表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/40

第20話 唇を噛む


 任務終わりの空気は、いつも少しだけ重い。


 妖を祓った直後の場所には、独特の静けさが残る。戦闘中は霊力の衝突音、刃が空気を裂く音、結界が軋む音、妖の叫び、誰かの足音で満ちている。だが、終わった瞬間、それらは一気に消える。


 残るのは、壊れたものの音だけだ。


 瓦礫が崩れる小さな音。


 水道管から漏れた水が床を叩く音。


 焦げた霊符の端が、まだ燻る匂い。


 そして、身体の奥で遅れてくる痛み。


 その日、陽鞠と朔夜が向かったのは、駅裏の古い雑居ビルだった。


 一階には閉店した居酒屋、二階には空きテナント、三階には使われていないダンススタジオ。ビル全体が取り壊し予定で、入口には工事用の仮囲いが立っている。ところが、夜になると三階の窓に人影が映り、誰もいないはずの室内から足音が鳴ると通報が入った。


 現場にいた妖は、鏡と足音に執着するものだった。


 ダンススタジオの壁一面の鏡に棲みつき、人の動きを真似る。床を叩く足音で相手の動きを乱し、鏡の中から腕を伸ばして引きずり込もうとする。自然発生した妖にしては攻撃性が強く、鏡の裏側に黒い五芒星の残滓があった。


 やはり、ただの妖ではなかった。


 陽鞠は鏡面に結界を張り、反射する霊力を一枚ずつ封じた。朔夜は鏡から出てくる腕を斬り落とし、床を滑る影を踏み砕いた。最後は、陽鞠が鏡の中心へ細い射線を通し、朔夜がその道を辿って妖核を斬った。


 戦闘は終わった。


 鏡はすべて割れ、床には銀色の破片が散っている。


 割れた鏡片の一つ一つが、薄暗い室内の光を拾い、陽鞠と朔夜の姿をばらばらに映していた。金色の瞳。銀髪。濡れてはいないが汗で頬に張りついた髪。刀の刃。弓の影。右手薬指と左手薬指の指輪。


 陽鞠は息を整えながら、封印ケースの蓋を閉じた。


「残滓、取れた」


「更紗行きだな」


「うん。今度は鏡面に沈んでた。カラオケの音響制御盤とも、神社の鈴とも違うけど、印の沈み方が似てる」


「古いものと、現代の器」


 朔夜が低く言う。


 玻月の言葉だ。


 思い出すだけで、陽鞠の胸の奥が少しざらつく。


「……あの人の言ったこと、当たってるのが腹立つ」


「名前を出すな」


「出してない」


「顔が出してる」


「顔って便利だね」


「便利じゃない。俺に見える」


「朔夜専用じゃん」


「そうだな」


「否定して」


 陽鞠は少しだけ呆れた。


 朔夜は割れた鏡の中を確認している。まだ妖の霊気が残っていないか、刀を手にしたまま慎重に歩いていた。彼の肩にも、頬にも細かな鏡片がついている。戦闘中に飛んだものだ。


 陽鞠は弓を背負い直しながら言った。


「朔夜、頬に破片」


「どこ」


「右」


 陽鞠は近づいて、指先でそっと破片を取った。


 小さな銀の欠片。


 触れた瞬間、朔夜の視線が陽鞠へ落ちる。


「何」


「陽鞠が近い」


「破片取ってるだけ」


「嬉しい」


「喜ばないで」


「無理」


 任務終わりの緊張が、少しだけ緩む。


 陽鞠は小さく笑いかけた。


 その時、廊下の方で霊力が揺れた。


 朔夜の表情が変わる。


 陽鞠も弓へ手を伸ばしかけた。


 だが、次の瞬間、ビルの外から救護班の声が聞こえた。下階で避難確認をしている退魔師たちの声だ。応援班が到着したらしい。妖の気配ではない。


 朔夜は刀を少し下げた。


「俺、下へ報告してくる。救護班に三階の鏡片、踏ませないよう言ってくる」


「私も行く」


「封印ケース、整理してろ。床、危ない」


「私だって歩ける」


「知ってる。でも、陽鞠の指、さっき結界で裂けただろ」


「見てたの」


「見るだろ」


 朔夜は当然のように言った。


 陽鞠は反論しかけて、やめた。


 右手の指先は確かに少し切れている。鏡面を封じる時、反射霊力を弾いた反動だ。大した傷ではないが、封印ケースを落とすと面倒なことになる。


「……すぐ戻ってね」


「戻る」


「勝手に玻月さんと喧嘩しないでね」


「さん付け」


「今そこ?」


「そこ」


「御影堂と喧嘩しないでね」


「向こうが来なければ」


「来ても一回私を見る約束」


「見る」


「本当に?」


「本当に」


 朔夜は陽鞠の手の甲へ短く唇を触れさせた。


 割れた鏡の光の中で、指輪が小さく鳴る。


 ちり。


「すぐ戻る」


「うん」


 朔夜は廊下へ出た。


 足音が階段の方へ遠ざかっていく。


 陽鞠は封印ケースを抱え直し、割れた鏡の残骸を見渡した。三階のダンススタジオは、まだ薄く妖の匂いが残っている。古い木床に染み込んだ汗と埃、鏡の裏の黴、霊符が焼けた匂い。それらが混ざり、喉の奥にざらつきを残した。


 鏡片には、陽鞠の姿がいくつも映っている。


 金色の瞳。


 自分の顔。


 少し疲れた表情。


 左手首の浄化符。


 右手薬指の指輪。


 私は私だ。


 この間、夢から覚めた朝に言った言葉が、胸の奥に浮かんだ。


 白い光。


 矢。


 血の味。


 誰かを失う感覚。


 まだ全部はわからない。


 けれど、今ここにいるのは篠宮陽鞠だ。自分で選んで立ち、自分で結界を張り、自分で拒む退魔師だ。


 そう思った時だった。


「鏡は厄介だな」


 背後から、静かな声がした。


 陽鞠の身体が反射的に硬くなる。


 振り返る前に、わかった。


 その気配。


 薄く冷たく、整いすぎた霊力。


 白手袋の男。


 御影堂玻月。


 陽鞠は即座に後ろへ跳んだ。


 封印ケースを左手に抱え、右手を弓へ伸ばす。足元の鏡片が音を立てた。


 スタジオの入口近く、割れた鏡の前に玻月が立っていた。


 黒い長衣の裾が、砕けた鏡片の上すれすれで揺れている。濡羽色の長い髪は低く結ばれ、片耳の銀の耳飾りが薄い光を拾った。白手袋は汚れひとつない。紫紺の瞳は、いつものように薄い笑みの奥で笑っていない。


 どうやって入ったのか。


 気配はなかった。


 朔夜が下へ向かった数分の隙。


 その隙を狙ったように現れた。


 陽鞠の胸に、嫌な熱が広がる。


「何の用ですか」


 声は冷たくした。


 玻月は割れた鏡片を見下ろした。


「鏡の妖に、黒い五芒星。声、鈴、鏡。器が増えている」


「答えになってません」


「君は相変わらず急く」


「あなた相手にゆっくりする理由がありません」


「正しい判断だ」


「褒めないでください」


 玻月の口元が少し動く。


「それも変わらない」


「近づかないで」


 陽鞠は先に言った。


 右手の指先に霊力を集める。


 薄い結界を自分の周囲へ張った。三枚。外部干渉、霊力探査、物理的接触。それぞれ別に遮る膜。玻月に見抜かれて以来、意識して張るようになったものだ。


 玻月はそれを見て、わずかに目を細めた。


「自覚的に張れるようになったか」


「観察しないで」


「している」


「やめて」


「それは難しい」


「最低」


「知っている」


 会話が通じているようで、通じていない。


 陽鞠は弓を握り直した。


「朔夜を呼びます」


「呼べばいい」


「なら、なぜ来たんですか」


「君一人の反応を見たかった」


 その言葉が、陽鞠の胃の奥を冷たくした。


 君一人の反応。


 まるで実験の条件を変えるみたいに。


 朔夜がいる時と、いない時。


 守りがある時と、ない時。


 陽鞠の結界がどう変わるかを見るために。


「……気持ち悪い」


 陽鞠ははっきり言った。


 玻月は少しだけ笑う。


「率直だ」


「褒めるなって言ってる」


「では、記録しておこう」


「記録するな」


 陽鞠は一歩下がった。


 床の鏡片が靴の下で鳴る。


 その音が、やけに大きく聞こえた。


 朔夜の足音はまだ戻らない。


 階下の声も遠い。


 この三階のスタジオだけ、妙に切り離されている。


 玻月が一歩、近づいた。


 陽鞠の結界が微かに震える。


「近づかないで」


「結界の密度が上がった」


「聞いてますか」


「聞いている」


「じゃあ止まってください」


「もう少しでわかる」


「何が」


「君の拒絶が、どこまで君自身を守るか」


 玻月がまた一歩近づく。


 白手袋の指先が、ゆっくり上がった。


 陽鞠は弓を構えた。


 狙いは玻月の肩。


 殺すためではない。


 止めるため。


 だが、彼が動く方が速かった。


 黒い長衣の裾が揺れる。


 踏み込みが見えない。


 玻月の姿が、鏡片に一瞬分裂したように見えた。右にいる。左にいる。正面にいる。割れた鏡の反射を使われたのだと気づいた時には、白手袋の指先が陽鞠の結界へ触れていた。


 触れる寸前で、結界が弾く。


 金色の膜が鋭く光った。


 玻月の指は止まった。


 だが、止まったはずの白手袋が、結界の表面を滑る。


 力ではない。


 継ぎ目を探している。


 陽鞠の背筋に悪寒が走った。


「触るな!」


 結界を爆ぜさせる。


 金色の破片が白手袋を弾く。


 だが、玻月は退かない。


 白手袋に浅い裂け目が入っただけで、彼はもう片方の手を伸ばしていた。陽鞠は弓で打ち払おうとする。玻月の指が、弓の軌道をわずかに外した。力任せではない。関節の動き、重心、弓を握る手首の角度。その全部を読んだ動き。


 陽鞠の胸に、強い怒りが走る。


 まただ。


 見られている。


 読まれている。


 勝手に中へ入ろうとしてくる。


 玻月の白手袋が、陽鞠の肩近くの空気を掠めた。


 直接触れるより先に、陽鞠はさらに結界を張る。だが、その結界も表面を滑られた。玻月が近い。近すぎる。


 陽鞠は後ろへ下がる。


 背中が割れた鏡の残った壁へ触れた。


 逃げ場が一瞬、消える。


 玻月の紫紺の瞳が、至近距離で陽鞠を見る。


 笑っていない目。


 金眼の奥を覗く目。


 陽鞠の全身が拒絶で強張る。


「離れて」


「動くな」


 玻月の声は静かだった。


 命令の形をしていた。


 その瞬間、陽鞠の中で何かが冷たく切れた。


 動くな。


 勝手に触ろうとして、勝手に見ようとして、勝手に測ろうとして。


 その上で、動くな。


 ふざけるな。


 玻月の手が、陽鞠の顎へ伸びる。


 顎を上げさせるように。


 金眼を近くで見るために。


 霊力の流れを覗くために。


 陽鞠は顔を逸らした。


 白手袋の指が頬をかすめる。


 布越しの感触が、吐き気がするほど嫌だった。


「触るなって言ってる!」


 陽鞠は膝を上げた。


 玻月はそれを読んで半歩ずらす。


 膝蹴りは外れる。


 同時に、彼の手が陽鞠の手首を押さえかける。以前と同じ場所。霊力の流れを取ろうとする動き。


 陽鞠は弓を捨てた。


 からん、と床で弓が鳴る。


 玻月の目がわずかに動く。


 その隙に、陽鞠は自分から玻月の距離へ踏み込んだ。


 逃げるためではない。


 反撃するために。


 白手袋の手が陽鞠の手首へ触れかけた瞬間、陽鞠は上体をひねり、玻月の口元へ噛みついた。


 唇に歯が当たる。


 柔らかい感触。


 すぐに、血の味が広がった。


 鉄の味。


 熱い味。


 夢の中の血とは違う。


 これは、現実の血だ。


 玻月の血。


 陽鞠が拒絶して、反撃して、噛み切った血。


 玻月の身体が、初めてわずかに止まった。


 陽鞠は容赦しなかった。


 深く噛む。


 逃げるな。


 触るな。


 見るな。


 私を勝手に扱うな。


 その怒りを、全部込めた。


 玻月の唇が切れる。


 血が陽鞠の口の中へ滲む。


 不快だった。


 吐き出したいほど不快だった。


 けれど、離さない。


 相手が離れるまで。


 玻月の手が止まった。


 陽鞠はその瞬間、結界を爆ぜさせた。


 金色の光が二人の間で弾ける。


 玻月の身体が半歩後ろへ飛ぶ。


 陽鞠はすぐに口を離し、横へ転がるように距離を取った。床の鏡片が手のひらに当たり、浅く皮膚を切る。痛い。だが、そんなものはどうでもよかった。


 陽鞠は床に片膝をつき、袖で口元を強く拭った。


 血の味が残っている。


 気持ち悪い。


 自分で噛んだのに、玻月の血が口の中に残っているのが嫌でたまらない。


 彼女の金色の瞳が、怒りで燃える。


「二度と、近づくな」


 声は低かった。


 震えていない。


 震えるより先に、怒りが立っていた。


 玻月は指で自分の唇に触れた。


 白手袋の指先に、赤い血がつく。


 切れた唇。


 陽鞠の歯形。


 彼はそれを見た。


 そして、笑った。


 薄く。


 静かに。


 楽しそうにすら見える笑みだった。


 陽鞠の全身に、ぞっとする嫌悪が走る。


「いい反撃だ」


 玻月が言った。


 声は少し低い。


 切れた唇から血が滲み、それでも彼は余裕を崩していなかった。


「自分の境界を破られそうになった瞬間、結界より先に歯を使った。理屈ではない。本能の拒絶だ」


「黙れ」


 陽鞠は吐き捨てた。


「私の拒絶を、勝手に分析するな」


「君は」


「黙れって言ってる!」


 陽鞠の霊力が爆ぜた。


 床の鏡片が一斉に震える。金色の結界が陽鞠の周囲に立ち上がり、鋭い棘のような形になる。防御ではない。近づくものを刺すための結界。


 玻月はそれを見て、また目を細める。


 観察する目。


 まだ見るのか。


 まだ測るのか。


 陽鞠は本気で矢を番えようとした。


 その時だった。


 階段側の廊下から、凄まじい速度で気配が迫った。


 黒銀の霊力。


 怒りで冷え切った、鋭すぎる気配。


「陽鞠!」


 朔夜の声が響いた。


 次の瞬間、スタジオの入口に朔夜が現れた。


 彼は状況を一瞬で見た。


 床に落ちた陽鞠の弓。


 陽鞠の口元についた血。


 手のひらの傷。


 玻月の切れた唇。


 近すぎた距離。


 すべてを理解するのに、一秒もかからなかった。


 朔夜の顔から表情が消える。


 完全な無表情。


 その奥で、怒りだけが黒く燃えていた。


 刀が抜かれた。


 今度は、迷いがなかった。


 銀の刃が鞘を離れ、割れた鏡の光を受けて冷たく光る。黒銀の霊力が刃に絡み、床の鏡片が圧で震えた。朔夜は陽鞠と玻月の間へ入る。


 完全に。


 遮るように。


 守るように。


 斬るために。


「何をした」


 声は低かった。


 低すぎて、空気が凍る。


 玻月は白手袋の指で唇の血を拭った。


「彼女が噛んだ」


 その言い方に、陽鞠の怒りがさらに膨れた。


「先に近づいたのはあなたでしょ!」


 叫ぶ。


「触るなって言った! 離れてって言った! それでも近づいてきた!」


 朔夜の刀の霊力が一段強くなる。


 空気が重い。


 玻月は陽鞠の声を聞いても、表情を大きく変えない。


「そうだな」


「あっさり認めるな!」


「事実だ」


「なら謝って!」


「謝罪で済むと思うか?」


「済まないけど、しないよりましでしょ!」


「そうか」


 玻月は薄く笑ったまま言った。


「悪かった」


 その声に、誠意はなかった。


 少なくとも陽鞠には、欠片も感じられなかった。


 朔夜の刀が上がる。


「謝るな」


 朔夜が言った。


「その口で陽鞠の名前を呼ぶな」


 玻月の紫紺の瞳が、朔夜へ向く。


「斬るか」


「斬る」


「今の君では、まだ届かない」


「届かせる」


 朔夜が踏み込もうとする。


 陽鞠は立ち上がった。


 手のひらが痛い。


 口の中に血の味が残っている。


 怒りで視界が熱い。


 それでも、朔夜を止めなければならない。


 陽鞠は朔夜の袖を掴んだ。


「朔夜!」


 朔夜の足が止まる。


 刀は下がらない。


 彼は玻月を見たまま、低く言った。


「止めるな」


「止める」


「陽鞠」


「私は嫌だった。気持ち悪かった。怒ってる。今すぐ全部洗い流したいくらい嫌。でも、私が噛んで弾いた。私は自分で拒んだ」


 朔夜の手が震えている。


 怒りで。


 刀を握る指に、白く力が入っていた。


 陽鞠はその袖を強く握る。


「朔夜が今斬りかかったら、この人の思う通りになる」


「それでも」


「それでも、だめ」


 陽鞠の声が強くなる。


「私の怒りを、朔夜の暴走に変えられたくない」


 その言葉で、朔夜の黒い瞳が揺れた。


 陽鞠は続ける。


「私は怒ってる。私が怒ってる。私の怒りを、私から取らないで」


 スタジオが静まり返る。


 雨ではない。


 歌声でもない。


 ただ、割れた鏡が足元で冷たく光っているだけ。


 朔夜は長く息を吐いた。


 刀はまだ構えたままだ。


 けれど、踏み込まない。


「……わかった」


 低い声だった。


「でも、次に近づいたら斬る」


 玻月は静かに見ている。


 切れた唇から、まだ少し血が滲んでいた。


「彼女が止めても?」


 玻月が問う。


 朔夜の目が細くなる。


「その時、陽鞠が嫌がってるなら、斬る」


「今も嫌がっていた」


「だから、今すぐ斬りたい」


「ならば、なぜ止まる」


「陽鞠が、自分の怒りを取るなと言ったからだ」


 玻月は一瞬だけ黙った。


 ほんの一瞬。


 だが、その沈黙は、さっきまでの余裕とは違った。


 陽鞠はそれに気づいた。


 玻月の紫紺の瞳が、陽鞠へ向きかける。


 朔夜が即座に遮る。


「見るな」


 玻月は少しだけ口元を動かした。


 切れた唇のせいで、笑みがわずかに歪む。


「今日は、ここまでにしておこう」


「逃げるんですか」


 陽鞠が言った。


 玻月は朔夜の肩越しに、陽鞠の気配を見ているようだった。


「深追いする理由がない」


「最初から近づく理由もありません」


「理由ならある」


「私は許可してない」


「そうだな」


「次は噛むだけじゃ済ませません」


 陽鞠の声は冷たい。


 玻月は白手袋の指先で、唇の血をもう一度拭った。


「覚えておく」


「覚えなくていい」


「いいや。これは覚える価値がある」


 陽鞠の怒りがまた熱を持つ。


 朔夜の刀もわずかに動く。


 しかし、玻月はそれ以上近づかなかった。


 黒い長衣の裾が揺れる。


 彼は一歩下がり、割れた鏡片を踏まないまま、すっと距離を取った。足音はほとんどない。血のついた白手袋だけが、妙に生々しく見えた。


「篠宮陽鞠」


 名前を呼ばれて、陽鞠の身体が強張る。


 朔夜が低く唸るように言った。


「呼ぶな」


 玻月はそれを無視しなかった。


 珍しく、言葉を切った。


 そして、少しだけ笑った。


「……また会うだろう」


「会いたくありません」


 陽鞠が即座に返す。


「それは、君が決めることではない」


 いつもの言葉。


 だが、今日はいつもよりひどく不快に響いた。


 玻月の気配が薄くなる。


 黒い長衣が廊下の影へ溶けていく。転移ではない。隠形でもない。ただ、存在を薄めるように去っていく。最後に、白手袋の指先についた赤だけがちらりと見えた。


 それもすぐに消えた。


 スタジオに、沈黙が戻る。


 朔夜はしばらく刀を下ろさなかった。


 陽鞠はその背中を見ていた。


 怒りがまだ身体の中で暴れている。


 口の中に血の味が残っている。


 玻月の血。


 自分が反撃した証拠。


 でも、それでも気持ち悪い。


 陽鞠は袖で口元を拭った。


 強く。


 何度も。


 朔夜がようやく刀を下げ、振り返る。


「陽鞠」


 その声を聞いた瞬間、陽鞠の肩が震えた。


 怖かったのではない。


 いや、怖かった。


 気持ち悪かった。


 怒っていた。


 全部だった。


 朔夜は刀を鞘へ戻し、陽鞠へ近づく。


 今度は、ゆっくり。


「触っていいか」


 聞いた。


 陽鞠の胸が詰まる。


 玻月は聞かなかった。


 朔夜は聞く。


 その違いだけで、喉の奥が熱くなる。


 陽鞠は小さく頷いた。


「うん」


 朔夜はそっと陽鞠を抱きしめた。


 強くない。


 でも、確かに包む。


 陽鞠の左手首を避け、手のひらの傷にも触れないように。汚れた口元にも、急には触れない。


 ただ、背中へ腕を回す。


 陽鞠はそこで、ようやく息を吐いた。


 吐いた息が震えていた。


「……気持ち悪い」


 小さく言った。


「うん」


「血の味がする」


「うん」


「噛んだのは私なのに、まだ残ってる」


「洗う」


「うん」


「浄化もする」


「うん」


「それでも残るなら、俺が上書きする。陽鞠が嫌じゃないなら」


 陽鞠は朔夜の服を掴んだ。


「今は、まだ嫌」


「わかった」


 即答だった。


 それがありがたかった。


 朔夜は無理に何かをしようとしない。


 今すぐキスで消そうとしない。


 彼は陽鞠が嫌だと言ったら、止まる。


 そのことが、玻月への怒りをよりはっきりさせる。


 陽鞠は朔夜の胸元に額を押しつけた。


「私、怒ってる」


「ああ」


「怖いより、怒ってる」


「ああ」


「私のこと、勝手に見て、触ろうとして、動くなって言った」


「ああ」


「許さない」


「許さなくていい」


 朔夜の声も低かった。


「俺も許さない」


「でも、私の怒り」


「取らない」


「うん」


「隣で怒る」


 陽鞠は少しだけ笑いそうになった。


 笑える状況ではないのに。


 でも、朔夜らしかった。


「隣で怒るって何」


「前に出すぎると、お前が怒る」


「怒る」


「だから隣で怒る」


「……うん。それがいい」


 朔夜は片手を伸ばし、陽鞠の頬に触れようとして止めた。


「口、見る」


 確認の言葉。


 陽鞠は頷いた。


 朔夜はそっと彼女の顎に指を添えた。


 玻月のように上げさせない。


 逃げられる触れ方。


 陽鞠は自分から少しだけ顔を上げた。


 朔夜の黒い瞳が、陽鞠の口元を見る。


 彼女の唇には、玻月の血が少しだけついていた。自分の血ではない。噛んだ時に残ったものだ。朔夜の表情が一瞬、ひどく冷たくなる。


 だが、彼は何も言わず、清浄布を取り出した。


「拭いていいか」


「うん」


 朔夜は丁寧に血を拭った。


 乱暴にこすらない。


 白い布に赤が移る。


 陽鞠はそれを見て、少しだけ気分が悪くなった。朔夜がすぐに気づき、布を折って赤が見えないようにする。


「水」


「欲しい」


「取ってくる」


「一人にしないで」


 思わず言った。


 朔夜が動きを止める。


 陽鞠は自分で少し驚いた。


 だが、取り消さない。


「今は、一人にしないで」


「しない」


 朔夜は即答した。


 端末で階下の救護班へ連絡し、水と浄化薬を持ってこさせる。その間も、彼は陽鞠のそばを離れなかった。刀はいつでも抜ける位置。背中は入口側。陽鞠を隠す位置。


 でも、陽鞠の視界を全部塞ぐわけではない。


 隣にいる。


 約束通りに。


 救護班が来るまでの数分間、陽鞠は朔夜の袖を掴んだままだった。


 床の鏡片が、朝でも夜でもないビルの薄い光を反射している。そこには、陽鞠の怒った顔がいくつも映っていた。怯えた顔ではない。泣きそうな顔でもない。


 怒っている顔。


 自分の境界を勝手に踏み越えられたことへの、はっきりした怒り。


 陽鞠はその顔を見て、ゆっくり息を吸った。


「私は私だ」


 小さく言う。


 朔夜が彼女を見る。


「うん」


「神の子でもない。誰かの記憶でもない。条件でもない。観察対象でもない」


「ああ」


「私に触っていいかどうかは、私が決める」


「ああ」


「私の怒りも、私のもの」


「ああ」


 朔夜は静かに頷いた。


「今のお前が好きだ」


 その言葉に、陽鞠の喉が詰まった。


 今はキスできない。


 まだ、口の中に嫌な血の味が残っている。


 でも、その言葉はちゃんと届いた。


 陽鞠は朔夜の袖を握る手に力を込めた。


「……今は、手」


「うん」


「手を握って」


「うん」


 朔夜は彼女の右手を取った。


 血のついていない方の手。


 指輪同士が触れる。


 ちり、と小さく鳴った。


 その音に、陽鞠は目を閉じた。


 玻月の血の味は、まだ完全には消えない。


 不快感も、怒りも、消えない。


 けれど、指輪の音は自分で選んだものだった。


 勝手に奪われた接触ではない。


 自分が握ってほしいと言い、朔夜が応えた手。


 その音だった。


 陽鞠はその音を聞きながら、割れた鏡の中の自分をもう一度見た。


 怒っている。


 傷ついている。


 それでも、折れてはいない。


 玻月の笑みも、白手袋も、血の味も、忘れない。


 忘れないまま、次はもっと強く拒む。


 次は噛むだけでは済ませない。


 陽鞠はそう決めて、朔夜の手を強く握り返した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ