第18話 カラオケ密室
カラオケ店の個室は、退魔学園の教室よりずっと狭かった。
当たり前だ。
教室と比べる場所ではない。
けれど、陽鞠は扉が閉まった瞬間、そう思ってしまった。
薄暗い照明。壁に貼られた防音材。黒いテーブル。革張りのソファ。天井の小さなライトが、紫と青の中間みたいな色で部屋を照らしている。モニターには曲を選ぶ画面が映り、テーブルの上にはタッチパネル式のリモコンと、マイクが二本置かれていた。スピーカーからは、前の客が設定していたらしい音量確認の短い電子音が流れている。
外の廊下には、別の部屋から漏れる歌声が混じっていた。
明るい声。
笑い声。
タンバリンの音。
扉一枚で、外と中の空気が切り分けられている。
それが妙に落ち着かない。
陽鞠はソファに腰を下ろし、背中の弓を壁際へ慎重に立てかけた。腰の日本刀も、すぐ手を伸ばせる位置に置く。カラオケの個室に弓と刀。どう考えても異物である。人類の娯楽空間に武装退魔師が混ざると、急に世界観が渋滞する。
朔夜は陽鞠の隣に座った。
隣。
というより、近い。
ソファは広い。二人で座っても十分余裕がある。なのに、朔夜は当然のように陽鞠のすぐ横に座った。肩が触れる距離。膝が少し動けば当たりそうな距離。左手を少し伸ばせば、陽鞠の右手に触れられる距離。
陽鞠は横目で見た。
「近い」
「個室だから」
「理由になってない」
「外より近くていい」
「誰が決めたの」
「俺」
「無効」
「陽鞠は?」
「……少しなら」
「許可だな」
「少しって言った」
「少し近い」
「もう近い」
朔夜は平然としている。
銀髪のウルフカットはいつも通り少し崩れ、襟足が首筋に落ちていた。今日は制服ではなく、黒いシャツに薄手のジャケット、細身のパンツ。左手薬指には、いつもの指輪。耳元のお揃いのピアスが、部屋の青い照明を受けて小さく光っている。
陽鞠も今日は私服だった。
白いニットに短めの黒いスカート、上から淡いグレーのカーディガン。金髪は軽く下ろし、毛先が肩で揺れている。右手薬指には指輪。耳には月と矢羽根のピアス。ネックレスも、ブレスレットも、いつも通り朔夜と揃いのものだった。
休日の午後。
任務通知が入らなければ、普通のデートだった。
いや、背中に弓と腰に刀がある時点で、普通ではない。普通という言葉がこちらを見て泣いている。だが、陽鞠にとっては、これが精一杯の普通だった。
朔夜がタッチパネルを手に取る。
「歌う?」
「カラオケに来たんだから歌うでしょ」
「陽鞠の声を聞く」
「自分も歌って」
「俺は聞く」
「ズルい」
「歌うなら、陽鞠が選んだ曲」
「じゃあ、すごく可愛い曲入れるよ」
「いい」
「朔夜が?」
「陽鞠が笑うなら」
「……そういう返し、ずるい」
陽鞠はタッチパネルを受け取り、曲を探し始めた。
最近流行っている恋愛映画の主題歌、アップテンポのアニメ曲、昔から有名なバラード、退魔学園の生徒たちがなぜかよく歌う応援歌のようなもの。一覧を見ているだけで、世の中には歌が多すぎると思った。人間は感情が余るとすぐ歌にする。まあ、悪くない習性だ。
陽鞠は一曲選んだ。
イントロが流れる。
明るくて、少し甘い曲。
歌詞は画面に映っているが、陽鞠はその全部を追う前に、なんとなく隣の朔夜を意識してしまった。歌うために来たはずなのに、隣にいる体温の方が気になる。
それでも、ちゃんと歌った。
最初の一曲は。
マイクを握り、少し照れながら声を出す。個室なので外よりは気楽だが、隣で朔夜がじっと見ているのが問題だった。彼はモニターではなく陽鞠を見ている。まったく遠慮がない。観客が一人しかいないのに、その一人の視線が重すぎる。歌番組の審査員でももう少し空気を読む。
「見すぎ」
間奏で陽鞠が小声で言う。
「可愛い」
「感想が雑」
「可愛い声」
「そういうのもやめて」
「無理」
「歌いにくい」
「じゃあ、近くで聞く」
「もっと悪い」
朔夜は本当に少し近づいた。
陽鞠は歌詞を見失いかけた。
なんとか最後まで歌い切ると、点数画面が出た。悪くはない。だが、陽鞠は点数より朔夜の顔の方が気になった。
「どう?」
「可愛い」
「点数じゃなくて」
「点数も可愛い」
「点数は可愛くない」
「陽鞠が歌ったから」
「意味がわからない」
陽鞠はマイクを朔夜へ押しつけた。
「次、朔夜」
「俺?」
「カラオケに来たんだから歌う」
「じゃあ、陽鞠が選んで」
「本当に可愛い曲入れるよ」
「いい」
「後悔しない?」
「しない」
陽鞠は少し意地悪な気持ちで、明るくて甘い曲を選んだ。
朔夜がそれを歌う姿を想像して、少し笑いそうになる。
だが、朔夜はまったく動じなかった。
低い声で、淡々と歌い始めた。
それが、妙にうまかった。
陽鞠は固まった。
声が低いのに、音程が外れない。感情を大げさに乗せるわけではないのに、妙に耳に残る。甘い曲なのに、朔夜が歌うと落ち着いた夜の歌みたいになる。本人は何でもない顔で画面を見ている。
腹立たしい。
歌までできるのか。
人類、スペック配分を少しは公平にしろ。
曲が終わると、陽鞠は無言で拍手した。
朔夜が少しだけ眉を上げる。
「どう?」
「……うまい」
「可愛いは?」
「朔夜に可愛いは違う」
「陽鞠が言うなら何でもいい」
「じゃあ、悔しい」
「悔しい?」
「うまくて悔しい」
朔夜が低く笑った。
「じゃあ、もう一曲」
「調子に乗らない」
「陽鞠が悔しがるなら歌う」
「やっぱり歌わなくていい」
そう言いながら、陽鞠は次の曲を探した。
二曲目。
三曲目。
最初のうちは、二人ともちゃんと歌っていた。
陽鞠は少し照れながら、好きな曲を入れる。朔夜はそれを聞き、時々一緒に歌う。低い声と陽鞠の明るめの声が重なると、思ったより合う。陽鞠はそれに気づくたび、少しだけ嬉しくなる。
けれど、時間が進むにつれて、歌っている時間より、ソファでくっついている時間の方が長くなった。
まず、陽鞠が疲れたと言ってマイクを置いた。
任務続きだったのだ。
雨の廃屋のあとも、解析会議も、玻月への警戒も、神社での言葉も、夢の断片も。平気な顔をしていても、身体の奥には疲れが溜まっている。カラオケの薄暗い個室で、外の視線がない場所に座っていると、その疲れがじわじわ出てきた。
陽鞠はソファの背に身体を預け、息を吐いた。
「ちょっと休憩」
「飲む?」
「うん。あったかいの」
朔夜がすぐに注文端末を操作する。
数分後、温かいミルクティーが届いた。
陽鞠はカップを両手で包む。
湯気が指先を温める。甘い匂いがして、少しだけ肩の力が抜けた。
朔夜は隣で、炭酸の入った冷たい飲み物を飲んでいる。寒くないのだろうか。たぶんないのだろう。体温が高い男は厄介だ。冬場は便利だが、少し腹立つ。
「陽鞠」
「何」
「眠い?」
「ちょっと」
「寝る?」
「カラオケで?」
「俺の肩なら」
「歌いに来たんだけど」
「歌はさっき歌った」
「二曲だけ」
「十分」
「十分じゃない」
そう言いながら、陽鞠は朔夜の肩へ少しだけ身体を預けた。
本当に、少しだけのつもりだった。
だが、朔夜の肩は思ったより安定していた。
背が高いから、陽鞠がもたれるには少し角度がある。それでも、彼が自然に身体を傾けてくれたせいで、ちょうどよくなった。陽鞠の頭が彼の肩に収まる。銀髪の一部が頬に触れ、朔夜の体温がすぐ近くに感じられた。
ミルクティーのカップをテーブルに置く。
陽鞠は小さく息を吐いた。
「……肩、かたい」
「鍛えてる」
「そういう意味じゃなくて」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「ならいい」
朔夜の声が少し低くなる。
陽鞠は目を閉じかけた。
個室のモニターでは、次の曲の待機画面が流れている。誰も歌っていない。スピーカーからは小さなBGMだけが流れていた。外の部屋からは誰かの笑い声が聞こえる。けれど、ここだけ少し遠い。
朔夜の手が、陽鞠の髪へ触れた。
濡れてはいない。
昨日の雨とは違う。
乾いた金髪を、彼の指がゆっくり梳く。
「眠いなら寝ていい」
「寝たら、朔夜がずっと見てそう」
「見る」
「否定しない」
「可愛い寝顔」
「寝ない」
「残念」
陽鞠は薄目を開けて、朔夜を睨もうとした。
しかし、近い。
近すぎる。
肩にもたれているせいで、朔夜の顔がすぐ上にある。黒い瞳がこちらを見下ろしている。部屋の青紫の照明が銀髪に落ち、いつもより少し影が深い。外では絶対に見せないような、柔らかい目をしていた。
陽鞠は顔を赤くして、また目を閉じた。
「見ないで」
「無理」
「もう、そればっかり」
「陽鞠が近い」
「朔夜が近くした」
「陽鞠が肩にもたれた」
「……それは、そう」
「嬉しい」
「言わなくていい」
「言う」
朔夜は陽鞠の髪へ唇を落とした。
軽く。
髪に触れるだけのキス。
陽鞠の肩が、ぴくりと揺れる。
「朔夜」
「何」
「髪」
「うん」
「急にしないで」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ、もう一回」
「そうならないで」
陽鞠は文句を言ったが、肩から離れなかった。
朔夜はそれをわかっている。
ずるい。
かなりずるい。
彼はもう一度、陽鞠の髪へキスをした。今度はさっきよりゆっくり。金髪に唇が触れ、指先が耳元のピアスを避けて髪を撫でる。陽鞠は小さく息を吸った。
歌っている時間より、こうしている時間の方が長い。
カラオケに来た意味とは。
いや、ある。
個室である。
防音である。
人目が少ない。
それが意味なのだとしたら、だいぶ不健全な使い方である。カラオケ店に謝るべきかもしれない。たぶん謝らない。
朔夜がタッチパネルを手に取る。
「次、入れる?」
「今?」
「歌わないなら延長」
「歌わない前提」
「陽鞠がこのままなら」
「……延長しない」
「じゃあ歌う?」
「少ししたら」
「少し」
「五分」
「短い」
「十分」
「三十分」
「交渉しすぎ」
陽鞠は呆れた声を出しながらも、朔夜の肩から動かない。
朔夜の手が、彼女の右手へ触れた。
指先が絡む。
指輪同士が触れ、ちり、と小さく鳴った。
その音に、陽鞠は一瞬だけ目を開けた。
凶暴化の条件。
指輪の音。
二人の霊力の重なり。
解析会議で見た波形が頭をよぎる。
妖が反応するかもしれない。
誰かに見られているかもしれない。
それでも、陽鞠は手を離さなかった。
むしろ、少しだけ指を握り返した。
「陽鞠?」
朔夜が気づく。
「何でもない」
「何でもなくない」
「……条件にされたって、これは私たちの音だって思っただけ」
朔夜の手に力が入る。
「そうだ」
「誰かのために鳴らしてるんじゃない」
「ああ」
「朔夜と私が、こうしたくてしてる」
「ああ」
「だから、怖くなっても離さない」
言い切ると、少しだけ胸が軽くなった。
朔夜は何も言わず、陽鞠の髪へもう一度口づけた。
今度は、返事のようだった。
陽鞠は目を閉じる。
甘い。
静かで、少し眠くて、体温が近くて、嫌なことが一瞬だけ遠くなる時間。
だから、端末が鳴った時、二人とも一瞬だけ動かなかった。
鈴のような通知音。
任務通知。
聞き間違えるはずがない。
陽鞠の端末と、朔夜の端末が同時に震えている。
でも、陽鞠はすぐに目を開けなかった。
朔夜も、髪を撫でる手を止めただけで、端末へ伸ばさなかった。
一秒。
二秒。
たったそれだけ。
けれど、二人にとっては明らかな沈黙だった。
このまま、もう少しだけ。
そんな甘い逃げが、確かにあった。
任務から逃げるつもりなどない。
誰かが危ないなら行く。
それはわかっている。
でも、ほんの一瞬だけ、陽鞠は朔夜の肩から離れたくなかった。
朔夜も、陽鞠の髪から手を離したくなかった。
人間は弱い。
退魔師だって弱い。
恋人の体温の前では、使命感ですら一瞬だけ足踏みする。まったく、面倒な生き物である。だから守る価値があるのかもしれない。腹立たしいことに。
三秒目。
陽鞠が息を吐いた。
「見なきゃ」
「ああ」
朔夜の声は低かった。
二人は同時に端末を見る。
緊急度、中。
発生地点。
現在地から、約百八十メートル。
同じ商業ビル内。
地下二階、カラオケ店と同系列のゲーム施設裏通路。
一般客の体調不良、壁内からの異音、電気系統の異常、低級妖反応。
ただし、反応値上昇中。
陽鞠の顔から甘さが消えた。
朔夜の手も、髪から離れる。
黒い瞳が冷える。
「近い」
「近すぎる」
「俺たちがいるからか」
「まだわからない」
陽鞠はそう言った。
だが、胸の奥が冷えていた。
同じビル内。
自分たちがカラオケ個室で指輪を鳴らし、霊力を近づけた後。
任務通知。
近すぎる発生地点。
偶然かもしれない。
でも、偶然という言葉は、最近だいぶ信用を落としている。もう少し真面目に働いてほしい。
陽鞠は立ち上がろうとした。
その瞬間、部屋の照明が一度落ちた。
青紫の光が消え、モニターだけが白く光る。
スピーカーから、ざざ、とノイズが流れた。
陽鞠と朔夜は同時に動きを止める。
外の廊下から、遠くの悲鳴が聞こえた。
まだ小さい。
だが、確かに悲鳴だった。
そして、その奥に。
壁の中を這うような、濁った霊気。
カラオケ店の防音壁を通って、ぬるりと滲む気配。
陽鞠の金色の瞳が鋭くなる。
「もう来てる」
朔夜が腰の刀へ手を伸ばす。
「部屋の外か」
「壁の中。廊下にも広がってる。地下の妖が、配線か空調を伝って上がってきてる」
「俺たちに反応したか」
「たぶん」
言いたくなかった。
でも、否定できなかった。
壁の防音材の隙間から、黒い筋が一本、滲み出した。
水ではない。
影でもない。
カラオケの壁紙の裏から、墨を垂らしたような霊気がにじみ、床へ落ちる前に細い指のような形になった。スピーカーのノイズが大きくなる。モニターの画面が乱れ、曲名一覧が意味のない記号へ変わっていく。
陽鞠はテーブルを蹴らないよう横へ回り込み、壁際の弓を取った。
背負う時間はない。
右手で弓を掴み、左手で矢筒を引き寄せる。狭い個室。ソファ。テーブル。モニター。天井のスピーカー。戦闘には向かない場所だ。向かない場所ばかりで戦っている気がする。退魔師の人生、広い平地をくれない。
朔夜は刀を抜いた。
銀の刃が、暗い個室の中で細く光る。
「陽鞠、客」
「廊下に避難経路を作る。先に店員と客を逃がす」
「この部屋は?」
「壁の霊気を閉じる。外に出す」
「了解」
甘さが消える。
完全に。
さっきまで肩にもたれていた身体が、今は戦闘の姿勢へ変わっている。陽鞠の瞳は金色に強く光り、朔夜の黒い瞳は刀の先を見る。
恋人から退魔師へ。
一瞬だった。
壁の黒い指が、床を這って陽鞠の足元へ伸びる。
朔夜が踏み込んだ。
刀が低く走り、黒い指を断つ。切られた霊気は床の上で跳ね、すぐにスピーカーコードへ絡みつこうとした。
陽鞠が結界を張る。
床とコードの間に、薄い金色の膜。
霊気だけを弾く選別結界。
黒い指が膜に触れ、じゅ、と音を立てる。
「狭いね」
陽鞠が言う。
「外に出す」
「天井からも来る」
言った瞬間、天井のスピーカーが黒く歪んだ。
丸いスピーカー穴の中から、ぬるりと何かが垂れる。影のような液体が天井を伝い、そこから小さな口がいくつも開いた。
歌声が聞こえた。
さっき陽鞠が歌った曲ではない。
朔夜の歌でもない。
誰かの声を真似ようとして失敗したような、濁った音。
「うたって」
「うたって」
「こえ、ちょうだい」
陽鞠の背筋が冷える。
声を奪う妖か。
カラオケという場所に溜まった声、感情、承認欲求、孤独、騒がしさ。そこに外部術式が絡めば、十分に凶暴化する。なんて嫌な素材だ。人間の娯楽は妖に餌を提供しすぎる。
朔夜が天井を見上げる。
「核は地下か」
「この部屋に来てるのは枝。核は地下二階。でも、枝が増えたら客の声を奪う」
「喉を狙う?」
「たぶん」
廊下から、咳き込む声が聞こえた。
誰かが息を詰まらせている。
陽鞠は即座に扉へ向けて結界を伸ばした。
カラオケ店の廊下は複雑だ。
同じような扉が並び、曲の音が漏れ、照明も暗い。避難するには不向き。陽鞠は廊下の床へ金色の誘導線を走らせた。一般人だけを通し、妖の霊気を弾く細い光の道。
「店内のお客様! 金色の線に沿って出口へ! 部屋から出る時は口元を押さえて、壁に触らないで!」
声に霊力を乗せる。
マイクは使わない。
陽鞠の声そのものが、廊下へ広がる。
いくつかの部屋の扉が開いた。
驚いた客たちの声。
店員の叫び。
咳。
戸惑い。
それらが廊下で混ざる。
妖の霊気が、それを喜ぶように蠢いた。
部屋の壁が、一斉に黒く染まり始める。
「朔夜、廊下を開ける!」
「俺が前」
朔夜が扉へ向かった。
だが、妖の枝がそれを阻むように天井から落ちてくる。黒いコードのような触手。先端に小さな口。口は開いて、声を吸い込もうとする。
朔夜は刀を振る。
狭い個室では、大振りできない。
彼は手首だけで刃を返し、触手を一本、二本、三本と切り落とす。切断面からノイズのような悲鳴が漏れた。切った端が床へ落ちる前に、陽鞠が結界で包んで消す。
「陽鞠、扉!」
「今!」
陽鞠が左手を上げる。
扉の周囲に絡みついた黒い霊気を、結界で剥がす。扉が開く。外の廊下には、すでに薄く妖の気配が満ちていた。照明が点滅し、壁の案内板がノイズを走らせている。
甘いジュースの匂い。
ポップコーンのようなスナックの匂い。
そこに、焦げた配線と黒い霊気の臭い。
陽鞠は一歩外へ出た。
さっきまでのカラオケの個室の空気は、もうない。
戦場だった。
廊下の壁を、黒い霊気の枝が這っている。
部屋の扉の隙間へ入り込み、客の声を吸おうとしている。咳き込む高校生。泣き出した子ども。店員が非常口を開けようとしているが、壁から伸びた霊気が取っ手に絡んでいた。
陽鞠は息を吸った。
怖い。
でも、止まれない。
「朔夜、非常口まで道を作る」
「俺が枝を落とす」
「地下二階まで行く必要がある。核はそこ」
「客を逃がしてからだな」
「うん」
二人の指輪が触れる。
ちり、と鳴った。
その瞬間、廊下の黒い枝が一斉に震えた。
陽鞠の背筋に冷たいものが走る。
やっぱり反応している。
でも、離さない。
彼女は朔夜の手を一瞬だけ握り返し、すぐに離した。
「行くよ」
「ああ」
陽鞠が結界を展開する。
金色の光が廊下の床を走り、避難経路を作る。朔夜の刀が銀色に光り、黒い枝を次々と斬り落とす。カラオケ店の薄暗い廊下に、青紫の照明、金の結界、銀の刃、黒い妖気が交差した。
さっきまで流れていた甘い曲の画面は、もう遠い。
マイクはテーブルの上に置き去り。
温かいミルクティーも、まだ半分残っている。
ソファで肩を寄せていた時間は、扉の向こうに置いてきた。
けれど、それは消えたわけではない。
陽鞠の髪には、朔夜が落としたキスの感触がまだ残っている。
朔夜の手には、陽鞠が握り返した指の温度が残っている。
だから走れる。
だから切り替えられる。
甘さごと、戦場へ持っていく。
廊下の奥で、黒い枝が巨大な喉のように口を開けた。
「うたって」
濁った声が響く。
「こえ、ちょうだい」
陽鞠は弓を構えた。
「嫌」
金色の矢が、廊下の暗がりへ向かって光る。
朔夜がその前に立ち、刀を構える。
「陽鞠の声はやらない」
「自分で言う」
「俺も言う」
「じゃあ、二人で」
二人の霊力が重なる。
妖の枝が激しく反応する。
それでも、陽鞠は引かない。
朔夜も退かない。
狭いカラオケ店の廊下で、恋人だった二人は、完全に退魔師の顔になっていた。
陽鞠の矢が放たれる。
金色の光が、黒い喉を貫いた。




