー。ベッド脇には弓と日本刀がいつもの位置に置かれていた。
雨の廃屋ではない。
神社でもない。
白い光の中でもない。
陽鞠は寝間着の胸元を握りしめた。
息が浅い。
喉が痛い。
口の中に、まだ血の味が残っている気がした。実際には何も切れていない。唇も舌も無事だ。それなのに、鉄の味が舌の奥にこびりついている。
手が震えていた。
右手も。
左手も。
左手首には、昨夜貼り替えた浄化符が巻かれている。玻月に触れられた痕は少し薄くなっているが、完全には消えていない。白手袋の感触を思い出しそうになって、陽鞠は強く目を閉じた。
違う。
今の夢は、それだけではない。
もっと古い。
もっと遠い。
自分のものではないはずなのに、胸の奥に食い込んでいる。
「……何、今の」
声が震えた。
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえる。
陽鞠は起き上がろうとした。
けれど、身体がうまく動かなかった。肩が強張り、膝の上に置いた手が小刻みに震えている。汗で寝間着が背中に張りついていた。髪も首筋にくっついている。
白い光。
矢。
血の味。
誰かを失う感覚。
誰か。
誰。
名前が出てこない。
出てこなくていい。
そう思うのに、胸の奥が勝手に探そうとする。失ったものの名前を。倒れた誰かの手を。届かなかった指先を。
陽鞠は両手で自分の腕を抱いた。
「私は……」
言いかけて、声が途切れる。
その時、部屋の端末が鳴った。
短い通知音。
朔夜からだった。
『起きた?』
いつもの時間より少し早い。
陽鞠は端末を見つめた。
返事をしようとする。
指が震えて、文字がうまく打てない。
一文字目を間違えた。
消す。
また打つ。
また間違える。
その間に、次の通知が来た。
『陽鞠?』
たったそれだけ。
けれど、胸の奥が一気に熱くなった。
陽鞠はなんとか返信した。
『起きた』
送ってから、端末を握りしめる。
すぐに既読がついた。
『声、聞く』
通話がかかってきた。
陽鞠は迷った。
出たら、震えているのがばれる。
出なくても、ばれる。
どちらにしてもばれる。朔夜の陽鞠探知能力は妖の気配察知より面倒である。人類、恋人に隠し事をするには相手選びが大事だ。もう遅い。
陽鞠は通話を受けた。
「……おはよう」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
通話の向こうで、朔夜の空気が変わる。
「陽鞠」
「何」
「今行く」
「え、いい。大丈夫」
「禁止」
「ほんとに」
「震えてる」
「声だけで?」
「わかる」
「……朔夜、怖い」
「今さらだ」
そこで通話が切れた。
数分もしないうちに、部屋のドアが控えめに叩かれた。
陽鞠はベッドの上に座ったまま、少しだけ迷った。
髪は乱れている。
寝間着も汗で少し湿っている。
顔も、きっとひどい。
でも、今は一人でいる方が怖かった。
「……入って」
小さく言う。
ドアが開く。
朔夜が入ってきた。
朝の光の中で見る彼は、まだ制服ではなかった。黒い薄手の部屋着の上に、急いで羽織ったらしいパーカーを着ている。銀髪は少し乱れていて、襟足も整っていない。耳元のピアスだけはついていた。左手薬指の指輪も、いつもの場所にある。
黒い瞳が、すぐに陽鞠を捉える。
それだけで、陽鞠の喉が詰まった。
朔夜は何も聞かずに近づいた。
ベッドの端に座り、陽鞠の前に膝をつくようにして、彼女の顔を覗き込む。
「手」
短く言った。
陽鞠は隠そうとした。
だが、朔夜の視線から逃げられるわけがない。
震える右手が、毛布の上で小さく動いている。
朔夜はその手を取った。
強く握らない。
包むように。
指輪同士が触れる。
ちり、と小さな音が朝の部屋に響いた。
その音を聞いた瞬間、陽鞠の目に熱いものがこみ上げた。
泣きたくない。
別に泣くほどではない。
夢を見ただけだ。
ただの夢だ。
断片だ。
よくわからない白い光と、矢と、血の味と、誰かを失う感覚。
それだけ。
それだけなのに。
「陽鞠」
朔夜が呼ぶ。
その声が優しかった。
だから、余計に堪えられなかった。
陽鞠の肩が震えた。
朔夜はすぐに彼女を抱きしめた。
ベッドの上で、そっと。
弓に触れないように。左手首を圧迫しないように。強く抱き潰さず、それでも逃げ道が寂しくならないくらいに。
陽鞠の顔が、朔夜の胸元に触れた。
彼の体温。
呼吸。
いつもの匂い。
朝の冷たい空気の中で、それだけが現実だった。
「何を見た」
朔夜が聞いた。
陽鞠はすぐには答えられなかった。
言葉にしたら、夢が本当になるようで怖かった。
それでも、黙っていると白い光がまた胸の奥で膨らみそうになる。
陽鞠は朔夜の服を掴んだ。
「白かった」
声は小さかった。
「何もかも、白くて。矢を射ってた。私なのか、誰なのかわからないけど、弓を引いてた」
「うん」
「血の味がした。口の中に。今も少し残ってる気がする」
朔夜の腕に、わずかに力が入る。
けれど、彼は遮らない。
「誰かが倒れてた」
陽鞠は息を吸った。
喉が震える。
「顔は見えない。名前もわからない。でも、失うって思った。もう戻らないって。私が矢を放ったからなのか、間に合わなかったからなのか、わからない。でも、誰かを失う感じがして」
言葉にすると、身体がさらに震えた。
朔夜は陽鞠の背をゆっくり撫でる。
一定の速さで。
落ち着けと言葉にしない代わりに、その手が呼吸のリズムを作ってくれる。
「黒い五芒星みたいなのも見えた」
陽鞠は続けた。
「ほんの一瞬。白い光に飲まれて消えたけど。あれが何なのか、夢なのか、ただ最近見すぎたせいなのか、わからない」
「怖かったか」
「……怖かった」
認めた瞬間、胸の奥が少しだけ崩れた。
「すごく、怖かった。誰かを失うのも、自分じゃないみたいな感覚も。私の夢なのに、私の記憶じゃないみたいで」
陽鞠は朔夜の胸元に額を押しつける。
「ねえ、朔夜」
「うん」
「私、何なのかな」
言ってから、後悔した。
言ってはいけない言葉だった気がした。
けれど、もう遅い。
白い光の中の自分。
矢を射る手。
血の味。
金眼。
神の子と呼ばれた言葉。
玻月に見られた霊力の流れ。
凶暴化妖が反応する自分たちの霊力。
全部が、朝の薄い光の中で絡まって、自分の輪郭を曖昧にする。
私は誰。
何。
何かの続き。
何かの器。
何かの条件。
そう思いかけた瞬間だった。
朔夜が陽鞠の肩をそっと掴み、身体を少し離した。
黒い瞳が、真っ直ぐ彼女を見る。
「陽鞠」
低い声。
「お前は陽鞠だ」
即答だった。
迷いがなかった。
陽鞠の金色の瞳が揺れる。
「でも」
「夢が何でも、印が何でも、玻月が何を見てても、神の子なんて呼ばれても、お前は陽鞠だ」
朔夜の声は静かだった。
けれど、揺るがない。
「篠宮陽鞠。俺の隣にいる。結界が上手くて、弓が強くて、怒るとすぐ目が光って、無理すると大丈夫って言うから腹が立つ。クレープで迷って、ホラー映画で少し肩が跳ねて、俺の結界が歪むと笑う。俺のシャツを着ると袖が余る」
「最後のは」
「大事」
「大事じゃない」
「俺には大事」
陽鞠は泣きそうな顔で、少しだけ笑ってしまった。
朔夜は続ける。
「白い光の中にいた誰かじゃない。神様の子でもない。誰かの条件でもない。今ここで震えて、俺の服を掴んで、泣きそうなのに強がろうとしてる陽鞠だ」
涙が一粒、落ちた。
陽鞠は慌てて拭おうとした。
朔夜の指が先に動く。
頬に触れ、涙をそっと拭う。
「私は……」
陽鞠は唇を震わせた。
胸の奥で、まだ白い光がちらついている。
血の味も、失う感覚も、完全には消えない。
でも、朔夜の黒い瞳がある。
自分を見ている。
金眼でも、霊力でも、何かの名残でもなく。
篠宮陽鞠として見ている。
陽鞠は深く息を吸った。
朝の空気が、肺に入る。
「私は私だ」
小さな声だった。
でも、はっきり言った。
「神の子じゃない。夢の中の誰かでもない。黒い印の条件でもない」
もう一度、息を吸う。
「私は、篠宮陽鞠」
言葉にした瞬間、胸の奥で絡まっていたものが少しだけほどけた。
完全に消えたわけではない。
夢の断片はまだ残っている。
白い光も、矢も、血の味も、誰かを失う感覚も。
けれど、それらが自分の全部ではないと、ほんの少し思えた。
朔夜の表情が、柔らかくなる。
「そうだ」
彼は言った。
「今のお前が好きだ」
陽鞠の呼吸が止まった。
何度も言われている。
好きだよ、可愛い、隣にいろ。
朔夜はそういう言葉を、恥ずかしげもなく言う男だ。
それでも、今の言葉は違った。
今の。
それが、胸の奥にまっすぐ落ちた。
夢の中の誰かではなく。
過去の断片でもなく。
神様のように祭り上げられる存在でもなく。
凶暴化妖が反応する条件でもなく。
今ここにいる陽鞠。
震えて、怖がって、泣きそうになって、それでも自分の名前を言った陽鞠。
その陽鞠が好きだと。
朔夜は言った。
陽鞠の目から、また涙が落ちる。
「……ずるい」
声が震えた。
「何が」
「そういうの、今言うの」
「今だから言う」
「いつもそれ」
「本当だから」
「朔夜は、ほんとに」
陽鞠はそれ以上言えず、朔夜の胸に顔を伏せた。
朔夜はもう一度、彼女を抱きしめる。
朝の光が、カーテンの隙間から少しずつ強くなっていた。部屋の床に細い光の線が伸び、机の上の記録札や教科書を照らす。ベッド脇の弓と刀も、淡く光を受けている。
夜の夢は、朝に追いつかれ始めていた。
白い光とは違う。
怖くない光。
日常の光。
陽鞠はその中で、ゆっくり息を整えた。
朔夜の手が背中を撫でる。
「まだ震えてる」
「少しだけ」
「いい」
「いいの?」
「震えてても陽鞠」
「……うん」
「泣いてても」
「うん」
「怖くても」
「うん」
「大丈夫じゃなくても」
「……うん」
そのたびに、陽鞠の胸の中で何かが許されていく。
強くなければならない。
怖がってはいけない。
揺れてはいけない。
神の子のように見られるなら、神のように振る舞わなければならない。
そんなものは、いらない。
私は私だ。
篠宮陽鞠だ。
陽鞠は顔を上げた。
涙の跡が残っている。髪も乱れている。寝間着の襟も少し崩れている。到底、強いS級特待生らしい顔ではない。
でも、朔夜は真っ直ぐに見ていた。
「朔夜」
「何」
「キスして」
言ってから、陽鞠は自分で少し驚いた。
いつもなら、朔夜が言う。
任務前のキスを忘れてるとか、生きてる確認とか、手の甲とか、額とか。陽鞠は抗議して、照れて、結局受け入れることが多い。
でも、今は自分から言った。
朔夜も一瞬だけ目を見開く。
それから、黒い瞳が深く柔らかくなった。
「いいのか」
「うん」
「泣いてる」
「だから」
陽鞠は小さく息を吸った。
「今の私に、して」
朔夜の表情が変わった。
甘さだけではない。
大事なものを壊さないように触れる時の顔だった。
「陽鞠」
「うん」
「今のお前にする」
朔夜は陽鞠の頬へ手を添えた。
指先が涙の跡を避け、顎をそっと持ち上げる。朝の光が彼の銀髪を照らし、濡れたように光らせた。黒い瞳の中に、陽鞠が映っている。
唇が触れる。
静かなキスだった。
夜の熱を上書きするようなものではない。
戦闘後の生存確認とも少し違う。
朝の光の中で、ここにいることを確かめるためのキスだった。
陽鞠の指が、朔夜の服を掴む。
震えはまだ完全には止まっていない。けれど、その震えごと朔夜が受け止めている。唇が重なったまま、陽鞠はゆっくり目を閉じた。
血の味はしなかった。
白い光も、遠のいた。
代わりに、朝の空気と、朔夜の体温と、指輪の触れる小さな音があった。
ちり。
唇が離れる。
陽鞠は息を吸った。
まだ涙は残っていたが、呼吸は少し深くなっていた。
「……長くない」
小さく言う。
朔夜の口元が少しだけ緩む。
「短くした」
「えらい」
「ご褒美は?」
「今したでしょ」
「足りない」
「朝から欲しがり」
「陽鞠が言った」
「それは、そうだけど」
陽鞠の頬に、少しだけ赤みが戻る。
朔夜はその変化を見て、安心したように息を吐いた。
それから、陽鞠の額へもう一度キスをする。
「今日は休め」
「授業」
「休め」
「報告もある」
「俺がする」
「朔夜だけじゃ細かいところ抜ける」
「陽鞠が書いたメモ持っていく」
「それはそれで不安」
「じゃあ、かがり先生に相談」
「……うん」
無理をするなと言われることは、もうわかっていた。
かがりにも、朔夜にも、更紗にも言われるだろう。たぶん透羽にも静かに指摘される。人類、心配する時だけ包囲網を作るのが上手すぎる。
陽鞠は少しだけ笑った。
「朔夜」
「何」
「まだ怖い」
「うん」
「でも、ちょっと平気」
「うん」
「朔夜が今の私を好きって言ったから」
自分で言って、顔が熱くなる。
朔夜の表情が、はっきり柔らかくなった。
「何度でも言う」
「毎回は心臓に悪い」
「じゃあ、心臓を鍛える」
「鍛えなくていい」
「今のお前が好きだ」
「今すぐ言わないで!」
陽鞠は顔を赤くして、朔夜の胸を軽く押した。
朔夜は低く笑う。
その笑い声を聞いて、陽鞠の胸の奥の震えがまた少しだけ収まった。
窓の外では、雨上がりの朝の光が街を照らしていた。
昨日の雨が嘘のように、空は薄く晴れている。屋根の端から残った雫が落ち、光を受けて小さく光った。遠くで登校する生徒たちの声が聞こえ始める。
日常が始まる。
夢の断片は、まだ消えない。
白い光も、矢も、血の味も、失う感覚も。
黒い五芒星との関わりも、御影堂玻月の視線も、何一つ解決していない。
それでも、陽鞠は自分の名前を言えた。
私は私だ。
篠宮陽鞠だ。
そして、今の陽鞠を好きだと言う人が、目の前にいる。
陽鞠はもう一度、朔夜の手を取った。
指輪同士が触れる。
ちり。
朝の光の中で、その音ははっきり響いた。
誰かの条件としてではなく。
誰かの記憶の続きとしてでもなく。
今ここにいる二人が、自分たちで選んで鳴らした音として。
陽鞠はその音を聞きながら、もう一度小さく言った。
「私は私だ」
朔夜が頷く。
「陽鞠だ」
そして、朝の光の中で、二人はもう一度だけ静かにキスをした。




