第20話 唇を噛む
任務終わりの空気は、いつも少しだけ重い。
妖を祓った直後の場所には、独特の静けさが残る。戦闘中は霊力の衝突音、刃が空気を裂く音、結界が軋む音、妖の叫び、誰かの足音で満ちている。だが、終わった瞬間、それらは一気に消える。
残るのは、壊れたものの音だけだ。
瓦礫が崩れる小さな音。
水道管から漏れた水が床を叩く音。
焦げた霊符の端が、まだ燻る匂い。
そして、身体の奥で遅れてくる痛み。
その日、陽鞠と朔夜が向かったのは、駅裏の古い雑居ビルだった。
一階には閉店した居酒屋、二階には空きテナント、三階には使われていないダンススタジオ。ビル全体が取り壊し予定で、入口には工事用の仮囲いが立っている。ところが、夜になると三階の窓に人影が映り、誰もいないはずの室内から足音が鳴ると通報が入った。
現場にいた妖は、鏡と足音に執着するものだった。
ダンススタジオの壁一面の鏡に棲みつき、人の動きを真似る。床を叩く足音で相手の動きを乱し、鏡の中から腕を伸ばして引きずり込もうとする。自然発生した妖にしては攻撃性が強く、鏡の裏側に黒い五芒星の残滓があった。
やはり、ただの妖ではなかった。
陽鞠は鏡面に結界を張り、反射する霊力を一枚ずつ封じた。朔夜は鏡から出てくる腕を斬り落とし、床を滑る影を踏み砕いた。最後は、陽鞠が鏡の中心へ細い射線を通し、朔夜がその道を辿って妖核を斬った。
戦闘は終わった。
鏡はすべて割れ、床には銀色の破片が散っている。
割れた鏡片の一つ一つが、薄暗い室内の光を拾い、陽鞠と朔夜の姿をばらばらに映していた。金色の瞳。銀髪。濡れてはいないが汗で頬に張りついた髪。刀の刃。弓の影。右手薬指と左手薬指の指輪。
陽鞠は息を整えながら、封印ケースの蓋を閉じた。
「残滓、取れた」
「更紗行きだな」
「うん。今度は鏡面に沈んでた。カラオケの音響制御盤とも、神社の鈴とも違うけど、印の沈み方が似てる」
「古いものと、現代の器」
朔夜が低く言う。
玻月の言葉だ。
思い出すだけで、陽鞠の胸の奥が少しざらつく。
「……あの人の言ったこと、当たってるのが腹立つ」
「名前を出すな」
「出してない」
「顔が出してる」
「顔って便利だね」
「便利じゃない。俺に見える」
「朔夜専用じゃん」
「そうだな」
「否定して」
陽鞠は少しだけ呆れた。
朔夜は割れた鏡の中を確認している。まだ妖の霊気が残っていないか、刀を手にしたまま慎重に歩いていた。彼の肩にも、頬にも細かな鏡片がついている。戦闘中に飛んだものだ。
陽鞠は弓を背負い直しながら言った。
「朔夜、頬に破片」
「どこ」
「右」
陽鞠は近づいて、指先でそっと破片を取った。
小さな銀の欠片。
触れた瞬間、朔夜の視線が陽鞠へ落ちる。
「何」
「陽鞠が近い」
「破片取ってるだけ」
「嬉しい」
「喜ばないで」
「無理」
任務終わりの緊張が、少しだけ緩む。
陽鞠は小さく笑いかけた。
その時、廊下の方で霊力が揺れた。
朔夜の表情が変わる。
陽鞠も弓へ手を伸ばしかけた。
だが、次の瞬間、ビルの外から救護班の声が聞こえた。下階で避難確認をしている退魔師たちの声だ。応援班が到着したらしい。妖の気配ではない。
朔夜は刀を少し下げた。
「俺、下へ報告してくる。救護班に三階の鏡片、踏ませないよう言ってくる」
「私も行く」
「封印ケース、整理してろ。床、危ない」
「私だって歩ける」
「知ってる。でも、陽鞠の指、さっき結界で裂けただろ」
「見てたの」
「見るだろ」
朔夜は当然のように言った。
陽鞠は反論しかけて、やめた。
右手の指先は確かに少し切れている。鏡面を封じる時、反射霊力を弾いた反動だ。大した傷ではないが、封印ケースを落とすと面倒なことになる。
「……すぐ戻ってね」
「戻る」
「勝手に玻月さんと喧嘩しないでね」
「さん付け」
「今そこ?」
「そこ」
「御影堂と喧嘩しないでね」
「向こうが来なければ」
「来ても一回私を見る約束」
「見る」
「本当に?」
「本当に」
朔夜は陽鞠の手の甲へ短く唇を触れさせた。
割れた鏡の光の中で、指輪が小さく鳴る。
ちり。
「すぐ戻る」
「うん」
朔夜は廊下へ出た。
足音が階段の方へ遠ざかっていく。
陽鞠は封印ケースを抱え直し、割れた鏡の残骸を見渡した。三階のダンススタジオは、まだ薄く妖の匂いが残っている。古い木床に染み込んだ汗と埃、鏡の裏の黴、霊符が焼けた匂い。それらが混ざり、喉の奥にざらつきを残した。
鏡片には、陽鞠の姿がいくつも映っている。
金色の瞳。
自分の顔。
少し疲れた表情。
左手首の浄化符。
右手薬指の指輪。
私は私だ。
この間、夢から覚めた朝に言った言葉が、胸の奥に浮かんだ。
白い光。
矢。
血の味。
誰かを失う感覚。
まだ全部はわからない。
けれど、今ここにいるのは篠宮陽鞠だ。自分で選んで立ち、自分で結界を張り、自分で拒む退魔師だ。
そう思った時だった。
「鏡は厄介だな」
背後から、静かな声がした。
陽鞠の身体が反射的に硬くなる。
振り返る前に、わかった。
その気配。
薄く冷たく、整いすぎた霊力。
白手袋の男。
御影堂玻月。
陽鞠は即座に後ろへ跳んだ。
封印ケースを左手に抱え、右手を弓へ伸ばす。足元の鏡片が音を立てた。
スタジオの入口近く、割れた鏡の前に玻月が立っていた。
黒い長衣の裾が、砕けた鏡片の上すれすれで揺れている。濡羽色の長い髪は低く結ばれ、片耳の銀の耳飾りが薄い光を拾った。白手袋は汚れひとつない。紫紺の瞳は、いつものように薄い笑みの奥で笑っていない。
どうやって入ったのか。
気配はなかった。
朔夜が下へ向かった数分の隙。
その隙を狙ったように現れた。
陽鞠の胸に、嫌な熱が広がる。
「何の用ですか」
声は冷たくした。
玻月は割れた鏡片を見下ろした。
「鏡の妖に、黒い五芒星。声、鈴、鏡。器が増えている」
「答えになってません」
「君は相変わらず急く」
「あなた相手にゆっくりする理由がありません」
「正しい判断だ」
「褒めないでください」
玻月の口元が少し動く。
「それも変わらない」
「近づかないで」
陽鞠は先に言った。
右手の指先に霊力を集める。
薄い結界を自分の周囲へ張った。三枚。外部干渉、霊力探査、物理的接触。それぞれ別に遮る膜。玻月に見抜かれて以来、意識して張るようになったものだ。
玻月はそれを見て、わずかに目を細めた。
「自覚的に張れるようになったか」
「観察しないで」
「している」
「やめて」
「それは難しい」
「最低」
「知っている」
会話が通じているようで、通じていない。
陽鞠は弓を握り直した。
「朔夜を呼びます」
「呼べばいい」
「なら、なぜ来たんですか」
「君一人の反応を見たかった」
その言葉が、陽鞠の胃の奥を冷たくした。
君一人の反応。
まるで実験の条件を変えるみたいに。
朔夜がいる時と、いない時。
守りがある時と、ない時。
陽鞠の結界がどう変わるかを見るために。
「……気持ち悪い」
陽鞠ははっきり言った。
玻月は少しだけ笑う。
「率直だ」
「褒めるなって言ってる」
「では、記録しておこう」
「記録するな」
陽鞠は一歩下がった。
床の鏡片が靴の下で鳴る。
その音が、やけに大きく聞こえた。
朔夜の足音はまだ戻らない。
階下の声も遠い。
この三階のスタジオだけ、妙に切り離されている。
玻月が一歩、近づいた。
陽鞠の結界が微かに震える。
「近づかないで」
「結界の密度が上がった」
「聞いてますか」
「聞いている」
「じゃあ止まってください」
「もう少しでわかる」
「何が」
「君の拒絶が、どこまで君自身を守るか」
玻月がまた一歩近づく。
白手袋の指先が、ゆっくり上がった。
陽鞠は弓を構えた。
狙いは玻月の肩。
殺すためではない。
止めるため。
だが、彼が動く方が速かった。
黒い長衣の裾が揺れる。
踏み込みが見えない。
玻月の姿が、鏡片に一瞬分裂したように見えた。右にいる。左にいる。正面にいる。割れた鏡の反射を使われたのだと気づいた時には、白手袋の指先が陽鞠の結界へ触れていた。
触れる寸前で、結界が弾く。
金色の膜が鋭く光った。
玻月の指は止まった。
だが、止まったはずの白手袋が、結界の表面を滑る。
力ではない。
継ぎ目を探している。
陽鞠の背筋に悪寒が走った。
「触るな!」
結界を爆ぜさせる。
金色の破片が白手袋を弾く。
だが、玻月は退かない。
白手袋に浅い裂け目が入っただけで、彼はもう片方の手を伸ばしていた。陽鞠は弓で打ち払おうとする。玻月の指が、弓の軌道をわずかに外した。力任せではない。関節の動き、重心、弓を握る手首の角度。その全部を読んだ動き。
陽鞠の胸に、強い怒りが走る。
まただ。
見られている。
読まれている。
勝手に中へ入ろうとしてくる。
玻月の白手袋が、陽鞠の肩近くの空気を掠めた。
直接触れるより先に、陽鞠はさらに結界を張る。だが、その結界も表面を滑られた。玻月が近い。近すぎる。
陽鞠は後ろへ下がる。
背中が割れた鏡の残った壁へ触れた。
逃げ場が一瞬、消える。
玻月の紫紺の瞳が、至近距離で陽鞠を見る。
笑っていない目。
金眼の奥を覗く目。
陽鞠の全身が拒絶で強張る。
「離れて」
「動くな」
玻月の声は静かだった。
命令の形をしていた。
その瞬間、陽鞠の中で何かが冷たく切れた。
動くな。
勝手に触ろうとして、勝手に見ようとして、勝手に測ろうとして。
その上で、動くな。
ふざけるな。
玻月の手が、陽鞠の顎へ伸びる。
顎を上げさせるように。
金眼を近くで見るために。
霊力の流れを覗くために。
陽鞠は顔を逸らした。
白手袋の指が頬をかすめる。
布越しの感触が、吐き気がするほど嫌だった。
「触るなって言ってる!」
陽鞠は膝を上げた。
玻月はそれを読んで半歩ずらす。
膝蹴りは外れる。
同時に、彼の手が陽鞠の手首を押さえかける。以前と同じ場所。霊力の流れを取ろうとする動き。
陽鞠は弓を捨てた。
からん、と床で弓が鳴る。
玻月の目がわずかに動く。
その隙に、陽鞠は自分から玻月の距離へ踏み込んだ。
逃げるためではない。
反撃するために。
白手袋の手が陽鞠の手首へ触れかけた瞬間、陽鞠は上体をひねり、玻月の口元へ噛みついた。
唇に歯が当たる。
柔らかい感触。
すぐに、血の味が広がった。
鉄の味。
熱い味。
夢の中の血とは違う。
これは、現実の血だ。
玻月の血。
陽鞠が拒絶して、反撃して、噛み切った血。
玻月の身体が、初めてわずかに止まった。
陽鞠は容赦しなかった。
深く噛む。
逃げるな。
触るな。
見るな。
私を勝手に扱うな。
その怒りを、全部込めた。
玻月の唇が切れる。
血が陽鞠の口の中へ滲む。
不快だった。
吐き出したいほど不快だった。
けれど、離さない。
相手が離れるまで。
玻月の手が止まった。
陽鞠はその瞬間、結界を爆ぜさせた。
金色の光が二人の間で弾ける。
玻月の身体が半歩後ろへ飛ぶ。
陽鞠はすぐに口を離し、横へ転がるように距離を取った。床の鏡片が手のひらに当たり、浅く皮膚を切る。痛い。だが、そんなものはどうでもよかった。
陽鞠は床に片膝をつき、袖で口元を強く拭った。
血の味が残っている。
気持ち悪い。
自分で噛んだのに、玻月の血が口の中に残っているのが嫌でたまらない。
彼女の金色の瞳が、怒りで燃える。
「二度と、近づくな」
声は低かった。
震えていない。
震えるより先に、怒りが立っていた。
玻月は指で自分の唇に触れた。
白手袋の指先に、赤い血がつく。
切れた唇。
陽鞠の歯形。
彼はそれを見た。
そして、笑った。
薄く。
静かに。
楽しそうにすら見える笑みだった。
陽鞠の全身に、ぞっとする嫌悪が走る。
「いい反撃だ」
玻月が言った。
声は少し低い。
切れた唇から血が滲み、それでも彼は余裕を崩していなかった。
「自分の境界を破られそうになった瞬間、結界より先に歯を使った。理屈ではない。本能の拒絶だ」
「黙れ」
陽鞠は吐き捨てた。
「私の拒絶を、勝手に分析するな」
「君は」
「黙れって言ってる!」
陽鞠の霊力が爆ぜた。
床の鏡片が一斉に震える。金色の結界が陽鞠の周囲に立ち上がり、鋭い棘のような形になる。防御ではない。近づくものを刺すための結界。
玻月はそれを見て、また目を細める。
観察する目。
まだ見るのか。
まだ測るのか。
陽鞠は本気で矢を番えようとした。
その時だった。
階段側の廊下から、凄まじい速度で気配が迫った。
黒銀の霊力。
怒りで冷え切った、鋭すぎる気配。
「陽鞠!」
朔夜の声が響いた。
次の瞬間、スタジオの入口に朔夜が現れた。
彼は状況を一瞬で見た。
床に落ちた陽鞠の弓。
陽鞠の口元についた血。
手のひらの傷。
玻月の切れた唇。
近すぎた距離。
すべてを理解するのに、一秒もかからなかった。
朔夜の顔から表情が消える。
完全な無表情。
その奥で、怒りだけが黒く燃えていた。
刀が抜かれた。
今度は、迷いがなかった。
銀の刃が鞘を離れ、割れた鏡の光を受けて冷たく光る。黒銀の霊力が刃に絡み、床の鏡片が圧で震えた。朔夜は陽鞠と玻月の間へ入る。
完全に。
遮るように。
守るように。
斬るために。
「何をした」
声は低かった。
低すぎて、空気が凍る。
玻月は白手袋の指で唇の血を拭った。
「彼女が噛んだ」
その言い方に、陽鞠の怒りがさらに膨れた。
「先に近づいたのはあなたでしょ!」
叫ぶ。
「触るなって言った! 離れてって言った! それでも近づいてきた!」
朔夜の刀の霊力が一段強くなる。
空気が重い。
玻月は陽鞠の声を聞いても、表情を大きく変えない。
「そうだな」
「あっさり認めるな!」
「事実だ」
「なら謝って!」
「謝罪で済むと思うか?」
「済まないけど、しないよりましでしょ!」
「そうか」
玻月は薄く笑ったまま言った。
「悪かった」
その声に、誠意はなかった。
少なくとも陽鞠には、欠片も感じられなかった。
朔夜の刀が上がる。
「謝るな」
朔夜が言った。
「その口で陽鞠の名前を呼ぶな」
玻月の紫紺の瞳が、朔夜へ向く。
「斬るか」
「斬る」
「今の君では、まだ届かない」
「届かせる」
朔夜が踏み込もうとする。
陽鞠は立ち上がった。
手のひらが痛い。
口の中に血の味が残っている。
怒りで視界が熱い。
それでも、朔夜を止めなければならない。
陽鞠は朔夜の袖を掴んだ。
「朔夜!」
朔夜の足が止まる。
刀は下がらない。
彼は玻月を見たまま、低く言った。
「止めるな」
「止める」
「陽鞠」
「私は嫌だった。気持ち悪かった。怒ってる。今すぐ全部洗い流したいくらい嫌。でも、私が噛んで弾いた。私は自分で拒んだ」
朔夜の手が震えている。
怒りで。
刀を握る指に、白く力が入っていた。
陽鞠はその袖を強く握る。
「朔夜が今斬りかかったら、この人の思う通りになる」
「それでも」
「それでも、だめ」
陽鞠の声が強くなる。
「私の怒りを、朔夜の暴走に変えられたくない」
その言葉で、朔夜の黒い瞳が揺れた。
陽鞠は続ける。
「私は怒ってる。私が怒ってる。私の怒りを、私から取らないで」
スタジオが静まり返る。
雨ではない。
歌声でもない。
ただ、割れた鏡が足元で冷たく光っているだけ。
朔夜は長く息を吐いた。
刀はまだ構えたままだ。
けれど、踏み込まない。
「……わかった」
低い声だった。
「でも、次に近づいたら斬る」
玻月は静かに見ている。
切れた唇から、まだ少し血が滲んでいた。
「彼女が止めても?」
玻月が問う。
朔夜の目が細くなる。
「その時、陽鞠が嫌がってるなら、斬る」
「今も嫌がっていた」
「だから、今すぐ斬りたい」
「ならば、なぜ止まる」
「陽鞠が、自分の怒りを取るなと言ったからだ」
玻月は一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬。
だが、その沈黙は、さっきまでの余裕とは違った。
陽鞠はそれに気づいた。
玻月の紫紺の瞳が、陽鞠へ向きかける。
朔夜が即座に遮る。
「見るな」
玻月は少しだけ口元を動かした。
切れた唇のせいで、笑みがわずかに歪む。
「今日は、ここまでにしておこう」
「逃げるんですか」
陽鞠が言った。
玻月は朔夜の肩越しに、陽鞠の気配を見ているようだった。
「深追いする理由がない」
「最初から近づく理由もありません」
「理由ならある」
「私は許可してない」
「そうだな」
「次は噛むだけじゃ済ませません」
陽鞠の声は冷たい。
玻月は白手袋の指先で、唇の血をもう一度拭った。
「覚えておく」
「覚えなくていい」
「いいや。これは覚える価値がある」
陽鞠の怒りがまた熱を持つ。
朔夜の刀もわずかに動く。
しかし、玻月はそれ以上近づかなかった。
黒い長衣の裾が揺れる。
彼は一歩下がり、割れた鏡片を踏まないまま、すっと距離を取った。足音はほとんどない。血のついた白手袋だけが、妙に生々しく見えた。
「篠宮陽鞠」
名前を呼ばれて、陽鞠の身体が強張る。
朔夜が低く唸るように言った。
「呼ぶな」
玻月はそれを無視しなかった。
珍しく、言葉を切った。
そして、少しだけ笑った。
「……また会うだろう」
「会いたくありません」
陽鞠が即座に返す。
「それは、君が決めることではない」
いつもの言葉。
だが、今日はいつもよりひどく不快に響いた。
玻月の気配が薄くなる。
黒い長衣が廊下の影へ溶けていく。転移ではない。隠形でもない。ただ、存在を薄めるように去っていく。最後に、白手袋の指先についた赤だけがちらりと見えた。
それもすぐに消えた。
スタジオに、沈黙が戻る。
朔夜はしばらく刀を下ろさなかった。
陽鞠はその背中を見ていた。
怒りがまだ身体の中で暴れている。
口の中に血の味が残っている。
玻月の血。
自分が反撃した証拠。
でも、それでも気持ち悪い。
陽鞠は袖で口元を拭った。
強く。
何度も。
朔夜がようやく刀を下げ、振り返る。
「陽鞠」
その声を聞いた瞬間、陽鞠の肩が震えた。
怖かったのではない。
いや、怖かった。
気持ち悪かった。
怒っていた。
全部だった。
朔夜は刀を鞘へ戻し、陽鞠へ近づく。
今度は、ゆっくり。
「触っていいか」
聞いた。
陽鞠の胸が詰まる。
玻月は聞かなかった。
朔夜は聞く。
その違いだけで、喉の奥が熱くなる。
陽鞠は小さく頷いた。
「うん」
朔夜はそっと陽鞠を抱きしめた。
強くない。
でも、確かに包む。
陽鞠の左手首を避け、手のひらの傷にも触れないように。汚れた口元にも、急には触れない。
ただ、背中へ腕を回す。
陽鞠はそこで、ようやく息を吐いた。
吐いた息が震えていた。
「……気持ち悪い」
小さく言った。
「うん」
「血の味がする」
「うん」
「噛んだのは私なのに、まだ残ってる」
「洗う」
「うん」
「浄化もする」
「うん」
「それでも残るなら、俺が上書きする。陽鞠が嫌じゃないなら」
陽鞠は朔夜の服を掴んだ。
「今は、まだ嫌」
「わかった」
即答だった。
それがありがたかった。
朔夜は無理に何かをしようとしない。
今すぐキスで消そうとしない。
彼は陽鞠が嫌だと言ったら、止まる。
そのことが、玻月への怒りをよりはっきりさせる。
陽鞠は朔夜の胸元に額を押しつけた。
「私、怒ってる」
「ああ」
「怖いより、怒ってる」
「ああ」
「私のこと、勝手に見て、触ろうとして、動くなって言った」
「ああ」
「許さない」
「許さなくていい」
朔夜の声も低かった。
「俺も許さない」
「でも、私の怒り」
「取らない」
「うん」
「隣で怒る」
陽鞠は少しだけ笑いそうになった。
笑える状況ではないのに。
でも、朔夜らしかった。
「隣で怒るって何」
「前に出すぎると、お前が怒る」
「怒る」
「だから隣で怒る」
「……うん。それがいい」
朔夜は片手を伸ばし、陽鞠の頬に触れようとして止めた。
「口、見る」
確認の言葉。
陽鞠は頷いた。
朔夜はそっと彼女の顎に指を添えた。
玻月のように上げさせない。
逃げられる触れ方。
陽鞠は自分から少しだけ顔を上げた。
朔夜の黒い瞳が、陽鞠の口元を見る。
彼女の唇には、玻月の血が少しだけついていた。自分の血ではない。噛んだ時に残ったものだ。朔夜の表情が一瞬、ひどく冷たくなる。
だが、彼は何も言わず、清浄布を取り出した。
「拭いていいか」
「うん」
朔夜は丁寧に血を拭った。
乱暴にこすらない。
白い布に赤が移る。
陽鞠はそれを見て、少しだけ気分が悪くなった。朔夜がすぐに気づき、布を折って赤が見えないようにする。
「水」
「欲しい」
「取ってくる」
「一人にしないで」
思わず言った。
朔夜が動きを止める。
陽鞠は自分で少し驚いた。
だが、取り消さない。
「今は、一人にしないで」
「しない」
朔夜は即答した。
端末で階下の救護班へ連絡し、水と浄化薬を持ってこさせる。その間も、彼は陽鞠のそばを離れなかった。刀はいつでも抜ける位置。背中は入口側。陽鞠を隠す位置。
でも、陽鞠の視界を全部塞ぐわけではない。
隣にいる。
約束通りに。
救護班が来るまでの数分間、陽鞠は朔夜の袖を掴んだままだった。
床の鏡片が、朝でも夜でもないビルの薄い光を反射している。そこには、陽鞠の怒った顔がいくつも映っていた。怯えた顔ではない。泣きそうな顔でもない。
怒っている顔。
自分の境界を勝手に踏み越えられたことへの、はっきりした怒り。
陽鞠はその顔を見て、ゆっくり息を吸った。
「私は私だ」
小さく言う。
朔夜が彼女を見る。
「うん」
「神の子でもない。誰かの記憶でもない。条件でもない。観察対象でもない」
「ああ」
「私に触っていいかどうかは、私が決める」
「ああ」
「私の怒りも、私のもの」
「ああ」
朔夜は静かに頷いた。
「今のお前が好きだ」
その言葉に、陽鞠の喉が詰まった。
今はキスできない。
まだ、口の中に嫌な血の味が残っている。
でも、その言葉はちゃんと届いた。
陽鞠は朔夜の袖を握る手に力を込めた。
「……今は、手」
「うん」
「手を握って」
「うん」
朔夜は彼女の右手を取った。
血のついていない方の手。
指輪同士が触れる。
ちり、と小さく鳴った。
その音に、陽鞠は目を閉じた。
玻月の血の味は、まだ完全には消えない。
不快感も、怒りも、消えない。
けれど、指輪の音は自分で選んだものだった。
勝手に奪われた接触ではない。
自分が握ってほしいと言い、朔夜が応えた手。
その音だった。
陽鞠はその音を聞きながら、割れた鏡の中の自分をもう一度見た。
怒っている。
傷ついている。
それでも、折れてはいない。
玻月の笑みも、白手袋も、血の味も、忘れない。
忘れないまま、次はもっと強く拒む。
次は噛むだけでは済ませない。
陽鞠はそう決めて、朔夜の手を強く握り返した。




