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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第21話 上書き


 水は、思ったより冷たかった。


 救護班が持ってきた小さな紙コップを、陽鞠は両手で持っていた。指先に力が入りすぎて、紙が少しだけへこむ。中の水が揺れ、表面に細かな波が立った。


 雑居ビル三階のダンススタジオには、まだ割れた鏡の匂いが残っている。


 鏡そのものに匂いなどあるはずがない。けれど、砕けた銀色の破片、古い壁材、焦げた霊符、妖が消えた後の薄い穢れが混ざると、喉の奥へ金属っぽいざらつきが残った。床には立ち入り禁止の結界が張られ、救護班の退魔師が慎重に鏡片を回収している。


 朔夜は陽鞠の隣にいた。


 近すぎず、遠すぎず。


 陽鞠が手を伸ばせば触れられる距離。


 でも、彼の方から急に触れることはしない距離。


 いつもなら腰へ手が回る。指先が髪に触れる。頬の傷を見つけたら、すぐに顔を覗き込んでくる。だが今の朔夜は、そうしない。


 ただ、隣に立っている。


 刀は鞘に戻っていた。


 それでも、怒りは消えていない。


 空気の底に、黒銀色の霊力が沈んでいる。抑え込まれている。押し殺されている。ほんの少しでも気を抜けば、刃になって飛び出しそうな怒りだった。


 陽鞠は紙コップの水を口に含んだ。


 すぐに吐き出したくなる。


 水そのものが嫌なのではない。


 口の中に、まだ血の味が残っているからだ。


 玻月の血。


 自分が噛みついて反撃した証拠。


 触るなと言った。


 近づくなと言った。


 それでも近づいてきた相手に、自分で噛みつき、結界で弾き飛ばした。そのことに後悔はなかった。むしろ、噛んでよかったと思っている。あの瞬間、自分の身体と霊力と怒りを守るために、陽鞠は自分で動いた。


 それでも、気持ち悪いものは気持ち悪い。


 血の味が舌の奥に残っている。


 白手袋の指が頬をかすめた感触が、まだ皮膚の下に残っている。


 動くな、と言われた声が耳の奥に引っかかっている。


 陽鞠は水を飲み込まず、横に置かれた処置用の小さな容器へ吐き出した。


 赤は混じっていない。


 もう玻月の血はほとんど拭われている。


 清浄布で口元を拭き、浄化薬でうがいもした。医療班の退魔師が簡単に見て、陽鞠自身の唇や舌に目立つ傷がないことも確認した。怪我としては、手のひらの浅い切り傷と、結界反動で開いた指先の傷くらいだ。


 大したことはない。


 身体の傷は。


「平気です」


 陽鞠は救護班の退魔師にそう言った。


 声は、意外としっかり出た。


 救護班の女性退魔師は、陽鞠の顔をじっと見た。若くはない。いくつもの現場を見てきた目だった。表面だけの「平気」を信じるほど甘くない目だ。


「篠宮さん」


「はい」


「無理に平気な顔をしなくていい」


 その言葉に、陽鞠の喉が詰まりかけた。


 でも、笑った。


 薄く。


「本当に、大丈夫です。任務報告もできます」


 自分で言いながら、ああ、これは平気なふりだ、と思った。


 任務報告はできる。


 状況説明もできる。


 玻月がどう動いたか、どこで近づいてきたか、どう拒絶し、どう反撃したか。記録として話すことはできる。自分が怒っていることも言える。嫌だったと認めることも、たぶんできる。


 でも、平気ではない。


 指が震えている。


 紙コップを持つ指が。


 右手薬指の指輪が小さく揺れている。


 隣で、朔夜がそれを見ていた。


 何も言わない。


 何も言わないからこそ、見ているのがわかる。


 救護班の退魔師は、浄化薬と清浄布を陽鞠へ渡した。


「学園に戻ったら、医療室で再確認してもらって。特に精神的な揺れは後から出ることがあるから、今日は一人にならない方がいい」


「はい」


「綴喜くん」


「はい」


 朔夜の声は低かった。


「篠宮さんの意思確認を優先して。守ろうとして近づきすぎると、逆にしんどい時がある」


 朔夜の黒い瞳がわずかに揺れる。


 怒りに染まっていた目の奥に、別の色が混じった。


 痛みのようなもの。


「……はい」


 短く答えた。


 それは、いつもの「はい」と少し違った。


 自分の怒りだけで動かないための返事だった。


 陽鞠はその横顔を見て、胸の奥が少し熱くなる。


 朔夜は怒っている。


 でも、その怒りを陽鞠へ押しつけないようにしている。


 刀を抜きたい。


 玻月を追いたい。


 斬りたい。


 その全部を抑えながら、陽鞠の意思を待っている。


 それがわかるから、余計に泣きそうになる。


 泣かないけれど。


 今泣いたら、たぶん何かが崩れる。


 人間の涙腺は、状況を選ばない雑な装置なので困る。


 処置が終わり、現場引き継ぎも済むと、陽鞠と朔夜は学園へ戻ることになった。


 かがりへの報告は端末で簡潔に入れてある。


 詳細は学園に戻ってから。


 玻月の接触については、救護班からも別途報告が上がる。陽鞠が噛みついたことも、結界で弾いたことも、記録されるだろう。それでいい。隠すつもりはない。


 隠すべきことではない。


 悪いのは、近づくなと言われても近づいた相手だ。


 陽鞠はそれを、何度も心の中で繰り返した。


 自分は拒んだ。


 自分は反撃した。


 自分の怒りは、自分のものだ。


 学園へ戻る車の中、二人は隣同士に座った。


 協会の送迎車の後部座席。窓の外では、街灯がひとつずつ流れていく。夜になりきる前の青い時間で、ビルの窓には淡い光が浮かんでいた。


 陽鞠は窓の外を見ているふりをした。


 ふりだ。


 本当は、景色なんて見えていない。


 ガラスに映る自分の口元が気になった。もう血はついていない。清浄布で何度も拭った。浄化薬でうがいもした。鏡で見ても、何も残っていない。


 なのに、残っている気がする。


 感触が。


 味が。


 怒りが。


 陽鞠の右手が、膝の上で小さく震えた。


 すぐに左手で押さえる。


 隠したつもりだった。


 隣で、朔夜が息を呑む気配がした。


 だが、彼はすぐには触れなかった。


「陽鞠」


 低く呼ばれる。


「何」


 普通の声で返したかった。


 少しだけかすれた。


「手、震えてる」


「……車の揺れ」


「違う」


「わかってるなら聞かないで」


 少しきつい声になった。


 言ってすぐ、後悔した。


 朔夜は悪くない。


 むしろ、ずっと抑えている。


 陽鞠は唇を噛みそうになり、すぐにやめた。


 噛む感覚を思い出したくなかった。


「ごめん」


 小さく言う。


 朔夜は首を横に振った。


「謝らなくていい」


「でも」


「嫌だったんだろ」


「……うん」


「なら、きつくなっていい」


「朔夜に当たりたいわけじゃない」


「わかってる」


 朔夜の声は静かだった。


 その静けさに、陽鞠は少しだけ息を吐く。


「触っていいか」


 彼が聞いた。


 陽鞠はすぐには答えられなかった。


 触られたい。


 でも、触れられること自体に身体が少し警戒している。


 玻月の手袋とは違う。


 朔夜の手は違う。


 わかっている。


 それでも、身体はまだ追いついていない。


 陽鞠は自分の膝の上で、震える指を見た。


 右手薬指の指輪。


 朔夜とお揃いのもの。


 自分で選んで、つけているもの。


 勝手に取られた手ではない。


 陽鞠は、ゆっくり頷いた。


「右手なら」


「わかった」


 朔夜は陽鞠の右手を取った。


 本当に、右手だけ。


 指先を包むように。


 強く握らない。


 引き寄せない。


 逃げたければ抜けるくらいの力。


 それがわかると、陽鞠の胸の奥に詰まっていた息が少しだけ出た。


 指輪同士が触れる。


 ちり、と小さく鳴る。


 その音に、陽鞠の肩が一瞬だけ震えた。


 凶暴化妖の条件。


 二人の霊力への反応。


 そういう嫌な情報が頭をよぎる。


 でも、朔夜はすぐに手を離そうとはしなかった。


 聞いた。


「離すか」


 陽鞠は首を振った。


「離さないで」


「うん」


「でも、強くしないで」


「うん」


「……こうしてるのは、嫌じゃない」


「うん」


 朔夜は余計なことを言わなかった。


 ただ、そのまま手を握っていた。


 陽鞠の呼吸が少し落ち着くまで。


 学園に着くまで。


 医療室は、白く静かだった。


 夜間の簡易診療用の部屋で、退魔師が任務後に使う場所だ。壁には浄化符と清浄布が整然と並び、棚には治癒薬や霊毒除去用の薬品が入っている。ベッドは二つ。窓際のカーテンは半分閉められ、外の校庭の明かりがぼんやり透けていた。


 かがりは先に来ていた。


 腕を組み、険しい顔をしている。


 だが、陽鞠を見る目は怒っていなかった。


 怒りは別の方向へ向いている。


 玻月へ。


 たぶん協会へ。


 それから、この状況を許してしまったいろいろなものへ。


「篠宮」


「はい」


「座れ。まず医療班の再確認だ。報告はその後でいい」


「でも」


「その後だ」


 逆らえる声ではなかった。


 陽鞠は素直に椅子へ座った。


 医療班の退魔師が、口元、手のひら、指先、左手首の浄化符を確認する。身体の傷は軽い。霊力の乱れはあるが、危険な侵食は見られない。玻月の霊力痕が新たに残っていないかも確認された。


 幸い、手首のような痕は残っていなかった。


 ただし、頬をかすめた白手袋の霊力がごく薄く残っていたため、浄化符で払われた。


 それだけで、陽鞠は肩から力が抜けた。


 あの感触が、少しだけ薄くなった気がした。


「今夜は一人で寝ない方がいい」


 医療班の退魔師が言った。


 陽鞠は少し顔を上げる。


「え」


「睡眠中に夢や感覚が戻ることがある。安全な相手がそばにいる方がいい。ただし、本人が望む場合だけ」


 本人が望む場合だけ。


 その言葉が、今はひどく大事に聞こえた。


 かがりが朔夜を見る。


「綴喜」


「はい」


「お前は篠宮の希望を最優先しろ。隣にいる、距離を置く、部屋の外で待つ、どれでもだ」


「はい」


「怒りで勝手に決めるな」


「……はい」


 朔夜は一瞬だけ遅れて返事をした。


 それでも、ちゃんと返した。


 かがりは陽鞠へ向き直る。


「篠宮。今すぐ詳細を話す必要はない。記録は救護班からも取れる。お前が話せる時に、話せる範囲で話せ」


「はい」


「それと」


 かがりの声が少し低くなる。


「お前が拒絶して反撃したことは、正当だ」


 陽鞠の目がわずかに揺れた。


「……はい」


「相手がS級だろうと、協会所属だろうと、許可なく迫り、触れようとしたなら問題行為だ。お前が自分を守るために噛んだことを責める者がいたら、私のところへ連れてこい」


 その言い方があまりにかがりらしくて、陽鞠は少しだけ笑いそうになった。


 でも、笑う前に喉が詰まった。


「ありがとうございます」


「礼はいい。今日は休め」


 かがりはそう言うと、朔夜へ視線を向けた。


「綴喜。お前もだ。追いかけるな」


「……はい」


「間がある」


「追いかけません」


「斬りに行くな」


「行きません」


「本当に?」


「陽鞠が止めたので」


「自分の判断でも止まれ」


「努力します」


「反省文を書かせるぞ」


「止まります」


 即答だった。


 陽鞠は今度こそ少しだけ笑った。


 その笑いは、すぐに消えた。


 でも、笑えた。


 それだけで少し息がしやすくなった。


 医療室を出た後、二人は宿泊棟へ向かった。


 寮へ戻るには、陽鞠が少し落ち着いていなかった。かがりが手配したのは、退魔師用宿泊棟の隣り合った二部屋だった。以前と同じように、二〇三と二〇四。


 廊下は静かだった。


 夜の宿泊棟には、任務明けの退魔師が数人いるだけで、話し声はほとんど聞こえない。壁際の照明は柔らかく、足音が吸い込まれる。外の窓には、学園の結界塔の光が淡く映っていた。


 陽鞠は二〇三号室の前で立ち止まった。


 朔夜は隣に立っている。


 鍵を渡されている。


 部屋は別。


 それでも、今夜は一人にならない方がいいと言われた。


 本人が望む場合だけ。


 陽鞠は鍵を握ったまま、しばらく黙っていた。


 朔夜は何も言わない。


 急かさない。


 自分の部屋へ入ることも、陽鞠の部屋へ入ろうとすることもしない。


 ただ待っている。


 その待ち方が、今の陽鞠にはありがたかった。


「朔夜」


「何」


「怒ってる?」


「怒ってる」


「まだ?」


「ずっと」


「そっか」


「でも、今はお前が先」


 陽鞠はその言葉を聞いて、少しだけ俯いた。


 指が震えている。


 また。


 鍵を握る指が、小さく震えている。


 自分で止めようとしても、止まらない。


「私、平気なふりしてる」


 ぽつりと言った。


「うん」


「ばれてる」


「ばれてる」


「……気持ち悪い」


「うん」


「口の中はもう大丈夫なはずなのに、まだ血の味がする気がする。頬も、触られたところがまだ気持ち悪い。手袋の感触、残ってる」


「うん」


「怒ってるのに、指が震える」


「うん」


「怖いって言いたくない。でも、怖いのもある」


「うん」


「私、ちゃんと拒んだよね」


 声が小さくなる。


 朔夜はすぐに答えた。


「拒んだ」


「噛んだ」


「噛んだ」


「弾いた」


「弾いた」


「私、自分で怒った」


「ああ」


 陽鞠の目が少し潤む。


「じゃあ、何でまだ震えるの」


「嫌だったからだ」


 朔夜の声は静かだった。


「嫌なことがあったから震える。弱いからじゃない」


「……うん」


「俺は今、抱きしめたい」


 唐突に言った。


 陽鞠は顔を上げた。


 朔夜の黒い瞳は、真剣だった。


「でも、お前がいいって言うまでしない」


 その言葉に、陽鞠の胸の奥がぎゅっとなった。


 抱きしめたい。


 でもしない。


 許可があるまで。


 その当たり前が、今は救いだった。


 玻月が奪おうとしたものを、朔夜はちゃんと陽鞠へ返してくれる。


 決める権利。


 触れられるかどうかを選ぶ権利。


 陽鞠は震える指で、二〇三号室の鍵を開けた。


「入って」


 小さく言った。


 朔夜はすぐには動かなかった。


「一緒にいていい?」


「うん」


「部屋の中に入っていい?」


「うん」


「触るのは?」


 陽鞠は少し迷った。


「……まだ、手だけ」


「わかった」


 二人は部屋へ入った。


 宿泊棟の部屋は、前と同じように小さい。ベッドが一つ、机が一つ、簡易シャワーと洗面台。壁には武器を固定するための具があり、陽鞠は弓と日本刀をそこへ置いた。朔夜も自分の刀を、少し離れた位置へ立てかける。


 武器がある。


 でも、今は戦わない。


 それが少し不思議だった。


 陽鞠は椅子へ座った。


 朔夜はベッドの端へ座るのではなく、陽鞠から少し離れた床に片膝をついた。


 目線が近くなる。


 でも、近づきすぎない。


「手」


 朔夜が言う。


 陽鞠は右手を差し出した。


 朔夜は両手で包む。


 ゆっくり。


 指先の震えを止めようと強く握るのではなく、震えていてもこぼれないように受け止める手だった。


 陽鞠はそれを見つめる。


「朔夜の手は、平気」


「うん」


「さっき、ちょっと怖かった。誰かに触られるの全部、嫌になるかと思った」


「うん」


「でも、朔夜の手は平気」


「よかった」


 本当に、ほっとした声だった。


 陽鞠はその声で、また泣きそうになる。


「朔夜」


「何」


「怒ってるのに、優しいね」


「怒ってる相手が違う」


「私じゃない?」


「陽鞠に怒る理由がない」


「私が噛んだから」


「よく噛んだ」


 朔夜は真顔で言った。


「もう少し深く噛んでもよかった」


「そこは止めて」


「本音」


「知ってる」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 でも、指の震えはまだ完全には止まらない。


 陽鞠は自分の口元を意識してしまう。


 浄化薬の味。


 清浄布の匂い。


 それでも奥に残る、鉄の記憶。


 陽鞠は目を閉じた。


 何度拭っても消えない。


 自分で選んで噛んだ。


 自分で拒んだ。


 それなのに、そこだけが残っている。


 陽鞠はゆっくり目を開けた。


 朔夜が見ている。


 心配そうに。


 怒りを押し殺して。


 でも、何かを勝手に決めないように。


 待っている。


 陽鞠は深く息を吸った。


「朔夜」


「うん」


「上書きして」


 言葉にした瞬間、自分の胸が震えた。


 朔夜の黒い瞳が大きく揺れる。


「陽鞠」


「私が言ってる」


「わかってる」


「嫌だったら言わない」


「うん」


「でも、今は……残ってる感じが嫌。あの血の味も、手袋の感触も、動くなって言われたことも。全部、嫌」


 陽鞠は朔夜の手を握り返した。


「だから、朔夜で上書きして。ゆっくりでいい。急にしないで。私がだめって言ったら止めて」


「止める」


 即答だった。


「絶対止める」


「うん」


「キスでいい?」


 朔夜が聞く。


 陽鞠は頷いた。


「うん」


「口?」


 その確認に、陽鞠の胸が少しだけ跳ねた。


 でも、怖くはなかった。


 聞いてくれたから。


「……うん。最初は、額から」


「わかった」


「それで、大丈夫だったら」


「うん」


「口にして」


「わかった」


 朔夜は陽鞠の手を離さなかった。


 でも、いきなり近づかない。


 まず、彼女の右手を自分の胸元へそっと引き寄せ、陽鞠が拒まないことを確かめる。その後、椅子に座る陽鞠の前でゆっくり身を起こした。


 陽鞠の心臓が速くなる。


 玻月が迫ってきた時の速さとは違う。


 逃げ道を塞ぐ速さではない。


 近づいていいか確認しながら、陽鞠の呼吸に合わせてくれる速さ。


 朔夜は陽鞠の額の少し前で止まった。


「今、触っていい?」


「うん」


 朔夜の唇が、陽鞠の額に触れた。


 短くない。


 でも、押しつけるようなものではない。


 朝の光の中でくれたキスに少し似ていた。ここにいる。今の陽鞠に触れている。そう伝えるような、静かなキス。


 陽鞠は息を吐いた。


 身体のこわばりが、ほんの少し緩む。


 朔夜はすぐに離れた。


「大丈夫?」


「うん」


「続ける?」


「うん」


 次は、髪。


 朔夜は陽鞠の金髪へそっと唇を触れさせた。


 カラオケ個室でしてくれた時のように。


 あの時は甘くて、少し眠くて、任務通知を一瞬だけ無視してしまった。今は甘いだけではない。乱れた呼吸を戻すための、確認のようなキスだった。


 陽鞠の指の震えが、少し小さくなる。


「次、頬」


 朔夜が聞く。


 陽鞠は一瞬、身体を硬くした。


 白手袋がかすめた場所。


 そこは、まだ嫌だった。


 すぐに、朔夜が止まる。


「やめる」


「待って」


「うん」


「……反対側なら」


「わかった」


 朔夜は触れられた側ではない頬へ、そっとキスをした。


 陽鞠の目が少し潤む。


 何も言わなくても、朔夜はわかってくれる。


 いや、違う。


 わかったふりで勝手に決めない。


 聞いて、止まって、待ってくれる。


 だから、陽鞠は自分で言える。


「もう一回、額」


「うん」


 朔夜は額へキスをする。


「手」


「うん」


 右手の指先へ。


 指輪の近くへ。


 ちり、と指輪が小さく鳴る。


 陽鞠はその音を聞きながら、深く息を吸った。


「……口、して」


 小さな声だった。


 でも、はっきり言えた。


 朔夜はすぐには動かなかった。


「本当に?」


「うん」


「無理してない?」


「してない。怖さは少しある。でも、朔夜なら平気」


「怖いなら、やめてもいい」


「うん。でも、したい」


 陽鞠は自分から言った。


「私が、したい」


 朔夜の表情が、少しだけ痛そうに揺れた。


 嬉しさではない。


 大事に扱わなければならないものを、ちゃんと両手で受け取るような表情だった。


「わかった」


 朔夜はゆっくり近づいた。


 本当にゆっくり。


 陽鞠が怖くなったら、いつでも顔を逸らせる速度。


 逃げられる距離。


 止められる余白。


 唇が触れる。


 ほんの少し。


 軽く。


 陽鞠は息を止めた。


 血の味はしなかった。


 それだけで、目の奥が熱くなる。


 朔夜はすぐに離れた。


「大丈夫?」


「……うん」


「もうやめる?」


 陽鞠は首を振った。


「もう一回」


「うん」


 二度目は、さっきより少し長かった。


 でも、深くはない。


 陽鞠の呼吸を乱さないように、朔夜は唇を重ねるだけにした。奪うようなものではない。押しつけるものでもない。そこに残った嫌な感触を、柔らかく包んで薄めていくようなキスだった。


 陽鞠は目を閉じる。


 口の中に、もう鉄の味はない。


 浄化薬の薄い苦味と、朔夜の体温だけ。


 胸の奥が震える。


 怖さではなく、安心に近い震えだった。


 唇が離れる。


 陽鞠は小さく息を吐いた。


「……大丈夫」


「うん」


「血の味、しない」


「うん」


「朔夜だ」


 自分で言って、少しだけ泣きそうになった。


 朔夜の手が、陽鞠の背中へ回りかけて止まる。


「抱きしめていい?」


 陽鞠は頷いた。


「うん」


「強くない方?」


「うん。最初は」


「わかった」


 朔夜はゆっくり陽鞠を抱きしめた。


 椅子に座る陽鞠の身体を、包むように。肩から背中へ腕を回し、左手首に触れないように、手のひらの傷も避ける。陽鞠が息苦しくならない強さ。


 陽鞠は朔夜の胸元に額を寄せた。


 体温がある。


 呼吸がある。


 鼓動がある。


 朔夜は何も言わず、陽鞠の背中をゆっくり撫でた。


 一定のリズム。


 呼吸を思い出させるように。


 陽鞠はそれに合わせて息を吸った。


 吸う。


 吐く。


 もう一度吸う。


 胸の奥に残っていた硬いものが、少しずつほどけていく。


 指の震えは、まだ完全には止まらない。


 でも、小さくなっている。


 呼吸も浅くない。


 朔夜は急かさない。


 もう一度キスを求めることもしない。


 ただ、抱きしめている。


 陽鞠が落ち着くまで。


 陽鞠の呼吸が戻るまで。


 陽鞠の「もう大丈夫」が、平気なふりではなくなるまで。


「朔夜」


「何」


「今、強くしてもいい」


「抱きしめるのを?」


「うん」


「わかった」


 朔夜の腕に、少しだけ力が入る。


 強く。


 でも、苦しくない。


 陽鞠が選んだ強さ。


 陽鞠が許した距離。


 そのことが、彼女の中に安全な形で積み重なっていく。


 玻月は近づいた。


 勝手に。


 命じて。


 見ようとして。


 触れようとして。


 朔夜は聞いた。


 待った。


 止まった。


 陽鞠が望んだ時だけ、触れた。


 その違いが、陽鞠の身体に少しずつ戻ってくる。


 触れられること全部が嫌になったわけではない。


 誰に、どう触れられるかを、自分で決められるなら。


 それは、怖いだけのものではない。


「……さっき、私、強がってた」


「うん」


「平気じゃなかった」


「うん」


「でも、今は少し平気」


「うん」


「朔夜が、聞いてくれたから」


 朔夜の腕が、ほんの少し震えた気がした。


 怒りではない。


 別の感情だった。


「聞く」


 朔夜が低く言う。


「何度でも聞く」


「うん」


「触っていいかも、キスしていいかも、抱きしめていいかも」


「うん」


「お前が嫌だと言ったら、止まる」


「うん」


「俺は、あいつとは違う」


「知ってる」


 陽鞠は顔を上げた。


 黒い瞳が近くにある。


 怒りはまだ残っている。


 でも、陽鞠へ向けられているのは、怒りではなかった。


「朔夜は、朔夜だよ」


 陽鞠は言った。


「私の隣にいる人」


 朔夜の表情が柔らかくなる。


「陽鞠は陽鞠だ」


「うん」


「俺の好きな、今の陽鞠」


「……うん」


 今度は、陽鞠から少しだけ近づいた。


 朔夜は動かなかった。


 待っている。


 陽鞠が自分の距離で触れられるように。


 陽鞠は彼の唇へ、短くキスをした。


 本当に短い。


 自分から。


 自分で選んで。


 それだけで、胸の奥に残っていた嫌な血の味が、もう一段薄くなった。


 離れると、朔夜は静かに聞いた。


「大丈夫?」


「うん」


「もう一回?」


 陽鞠は少しだけ笑った。


「今は、抱きしめてて」


「うん」


「キスは、あとで」


「あとで?」


「私が言ったら」


「わかった」


 朔夜はそれ以上ねだらなかった。


 いつもなら「ご褒美は」と言いそうなところで、何も言わなかった。今はそれがありがたい。きっと、もう少ししたらその軽口にも救われる。けれど今は、静けさが必要だった。


 二人はしばらく、そのまま座っていた。


 宿泊棟の小さな部屋。


 壁際に置かれた弓と刀。


 机の上の浄化薬と清浄布。


 柔らかい照明。


 外からかすかに聞こえる結界塔の低い音。


 陽鞠の呼吸は、少しずつ整っていった。


 吸って。


 吐いて。


 朔夜の胸元に額を預けたまま、少しずつ。


 指の震えも、いつの間にかほとんど止まっていた。


 完全に消えたわけではない。


 嫌悪も、怒りも、怖さも、なかったことにはならない。


 でも、上書きされた。


 消されたのではない。


 別の記憶で、上から乱暴に塗り潰されたのでもない。


 陽鞠自身が望んだ触れ方で、嫌な感触の隣に、安全な感触が置かれた。


 そうして、身体が少しずつ思い出す。


 触れることは、奪われることだけではない。


 キスは、押しつけられるものではない。


 抱きしめられることは、逃げ場を失うことではない。


 自分で選べる。


 自分で止められる。


 自分で求められる。


 陽鞠は朔夜の服を軽く掴んだ。


「朔夜」


「何」


「ありがとう」


「俺は何も」


「聞いてくれた」


 陽鞠は目を閉じたまま言った。


「待ってくれた。止まってくれた。私が言うまで、触らなかった」


「当たり前だ」


「うん」


 陽鞠は小さく頷く。


「その当たり前が、今すごく嬉しい」


 朔夜は少し黙った。


 それから、彼女の髪に軽く頬を寄せた。


 キスはしない。


 ただ、そこにいる。


「陽鞠」


「うん」


「俺は怒ってる」


「うん」


「たぶん、しばらく消えない」


「うん」


「でも、お前より先に怒らないようにする」


 陽鞠は目を開けた。


「どういうこと?」


「お前が嫌だったことを、俺の怒りで潰さない」


 朔夜の声は低い。


 けれど、まっすぐだった。


「お前が話したい時に聞く。怒りたい時は一緒に怒る。何も言いたくない時は黙ってる。抱きしめてほしい時は抱きしめる。離れてほしい時は離れる」


「うん」


「それでも、あいつを許す気はない」


「私も」


「隣で怒る」


 陽鞠は、今度こそ小さく笑った。


「うん。隣で怒って」


「わかった」


「でも、今は」


「抱きしめる」


「うん」


 朔夜は、言われた通りにした。


 陽鞠の呼吸が完全に落ち着くまで。


 夜が少しずつ深くなるまで。


 宿泊棟の廊下の足音が遠ざかり、部屋の中に二人の呼吸だけが残るまで。


 陽鞠はその腕の中で、何度か小さく震えた。


 そのたびに朔夜は強くするか緩めるかを聞いた。


 陽鞠は自分で答えた。


 少し強く。


 今はこのまま。


 手を握って。


 額にキスして。


 口は、まだいい。


 やっぱり少しだけ。


 全部、陽鞠が決めた。


 朔夜は全部、聞いた。


 そうして夜が進む頃、陽鞠の中に残っていた血の味は、ようやく薄く遠のいていた。


 完全に消えたわけではない。


 忘れたわけでもない。


 でも、もうそれだけではなかった。


 朔夜の額へのキス。


 髪への静かな触れ方。


 右手を包む温度。


 自分から触れた短いキス。


 呼吸が落ち着くまで待ってくれた腕。


 それらが、嫌な記憶の周りに、ひとつずつ灯りを置いた。


 陽鞠は朔夜の胸元で、最後に小さく言った。


「私は、私が決める」


「うん」


「誰に触れられるかも、誰にキスされるかも、誰の腕の中にいるかも」


「ああ」


「今は、朔夜がいい」


 朔夜の腕が、静かに震えた。


 それから、彼は低く答えた。


「俺は、今の陽鞠がいい」


 陽鞠は目を閉じた。


 もう一度、指輪が触れる。


 ちり。


 それは、誰かに奪われた音ではない。


 陽鞠が自分で選んだ、上書きの音だった。


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