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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第19話 玻月の視線


 金色の矢が、黒い喉を貫いた。


 カラオケ店の廊下に、濁った悲鳴が響く。


 声というより、壊れたスピーカーから無理やり吐き出された雑音だった。黒い喉のように膨らんでいた霊気が弾け、壁紙に墨のような飛沫を散らす。陽鞠はすぐに結界を展開し、その飛沫が廊下にいた一般客へ届く前に受け止めた。


 金色の薄膜に触れた黒い霊気は、じゅ、と小さく焦げる。


 空気に、焼けた配線のような匂いが混じった。


 廊下の照明はまだ点滅している。青白い非常灯と、カラオケ店特有の紫がかった壁の照明が、不安定に明滅していた。部屋の扉はいくつも開き、客たちは陽鞠が床へ伸ばした金色の誘導線に沿って出口へ向かっている。咳き込む若い男、泣きながら親に手を引かれる子ども、店員の震える声。


 その全部を、妖は狙っていた。


 声を。


 恐怖を。


 喉から漏れる息を。


 壁の中から黒い枝が伸びる。先端には小さな口がついていて、開くたびに「うたって」「こえ」「ちょうだい」と濁った音を吐いた。廊下のスピーカーからも同じ声が流れ、どこから聞こえているのかわからなくなる。


 陽鞠は奥歯を噛んだ。


「客を先に出す!」


「ああ」


 朔夜が前へ出る。


 銀の刃が低く走り、壁から伸びた黒い枝を切り落とす。切断面からノイズが漏れた。触手は床に落ちる前に細かく震え、別の部屋の扉の下へ潜ろうとする。陽鞠は即座に結界を張り、逃げ道を塞いだ。


 狭い。


 廊下が狭すぎる。


 壁と壁の距離は、人が二人すれ違えば肩が触れる程度。カラオケの個室が並ぶ構造のせいで、曲がり角も多い。天井は低く、スピーカー、空調、非常灯、配線。妖が入り込む隙間はいくらでもあるのに、朔夜が刀を振るう余白は少ない。


 この場所は、妖に有利だった。


 人類、娯楽施設を迷路みたいに作るのをやめた方がいい。雰囲気づくりのために暗くして、逃げ道をわかりにくくして、音を反響させる。妖からしたら実に親切設計である。最悪だ。


 陽鞠は廊下の床へ指先を向けた。


 誘導線を三本に分ける。


 左は非常階段へ。


 右はエレベーターホールへ。ただしエレベーターは使わせない。そこへ行った客を店員が階段へ誘導できるよう、金色の矢印だけを表示する。


 中央は、まだ部屋に残っている客を回収するための保護線。


 一般人だけを通す選別結界。


 妖の霊気は弾く。


 店員や客の声は通す。


 妖の声真似は遮る。


 やることが多すぎる。


 陽鞠の額に汗が滲んだ。


 さっきまでカラオケ個室でミルクティーを飲み、朔夜の肩にもたれていたのに、今は喉を狙う妖の枝を結界で弾いている。切り替えが急すぎる。青春と地獄の段差が高い。誰か手すりをつけてほしい。


「陽鞠、上!」


 朔夜の声。


 天井の空調口が黒く染まった。


 中から、束になった黒い枝が落ちてくる。


 狙いは、陽鞠ではない。


 避難している子どもの首元。


 陽鞠は息を吸った。


 間に合う。


 間に合わせる。


 右手で弓を握ったまま、左手を開く。子どもの首元と黒い枝の間に、薄い結界を差し込む。だが、ただ止めれば衝撃で子どもが転ぶ。だから角度をつける。枝の軌道だけを横へ逸らし、壁へ叩きつける。


 金色の膜が斜めに光った。


 黒い枝は子どもの首をかすめる寸前で滑り、壁へぶつかる。朔夜がその瞬間を逃さない。刀が振るわれ、壁に押しつけられた枝を根元から斬り落とした。


 子どもが泣き叫ぶ。


 陽鞠は声に霊力を乗せる。


「大丈夫! そのまま金色の線を見て走って!」


 子どもは母親に手を引かれ、非常口へ向かう。


 陽鞠はその背を見送る暇もなく、次の結界を張った。


 廊下の奥で、また黒い喉が膨らむ。


 今度は複数。


 壁の中に、いくつもの口ができていた。カラオケルームのスピーカーが一斉にノイズを吐き、部屋ごとに違う声が混じる。笑い声、悲鳴、歌声、咳。妖が集めた音を、ぐちゃぐちゃに混ぜている。


「こえ」


「ちょうだい」


「うたって」


「おいていけ」


 陽鞠の背筋に冷たいものが走る。


 この妖は、ただ声を奪うだけではない。


 声に混じって恐怖を増やしている。


 客が混乱すればするほど、妖の霊気が濃くなる。


 典型的な凶暴化妖の反応。


 しかも、陽鞠と朔夜が近づいたことで活動量が跳ねている。解析会議で見た波形が頭をよぎった。二人の霊力。指輪の音。連携。条件。


 嫌な言葉が胸の奥で疼く。


 陽鞠は奥歯を噛んだ。


「朔夜、声を遮る。三秒だけ、廊下の音が消える」


「俺には?」


「朔夜の霊力だけ通す」


「了解」


 陽鞠は弓を床へ軽く触れさせた。


 金色の結界が廊下全体へ薄く広がる。


 音を完全に消す結界ではない。


 一般人の避難に必要な声、朔夜の足音、刀が妖を斬る音。それらは通す。


 妖が真似た声、恐怖を増幅するノイズ、スピーカーから流れる偽の歌声だけを遮断する。


 細かい。


 細かすぎる。


 だが、陽鞠はやった。


 廊下から、不快な声だけが消えた。


 一瞬、世界が静かになる。


 客の足音。


 店員の誘導。


 朔夜が床を蹴る音。


 刀が鞘走る音。


 それだけが、はっきり聞こえた。


 朔夜はその静けさの中で、前へ出た。


 刀が低く、速く走る。


 壁に浮いた黒い喉を三つ、続けて切り裂く。刃は大きく振れない。だから朔夜は手首と肘だけで角度を変え、最小限の動きで妖の枝を落としていく。切断された霊気を、陽鞠の結界が包んで消す。


 二人の連携は、いつも通りだった。


 見なくてもわかる。


 朔夜がどこへ踏み込むか。


 どの角度で刀を振るうか。


 どこに足場が必要か。


 陽鞠が結界を置けば、朔夜は疑わず踏む。朔夜が刀を入れれば、陽鞠は切断面から逃げる霊気を封じる。


 指輪が鳴る。


 ちり。


 その瞬間、壁の奥の妖核らしき反応が、ぎゅ、と膨らんだ。


「っ……!」


 陽鞠の結界が震える。


 妖が反応した。


 廊下の奥で、黒い霊気が一気に濃くなる。


「陽鞠!」


「わかってる!」


 音遮断結界が内側から叩かれる。


 妖が声ではなく、振動で破ろうとしている。スピーカーの膜が震え、壁の防音材がぶるぶると鳴り始めた。客たちはすでにかなり避難できているが、まだ奥の部屋に二組残っている。


 陽鞠は息を吸った。


「もう少し!」


 結界を重ねる。


 声だけではなく、振動も選別する。


 自分でも無茶をしているのはわかった。指先が痛い。左手首の浄化符の下が熱を持つ。だが、今緩めたら、残っている客の喉を妖が奪う。


 朔夜が壁の枝を斬りながら、陽鞠の前へ戻りかけた。


「陽鞠、負担が」


「客が先!」


「無理するな」


「今は無理する!」


 陽鞠の声は強かった。


 朔夜の黒い瞳が一瞬だけ揺れる。


 だが、彼は戻らない。


 陽鞠が客が先と言ったなら、その道を開くのが朔夜の役目だった。彼は低く息を吐き、廊下奥の最後の扉へ向かって踏み込む。


 その時だった。


 廊下の曲がり角の先から、別の気配が現れた。


 薄い。


 冷たい。


 よく磨かれた刃のような気配。


 陽鞠の背中が、ぞわりとした。


 朔夜も気づいた。


 刀を構えたまま、わずかに視線を横へ動かす。


 黒い長衣の裾が、点滅する廊下の光の中へ滑り込んだ。


 御影堂玻月だった。


 濡羽色の長髪を低く結び、片耳で古い銀の耳飾りが揺れている。黒い長衣はカラオケ店の薄暗い廊下に奇妙に馴染んでいた。場違いなのに、場違いに見えない。白手袋だけが、異様なほど白く浮いている。


 紫紺の瞳が、廊下の妖を見た。


 次に、陽鞠の結界を見た。


 最後に、陽鞠の金眼へ向いた。


 陽鞠はその視線だけで、不快感を覚えた。


 まただ。


 見ている。


 ただ目で追っているのではない。


 測っている。


 解いている。


 中身を見ようとしている。


 玻月は口元だけで薄く笑った。


「声と振動を分けたか」


 穏やかな声だった。


 戦場の廊下で。


 客が避難し、妖が壁を這い、朔夜が刀を振るっている中で。


 彼だけが、まるで観察室にでもいるように落ち着いていた。


「狭い場所で、これだけ薄い膜を重ねる。しかも一般人の声は通し、妖の声真似だけを遮断している。面白い結界だ」


 褒め言葉の形をしていた。


 だが、陽鞠にはそう聞こえなかった。


 面白い。


 その一言が、褒め言葉ではなく、実験結果を眺める研究者の記録みたいに響いた。彼は陽鞠が守った客を見ていない。結界の意味を見ていない。陽鞠の選択を見ていない。


 ただ、術式の構造を見ている。


 陽鞠の金眼と、霊力の流れと、結界の癖を。


 ぞっとした。


「……見ないでください」


 陽鞠は結界を維持したまま言った。


「見るなという方が難しい」


 玻月は答える。


「君の結界は、戦い方よりもずっと正直だ」


「何の話ですか」


「拒絶する時は刃になり、守る時は薄膜になる。だが、どちらも芯は同じだ。自分と他人の境目を、異常なほど正確に引く」


 陽鞠の手が震えかけた。


 それを、彼女は自分で押さえ込む。


 今は戦闘中だ。


 一般人がいる。


 動揺するな。


 玻月の言葉を聞くな。


 だが、耳に入る。


 白手袋で手首を取られた時と同じように、霊力の内側を指でなぞられるような不快感があった。


 朔夜が完全に戻ってきた。


 彼は陽鞠の前へ立つ。


 廊下の幅は狭い。二百センチの彼が立てば、陽鞠の身体はかなり隠れる。朔夜は刀を下げず、玻月の視線と陽鞠の間に、自分の身体を置いた。


「陽鞠を見るな」


 低い声だった。


 玻月の紫紺の瞳が、朔夜へ向く。


「また隠すのか」


「お前の目が気に入らない」


「以前も言っていたな」


「何度でも言う」


 朔夜の黒い瞳は冷え切っていた。


 刀に霊力が流れている。まだ妖へ向けている刃だが、いつでも玻月へ切り替えられる気配だった。


 陽鞠は朔夜の背中を見る。


 嬉しい。


 でも、隠されるだけは嫌だ。


 その二つが同時に胸の中でぶつかる。


 朔夜が守ろうとしてくれることはわかる。玻月の視線が本当に嫌だから、今はその背中がありがたい。けれど、玻月の視線から逃げるだけでは終わらせたくない。


 陽鞠は朔夜の背中越しに、弓を構え直した。


「朔夜、右の壁」


 声を出す。


 朔夜はすぐに反応した。


 右の壁から伸びた黒い枝を刀で落とす。


 陽鞠はその切断面へ矢を放つ。矢は廊下の狭さに合わせて、三枚の結界で軌道を曲げられた。金色の光が壁の中へ潜り、妖の霊気の通路を焼く。


 玻月の視線が、また陽鞠へ戻ろうとした。


 朔夜が一歩ずれる。


 遮る。


 玻月は薄く笑った。


「いい連携だ。君が前に出ることで、彼女の視界を塞いでいない。むしろ盾になりながら、射線だけは残している」


「黙れ」


 朔夜が吐き捨てる。


「陽鞠の結界を理解している。いや、身体で覚えているのか。二人の霊力が重なった時、妖の活動量が上がる理由も少し見えてくる」


 陽鞠の胸が冷える。


 なぜ、そこまで言う。


 玻月が、解析会議の内容を知っているはずはない。


 少なくとも、公式には共有されていない。


「……あなた、何を知ってるんですか」


 陽鞠が聞いた。


 玻月は答えない。


 代わりに、廊下の奥へ視線を向けた。


「核は地下二階ではない」


「え?」


 陽鞠の眉が動く。


 玻月は白手袋の指先で、天井のスピーカーを指した。


「本体は地下から伸びている。だが、核は移されている。声を集める場所、最も多くの音が重なる場所へ。ここなら、おそらく管理室の音響制御盤だ」


「音響制御盤……」


 透羽ならすぐ配置図を出すところだが、今は現場だ。


 陽鞠は結界越しに霊力の流れを探る。


 廊下の奥、非常口の反対側。スタッフ専用の小さな扉がある。その向こうに、機材室か管理室らしき反応。確かに、そこへ黒い枝が集まっている。


「朔夜、奥のスタッフ扉」


「わかった」


「でもまだ客が」


「最後の部屋は空いた」


 朔夜が視線で示す。


 最後の客が、金色の誘導線に沿って非常口へ走っていた。店員が扉を押さえ、全員を外へ出そうとしている。


 陽鞠は結界を強めた。


「避難完了まで十秒。十秒後に管理室へ行く」


「俺が前」


「うん」


 玻月が静かに言った。


「私が行けば早い」


「頼んでません」


 陽鞠は即答した。


 玻月の紫紺の瞳が、少しだけ細くなる。


「意地を張る場面か?」


「これは私たちの任務です」


「一般人が危険に晒されている」


「だから、避難を先に終わらせてます」


「私が核を斬れば、一瞬だ」


「あなたがまた勝手に何かを持っていくかもしれない」


 陽鞠の声は冷たかった。


 玻月は薄く笑う。


「信用がない」


「あると思ってたんですか」


「ない方が正しい」


「本当に、腹立つ人ですね」


 朔夜の口元が、わずかに動いた。


 笑ったわけではない。


 少しだけ、陽鞠の声に落ち着いたのだ。


 玻月は二人を見た。


 その目がまた、観察するように深くなる。


「篠宮陽鞠。君は、拒絶する相手ほど結界の精度が上がる」


「何を」


「今の私への結界だ。無意識に張っている。君の周囲に、薄い膜が三枚。外部からの霊力干渉、視線に乗る探査、物理的接触。それぞれ別に遮っている」


 陽鞠は息を止めた。


 自覚はなかった。


 だが、言われて気づく。


 確かに、自分の周囲に薄い結界を張っている。客を守る大きな結界とは別に、自分を守るための小さな膜。玻月の視線が嫌で、無意識に作った防御。


 それを言い当てられた。


 気持ち悪い。


 自分で気づくより先に、他人に知られるのがこんなに嫌だとは思わなかった。


 玻月は続ける。


「いい反応だ。君の結界は、身体の境界と精神の境界が近い。だからこそ、黒い五芒星の侵食を焼ける」


「黙ってください」


 陽鞠の声が震えた。


 怒りで。


 不快感で。


「私の結界を、勝手にそういうふうに見ないで」


 朔夜の背中が、さらに前へ出る。


 陽鞠を隠すように。


「聞こえなかったのか」


 朔夜が言う。


「黙れ」


 玻月はしばらく朔夜を見ていた。


 それから、ほんの少しだけ肩をすくめる。


「わかった。今は妖が先だ」


「あなたに言われなくても」


 陽鞠は息を整える。


 避難完了。


 廊下に一般客はいない。


 店員も非常階段側へ出た。


 これで、攻撃に切り替えられる。


 陽鞠は廊下の金色の誘導線を変形させた。避難用の柔らかな光から、妖を封じるための鋭い格子へ。床、壁、天井に沿って、結界が走る。声を奪う妖の枝が、格子に触れて焼ける。


 妖が悲鳴を上げた。


 スピーカーが一斉に割れる。


 耳障りな破裂音。


 音遮断結界で一般人は守れているが、陽鞠の耳には衝撃がくる。脳の奥が揺れた。膝が一瞬笑う。


 朔夜が支えようとする。


 陽鞠は首を振った。


「大丈夫じゃないけど、動ける!」


「それならいい」


「よくはないけど!」


 朔夜が前へ出る。


 黒い枝が四方から襲う。


 左壁。


 天井。


 床下。


 スタッフ扉の隙間。


 陽鞠は一つずつ軌道をずらす。正面から受け止めない。廊下が狭い以上、衝撃を壁へ逃がす必要がある。斜めの結界で枝を滑らせ、朔夜の刀の前へ流す。


 朔夜はそれを斬る。


 銀の刃が、金色の結界の上を走るように動く。


 黒い枝が落ちる。


 陽鞠の矢が、その切断面を焼く。


 二人はスタッフ専用扉へ到達した。


 扉の取っ手には黒い霊気が絡みついている。


 朔夜が斬ろうとした瞬間、玻月の白手袋が横から動いた。


 陽鞠の身体が反射的に固まる。


 だが、玻月は陽鞠には触れなかった。


 白手袋の指先が、扉の取っ手に絡んだ黒い霊気をつまむように引いた。直接触れていない。極薄の結界を挟んでいる。霊気が糸のように伸び、取っ手から剥がれる。


「そこを斬ると、中の核へ警戒が走る」


 玻月は淡々と言った。


「根を抜くなら静かに」


「頼んでない」


 朔夜が低く言う。


「助言だ」


「いらない」


「だが使うだろう」


 朔夜の目が冷える。


 陽鞠が間に入るように言った。


「朔夜、核に逃げられる方が嫌」


「……わかった」


 朔夜は刀を構え直す。


 玻月は剥がした霊気を指先で軽く弾き、床へ落とす前に封じた。


 腹立たしいほど手際がいい。


 そして、それ以上に腹立たしいのは、彼の助言が正しいことだった。


 扉を開ける。


 中は狭い管理室だった。


 音響機材、配線、モニター、店内放送の制御盤。壁一面に機械が並び、その中央の制御盤が黒く脈打っている。そこに、赤黒い核が埋まっていた。無数のケーブルが妖の血管のように伸び、店内のスピーカーへ繋がっている。


 核の表面に、黒い五芒星の印。


 完全に浮かんでいる。


 陽鞠の胸が冷える。


 核が二人に反応した。


 指輪の音は鳴っていない。


 それでも、陽鞠と朔夜が同時に管理室へ入った瞬間、黒い五芒星が強く光った。


 玻月がその反応を見る。


 紫紺の瞳が、陽鞠へ向きかける。


 朔夜が一歩ずれる。


 遮る。


「見るな」


 低い声。


 玻月は笑わなかった。


 ただ、少しだけ興味を深めたように目を細める。


「反応が強い。やはり二人が揃うと、印が起きる」


「実況しないでください」


 陽鞠は弓を構えながら言った。


「胸糞悪いので」


「率直だ」


「あなた相手に遠回しに言っても無駄そうなので」


「賢い」


「褒めないで」


 核が震えた。


 制御盤から、黒いケーブルが一斉に伸びる。


 狙いは陽鞠と朔夜の喉。


 声を奪うため。


 霊力を通す声を。


 陽鞠は即座に結界を張る。


 喉元を守る薄い膜。


 朔夜の喉にも同じ膜を置く。


 自分と朔夜の霊力だけを内側へ通し、妖の干渉を弾く。黒いケーブルが膜に触れ、火花のような金色の光が散った。


「朔夜、核は制御盤の奥。表面の印が守ってる」


「印ごと斬る」


「待って。印を先に剥がす」


「剥がせるか」


「やる」


 陽鞠は矢を番えた。


 狭い管理室。


 機材を壊せば店内の非常システムに影響するかもしれない。強く撃ちすぎれば、壁の向こうへ霊気が散る。だから、矢は細く。


 針のように。


 印の線だけを狙う。


 玻月の声が、背後から落ちた。


「上の角ではない。左下の線が甘い」


 陽鞠は一瞬、苛立ちで手元が揺れかけた。


 だが、見えた。


 黒い五芒星の左下の線。


 確かに、そこだけ妖核との接続が浅い。


 助言が正しい。


 だから余計に腹が立つ。


「黙ってください」


 陽鞠は言いながら、矢を放った。


 矢は金色の細い光となり、制御盤の黒い核へ向かう。黒いケーブルがそれを叩き落とそうとする。朔夜が前へ出て、刀でケーブルを切る。陽鞠は射線結界で矢の角度をわずかに変え、左下の線へ入れた。


 矢が刺さる。


 黒い五芒星の一部が、焼けた。


 妖が悲鳴を上げる。


 店内全体のスピーカーが震える。


 陽鞠の耳に痛みが走る。


 朔夜がその隙に踏み込んだ。


 制御盤の手前で、黒いケーブルが束になって彼の腕を絡め取ろうとする。陽鞠が結界で軌道をずらす。ケーブルは朔夜の腕ではなく刀の背へ滑る。朔夜はその動きを逆に利用し、刃を回した。


 ケーブルが一気に切断される。


 核が露出した。


「今!」


 陽鞠が叫ぶ。


 朔夜の刀が核へ入る。


 だが、黒い五芒星の残った線が刃を押し返す。


 硬い抵抗。


 朔夜の腕の筋が浮く。


 玻月が、背後で静かに言う。


「力だけでは折れない」


「黙れ」


 朔夜が低く唸る。


 陽鞠は朔夜の刀の背へ結界を重ねた。


 金色の薄膜。


 刃を補助するための、ほんの細い道。


「力だけじゃない」


 陽鞠は言った。


「朔夜の刀は、私の結界と一緒に行く」


 朔夜の黒い瞳が、一瞬だけ柔らかくなる。


「ああ」


 二人の霊力が重なる。


 黒い五芒星が激しく脈打つ。


 玻月の視線が、それを逃さず見ているのがわかった。


 嫌だ。


 見られたくない。


 けれど、今は止めない。


 守るために使う。


 自分たちの連携を、条件ではなく刃にする。


「朔夜!」


 陽鞠が叫ぶ。


「斬って!」


 刀が押し込まれる。


 金色の膜が、黒い印の残線を裂く。


 銀の刃が、妖核の中心へ届く。


 ばきん、と硬い音がした。


 赤黒い核が割れた。


 黒い五芒星が、ひび割れた表面で一瞬だけ強く光る。逃げようと黒い線が伸びる。陽鞠はその線を結界で包み、逃がさない。朔夜が刀を返し、残った核を完全に断つ。


 妖の声が消えた。


 スピーカーのノイズが止まる。


 廊下の黒い枝が次々に崩れ、壁の染みが薄れていく。制御盤に絡みついていた黒いケーブルも灰のように散り、床へ落ちる前に消えた。


 管理室に、静けさが戻った。


 外の廊下から、遠くで店員が客を確認する声が聞こえる。咳き込む声はあるが、命に関わる気配はない。陽鞠は結界を維持したまま、ゆっくり息を吐いた。


 終わった。


 少なくとも、この場の妖は祓った。


 だが、胸の奥の不快感は消えない。


 玻月の視線が、まだある。


「見事だ」


 玻月が言った。


 陽鞠は振り返らなかった。


 褒め言葉に聞こえない。


 彼の声は、まるで記録を読み上げているようだった。


「核の防御ではなく、印の弱線を先に焼いた。綴喜朔夜の斬撃に合わせて、刃の背へ補助膜を重ねる判断も早い。君の結界は、やはり興味深い」


「やはり、って何ですか」


 陽鞠はようやく振り返った。


 金色の瞳が、玻月を睨む。


「あなたはさっきから、私の結界を褒めてるふりをして、観察してるだけです」


 玻月は否定しない。


「そうだな」


 あっさり認めた。


 陽鞠の怒りが増す。


「私は見世物じゃありません」


「見世物として見ているつもりはない」


「じゃあ何として見てるんですか」


 玻月は答えなかった。


 紫紺の瞳が、陽鞠の金眼を見る。


 また、あの目。


 奥を覗こうとする目。


 金色の瞳の中に、自分でも知らない何かを探す目。


 陽鞠は反射的に一歩引きかけた。


 その前に、朔夜が動いた。


 彼は陽鞠の前に立つ。


 完全に視線を遮るように。


 刀はまだ抜かれている。


 刃先は床へ向けているが、いつでも上げられる位置だった。


「見るな」


 今日、何度目かわからない言葉。


 だが、今度の声はさらに低かった。


「陽鞠が嫌がってる」


 玻月は朔夜を見る。


「彼女は自分で言える」


「言っただろ」


「なら、君が隠す必要はない」


「ある」


「なぜ」


「お前の目が汚い」


 陽鞠は思わず朔夜の背中を見た。


 言い方。


 だが、否定はできない。


 玻月の目は汚いというより、冷たい。人を人として見ていない。少なくとも、今の陽鞠にはそう感じる。だから、その言葉は乱暴だが間違ってはいなかった。


 玻月は怒らなかった。


 むしろ、少しだけ笑った。


「正直だな」


「黙れ」


「彼女の結界を見ていると、忘れかけたものを思い出しそうになる」


 その言葉に、陽鞠の胸がざわついた。


 朔夜の背中も、わずかに強張る。


「何を」


 陽鞠が聞く。


 朔夜の背中越しに。


 玻月は一瞬だけ、遠くを見るような目をした。


 けれど、すぐにいつもの薄い笑みに戻る。


「まだ言うべきではない」


「またそれですか」


「君は苛立つと、金眼がよく光る」


「観察をやめて」


「難しい」


「努力してください」


「努力は嫌いではないが、無意味な努力は好まない」


「最低」


「よく言われる」


 陽鞠は深く息を吸った。


 怒鳴りたい。


 だが、ここで感情を乱せば玻月にまた見られる。


 怒りの出方、霊力の揺れ、結界の反応。


 全部を、彼は観察する。


 それがわかるから、余計に腹が立つ。


 朔夜は刀を鞘へ戻さない。


「用が済んだなら消えろ」


「まだ核の残滓がある」


「俺たちが回収する」


「若槻に渡すのか」


「当然」


 玻月は核の割れた制御盤を見た。


 黒い五芒星の残滓が、まだ微かに機材の中で揺れている。陽鞠はすぐに封印札を取り出し、結界越しに残滓を包んだ。直接触れない。更紗に言われた通り、観測札を先に使い、反応を記録する。


 玻月の視線が、その作業を追う。


 また見ている。


 陽鞠は手元に集中した。


 残滓を封印ケースへ入れる。


 蓋を閉じる直前、黒い五芒星の線がわずかに揺れた。


 陽鞠と朔夜の指輪が近くにあるからか。


 それとも、玻月が近くにいるからか。


 まだわからない。


「篠宮陽鞠」


 玻月が呼んだ。


 陽鞠は返事をしない。


 玻月は続ける。


「君の結界は、いずれ君自身を苦しめる」


 朔夜の刃先が、わずかに上がる。


 陽鞠は朔夜の袖を掴んで止めた。


 玻月は薄く笑う。


「拒絶が強いほど、守れるものは増える。だが、同時に、受け入れなければならないものまで弾くことがある」


「忠告のつもりですか」


「観察結果だ」


「なら、いりません」


 陽鞠は封印ケースを抱えた。


「私が何を拒んで、何を受け入れるかは、私が決めます。あなたに決められることじゃない」


 玻月の目が、ほんの少し深くなる。


「そうか」


「そうです」


「なら、よく覚えておくといい。君が選んだものが、君を守るとは限らない」


 その言葉は、静かだった。


 不気味なほど。


 陽鞠の胸が冷える。


 何かを知っているような言い方。


 でも、断片だけを投げて、何も説明しない。


 朔夜が完全に陽鞠を隠す位置へ出た。


「陽鞠を脅すな」


「脅しではない」


「なら何だ」


「警告だ」


「同じだ」


 玻月は答えず、黒い長衣の裾を翻した。


「今日の残滓は、早めに解析した方がいい。声を媒体にしているが、底の術式は神社のものに近い」


 陽鞠の眉が動く。


「神社の?」


「古い信仰残滓と、声の記録。性質は違うが、印の沈め方が似ている。誰かが、古いものと現代の器を繋ごうとしている」


 それだけ言って、玻月は背を向けた。


「待って」


 陽鞠が呼ぶ。


「その誰かって、あなたは何か」


「断定はしない方がいい」


 玻月は振り返らない。


「君たちも、私も」


 黒い長衣が、管理室の入口へ向かう。


 朔夜が一歩踏み出しかける。


 陽鞠が袖を掴んだまま、首を振った。


 追わない。


 今は。


 玻月は廊下へ出る直前、ほんの少しだけ顔を横へ向けた。


 紫紺の瞳が、朔夜の肩越しに陽鞠を見ようとする。


 朔夜が即座に動き、完全に遮った。


 玻月は、今度こそ少しだけ笑った。


「また会うだろう」


「会いたくないです」


 陽鞠が言う。


「それは君が決めることではない」


 玻月の気配が薄れる。


 足音もなく、彼は廊下の暗がりへ消えた。


 残ったのは、壊れたスピーカーの匂いと、封印ケースの中の黒い残滓と、陽鞠の胸に沈んだ不快感だった。


 朔夜はしばらく動かなかった。


 刀を握る手に力が入っている。


「朔夜」


「何」


「抜かないでくれて、ありがとう」


「抜きたかった」


「知ってる」


「今も斬りたい」


「知ってる」


「でも、陽鞠が止めた」


「うん」


「だから止まった」


 陽鞠は朔夜の背中を見つめた。


 彼はまだ、陽鞠を玻月の視線から隠すように立っている。


 もう玻月はいない。


 それでも、立ち位置が変わらない。


「もういないよ」


 陽鞠が言う。


「わかってる」


「じゃあ、こっち見て」


 朔夜が振り返る。


 黒い瞳には、まだ怒りが残っていた。


 陽鞠は封印ケースを片手に持ち直し、空いた右手で朔夜の指に触れた。


 指輪が鳴る。


 ちり。


 管理室の壊れた機材の中で、その音だけがやけに澄んでいた。


「私、嫌だった」


「うん」


「褒められてる感じじゃなかった。見られてるだけだった」


「うん」


「私の結界なのに、勝手に中を読まれてるみたいで」


「うん」


「でも、隠れてるだけは嫌」


 朔夜の表情が少し変わる。


 陽鞠は続けた。


「朔夜が前に立ってくれるのは嬉しい。あの視線、ほんとに嫌だから。でも、私も言う。見ないでって。私は見世物じゃないって」


「言ってた」


「まだ足りない」


「じゃあ、次も言え」


「うん」


「俺は隠す」


「そこは変わらないんだ」


「お前が嫌なら隠す。でも、お前が言う場所は残す」


 陽鞠は少しだけ目を瞬いた。


 その言い方が、朔夜なりの譲歩だとわかった。


 完全に前に出て守りたい。


 でも、陽鞠が自分で言うこともわかっている。


 だから、視線は遮る。


 声は奪わない。


 陽鞠は小さく笑った。


「それなら、いい」


「よかった」


「でも、勝手に斬りかからない」


「努力する」


「約束」


「約束する」


 朔夜は低く答えた。


 その言葉で、少しだけ落ち着く。


 外の廊下では、避難確認を終えた店員たちの声が聞こえ始めていた。遠くで誰かが泣き、誰かが「声が出る」と安堵している。被害はあった。けれど、命は守れた。


 陽鞠は封印ケースを見下ろす。


 黒い五芒星の残滓は、まだ小さく脈打っている。


 声を媒体にした妖。


 神社の印と似た沈め方。


 古いものと現代の器。


 玻月の言葉は、腹立たしいほど意味深だった。


 だが、彼が何を知っているのかは、まだわからない。


 正体を決めつけるには早い。


 でも、警戒を解く理由は一つもなかった。


「更紗に送る」


 陽鞠が言う。


「ああ」


「透羽にも、店内の構造と発生地点を調べてもらう」


「ああ」


「かがり先生には、玻月さんがまた来たって報告」


「さん付け」


「……御影堂が来たって報告」


「よし」


「そこ、今大事?」


「大事」


 陽鞠は少しだけ呆れた。


 緊張がほんの少し緩む。


 朔夜が彼女の髪へ視線を落とした。


「カラオケ、戻れなかったな」


「戻れるわけないでしょ」


「ミルクティー、残ってた」


「今それ言う?」


「肩も」


「何」


「もう少し、もたれてた」


 陽鞠の顔が少し赤くなる。


「任務後に言うこと?」


「生きてるから言える」


「……それは、そうだけど」


 朔夜が少しだけ身を屈める。


 管理室の壊れた機材、封印ケース、黒い残滓、玻月の嫌な視線。


 そんなものが全部残る場所で、彼は陽鞠の額へ短くキスをした。


 深くはない。


 ただ、そこにいることを確かめるように。


「上書き」


 朔夜が言う。


「視線の?」


「全部」


「……欲張り」


「陽鞠だから」


「理由がそればっかり」


「本当だから」


 陽鞠は少しだけ笑い、彼の袖を掴んだ。


 玻月の視線はまだ胸に残っている。


 観察される不快感も消えない。


 でも、朔夜の背中と、額に落ちたキスの温度も残っている。


 どちらを自分の中に残すかは、自分で決める。


 陽鞠は封印ケースをしっかり抱えた。


「行こう」


「ああ」


 二人は管理室を出た。


 カラオケ店の廊下は、先ほどより明るくなっている。非常灯だけでなく、通常の照明が少しずつ戻り始めていた。壁の黒い染みは薄くなり、店員たちが震えた声で客の確認をしている。


 戦闘は終わった。


 けれど、不穏は終わらない。


 御影堂玻月の視線。


 陽鞠の結界への興味。


 黒い五芒星の残滓。


 神社の印との類似。


 それらは、まだどこかで繋がろうとしている。


 陽鞠は歩きながら、朔夜の手を取った。


 指輪が鳴る。


 ちり。


 今度は妖の反応を怖がるためではなく、自分たちの音として。


 廊下の奥へ消えた白手袋の男に、見せるためでもなく。


 ただ、陽鞠が自分で選んで握った手の音として。


 朔夜はその手を握り返し、陽鞠の半歩前を歩いた。


 玻月の視線が戻ってきても、すぐに遮れる場所。


 けれど、陽鞠の声が届く距離。


 二人はその距離のまま、明るさを取り戻し始めた廊下を進んだ。


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