第21話 上書き
水は、思ったより冷たかった。
救護班が持ってきた小さな紙コップを、陽鞠は両手で持っていた。指先に力が入りすぎて、紙が少しだけへこむ。中の水が揺れ、表面に細かな波が立った。
雑居ビル三階のダンススタジオには、まだ割れた鏡の匂いが残っている。
鏡そのものに匂いなどあるはずがない。けれど、砕けた銀色の破片、古い壁材、焦げた霊符、妖が消えた後の薄い穢れが混ざると、喉の奥へ金属っぽいざらつきが残った。床には立ち入り禁止の結界が張られ、救護班の退魔師が慎重に鏡片を回収している。
朔夜は陽鞠の隣にいた。
近すぎず、遠すぎず。
陽鞠が手を伸ばせば触れられる距離。
でも、彼の方から急に触れることはしない距離。
いつもなら腰へ手が回る。指先が髪に触れる。頬の傷を見つけたら、すぐに顔を覗き込んでくる。だが今の朔夜は、そうしない。
ただ、隣に立っている。
刀は鞘に戻っていた。
それでも、怒りは消えていない。
空気の底に、黒銀色の霊力が沈んでいる。抑え込まれている。押し殺されている。ほんの少しでも気を抜けば、刃になって飛び出しそうな怒りだった。
陽鞠は紙コップの水を口に含んだ。
すぐに吐き出したくなる。
水そのものが嫌なのではない。
口の中に、まだ血の味が残っているからだ。
玻月の血。
自分が噛みついて反撃した証拠。
触るなと言った。
近づくなと言った。
それでも近づいてきた相手に、自分で噛みつき、結界で弾き飛ばした。そのことに後悔はなかった。むしろ、噛んでよかったと思っている。あの瞬間、自分の身体と霊力と怒りを守るために、陽鞠は自分で動いた。
それでも、気持ち悪いものは気持ち悪い。
血の味が舌の奥に残っている。
白手袋の指が頬をかすめた感触が、まだ皮膚の下に残っている。
動くな、と言われた声が耳の奥に引っかかっている。
陽鞠は水を飲み込まず、横に置かれた処置用の小さな容器へ吐き出した。
赤は混じっていない。
もう玻月の血はほとんど拭われている。
清浄布で口元を拭き、浄化薬でうがいもした。医療班の退魔師が簡単に見て、陽鞠自身の唇や舌に目立つ傷がないことも確認した。怪我としては、手のひらの浅い切り傷と、結界反動で開いた指先の傷くらいだ。
大したことはない。
身体の傷は。
「平気です」
陽鞠は救護班の退魔師にそう言った。
声は、意外としっかり出た。
救護班の女性退魔師は、陽鞠の顔をじっと見た。若くはない。いくつもの現場を見てきた目だった。表面だけの「平気」を信じるほど甘くない目だ。
「篠宮さん」
「はい」
「無理に平気な顔をしなくていい」
その言葉に、陽鞠の喉が詰まりかけた。
でも、笑った。
薄く。
「本当に、大丈夫です。任務報告もできます」
自分で言いながら、ああ、これは平気なふりだ、と思った。
任務報告はできる。
状況説明もできる。
玻月がどう動いたか、どこで近づいてきたか、どう拒絶し、どう反撃したか。記録として話すことはできる。自分が怒っていることも言える。嫌だったと認めることも、たぶんできる。
でも、平気ではない。
指が震えている。
紙コップを持つ指が。
右手薬指の指輪が小さく揺れている。
隣で、朔夜がそれを見ていた。
何も言わない。
何も言わないからこそ、見ているのがわかる。
救護班の退魔師は、浄化薬と清浄布を陽鞠へ渡した。
「学園に戻ったら、医療室で再確認してもらって。特に精神的な揺れは後から出ることがあるから、今日は一人にならない方がいい」
「はい」
「綴喜くん」
「はい」
朔夜の声は低かった。
「篠宮さんの意思確認を優先して。守ろうとして近づきすぎると、逆にしんどい時がある」
朔夜の黒い瞳がわずかに揺れる。
怒りに染まっていた目の奥に、別の色が混じった。
痛みのようなもの。
「……はい」
短く答えた。
それは、いつもの「はい」と少し違った。
自分の怒りだけで動かないための返事だった。
陽鞠はその横顔を見て、胸の奥が少し熱くなる。
朔夜は怒っている。
でも、その怒りを陽鞠へ押しつけないようにしている。
刀を抜きたい。
玻月を追いたい。
斬りたい。
その全部を抑えながら、陽鞠の意思を待っている。
それがわかるから、余計に泣きそうになる。
泣かないけれど。
今泣いたら、たぶん何かが崩れる。
人間の涙腺は、状況を選ばない雑な装置なので困る。
処置が終わり、現場引き継ぎも済むと、陽鞠と朔夜は学園へ戻ることになった。
かがりへの報告は端末で簡潔に入れてある。
詳細は学園に戻ってから。
玻月の接触については、救護班からも別途報告が上がる。陽鞠が噛みついたことも、結界で弾いたことも、記録されるだろう。それでいい。隠すつもりはない。
隠すべきことではない。
悪いのは、近づくなと言われても近づいた相手だ。
陽鞠はそれを、何度も心の中で繰り返した。
自分は拒んだ。
自分は反撃した。
自分の怒りは、自分のものだ。
学園へ戻る車の中、二人は隣同士に座った。
協会の送迎車の後部座席。窓の外では、街灯がひとつずつ流れていく。夜になりきる前の青い時間で、ビルの窓には淡い光が浮かんでいた。
陽鞠は窓の外を見ているふりをした。
ふりだ。
本当は、景色なんて見えていない。
ガラスに映る自分の口元が気になった。もう血はついていない。清浄布で何度も拭った。浄化薬でうがいもした。鏡で見ても、何も残っていない。
なのに、残っている気がする。
感触が。
味が。
怒りが。
陽鞠の右手が、膝の上で小さく震えた。
すぐに左手で押さえる。
隠したつもりだった。
隣で、朔夜が息を呑む気配がした。
だが、彼はすぐには触れなかった。
「陽鞠」
低く呼ばれる。
「何」
普通の声で返したかった。
少しだけかすれた。
「手、震えてる」
「……車の揺れ」
「違う」
「わかってるなら聞かないで」
少しきつい声になった。
言ってすぐ、後悔した。
朔夜は悪くない。
むしろ、ずっと抑えている。
陽鞠は唇を噛みそうになり、すぐにやめた。
噛む感覚を思い出したくなかった。
「ごめん」
小さく言う。
朔夜は首を横に振った。
「謝らなくていい」
「でも」
「嫌だったんだろ」
「……うん」
「なら、きつくなっていい」
「朔夜に当たりたいわけじゃない」
「わかってる」
朔夜の声は静かだった。
その静けさに、陽鞠は少しだけ息を吐く。
「触っていいか」
彼が聞いた。
陽鞠はすぐには答えられなかった。
触られたい。
でも、触れられること自体に身体が少し警戒している。
玻月の手袋とは違う。
朔夜の手は違う。
わかっている。
それでも、身体はまだ追いついていない。
陽鞠は自分の膝の上で、震える指を見た。
右手薬指の指輪。
朔夜とお揃いのもの。
自分で選んで、つけているもの。
勝手に取られた手ではない。
陽鞠は、ゆっくり頷いた。
「右手なら」
「わかった」
朔夜は陽鞠の右手を取った。
本当に、右手だけ。
指先を包むように。
強く握らない。
引き寄せない。
逃げたければ抜けるくらいの力。
それがわかると、陽鞠の胸の奥に詰まっていた息が少しだけ出た。
指輪同士が触れる。
ちり、と小さく鳴る。
その音に、陽鞠の肩が一瞬だけ震えた。
凶暴化妖の条件。
二人の霊力への反応。
そういう嫌な情報が頭をよぎる。
でも、朔夜はすぐに手を離そうとはしなかった。
聞いた。
「離すか」
陽鞠は首を振った。
「離さないで」
「うん」
「でも、強くしないで」
「うん」
「……こうしてるのは、嫌じゃない」
「うん」
朔夜は余計なことを言わなかった。
ただ、そのまま手を握っていた。
陽鞠の呼吸が少し落ち着くまで。
学園に着くまで。
医療室は、白く静かだった。
夜間の簡易診療用の部屋で、退魔師が任務後に使う場所だ。壁には浄化符と清浄布が整然と並び、棚には治癒薬や霊毒除去用の薬品が入っている。ベッドは二つ。窓際のカーテンは半分閉められ、外の校庭の明かりがぼんやり透けていた。
かがりは先に来ていた。
腕を組み、険しい顔をしている。
だが、陽鞠を見る目は怒っていなかった。
怒りは別の方向へ向いている。
玻月へ。
たぶん協会へ。
それから、この状況を許してしまったいろいろなものへ。
「篠宮」
「はい」
「座れ。まず医療班の再確認だ。報告はその後でいい」
「でも」
「その後だ」
逆らえる声ではなかった。
陽鞠は素直に椅子へ座った。
医療班の退魔師が、口元、手のひら、指先、左手首の浄化符を確認する。身体の傷は軽い。霊力の乱れはあるが、危険な侵食は見られない。玻月の霊力痕が新たに残っていないかも確認された。
幸い、手首のような痕は残っていなかった。
ただし、頬をかすめた白手袋の霊力がごく薄く残っていたため、浄化符で払われた。
それだけで、陽鞠は肩から力が抜けた。
あの感触が、少しだけ薄くなった気がした。
「今夜は一人で寝ない方がいい」
医療班の退魔師が言った。
陽鞠は少し顔を上げる。
「え」
「睡眠中に夢や感覚が戻ることがある。安全な相手がそばにいる方がいい。ただし、本人が望む場合だけ」
本人が望む場合だけ。
その言葉が、今はひどく大事に聞こえた。
かがりが朔夜を見る。
「綴喜」
「はい」
「お前は篠宮の希望を最優先しろ。隣にいる、距離を置く、部屋の外で待つ、どれでもだ」
「はい」
「怒りで勝手に決めるな」
「……はい」
朔夜は一瞬だけ遅れて返事をした。
それでも、ちゃんと返した。
かがりは陽鞠へ向き直る。
「篠宮。今すぐ詳細を話す必要はない。記録は救護班からも取れる。お前が話せる時に、話せる範囲で話せ」
「はい」
「それと」
かがりの声が少し低くなる。
「お前が拒絶して反撃したことは、正当だ」
陽鞠の目がわずかに揺れた。
「……はい」
「相手がS級だろうと、協会所属だろうと、許可なく迫り、触れようとしたなら問題行為だ。お前が自分を守るために噛んだことを責める者がいたら、私のところへ連れてこい」
その言い方があまりにかがりらしくて、陽鞠は少しだけ笑いそうになった。
でも、笑う前に喉が詰まった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。今日は休め」
かがりはそう言うと、朔夜へ視線を向けた。
「綴喜。お前もだ。追いかけるな」
「……はい」
「間がある」
「追いかけません」
「斬りに行くな」
「行きません」
「本当に?」
「陽鞠が止めたので」
「自分の判断でも止まれ」
「努力します」
「反省文を書かせるぞ」
「止まります」
即答だった。
陽鞠は今度こそ少しだけ笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
でも、笑えた。
それだけで少し息がしやすくなった。
医療室を出た後、二人は宿泊棟へ向かった。
寮へ戻るには、陽鞠が少し落ち着いていなかった。かがりが手配したのは、退魔師用宿泊棟の隣り合った二部屋だった。以前と同じように、二〇三と二〇四。
廊下は静かだった。
夜の宿泊棟には、任務明けの退魔師が数人いるだけで、話し声はほとんど聞こえない。壁際の照明は柔らかく、足音が吸い込まれる。外の窓には、学園の結界塔の光が淡く映っていた。
陽鞠は二〇三号室の前で立ち止まった。
朔夜は隣に立っている。
鍵を渡されている。
部屋は別。
それでも、今夜は一人にならない方がいいと言われた。
本人が望む場合だけ。
陽鞠は鍵を握ったまま、しばらく黙っていた。
朔夜は何も言わない。
急かさない。
自分の部屋へ入ることも、陽鞠の部屋へ入ろうとすることもしない。
ただ待っている。
その待ち方が、今の陽鞠にはありがたかった。
「朔夜」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「まだ?」
「ずっと」
「そっか」
「でも、今はお前が先」
陽鞠はその言葉を聞いて、少しだけ俯いた。
指が震えている。
また。
鍵を握る指が、小さく震えている。
自分で止めようとしても、止まらない。
「私、平気なふりしてる」
ぽつりと言った。
「うん」
「ばれてる」
「ばれてる」
「……気持ち悪い」
「うん」
「口の中はもう大丈夫なはずなのに、まだ血の味がする気がする。頬も、触られたところがまだ気持ち悪い。手袋の感触、残ってる」
「うん」
「怒ってるのに、指が震える」
「うん」
「怖いって言いたくない。でも、怖いのもある」
「うん」
「私、ちゃんと拒んだよね」
声が小さくなる。
朔夜はすぐに答えた。
「拒んだ」
「噛んだ」
「噛んだ」
「弾いた」
「弾いた」
「私、自分で怒った」
「ああ」
陽鞠の目が少し潤む。
「じゃあ、何でまだ震えるの」
「嫌だったからだ」
朔夜の声は静かだった。
「嫌なことがあったから震える。弱いからじゃない」
「……うん」
「俺は今、抱きしめたい」
唐突に言った。
陽鞠は顔を上げた。
朔夜の黒い瞳は、真剣だった。
「でも、お前がいいって言うまでしない」
その言葉に、陽鞠の胸の奥がぎゅっとなった。
抱きしめたい。
でもしない。
許可があるまで。
その当たり前が、今は救いだった。
玻月が奪おうとしたものを、朔夜はちゃんと陽鞠へ返してくれる。
決める権利。
触れられるかどうかを選ぶ権利。
陽鞠は震える指で、二〇三号室の鍵を開けた。
「入って」
小さく言った。
朔夜はすぐには動かなかった。
「一緒にいていい?」
「うん」
「部屋の中に入っていい?」
「うん」
「触るのは?」
陽鞠は少し迷った。
「……まだ、手だけ」
「わかった」
二人は部屋へ入った。
宿泊棟の部屋は、前と同じように小さい。ベッドが一つ、机が一つ、簡易シャワーと洗面台。壁には武器を固定するための具があり、陽鞠は弓と日本刀をそこへ置いた。朔夜も自分の刀を、少し離れた位置へ立てかける。
武器がある。
でも、今は戦わない。
それが少し不思議だった。
陽鞠は椅子へ座った。
朔夜はベッドの端へ座るのではなく、陽鞠から少し離れた床に片膝をついた。
目線が近くなる。
でも、近づきすぎない。
「手」
朔夜が言う。
陽鞠は右手を差し出した。
朔夜は両手で包む。
ゆっくり。
指先の震えを止めようと強く握るのではなく、震えていてもこぼれないように受け止める手だった。
陽鞠はそれを見つめる。
「朔夜の手は、平気」
「うん」
「さっき、ちょっと怖かった。誰かに触られるの全部、嫌になるかと思った」
「うん」
「でも、朔夜の手は平気」
「よかった」
本当に、ほっとした声だった。
陽鞠はその声で、また泣きそうになる。
「朔夜」
「何」
「怒ってるのに、優しいね」
「怒ってる相手が違う」
「私じゃない?」
「陽鞠に怒る理由がない」
「私が噛んだから」
「よく噛んだ」
朔夜は真顔で言った。
「もう少し深く噛んでもよかった」
「そこは止めて」
「本音」
「知ってる」
少しだけ、空気が緩んだ。
でも、指の震えはまだ完全には止まらない。
陽鞠は自分の口元を意識してしまう。
浄化薬の味。
清浄布の匂い。
それでも奥に残る、鉄の記憶。
陽鞠は目を閉じた。
何度拭っても消えない。
自分で選んで噛んだ。
自分で拒んだ。
それなのに、そこだけが残っている。
陽鞠はゆっくり目を開けた。
朔夜が見ている。
心配そうに。
怒りを押し殺して。
でも、何かを勝手に決めないように。
待っている。
陽鞠は深く息を吸った。
「朔夜」
「うん」
「上書きして」
言葉にした瞬間、自分の胸が震えた。
朔夜の黒い瞳が大きく揺れる。
「陽鞠」
「私が言ってる」
「わかってる」
「嫌だったら言わない」
「うん」
「でも、今は……残ってる感じが嫌。あの血の味も、手袋の感触も、動くなって言われたことも。全部、嫌」
陽鞠は朔夜の手を握り返した。
「だから、朔夜で上書きして。ゆっくりでいい。急にしないで。私がだめって言ったら止めて」
「止める」
即答だった。
「絶対止める」
「うん」
「キスでいい?」
朔夜が聞く。
陽鞠は頷いた。
「うん」
「口?」
その確認に、陽鞠の胸が少しだけ跳ねた。
でも、怖くはなかった。
聞いてくれたから。
「……うん。最初は、額から」
「わかった」
「それで、大丈夫だったら」
「うん」
「口にして」
「わかった」
朔夜は陽鞠の手を離さなかった。
でも、いきなり近づかない。
まず、彼女の右手を自分の胸元へそっと引き寄せ、陽鞠が拒まないことを確かめる。その後、椅子に座る陽鞠の前でゆっくり身を起こした。
陽鞠の心臓が速くなる。
玻月が迫ってきた時の速さとは違う。
逃げ道を塞ぐ速さではない。
近づいていいか確認しながら、陽鞠の呼吸に合わせてくれる速さ。
朔夜は陽鞠の額の少し前で止まった。
「今、触っていい?」
「うん」
朔夜の唇が、陽鞠の額に触れた。
短くない。
でも、押しつけるようなものではない。
朝の光の中でくれたキスに少し似ていた。ここにいる。今の陽鞠に触れている。そう伝えるような、静かなキス。
陽鞠は息を吐いた。
身体のこわばりが、ほんの少し緩む。
朔夜はすぐに離れた。
「大丈夫?」
「うん」
「続ける?」
「うん」
次は、髪。
朔夜は陽鞠の金髪へそっと唇を触れさせた。
カラオケ個室でしてくれた時のように。
あの時は甘くて、少し眠くて、任務通知を一瞬だけ無視してしまった。今は甘いだけではない。乱れた呼吸を戻すための、確認のようなキスだった。
陽鞠の指の震えが、少し小さくなる。
「次、頬」
朔夜が聞く。
陽鞠は一瞬、身体を硬くした。
白手袋がかすめた場所。
そこは、まだ嫌だった。
すぐに、朔夜が止まる。
「やめる」
「待って」
「うん」
「……反対側なら」
「わかった」
朔夜は触れられた側ではない頬へ、そっとキスをした。
陽鞠の目が少し潤む。
何も言わなくても、朔夜はわかってくれる。
いや、違う。
わかったふりで勝手に決めない。
聞いて、止まって、待ってくれる。
だから、陽鞠は自分で言える。
「もう一回、額」
「うん」
朔夜は額へキスをする。
「手」
「うん」
右手の指先へ。
指輪の近くへ。
ちり、と指輪が小さく鳴る。
陽鞠はその音を聞きながら、深く息を吸った。
「……口、して」
小さな声だった。
でも、はっきり言えた。
朔夜はすぐには動かなかった。
「本当に?」
「うん」
「無理してない?」
「してない。怖さは少しある。でも、朔夜なら平気」
「怖いなら、やめてもいい」
「うん。でも、したい」
陽鞠は自分から言った。
「私が、したい」
朔夜の表情が、少しだけ痛そうに揺れた。
嬉しさではない。
大事に扱わなければならないものを、ちゃんと両手で受け取るような表情だった。
「わかった」
朔夜はゆっくり近づいた。
本当にゆっくり。
陽鞠が怖くなったら、いつでも顔を逸らせる速度。
逃げられる距離。
止められる余白。
唇が触れる。
ほんの少し。
軽く。
陽鞠は息を止めた。
血の味はしなかった。
それだけで、目の奥が熱くなる。
朔夜はすぐに離れた。
「大丈夫?」
「……うん」
「もうやめる?」
陽鞠は首を振った。
「もう一回」
「うん」
二度目は、さっきより少し長かった。
でも、深くはない。
陽鞠の呼吸を乱さないように、朔夜は唇を重ねるだけにした。奪うようなものではない。押しつけるものでもない。そこに残った嫌な感触を、柔らかく包んで薄めていくようなキスだった。
陽鞠は目を閉じる。
口の中に、もう鉄の味はない。
浄化薬の薄い苦味と、朔夜の体温だけ。
胸の奥が震える。
怖さではなく、安心に近い震えだった。
唇が離れる。
陽鞠は小さく息を吐いた。
「……大丈夫」
「うん」
「血の味、しない」
「うん」
「朔夜だ」
自分で言って、少しだけ泣きそうになった。
朔夜の手が、陽鞠の背中へ回りかけて止まる。
「抱きしめていい?」
陽鞠は頷いた。
「うん」
「強くない方?」
「うん。最初は」
「わかった」
朔夜はゆっくり陽鞠を抱きしめた。
椅子に座る陽鞠の身体を、包むように。肩から背中へ腕を回し、左手首に触れないように、手のひらの傷も避ける。陽鞠が息苦しくならない強さ。
陽鞠は朔夜の胸元に額を寄せた。
体温がある。
呼吸がある。
鼓動がある。
朔夜は何も言わず、陽鞠の背中をゆっくり撫でた。
一定のリズム。
呼吸を思い出させるように。
陽鞠はそれに合わせて息を吸った。
吸う。
吐く。
もう一度吸う。
胸の奥に残っていた硬いものが、少しずつほどけていく。
指の震えは、まだ完全には止まらない。
でも、小さくなっている。
呼吸も浅くない。
朔夜は急かさない。
もう一度キスを求めることもしない。
ただ、抱きしめている。
陽鞠が落ち着くまで。
陽鞠の呼吸が戻るまで。
陽鞠の「もう大丈夫」が、平気なふりではなくなるまで。
「朔夜」
「何」
「今、強くしてもいい」
「抱きしめるのを?」
「うん」
「わかった」
朔夜の腕に、少しだけ力が入る。
強く。
でも、苦しくない。
陽鞠が選んだ強さ。
陽鞠が許した距離。
そのことが、彼女の中に安全な形で積み重なっていく。
玻月は近づいた。
勝手に。
命じて。
見ようとして。
触れようとして。
朔夜は聞いた。
待った。
止まった。
陽鞠が望んだ時だけ、触れた。
その違いが、陽鞠の身体に少しずつ戻ってくる。
触れられること全部が嫌になったわけではない。
誰に、どう触れられるかを、自分で決められるなら。
それは、怖いだけのものではない。
「……さっき、私、強がってた」
「うん」
「平気じゃなかった」
「うん」
「でも、今は少し平気」
「うん」
「朔夜が、聞いてくれたから」
朔夜の腕が、ほんの少し震えた気がした。
怒りではない。
別の感情だった。
「聞く」
朔夜が低く言う。
「何度でも聞く」
「うん」
「触っていいかも、キスしていいかも、抱きしめていいかも」
「うん」
「お前が嫌だと言ったら、止まる」
「うん」
「俺は、あいつとは違う」
「知ってる」
陽鞠は顔を上げた。
黒い瞳が近くにある。
怒りはまだ残っている。
でも、陽鞠へ向けられているのは、怒りではなかった。
「朔夜は、朔夜だよ」
陽鞠は言った。
「私の隣にいる人」
朔夜の表情が柔らかくなる。
「陽鞠は陽鞠だ」
「うん」
「俺の好きな、今の陽鞠」
「……うん」
今度は、陽鞠から少しだけ近づいた。
朔夜は動かなかった。
待っている。
陽鞠が自分の距離で触れられるように。
陽鞠は彼の唇へ、短くキスをした。
本当に短い。
自分から。
自分で選んで。
それだけで、胸の奥に残っていた嫌な血の味が、もう一段薄くなった。
離れると、朔夜は静かに聞いた。
「大丈夫?」
「うん」
「もう一回?」
陽鞠は少しだけ笑った。
「今は、抱きしめてて」
「うん」
「キスは、あとで」
「あとで?」
「私が言ったら」
「わかった」
朔夜はそれ以上ねだらなかった。
いつもなら「ご褒美は」と言いそうなところで、何も言わなかった。今はそれがありがたい。きっと、もう少ししたらその軽口にも救われる。けれど今は、静けさが必要だった。
二人はしばらく、そのまま座っていた。
宿泊棟の小さな部屋。
壁際に置かれた弓と刀。
机の上の浄化薬と清浄布。
柔らかい照明。
外からかすかに聞こえる結界塔の低い音。
陽鞠の呼吸は、少しずつ整っていった。
吸って。
吐いて。
朔夜の胸元に額を預けたまま、少しずつ。
指の震えも、いつの間にかほとんど止まっていた。
完全に消えたわけではない。
嫌悪も、怒りも、怖さも、なかったことにはならない。
でも、上書きされた。
消されたのではない。
別の記憶で、上から乱暴に塗り潰されたのでもない。
陽鞠自身が望んだ触れ方で、嫌な感触の隣に、安全な感触が置かれた。
そうして、身体が少しずつ思い出す。
触れることは、奪われることだけではない。
キスは、押しつけられるものではない。
抱きしめられることは、逃げ場を失うことではない。
自分で選べる。
自分で止められる。
自分で求められる。
陽鞠は朔夜の服を軽く掴んだ。
「朔夜」
「何」
「ありがとう」
「俺は何も」
「聞いてくれた」
陽鞠は目を閉じたまま言った。
「待ってくれた。止まってくれた。私が言うまで、触らなかった」
「当たり前だ」
「うん」
陽鞠は小さく頷く。
「その当たり前が、今すごく嬉しい」
朔夜は少し黙った。
それから、彼女の髪に軽く頬を寄せた。
キスはしない。
ただ、そこにいる。
「陽鞠」
「うん」
「俺は怒ってる」
「うん」
「たぶん、しばらく消えない」
「うん」
「でも、お前より先に怒らないようにする」
陽鞠は目を開けた。
「どういうこと?」
「お前が嫌だったことを、俺の怒りで潰さない」
朔夜の声は低い。
けれど、まっすぐだった。
「お前が話したい時に聞く。怒りたい時は一緒に怒る。何も言いたくない時は黙ってる。抱きしめてほしい時は抱きしめる。離れてほしい時は離れる」
「うん」
「それでも、あいつを許す気はない」
「私も」
「隣で怒る」
陽鞠は、今度こそ小さく笑った。
「うん。隣で怒って」
「わかった」
「でも、今は」
「抱きしめる」
「うん」
朔夜は、言われた通りにした。
陽鞠の呼吸が完全に落ち着くまで。
夜が少しずつ深くなるまで。
宿泊棟の廊下の足音が遠ざかり、部屋の中に二人の呼吸だけが残るまで。
陽鞠はその腕の中で、何度か小さく震えた。
そのたびに朔夜は強くするか緩めるかを聞いた。
陽鞠は自分で答えた。
少し強く。
今はこのまま。
手を握って。
額にキスして。
口は、まだいい。
やっぱり少しだけ。
全部、陽鞠が決めた。
朔夜は全部、聞いた。
そうして夜が進む頃、陽鞠の中に残っていた血の味は、ようやく薄く遠のいていた。
完全に消えたわけではない。
忘れたわけでもない。
でも、もうそれだけではなかった。
朔夜の額へのキス。
髪への静かな触れ方。
右手を包む温度。
自分から触れた短いキス。
呼吸が落ち着くまで待ってくれた腕。
それらが、嫌な記憶の周りに、ひとつずつ灯りを置いた。
陽鞠は朔夜の胸元で、最後に小さく言った。
「私は、私が決める」
「うん」
「誰に触れられるかも、誰にキスされるかも、誰の腕の中にいるかも」
「ああ」
「今は、朔夜がいい」
朔夜の腕が、静かに震えた。
それから、彼は低く答えた。
「俺は、今の陽鞠がいい」
陽鞠は目を閉じた。
もう一度、指輪が触れる。
ちり。
それは、誰かに奪われた音ではない。
陽鞠が自分で選んだ、上書きの音だった。




